芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 地に潜む龍(七)

2016年01月07日 | エッセイ
                                                

 学者というものは常に証明、実証を求められるため、随分不自由なものなのであろう。ところが歴史学、特に思想史の学者たちは、謎に満ちた人物の生涯やその思想に関しては、あまりにも実証が困難なためか、かえって自由気ままになれるものらしい。その不明な生涯は推理、憶測、希望入り混じり、その文字の訓の読み方から字釈、思想の解釈に至るまで「勝手次第たるべき」状態らしい。また学問なるものは、学者間の批判応酬があって発展するものと信じられており、昌益研究史は、その典型であるようなのだ。
 某三宅なる学者に至っては、資料所蔵者に他の研究者を誹り詰ることで取り入り、その資料を非公開とさせ、所蔵者から自分以外の研究者を閉め出させた。時に発見した資料を発表後、その一部を抜き取って隠した。これは他の研究者の妨害が目的か、あるいは彼が発見したとして論文で発表したものの、実は捏造であったため、その事実隠しをしたのかも知れない。
 彼は昌益の兄の名を「絶道信男」と発表したが、その後それが記載されていた過去帳の一部を抜き取って隠したままである。私にはこの「絶道」という名が、どうも腑に落ちない。これは戒名ではないだろう。絶道…字面や響きからすると文号かも知れない。昌益が確龍堂良中、確龍堂柳枝軒正信、柳枝軒確龍堂安氏正信と記したように、兄は絶道信男と称していたとも考えられる。発見された過去帳は、三宅以外にも寺の住職らも見ているから、絶道と書かれていたものはあったに違いないが。…おそらく兄の名は安藤信男であり、代々の当主が継ぐ孫左衛門を名乗っていたのだろう。

 三宅某は他の研究者等から、自説の明らかな誤りを一斉に指摘され批判されると、昌益賛美からやおら方向転換した。その一つは昌益が兄妹婚を勧めていたとし、秋田にはその風習があるのではないかと聞き歩いた。さらに昌益は尊皇主義者で日本神国論者で被差別民への差別主義者で、家父長制を重視していたと発表した。さらに自ら指導するゼミ生たちを手取り足取り懇切に指導し、昌益の一字一句の揚げ足取り論文を勧めた。
 素直な学生たちは昌益の言葉の一言一句をコンテクストから引き離し、論文をものした。曰く、差別主義者、淫教を広めていた、女性蔑視主義者、天皇主義者であり、八戸のポル・ポト、秋田のポル・ポト…である。
 しかし三宅某から昌益を批判している古文献探しを勧められた尾崎まとみが、北越の中岡一二斎の日誌の中に、昌益の「自然真営道」批判を見つけ出した。それは書肆小川屋源兵衛から「自然真営道」三冊が刊行された一月後に書かれたものである。この尾崎まとみの発見は、皮肉にも反三宅派の研究者等から高く評価された。私は中岡一二斎がどういう人か全く知らないが、昌益は意外に風聞の「噂の人」ではなかったか、とすら思えるのだ。
 ちなみに昌益より後の、江戸の医師・浅田宗伯が、良く効く優れた薬として書き記した書物の中に、八戸の昌益が考案・調合した薬が掲載されている。浅田宗伯は当時の江戸で一、二の名医として知られた著名人であった。少なくとも医師・昌益は、錦城、田中真斎、橋栄徳、浅田宗伯らに継承されていたわけである。

 さて、昌益は仏教批判を歴史的に進めている。インド仏教批判、釈迦批判から中国仏教(禅宗の観念論等)批判と続き、日本仏教批判へと移っている。日本で先ずやり玉に挙げられるのが聖徳太子である。そのおり、日本には神道があるのに仏教を入れたことで「日本の大敵」と批判されるのである。
 これが三宅某らの日本神国論者、神道主義者の論拠なのである。馬鹿な奴らである。昌益は「古事記」「日本書紀」等を徹底的に揶揄し批判しているのだ。おそらく昌益における神道とは、天皇家の祖霊を祀ったものでもなく、古代韓半島から渡来の豪族たちの祖霊を祀ったものでもない。大自然・森羅万象の発する神(真)気であったろう。
 昌益は「十二宗の失り」として、「盗道の小僧」空海をはじめ、真宗を除く全ての宗派を批判している。このことから、昌益が青年時代に真宗の寺で修行したのではないか、あるいは親鸞・真宗は認めていたのではないかという妄説をなす学者たちがいる。
 なに、昌益が単に真宗を書き漏らしたか、彼にとって親鸞など語るに値しなかったのかも知れない。そもそも六角堂に百日も参籠するくらいなら「何ぞ、直耕して自然の直行を為さざるや」と斬り捨てるだろう。「児誑の戯言」を為す聖徳太子の夢を見て、法然を訪ねて「鉦を叩き念仏唱名して浄土」へ行ける説を学ぶ前に「愚迷なる盗人の妄説。念仏唱えるより直耕したらどうだ」と罵倒するだろう。昌益からすれば、有用・実用の人(土木技師)空海も「盗道の小僧」なのだから、念仏を唱えれば浄土へ行けるなどと言えば、戯言で衆を誑かす大罪人に決まっているではないか。

 話はがらっと変わる。例の石碑銘を書いたのは、二井田に住む門人の医師・内藤玄秀であろう。村の肝煎や長名たちの騒動の落としどころは、のらりくらりの孫左衛門の郷払いをうやむやにするかわりに、この鶴形村生まれの玄秀を故郷の鶴形村に帰し、「いささか僭越なる神号を含む文章をしたためましたる内藤玄秀なる者を、郷払いの処分にいたしました」としたものだろう。
 その石碑銘に「羽州比内贄田邑に、未だ直耕を為す者なし。茲に、安藤与五右衛門と云う者生まれ、農業を発明し、近人近隣にこれを弘め、ついに農業の国郡と為す」…そして与五右衛門の子孫与五兵衛、与五八、与五助、与吉等々十八代が農を継ぎ、豊かに暮らしていたが、与五作という者の代に悪逆な過ちを犯して他国に逃亡し、安藤家も隣国、他国に離散してしまった。茲に先祖与五右衛門より四十二代、八百二十年にして、孫左衛門と謂う者が生まれた。是れ他国に走り、先祖の忘却を嘆き、逃亡先の他国から二井田に帰村し、直耕をもって丹誠を凝らして絶えたる家名を後世に挙げた。誠に守農太神と言うべき人である。…何とも不思議な物語を刻んだものである。
 この最後に登場する孫左衛門が昌益なのだが、実際は安藤家は絶えていたわけではない。四十二代、八百二十年などは当時の由緒書きの常套手段で、古事記、日本書紀の嘘八百、清和源氏、藤橘系図と同じである。しかし安藤家がこの比内で古い開拓者であり、豪農の名家であったことは確かだろう。
 おそらく昌益の曾祖父か祖父あたりが与五作で、何か村にいられない罪を犯し、郷払いの処分を受けることになったのだろう。そのおり、村の肝煎や長名たちは、この事件の落としどころを協議したに違いない。家長(祖父・父)は郷払いとし、安藤家の目跡を長男の信男(おそらく十代後半だったろう)とし、孫左衛門を名乗らせる。信男には仲谷家か安達家から娘を嫁がせる。郷払いとなる家長と共に、その妻や長男以外の子どもたちも村を出る。…こうして安藤家、正信(昌益)は他国や隣国へと一家離散したものだろう。しかし安藤家が悲惨なほど零落したわけではあるまい。

 昌益が京都の味岡三伯の下で医学修業したことは間違いあるまい。彼が学んだ医学は「後世方」と呼ばれる医学で、自然治癒力を重んじたものであった。無論、薬方、鍼灸、本草学をはじめ、修業に十年はかかるのが普通であったという。十年の京都修学はかなりの費用がかかり、安藤家はこれを負担することができたわけである。あるいは昌益をサポートする人がいたに違いない。
 味岡三伯の下に十年。昌益は唐人船で、海外へ密出国を企てて果たせなかったことを記している。おそらく長崎など、各地を旅した可能性も高い。修学の京都と旅の長崎を含めて、十一年といったところだろうか。
 京都修学時代に、小川屋茨木(茨城)多左衛門(柳枝軒)の一族に出会い、その娘を娶ったに違いない。京都には小川屋久兵衛、小川平右衛門、小川新兵衛、小川源兵衛と、小川屋を名乗る書肆が多い。おそらく小川屋茨木(茨城)多左衛門の一族の他、奉公人を暖簾分けの形で独立させたものに違いない。後に昌益が危険な書物「自然真営道」を出すに当たって、本家もしくは恩のある多左衛門に代わって、小川源兵衛が「私が引き受けましょう」と申し出たものかもしれない。

 昌益が八戸に移住したのが四十二歳である。それまでどこにいたのか。江戸に二、三年の間、医業と修学のため暮らしていたのではないか。彼は都市生活を激しく嫌悪しているところから、都市生活を知っているわけである。無論、京都も大都市であるが。
 味岡三伯の門下に入ったのが二十八、九歳くらいとすれば、晩学である。それまではどこにいたのか。「自然真営道」巻七で、禅林にいた、印可を受けたと書いていることを信ずれば、印可を受けるまでに十年余はかかるだろう。禅寺に入門したのは十七、八くらいであろうか。秋田には、東林寺、宝蔵寺、高建寺といった曹洞宗の古刹も多い。二井田を離れて、それらの寺のひとつに入寺した可能性は捨てきれない。
 この禅寺の十年と、京都の十年のおよそ二十年間に、昌益は膨大な書物に接したのであろう。禅寺では経巻や仏教関係の書物を、味岡三伯の書庫で医学書や易学や儒学や天文学関係を、小川屋一族の書寮であらゆる史書、思想哲学書を読み漁ったものであろう。
 久保田(秋田)は江戸より京都に近い。それは佐竹藩の藩校である明徳館に窺える。江戸後期に東北地方を旅した菅原真澄は、明徳館の書籍の充実ぶりに感嘆している。それらの膨大で貴重な書籍類の多くは、北前船で京都から運ばれたものである。また佐竹藩には京文化が濃厚に伝わり、書画や和歌をたしなむ文人藩主が多く出た。
 二井田村も江戸より京都に近いわけである。米代川は米や秋田杉、銅などを能代港まで運び出す。人も米代川に沿って能代に出る。港には北前船が寄港する。ここで荷とともに乗船し、男鹿半島の湊にも寄ってハタハタ等の魚肥も積まれる。船は酒田等にも寄港し、敦賀や若狭の小浜に入る。敦賀か小浜で下船すれば、京都はすぐである。敦賀なら琵琶湖、近江に出る。近江から山科、京都である。ことに若狭の小浜は都合がよい。ここから「鯖街道」を真っ直ぐ進めば京都に出る。

 安藤正信(昌益)が羽州から出て、医学を京都で学んだのは地理的、交通事情からして必然であったろう。正信が二井田から出た後、禅寺で修行したと仮定して考えたい。修行したのはひとつの寺ではなかったかも知れない。禅宗の場合、各地の寺を回り、参禅し、その寺の師家の下で参学することが多い。羽州には、東林寺、宝蔵寺、高建寺といった曹洞宗の古刹がある。これらの寺の蔵書も豊かであったろう。
 あるいは、羽州の曹洞宗の禅寺から、小浜の発心寺や福井にある曹洞宗本山の永平寺のような大刹に入ったことも考えられる。永平寺で印可を受けるのは容易ではなく、十五年、二十年かかることも考えられる。もしそうなら、正信少年は十歳から十五歳くらいの間に、得度のため、最初の入寺をしたのかも知れない。
 ある日、良中(正信)は、雨水がつくった小さな水溜まりの中に晴朗な天を見、忽然と迷いが消えて心身を感じない状態に至った。禅に言う「心身脱落」である。このとき、老師から大悟を認められて印可を受けたという。つまり認可されたのである。しかし良中は、その師家の資格を捨て、禅林を後にした。
 彼の心に湧き起こった疑問があったのかも知れない。宗教家に湧き起こる根源的懐疑である。例えばスタインベックの小説「怒りの葡萄」の最重要人物ケーシーが、説教師をやめた理由、「こんなことをしていて何になるのか」という疑問である。

 一説に良中が、江戸の前期より上州嬬恋で代々献身的な癩病医療に当たっている回生堂有道家に心を揺さぶられ、何の役にも立たない仏門を捨て人々の役に立つ医師を志したというものがある。その論拠として挙げられたのが、中居屋重兵衛家に伝わる「賛」と「額」で、これは昌益が有道家に贈ったものではないかとされるのである。
 回生堂有道家は中居屋重兵衛の祖とされる。中居屋重兵衛は本名を黒岩撰之助といい、江戸後期に嬬恋村に生まれた。彼は火薬商として身を立てようと火薬を研究した。またシーボルトに師事して蘭学を学んでいる。その後上州生糸を独占的に扱って豪商にのし上がり、横浜本町に銅(あらがね)御殿と呼ばれた宏壮な店を構えた。一方で癩病、ハンセン病治療に尽くし、生き神様と敬われた男である。私は見ていないが、だいぶ以前、北大路欣也の主演で映画にもなったそうである。
 有道家に贈られたという昌益の賛と額は、昌益の有道家に対する尊敬の念の表れであるとする説もある。そう信じたまま亡くなったのは安永寿延であり、和田耕作も本物としている。贋物と断じたのは松本健一である。また石渡博明も強い疑問を呈している。この賛と額は今も真贋論争の最中にある。
 幕末、水戸派と井伊派の政争の直中に巻き込まれた中居屋黒岩重兵衛は、ある日忽然と姿を消し(謀殺説が根強い)、彼の屋敷は焼失している。それがどうして中居屋重兵衛所蔵のものと断定されているのか、不思議な話である。

 良中正信は仏門を後にし、京都の三代目・味岡三伯の門人となった。三伯は臨床の術に秀で、膿み腫れ物の名医と伝えられているそうである。良中正信は医師として昌益と改名した。また安藤良中、昌益を医号とした。
 彼は修業中の青年医師として、京都や大坂道修町の薬種屋たちと親しく交わるようになる。昌益は彼らを感嘆たらしめた。また本好きな昌益は、書物漁りや書物の問い合わせなどで京都一番の書肆・小川屋多左衛門の店にもしばしば立ち寄るようになる。そして番頭はんや丁稚どんとも親しくなる。彼らは昌益の人柄がたいへん気に入ったようである。主人の多左衛門とも親しくなる。そこで多左衛門から明石龍映や有来静香らを紹介される。彼らは好奇心と向学心に燃えた若者たちで、銭座や生糸貿易の商家の息子たちである。有来も明石もなぜか昌益の博覧強記の知識と東北訛りのユーモアあふれる弁舌と、その人となりに魅了された。
 やがて昌益は小川屋に足繁く出入りするようになる。そこには「人相は貴からず卑しからず、顔は美でもなく醜でもない」気だての良さそうな明るい「いとはん」がいたからである。昌益は恋をしたらしい。娘も憎からず思っているようであった。当の娘より、主人の小川屋多左衛門の方が昌益を気に入っていたようである。「良中はん、うちの娘どうどすやろなあ」と言い出したのである。
 その小川屋多左衛門の番頭から暖簾分けして独立した小川屋源兵衛の店にも昌益は度々顔を出すようになる。ちなみに多左衛門の店は六角通御幸町西入南側中程にあり、源兵衛の店は寺町通六角下ルにあった。明石龍映の商家は三条柳ノ馬場上ルにあり、有来静香は三条富ノ小路にあった。つまりほとんど隣接した町に住んでいたわけである。
 多左衛門は長く長崎で通詞を務めていた男も紹介した。彼は一時的に京都の実家に戻っていたのであった。昌益は彼からオランダや唐人船の情報を得るのである。
 やがて昌益は、再び長崎に通詞として赴任するという男とともに、長崎に赴く決意をし、師の味岡三伯にしばらくの暇を願い出て許可を得た。三伯は長崎の医学を見るのもよい勉強になるだろうと言った。しかしこのとき昌益は、唐人船で密出国する決意をしていたのである。