芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

また相撲の話

2016年03月31日 | 相撲エッセイ
 10年以上も前の2006年9月に書いた「相撲の話」である。横綱昇進を前に、あの白鵬が足踏みをしていた時である。時の経つのは早い。「光陰、馬のごとし」という競馬エッセイ集を書いたが、今度は「光陰、相撲のごとし」でもまとめようか。そう言えば「頑な花」という一文も書いたが、データが見つかっていない。頑な花とは貴乃花のことである。          

 私は三歳の頃からの相撲ファンなので、当然相撲に詳しく、そして力士に厳しい。相撲界の親方のような、そして勝手にご意見番のようなつもりでいる。
 先場所の千秋楽、最後の取組で白鵬が朝青龍を敗った一番は実に見応えがあった。その直後、審判部部長は白鵬の横綱昇進を諮る会議を招集しないと発表し、私を激怒させた。彼等は前日、千秋楽の一番を見てから決めると言っていたのだ。何のことはない。既に前日に千秋楽の一番に関係なく、白鵬が勝っても横綱昇進見送りは決まっていたのだ。このファンの期待を裏切る審判部を許すことはできない…その晩、そう書こうと思った。

 さて今場所の初日、白鵬の負けぶりを見てがっかりした。先場所の初日に朝赤龍に土俵際ではたき込まれて潰された負け方と、全く同じ負け方を稀勢の里に喫したからだ。
白鵬の二日目、三日目の勝った相撲を見て私は断言した。今場所の綱取りはない。彼が横綱に昇進する機会は、おそらく来年の夏以降だろう。今場所は良くて11勝4敗、もしかすると10勝も難しいだろうと断言した。敗れる相手は露鵬、把瑠都、琴欧州、そして安美錦あたりの小物、さらに横綱・朝青龍だろうと予測した。そして今日、安美錦に負けた。これで綱取りは消えた。三歳の頃から鍛えた私の鑑識眼は凄いのだ。

 かつて柏戸は立った瞬間に相手の左前ミツを引きつけていた。それだけ立ち会いのスピードが凄かったのだ。そして一気に寄り切った。彼を土俵際でうっちゃって逆転できたのは大鵬と豊山くらいのものだった。
 千代の富士も立った瞬間に相手の左前ミツを引きつけ、次に上手を取り、タイミングのよい切れ味鋭い上手投げや、速攻の寄り切りを決めた。彼の立ち会いの瞬間スピードは、カール・ルイスの百メートル走スタート時の瞬間スピードと同じだった。

 白鵬は先々場所まで、立った瞬間に「浅い」左上手を取ることができた。これが彼に盤石の安定感を与えた。しかし先場所あたりから相手も研究し、彼に簡単に左上手を取らせぬようになったのである。白鵬は左上手を取ることにこだわるあまり、立ち会いに上体を伸ばし、相手と正対せずに左に変わりながら上手を取ろうとしていた。そのため立ち会いに鋭さがなくなり、上体と腰が伸びてしまうのだ。
 白鵬は気づくべきだ。「浅い」左上手とは、ほとんど左前ミツと同義である。横に飛んで取る左上手は位置として深すぎる。上手にこだわる必要はない。要は相手の動きを止める引きつけのための浅い左上手、もしくは前ミツなのだ。顎を引いて立て。再度当たる角度をチェックしろ。柏戸や千代の富士の古いビデオを見て研究しろ。大鵬の相撲…組み止めてから相手の引きつけ方と相手の肩にかける圧力と、投げのタイミングを研究して欲しい。相手の前ミツを取り、顎を引いて引きつけ、焦らずに腰を落として寄れ。…白鵬は一から出直すことになるだろう。

 魁皇の相撲から闘争心が消えた。明日から休場するそうだが、私は今場所限りの引退を勧告したい。栃東はおそらく今場所負け越し、来場所の角番も乗り切ることはできないだろう。これほどボロボロになった身体は、もう立ち直ることはできないだろう。彼もおそらく、来場所で引退することになるだろう。
 雅山は、突き押しにこだわるべきでない。彼の突きは重く、腰も重い。しかし突きで決めようとする限り安定感は消え、前に落ちる相撲が多くなる。雅山の体型に合った相撲は、身体を丸め下からモコモコとハズ押しで押しまくる相撲であろう。それは相撲の基本動作でありながら、実際に身体能力として刷り込める力士は少ない。
 以前すでに書いたが、天才・若羽黒のような押しである。身体を丸め、下からモコモコ、モコモコとハズ押しで前に出る。はたき込まれることなく、まわしも許さず、モコモコと前進し続ける。相手にとってこれほど嫌な押しはない。無論、誰もができる相撲ではない。
 若羽黒は派手さのないこの相撲で大関になった。しかし若羽黒が天才と呼ばれたのは、この相撲のためではない。若羽黒は、ほとんど稽古をせずに大関に昇進した唯一の力士だったからである。彼は稽古が大嫌いだったのだ。彼が大関に昇進し初優勝した時、「二若時代の到来」と言われた。もう一人の若は、初代・若乃花である。しかし二若時代は到来せず、身を持ち崩した若羽黒は破門同然で廃業した。やがてピストルの不法所持、賭博などで逮捕され、ヤクザの用心棒となったと噂された。ある日、愛隣地区で行き倒れとなっていた大男が病院に担ぎ込まれて死んだという報道があった。私はその男をずっと若羽黒だと思いこんでいた。しかし本当は、岡山の弁当屋さんで真面目に働いていたが、病気でなくなったらしい。それが若羽黒の最後であった。

漫画と映画の思い出

2016年03月30日 | エッセイ


 小学2、3年の時、「黒豹物語(くろひょうものがたり)」という漫画を読んだ。この漫画の印象は、何故か永く胸の奥底に残ったのである。作者の名は全く記憶にない。

 舞台はおそらくアマゾンだろう。河の両側は鬱蒼としたジャングルである。一頭の黒豹が蔓草の巻き付いた奇怪な形状をした樹上の、河の方に迫り出した太い枝に身を潜めていた。黒豹は今しも遡航してくる船を凝視めている。黒豹の姿は縄暖簾のように上の枝からぶら下がった蔦草で隠れ、明るい河の方からは見えないのだ。
 船は煙突から灰色の煙を吐き出し、水蒸気の力で側舷の大きな水車を回して進むのである。蒸気外輪船である。
 船の甲板に、探検家風の帽子を被った男や、博士と呼ばれる動物学者の姿が見える。またジャングルには似つかわしくない女性たちや紳士たちの姿もある。彼等は外輪船で遡航しながら、両岸のジャングルを見、ときどき聞こえる猿類の吠え声や鳥の鳴き声の方向を望遠鏡を出して探す観光客なのである。
 黒人の水夫や、銃を手にして辺りを警戒する甲板員の姿もある。観光客たちは、早く狩猟がしたいものだ等と言っている。適当な所で上陸し、狩猟も楽しめるツアーらしい。
「いいか、殺さずに生け捕りにするのだぞ」と、動物学者は彼の案内人に言う。二人組の探検家らしき男たちは「珍しい動物を捕まえたら、動物園に高く売れるぞ」などと話し合っている。
 黒豹は外輪船と、その乗客たちの様子をジッと窺っている。そして黒豹が言うのだ。
「神様…私はなぜ黒豹に生まれたのでしょうか」
「私はなぜ人間に生まれなかったのでしょうか」…船は黒豹の潜む前を通り過ぎていく。
 やがて外輪船が河岸に張り出した桟橋に接岸し、人間どもが降りてくるだろう。彼等はジャングルに災厄をもたらすだろう。黒豹は身を翻し、大きな枝から枝を跳び移り、やがて密林の奥に走り込む。
「神様、あなたは不公平だ」と黒豹は言う。…また人間たちの悪智恵と火を吹く銃が、密林に災厄をもたらすのだ。そして人間たちの傲慢の前に、黒豹も死んでいくのだ。

 この「黒豹物語」で私の胸臆に貼り付いた意識は、おそらく「存在」の悲しみなのである。「私はなぜ黒豹に生まれたのか」という悲しみは、「存在」そのものの悲しみを認識したとしか言えないのだ。無論、子どもである当時の私に、そんな語彙はなかったのであるが。

 同じ頃「二人の可愛い逃亡者」というアメリカ映画を見た。あるいは日米合作映画であったろうか。
 舞台は日本であり、自分と同い年くらいのアメリカの少年と日本の少年が主人公なのであった。監督の名前も出演者の名前も全く記憶にない。この映画は「総天然色」であった。
 小さなアメリカの少年が日本にいる両親の許に行く途中、飛行機が海に墜落する。少年は奇跡的に漁師に助けられる。漁師にはこのアメリカの少年と同い年くらいの少年がいた。漁師の両親がアメリカの少年を保護したことを警察に届けに行く。
 この自分と同い年くらいのアメリカの少年が、警察に捕まってしまうのではないかと考えた日本の少年は、その境遇に同情し、彼を助けるため、彼の両親がいるという東京に少年を連れて行こうとするのである。日本の少年はアメリカの少年を家から連れ出した。
 二人は貨物列車の無蓋車に隠れたり、トラックの荷台に潜んだりしながら東京を目指す。小さな子どもたちの逃亡の旅は、実に切ないものである。
 二人はやがて京都に着く。二人はこの賑やかな街を東京だと思っているのだ。それが東京ではないことに気付いた少年たちは、さらに列車に密かに乗り込み東京へ向かった。ところが今度の列車は奈良行きだったのである。
 少年たちは見つかり、逃げ、とうとう五重塔の屋根まで追い詰められてしまうのだ。そして二人は屋根の高みから転落する…。
 いま思えば、いかにもアメリカ人の映画らしい京都、奈良という日本観光映画なのである。しかし小さな子どもの冒険の旅は、憧れと共に切なく胸を打ったのである。自分にこんな冒険はできるだろうか、こんな勇気はあるだろうか。

 そのころ私は銚子に暮らしていた。小学校の近くに汽車の操車場があり、毎日たくさんの機関車や貨物列車の入れ替えが行われていた。扉の開いたままの有蓋貨車や、無蓋貨車もたくさんあった。あの停まっている貨車なら、自分も乗り込めるのではないか、また低速で走る貨車なら飛び乗れるのではないか…と、毎日考えていた。しかし、あの二人の少年のように、私にはどこか遠くに行く勇気がなかった。

            (この一文は2006年11月20日に書いたものである。)
 ちなみに、クリント・イーストウッドの映画初出演は、この「二人の可愛い逃亡者」だったとずっと後に知った。

                                            

白鵬に言いたい

2016年03月29日 | 相撲エッセイ
  

 私は三歳の頃からの相撲好きである。相撲放送のラジオの前に座り込み、アナウンサーの早口で興奮ぎみの取り組みの様子に耳を傾けていた。テレビのない時代である。
 新聞に載っている力士の大一番の写真を見て、その姿を目に焼き付けた。
お気に入りの力士は、固太りの見事に丸いお腹をしたアンコ型の横綱・鏡里、それより固太りと思われる見事に均整がとれた美男横綱・吉葉山、そして見事な筋肉質のソップ型で長身横綱・千代の山であった。
 鏡里は四つ相撲で、大きなお腹で相手を土俵外に寄り切っていた。吉葉山は悲劇の横綱と呼ばれ、両膝の怪我がもとで活躍できなかった。千代の山は豪快な突っ張りで相手を土俵外に突き倒していた。しかし千代の山も膝の怪我に苦しんでいた。その頃、たしか横綱・東富士が引退し、プロレスに転向していった。栃錦が大関から横綱に昇進し、若乃花はまだ小結か関脇であった。何を言いたいかというと、実は白鵬が気になるのである。

 白鵬は宮城野部屋である。この部屋は吉葉山が創設した。彼は高島部屋だったが引退後に独立したのである。後年、高島部屋は吉葉山の弟弟子の大関・三根山が継いだ。
 吉葉山は幕下優勝して十両昇進直前に応召され、戦場で二発の銃弾を浴びた。一発は貫通、一発は体内に残り、彼は死線をさ迷った。四年後にガリガリに痩せて復員したとき、高島部屋の人たちは幽霊が出たと思ったらしい。体重が半減し六十キロの骨と皮になっていたのである。すでに彼は戦死したものとされて力士名簿から消されていた。
 吉葉山には悲劇がつきまとったが、そこから横綱にまでなったのだ。彼の土俵入りは不知火型であった。写真で、その綱を締めた立ち姿や土俵入りを見ると実に美しかった。白鵬の土俵入りの不知火型は、その吉葉山に由来する。

 白鵬が十両に上がってきた頃、私は周囲の人たちに、この力士は必ず横綱になると断言した。相手力士の力を吸い取るような身体の柔らかさ、足腰の良さ、膝を折った重心の低さ、運動神経の良さ、立ち合いのスピードは抜群であった。これは大鵬だ。大鵬のような可能性を秘めた逸材だと見えたのである。幕内力士になり、どんどん昇進した。何という相撲勘、何という安定感。もしかすると大鵬の優勝回数32回を超えるのは、彼ではないかと思われた。白鵬がまだ優勝さえしていなかった頃である。
 白鵬は横綱になった。そして優勝回数を重ねた。すでに朝青龍とは互角以上になっていた。
 朝青龍の俊敏さと相撲力はともかく、その取り口の荒々しさは好きになれなかった。また素行の悪さをよく耳にした。彼は場所中にもかかわらず、毎晩六本木で浴びるように酒を飲んでへべれけとなり、あげく朝青龍を部屋まで車で送ろうとしたその酒場の店長を殴り、彼の鼻梁をへし折ってしまった。相手は一般人である。その男は暴力団の準構成員であった。朝青龍はその場所中に三千万円の示談金を払ったそうである。場所後に朝青龍の行動が問題となり、暴力団関係者との交際も囁かれ、相撲協会は彼に引退を勧告した。もしそれを断れば解雇するというものであった。朝青龍は退職金がもらえる引退を選んだ。
 白鵬はひとり横綱となって優勝回数を重ねていった。朝青龍が現役を続けていたとしても、すでに白鵬には敵わなかったであろう。
 その後の時津風部屋のしごき死亡事件、名古屋場所に弘道会のやくざ衆が土俵下をぐるりと占めた異常な事態(木瀬親方が捌いたチケットが弘道会に渡り、暴力団との付き合いを疑われた)、一年後に野球賭博に八百長問題が発覚し、大相撲は危機に陥った。
 それを横綱として、力士会会長として、ひとり支えたのが白鵬である。記録は無論、白鵬は真面目で、悠揚迫らぬ大横綱であった。

 その白鵬に関して、おやっと思わせはじめたのは昨年2015年の初場所からである。13日目、彼は稀勢の里を破り、大鵬の記録を抜く33回目の優勝を果たした。その記念すべき場所は全勝優勝である。
 千秋楽の翌日の記者会見で白鵬は「疑惑の相撲が一つある」と言った。その相撲は稀勢の里戦である。彼は立ち合いから稀勢の里を圧倒し西方に寄り立てたが、足が流れたのと稀勢の里の捨て身の小手投げが同時であった。軍配は白鵬に上がったが物言いがつき、協議の結果、取り直しとなった。
 この一番を白鵬は「疑惑の一番」と言ったのである。「勝っている相撲ですね。一番目。帰ってビデオを見たら、子供が見てもわかる。なぜ取り直しにしたのか」「ビデオ判定も元お相撲さんでしょ。もう少し緊張感を持ってやってもらえれば。簡単に取り直しはやめてほしい」「本当に肌の色は関係ないんだよね。髷を結って土俵に上がれば、日本の魂なんです。みんな同じ人間」とまで言った。おそらく、館内の稀勢の里の声援の凄さに苛ついたのだろう。誰も自分を応援していない。自分がモンゴル人だからか。
 さらに白鵬が言った。「大鵬親方が45連勝して勝った相撲が負けになった。それからビデオ判定ができたんじゃないの。なのにビデオ判定は何をしたのか」…これが物議をかもした。
 土俵下の審判団は「白鵬の右手と稀勢の里の左手とどちらが先についたか」を協議したが、ビデオ室の親方衆は「稀勢の里の体が飛んで落ちるのと、白鵬の右足の甲が返ってつくのと同時」と見て「取り直し」を妥当とした。
 私は三歳の頃からの相撲ファンである。白鵬に言いたい。相撲は足の裏以外の身体が先に土俵についた方が負け」なのである。何度その一番の映像を見直しても「白鵬の足の甲が返り土俵につくのと、稀勢の里が飛んで落ちるのが同時」なのである。土俵下の親方衆はその早く激しい動きは見づらかろう。ビデオ室でのスロー再生で判断し、土俵上で協議中の審判団に伝えた親方衆のほうが確実で正しいのである。
 この白鵬の審判批判に、彼が敬愛する大鵬の納谷幸喜さんが苦言を呈した。「審判に文句を言ってはいけない。そういう相撲を取った自分が悪い」
 また大鵬は自らが誤審で戸田(後の羽黒岩)に敗れたときもこう言った。「そういう相撲を取った自分が悪い」

 もう一つ白鵬に言いたい。イギリス人でコスモポリタンとして生き、相撲が大好きだった海洋科学者、生物科学者、哲学者ライアル・ワトソンの言葉である。
「日本の社会で、相撲界ほどオープン・ソサエティはない。日本では政治家も芸能界も世襲で、企業の組織もお役所組織でも決してオープンな社会ではない。人脈や、社長派や専務派だとか、誰某の引きで出世するとか、逆玉で社長になったとか、決して実力だけのオープン・ソサエティではない。しかし相撲こそ、裸一貫の実力社会なのだ。実力がなければ出世できない社会なのだ。大横綱の弟だろうが、名大関の息子だろうが、裸一貫の真の実力主義のオープン・ソサエティなのである。」
 ちなみにオープン・ソサエティは、ヘッジファンドで知られる投機家、哲学者、思想家のジョージ・ソロスの一番大好きなキーワードなのである。彼の財団は「オープン・ソサエティ財団」という。
 日本人でさえ相撲社会を封建的な世界と思っていたとき、ライアル・ワトソンは「日本の社会の中で最も実力だけのオープン・ソサエティ」だと言ったのである。ワトソンは海外向けのラジオ放送で相撲の解説をし、BBCでも相撲の解説を務めた。さらにロンドン場所を誘致した。

 白鵬に言いたい。相撲社会には人種差別はない。ヘイトスピーチで攻撃する者もない。ハワイ出身の高見山にも小錦にも曙にも武蔵丸にも拍手した。セントルイス出身で父は黒人だった戦闘竜は、いかにも力士らしい姿で激しい突貫と突きは格好よかった。春日王も韓国出身力士だったが、そのいかにも力士らしい気っ風の良い相撲や姿は格好よかった。モンゴル出身の旭天鵬もいいし、旭秀鵬は力士の中でも一番の美男力士で、その着物姿は美しい。
 親方衆も相撲ファンも、誰も人種差別はしなかったし、していない。琴欧洲も把瑠都も大きな声援と拍手を受けていた。癌が判明し幕下に陥落して闘病中の時天空に、多くの相撲ファンが胸を痛め、その完治を祈っている。そして白鵬の偉大さには誰もが拍手を送り、応援している。
 ただ、横綱として千秋楽の最後の一番で、しかも対横綱戦で、しかも優勝のかかった一番で、変化はないよ。もちろん私は里山や宇良のような小兵力士が「たまに」見せる変化には怒りは湧かない。ただし、身体も大きく前途洋々の大関・照の富士や、逸ノ城の変化は許さん。罵倒するよ。小兵だが横綱の日馬富士の変化も罵倒するよ。横綱や大関はその地位として、また大型力士はその身体が大きいという優位性から、変化をしてはいけない。
 もちろん、明らかに土俵を割って力を抜いた相手に、ダメ押しで土俵下に突き倒すのは、危険だし横綱の行為としては最低だ。特に白鵬のダメ押しは故意であろう。彼のここ数場所の取り口に見る荒い相撲と苛立ちは見苦しい。

 私は大の白鵬ファンである。三歳の頃からの相撲ファンなのである。

                                               

エッセイ散歩 過剰演出と感動について

2016年03月28日 | エッセイ
                  

 報道やドキュメンタリー番組における過剰な演出を、普通は「やらせ」と言う。…記者は知人男性を介してブローカーなる男性を紹介され(仕込み)、知人男性が用意(仕込み)した部屋を撮せる向かいのビルの屋上にカメラを仕込み、あたかも秘かに隠し撮りしたような映像を装い、その部屋には記者も入って、二人の会話に「もっと詳しく」「もっと具体的に」と要望(指示)を出し、外に出た知人を記者とカメラが捕まえインタビューを試みる(装い)…。演出というより捏造に近い。十分「やらせ」の定義に入るだろう。しかし捏造、やらせは認められず、過剰演出だったと結論づけた。
「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターの涙を二度見た。一度はつい先日のこの件である。悔し涙であったろう。
 もう一度は2001年、イランの映画監督モフセン・マフマルバフが、映画「カンダハール」の日本上映と、その著書「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」の日本語版の発売に合わせて来日した時である。
「クローズアップ現代」はマフマルバフ監督をスタジオに招き、国谷裕子がインタビューをした。彼はゆっくりと物静かな口調で、難民たちが砂漠や岩のゴロゴロした荒野の逃避行の現実を語り続けた。鉄の女のように思われた国谷裕子は、静かに涙を流し続けた。彼女は悲惨な現状に心を痛め、マフマルバフのメッセージに深く心を揺すぶられたのだ。感動の涙であったろう。
 岩山に掘られた巨大な仏像群の破壊は、まさにタリバンの愚行蛮行に違いないが、多くの命が死に曝され、誰もそれを救うことができない。命を救済すべき宗教が命を奪う。その狂気に近い原理主義が人も物も破壊し続ける。救済のために創始された宗教なのに、偉大で巨大な石仏は、それらの人々を救済することも叶わず、その膨大な死者たちへの世界の無関心と、自らのあまりの無力さに、恥辱のあまり、崩れ落ち、砕け散ったのだ。石仏は自ら崩れ落ちることで、世界の無関心に対し、その耳目をこの地へ集めさせたのだ。…マフマルバフは何という詩人なのであろう。何と優れたジャーナリストなのだろう。

 だいぶ以前のNHKスペシャルで、気に入ったものが二つある。ひとつは「家族の肖像」というシリーズで、先ずウォンウィンツァンが手掛けたテーマ曲「運命と絆」、エンディングテーマ曲「勇気と祈り」に、強く心惹かれた。
 もうひとつは「映像の世紀」のシリーズである。これも加古隆のテーマ曲「パリは燃えているか」と、映像の底流に響く彼が手掛けた音楽に強く心惹かれた。ほどなく私は彼等のコンサートを企画し、ご出演いただいた。彼等の曲とピアノは、心を揺さぶり素晴らしい。
「映像の世紀」には、やらせが入り込む余地は全くない。しかし「家族の肖像」は入り込む隙(誘惑)が多かったように思えるのだ。
「ガンディーの灯火を揚げて」「虐殺の村を離れて ボスニア」「密告 母と息子の北アイルランド」「平和への遺言~中東ラビン家の人々~」「兄弟、二つの旅路」「グッチ家 失われたブランド」…。
 特に「密告」や「兄弟、二つの旅路」は、その出来映えも素晴らしく、ドラマかと思えるばかりにスリリングで、おそらく、仕込み、やらせがあったに違いないと思わせた。別に確証はない。非難しているわけでもない。
 少しばかりの仕込みや演出が入ってもいいではないか。セミドキュメンタリーとして見ればいいのである。私は「家族の肖像」の各作品に心を寄せ、感動したのである。単なる事実の羅列より、フィクションのほうが本質を捉え、観る者に確実に伝えることも多い。真実に触れるのは、より本質を抽出し得たほうなのである。劇的な効果を狙った多少の演出やアングルは、そのメッセージを強く印象づけることもでき、本質を伝えやすくするのではないか。無論、ねじ曲げてしまうリスクもある。
 NHKで、数多くの優れたドキュメンタリー番組を手掛けてきた山登義明氏に「テレビ制作入門」という著書がある。その中で、このドキュメンタリストは「現実を加工する」という言葉を使い、ドキュメンタリーにおける演出を表現した。面白い。やはり紙一重ではないか。
 またテレビマンユニオンの碓井広義氏は、その著「テレビの教科書 ビジネス構造から制作現場まで」の中で、「報道番組も見せ方しだい」等、かなりあけすけに報道の表裏や、ドキュメンタリーの企画、構成、演出等についても語っている。むろんマスコミ志望の学生に向けた本である。元朝日放送の岡本黎明氏の著「テレビの21世紀」もテレビメディア志望の若者たちに向けたテキストだろう。テレビジャーナリズムとは何なのか…である。
 これらを参考に、視聴者は端から疑り深く(メディア・リテラシーを持って)報道やドキュメンタリー番組を見ればよいわけである。
 本来はマスメディアが権力を監視、チェックすべきなのだが、昨今は権力が放送事業者の許認可権をちらつかせて、テレビ放送メディアを監視、チェックの強化を謀りつつある。権力サイドからの脅し、圧力である。とても危険な兆候と言ってよい。NHKも、やはり権力からの全き独立を保つイギリスのBBCが、国営放送の制度として参考になるのではないか。

 つい最近のこと、「感動がほしい」という言葉に、私はたちまち化学反応した。…感動だって…。
 すぐ想い出したのは丸山浩路というパフォーマーのことである。彼のテーマは「いのち」であり「愛」であった。まさに「感動」を求めるなら、丸山浩路の世界ではなかろうか。
 私は多少の縁あって丸山さんのステージを何度か拝見し、また何度もやっていただいたことがある。私が無音のまま失礼しているうちに、2010年の暮れに亡くなられたとのことである。
 思えば、彼のような感動のステージを、ここついぞ見ない。彼と何度も仕事ができたことを心から誇りに思う。まさに彼のような「感動」の演者はいないのだ。それはそうだろう、丸山さん自身の言葉を借りれば、彼は世界で「オンリーワン」だったからである。
 丸山さんは心理カウンセラー、心理セラピストから、日本初のプロ手話通訳者に転じ、張りのある大きな声とボディランゲージによる一人語り、一人芝居を演じた。観客はその物語に感動し、ほとんどが涙ぐむ。そして笑う。一人芝居が終わった後のトークショーでは、みな抱腹絶倒、腹の皮がよじれるほど笑い、笑い過ぎて涙が出る。感動して泣き、笑い、また泣き、また笑いと、ずうっと感情を揺さぶられ続けるのだ。丸山さんは人と人の間に「波動」を起こすと言った。また彼はコミュニケーションとメンタルヘルスの研究者でもあった。
 臭いほどの過剰演技かも知れない。本人も「臭い丸山、臭丸」と言って笑わせた。過剰な演出などは全くない。演出は極めてシンプルで、照明と小泉源兵衛さんか石田桃子さんのピアノだけである。ときに、横田年昭さんの竹笛、土笛、創作竹楽器などである(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「藪の中」などで、ちなみに横田さんの笛は実に素晴らしかった)。私は一度、「ローラ、叫んでごらん」という物語で、約十秒間禍々しくパトライトを回したことがあるが、せいぜいその程度なのである。
 また過剰なほどの演技に見えるが、手話、ボディランゲージでの演技なので、話すときの動きが大きいのは当然である。いつまでもどこか素人っぽさを感じさせたが、何より、洗練さより心を揺さぶる強い力が、丸山さんのパフォーマンスの特長であった。さらに彼が演ずる一人芝居一人語り、トークショーの話題も実話から材をとったものが多い。「ローラ、叫んでごらん」も「鈍行列車」「五井先生と太郎」も実話であった。それはことさらに作った話ではない。
 丸山浩路のステージパフォーマンスを、今こそ多くの人に聞いてもらいたい、見てもらいたいと思わせる、実に偉大な演者だったと思うのだ。いないのか、ああいう感じの「感動」の演者はどこかにいないのか。また会いたい、ああいう人に、また出会いたい。

              (2015年4月30日に書いた一文です。)
                      

光陰、馬のごとし 競馬場の人間

2016年03月27日 | 競馬エッセイ
                              

 競馬場でレースを観戦することは楽しい。ガラス張りの居心地のよいスタンドで観戦するのもよいだろうが、スタンドの一番下のたたきで、コースの柵にしがみついて見るのも楽しいだろう。眼前を馬たちが、地響きと砂埃を立てて走って行くときの迫力は素晴らしい。鞭の音も聞こえるし、砂埃とともに馬の匂いもする。東京競馬場なら日吉ヶ丘の芝の傾斜地に陣取れば、4コーナーをまわる馬たちの迫力を目にすることができるだろう。
 競馬場は、馬券の的中やレースの推理、観戦のみが楽しいのではない。競馬場に集まる人間を観察するだけでも、実に見飽きることはない。私はイッセー尾形に競馬場人間観察という一人芝居でやってもらいたいと思っていた。一度彼の事務所に掛け合ったが断られた。

 以前は競馬場のパドックやスタンドで、偶然隣り合わせた見ず知らずのファン同士の自然な会話があった。問わず語りに隣人に話しかけるのである。また独り言である場合もあり、その独り言を耳にした隣人も、また聞こえるような独り言で応えるのである。こうして不思議なコミュニケーションが成立する。最近これらの状況を余り見かけないのは、昨今の現代人の対人性向が変化しているからだろう。

 例えばパドックでは見ず知らずの隣人同士でこんな会話が行われる。
「今日は落ち着いてるね、この前はイレ込んでたからね、今日は狙えるよ」
「ちょっと太いんじゃない?」
「うんにゃ、○○賞の時もこんな感じだったな」
「今日は距離が持つかなあ、無理だと思うよ、俺は買わないね」
「○番と○番がよく見えるね。よし決めた。この二頭は押さえた方がいいな」
「ぐいぐいと歩様が力強いね。トモの送り具合がいい」
「見なよ、鶴っ首で良い具合に気合いがのってるね。今日は走るよ。よしこれから総流しだ」
「少しガレてるんじゃない? ありゃ絞り過ぎだな」
「ぎりぎりに仕上がってる?」…
 私は最初このように話しかけられた時に、これが俗に言う「コーチ屋」稼業かと思って身構えた。しかしどうも違うらしい。自らが長年鍛えた相馬眼の蘊蓄を語りたいという、この人たちに特有の癖なのである。おかげで私はパドックで、ごく自然に馬の見方や用語を学んだ。
 かつて競馬場には、「コーチ屋」も「拾い屋」も「泣き屋」もいたが、最近彼等の姿はほとんどど見かけなくなった。この稼業については別に書く。

 スタンドのたたきも楽しい。ゴール3ハロン前か2ハロン前から「そのまま!そのまま!」と叫び続ける人がいる。「そのまま! そのまま! そのまま! そのままあ~あ~あぁ…」と落胆する人もいる。彼の口は「そのまま」しばらく開いたままである。
 スタートから1ハロンも行かぬうちに「よし、そのまま!」と叫ぶ人がいる。
「そのまま」の順位でゴールまで持つことは、ほとんどあるまい。
 時には、ゲートが開いた直後に「よ~し! そのまま、そのまま!」という人さえいる。思わず笑ってしまう。彼の買った馬券は、スタート直後に早くもその着順を完成させているわけである。無論、最初のコーナーを回り、向こう正面と展開が動いた時点で彼は落胆することとなる。

「早い早い」「遅い遅い」「まだ行くな、まだ行くな」「抑えろ、抑えろ」と、騎手と馬に命じる人がいる。「あ~引っ掛かってるよ、下手くそ…」と批評する人もいる。ゴール後には騎手批評を展開するに違いない。「○○騎手はまだ若いね、あいつは展開が読めないンだ」「仕掛けが早すぎるよ、馬鹿、アホ、ボケ」
 ゴール1ハロン前から「いけー、いけー」と叫び、馬たちがゴールに雪崩れ込むや「よーし!」と、天に拳を突き上げたりガッツポーズをとる人がいる。馬券が的中したのかと思いきや、手にしていた馬券を全て破り、その紙吹雪を空中にまき散らす。ややこしい癖である。
「ユタカー、ユタカー!」と叫び続ける人もいる。武豊騎手のことなのか吉田豊騎手のことなのか分からない。無論「オグリー! オグリー!」と馬名を叫ぶ人もいる。
 4コーナーからゴールまで「わーわーわー」と叫び続ける人がいる。具体的な馬の名や騎手の名を叫ぶのではない。「いけ~」「そのまま!」と明瞭な言葉や単語を叫ぶのでもない。ただ無闇に「わーわーわー」と叫ぶのみである。スタンドの大歓声とは、こういう叫び声の、数万人の、時に12、3万人の総和なのである。

           (この一文は2006年6月5日に書かれたものです。)