芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 虚空の人(五)

2016年01月24日 | エッセイ

 大正十一年、大泉黒石は「創作 老子」を書いた。黒石の虚無主義と老子の虚無主義は重なるのだろう。今なお、この作品の評価は高い。
 大震災の後、黒石は、ますますダダと虚無主義に沈潜した。彼の虚無とは虚構と同義であった。そもそも「俺の自叙伝」からして、どこまでが事実で、どこまでが虚構なのか不分明である。これは自叙伝(事実)なのか小説(虚構)なのか不分明なのだが、黒石にとって、そもそも人生そのものが虚構なのである。
 中央公論の編集者・木佐木勝は、大正八年から十二年の「この四年の短い歳月」が黒石の作家としての活躍期であって、大正十二年で彼の作家生命が終わったとしている。

 大泉黒石はウソツキであるという説は、もう出版界では有名な話となった。すると黒石はあえてあちこちでウソをつきまくるのである。滝田樗陰が国技館での相撲見物の帰り、隣席の客と喧嘩になって袋だたきにあった等という嘘は、いったい何のための嘘なのか、誰にも理解できなかった。
 全く理由も洒落もユーモアもない話なのであった。しかし黒石は遊んでいたのではなかったか。奇行と言えば奇行である。ウソツキと言われれば言われるほど、じゃあ吐いてやろうと思っていたのではなかったか。虚言も真実もやがて虚空に消える。彼はダダなのだ。
 黒石への執筆依頼が激減し始めた大正十三年、彼は「人生見物」を書いた後、しばらくフランスへ外遊して新しい作品の構想を練りたいと、樗陰や出版関係者、親しい友人たちに宣言した。
 樗陰や友人たちが集まって黒石の送別会が開かれ、それぞれが餞別を送った。その後、黒石は姿を隠した。ところがある日、中央公論の社員のひとりが池袋駅のホームで黒石と顔を合わせた。目が合ったのである。黒石はこそこそと人混みに紛れ込み、足早に階段を駆け上がって姿を消した。
「またやられたか」と樗陰は舌打ちした。こうして大泉黒石は「中央公論」からも追放されたのである。

 作家生命が終わったと言われながら、黒石はユーモア小説を書き、大正十四年に「黒石怪奇物語集」を出した。さらに大正十五年に「人間廃業」を書いた。これは気っぷのいい江戸弁を駆使した、長屋のどこか虚無的な自虐や諧謔、ユーモアに溢れた作品であった。彼の才筆は江戸の戯作者風なのである。
 そして黒石は、他の日本人知識人とは毛色の変わった碧眼をもって、「日本人とは何か」を正確に見切っていたのである。
「日本人が幾ら不逞思想の洋服を着て、危険哲学の靴をはいて、舶来の問題に熱中しようと、一肌ぬげば、先祖代々の魂があらはれて、鼻の穴から吹き颪す神風に、思想の提灯も哲学の炬火も、消えてなくなるにきまってゐるのだから世話はない」
「日本人の教育はパンの略奪や剰余価値や偶像破壊の理屈から始まっちゃゐない。…一たん緩急あれば義勇公に奉じて、占領してやるから旅順港を出せ! と腕をまくらせるのも此の根だ」

 黒石の倅、淳や滉によれば、黒石は繊細で、不器用で、堅い人間だったという。その生活態度には戯作者らしさもユーモアもなかった。
 彼は神経質で、あらゆることに変に意固地な拘りを持っていたらしい。それは毎朝方、東の方角に向かって合掌する習慣から、食べ物、飲み物、煙草、玄関を出るときの足の踏み出し方に至るまで、家族にも理解できない拘りがあったらしい。
 彼の家族は、黒石が玄関先で足の踏み出し方を間違えたため、スキップを踏むように整えてから歩き出す姿を何度も目撃している。それは傍目には吹き出すほど可笑しいのだが、本人は至って真面目だったのである。第一歩を踏み出す足は決まっているのだ。それが左足なのか右足なのか、子供たちも覚えていなかったようである。しかし間違ったときの、黒石のスキップの可笑しさは忘れられなかったのだろう。

 黒石は四男五女の子をもうけた。彼は実に子煩悩であった。いつも子どもたちを抱きしめ、頬ずりをし、話しかけ、勉強を見た。
 長男の淳の算数や理科の宿題を手伝い、府立六中を受験するときは学校までついて行った。電車の中では淳に歴史の問題を教えてくれ、たまたまそれが出題された。ところが黒石が教えてくれた答えが間違っていたらしい。淳は府立六中を落ち、黒石は泣いて詫びたという。青山学院中に合格すると、黒石は蔵書を全て売り払って入学金を捻出した。
 このような黒石の家庭生活は昭和七年頃までだった。
 やがて黒石はろくな執筆の機会もなく、極貧生活に陥った。大泉家は毎月のように夜逃げを繰り返した。子供たちは、引っ越しとは夜するものだと思っていた。借りてきた大八車に大きな荷を積むと、ひとりひとりが身の回りのものを包んだ風呂敷の包みを手に持ち、家を出るだけなのである。やがてとうとう大八車も不要となり、ひとりひとりが風呂敷包みを手にするだけの引っ越しとなった。

 下落合に住んでいた頃である。生垣越しの隣家は立派な煉瓦造りの林芙美子邸だった。大泉家では夕飯も食べられない日が何日もあった。夕飯どきに食器の音がしないのはおかしいと思われると、黒石は子どもたちに「いただきま~す」と声を上げさせ、箸で茶碗を叩いたりして音を出させた。そして「ごちそうさま~」と声を上げさせたという。
 実は林芙美子も、ついこの前まで餓死寸前の極貧状態にあったのだ。昭和五年の夏、改造社から「放浪記」が出版されてベストセラーになり、彼女はその印税で家を新築し、満州、中国を旅行している。翌年「清貧の書」を発表し、シベリヤ経由でヨーロッパに遊んだ。
 その留守がちの林芙美子邸に向かって、大泉家は「いっただきま~す」「ごちそうさま~」と茶碗に箸の当たる音を立て、何とも悲しい見栄を張っていたわけである。

 黒石は道端の草を摘み、味噌汁に入れた。「今夜は遠征に行こう」と言って、子どもたちにバケツを持たせ、遠くの畑に芋類や人参、葱などを掘りに出かけた。畑泥棒である。大泉家はよくこの「遠征」に出かけた。夏、畑の中で「遠征中」に人に出くわすと、黒石は子どもたちに声をかけた。「こっちに螢がいるぞう」「あ、螢があっちの方にいったぞう」…こうして彼らは出くわした人から離れつつ、夜の畑を逃げた。
 質屋にいろんなものを持ち込んだが、とうとう質草にも事欠いた。釜を持ち込むと質屋の親父も同情して少しばかり貸してくれたらしい。たまに原稿料が入ると、米を俵で買い、玄関にそれを置いた。これも黒石の見栄である。
 このような極貧を黒石は全く苦にしていなかったという。滉によれば、堂々として、威厳すらあり、大したものだったという。何しろ彼は老子的アナーキストなのだ。

 大泉滉の父・黒石の思い出は、酒と貧乏と夫婦喧嘩だけだったという。滉は小学校に行く前に四銭で仕入れた納豆を六銭で売り歩き、学校から戻ると近所の町工場に働きに出て一日五十銭の小遣いを得ていた。中学校も一週間から三ヶ月ぐらいで転校ばかりを繰り返していた。武道の道具が買えなかったり、学費が未納だったためである。
 美代も極貧を苦にしない腹の据わった女性だった。しかし黒石の酒量が増え続け、気違いじみた奇行も増えると、さすがに大らかな美代とも激しく言い争う日が増えた。
 やがて黒石は、言い争いの果てに美代に暴力を振るうようになっていった。黒石は突然癇癪を起こし、極貧の中せっかく用意した食事の卓袱台をひっくり返し、散らかった食べ物に火鉢の灰をまき散らした。これでは拾い集めて食べることもできない。
 こうして家族全体が黒石を強く疎んじるようになっていった。黒石はますます奇矯な行動と、孤独の内に沈潜していった。そんな父親を滉だけが愛し続けていた。
 昭和十年頃、どこを放浪したものか、黒石はほとんど家に寄りつかなくなった。

 家族からも離れ、黒石はどこを流離っていたのかだろうか。
 彼は山歩きをしていた。山に籠もるというのではなく、峡谷や山峡の秘湯を訪ね歩いていたのである。群馬県猿ヶ京の旅館の主人は黒石が好きで、そこにただで逗留できたらしい。
 その間、全く仕事をしなかったという説もあるが、仙人でもあるまいし、昭和十年頃から戦中、戦後の十数年を、全く無一文の黒石が何の仕事もなく生活できたとは考えられない。
 おそらく日雇いの山仕事や、温泉場で源泉の管理や風呂場の清掃などをやらせてもらっていたのだろう。それでも各地の山峡を放浪し、秘湯に逍遙する生活は、黒石にとって理想の老子的生活だったに違いない。
 やがて黒石は、「峡谷をさぐる」「山と峡谷」「峡谷行脚」など山峡温泉記の本を出版している。それは峡谷カタログ、温泉カタログのような素っ気ない記述本である。そこには文学者らしい叙情はない。

 世の中の風潮が勇ましく戦争に傾斜し、大政翼賛政治が敷かれ、誰もがさほど抗うこともなく戦争に協力していった時代、それに背を向けたのは極僅かな人たちだけだった。非戦、戦争非協力を貫いた人々は、非国民と呼ばれた。
 日本文学報国会入りを蹴った文学者・中里介山は、安藤昌益や江渡狄嶺の生き方を理想として百姓弥之助に徹した。ちなみに介山の代表作「大菩薩峠」の机龍之介は、アナーキーでニヒリストの典型であった。
 辻潤はパリで中里介山の「大菩薩峠」を読み耽っていたらしいが、彼も文学報国会に入会することはなかった。理由は住所不定の放浪者だったから、入会案内も届かなかったのである。
 すでに大泉黒石は文学者としては無視されていたものか、あるいは、黒石も山峡を流離う住所不定者であったために、文学報国会への誘いもなかったものだろうか。あっても入会することはなかったであろう。
 結局、非国民を貫き、非戦反戦、戦争非協力を貫いたのは、介山や、辻潤、大泉黒石のようなアナキストで、ニヒリストで、ダダイストとかデカダンスと後ろ指を指された人たちなのであった。ちなみに内田百間(百鬼園)も文学報国会入りを蹴っている。

 昭和十八年、黒石は食べられる草を列記した「草の味」という本を書いた。貧しさから、道端の草を摘んで味噌汁の具としてきた黒石に、実に相応しい本である。また山歩きの生活で、そのような草や木の実にも精通していたのであろう。食糧難の折もあって、この本は結構売れたという。
「草の味」は食べられる草カタログで、実に素っ気ない記述である。そこには文学者らしい叙情はない。それは青年時代に「実業の世界」に持ち込んだ「豚の皮の利用法」と同じで、素っ気ない黒石の一特徴かも知れない。

 黒石は、舶来の借り物を身につけた日本の知識人の軽薄さを、見事に言い当てていた。日本の近代の思想「衣装」の不格好さを嘲笑っていた。そしてとうの昔に、日本の破滅を予告していたのだ。
 彼は日本人ではなかったのである。しかしロシア人でもなかった。黒石は、日本人の「此の根」と表現したが、自身の「此の根」が無かったのである。
 生まれ育った長崎では、毛唐、露助と罵られたり馬鹿にされ、漢口でも、モスクワでも、パリでも、どこか馴染めぬ異邦人だったのだ。彼はどこに暮らそうと、異邦人だったのだ。
 舞い戻った日本では、憲兵にスパイ容疑で何度も逮捕され、石もぶつけられた。彼の子どもたちも同じ目に遭っている。彼は淳や滉に言った。「誇りを持て! お前は日本人じゃないのだぞ」
 しかして黒石は何人(なにじん)だったのだろうか。

 山深い温泉場から、戦争下の日本を馬鹿な奴らだと嘲笑っていた黒石は、敗戦となるやすぐに山を下りて来た。彼は横須賀に出て米軍の通訳となっている。語学は得意だったのだ。
 通訳をしながら、浴びるように酒を飲んだくれていた。彼は横須賀の田浦山中に海軍が隠した重油ドラム缶を掘り出し、家の物置に運び入れた。これに手製の濾過装置を取り付けて精製し、「キヨスキー特製ウイスキー」と称して飲んでいたらしい。重油のウイスキーは相当匂ったらしいが、戦時中には消毒用アルコールを飲んでいた黒石である。このあたりの酒への渇えは、どこか梅原北明に似ている。
 通訳暮らしは四年続いた。かつての作家仲間が黒石を訪ねたおり、「小説を書きたい、小説を書きたい」と言い募ったらしい。しかし黒石は常に泥酔状態だったという。酒に濁った目は焦点を失い、虚空をさ迷っていた。
 それから四年ほど、黒石の愛読者だったという女性と同棲していたらしいが、何をして暮らしていたのか不明である。ヒモだったのかも知れない。
 父の黒石がどこでどんな暮らしを送っていたのか、子どもたちも詳しく知らなかったらしい。すでに個性的俳優として映画で活躍していた滉も、ほとんど父とは交渉を持たなかった。
 大泉黒石が虚空に旅立ったのは、昭和三十二年、彼が愛した山峡が黄や朱に染まる、深まりゆく秋の日であった。