芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

戯曲 ルドルフ あるいは…父たち、男たちの夜と霧(2)

2016年01月16日 | 戯曲



   ルドルフ・ヘスの官舎
   深夜。
   テーブルについているヘスと夫人。美しい音楽が流れている。

  ヘス夫人「おめでとう、ルドルフ」
  ヘス  「ああ、ありがとう」
  ヘス夫人「乾杯。あなたの昇進を祝って、それから」
  ヘス  「それから」
  ヘス夫人「あなたの健康を祈って」
  二人で 「乾杯!」
  ヘス  「ありがとう…子供たちも起こそうか」
  ヘス夫人「およしなさいな、三人ともさっきまで騒いでいたのよ。
      やっと寝ついたんだから。…『もう遅いから早く寝なさい』って
      言っても『パパが帰るまで起きてるんだ』って、
      この頃聞きわけがないの…」
   立ち上がって舞台ソデ(台所)の方に行く夫人。
   何やら料理を運んで来る。

  ヘス夫人「明日の朝、私から、素晴らしいニュースよ、パパが所長になら
      れるのよ、ポーランドのアウシュヴィッツにご栄転よって、大発
      表しますわ」
  ヘス  「大げさだな。そんな大した事じゃないよ」
  ヘス夫人「我が家では大ニュース、大事件よ」

   再び台所の方へ向かう夫人。級に振り返って
  ヘス夫人「そうだ、ラジオのニュースアナウンサーの口ぶりで発表しよう
      っと」
   笑う二人

  ヘス  「(台所の夫人に語りかける)俺たちがいっしょになった頃の、
      あの健康的な農業開拓団時代から、ずいぶんかけ離れた地点に来
      てしまったね。…あの頃は良かった。
      土に帰れ、農業こそドイツ民族の生命の源泉だ…ほんとうにそう
      感じたものだ…あの頃は良かった」

   出て来る夫人。
  ヘス夫人「農業も素晴らしい労働でしたわ。でも、今のお仕事だって素晴
      らしい労働でしょう」
  ヘス  「うん」
  ヘス夫人「汗を流して働くことは素晴らしい。私たち一人一人の幸福のた
      めの労働、ドイツ国家のための労働…あなた、いつもおっしゃっ
      ているじゃない。《労働は自由への道》」
  ヘス  「うん。俺の一番好きな言葉だ」
  ヘス夫人「素晴らしい言葉よ、《労働は自由への道》って」
   うなづくヘス

  ヘス  「アウシュヴッツに行ったら…そうアウシュヴッツに行ったら、
      子供たちに家庭教師をつけよう。優しい女の先生がいい。
      みんな優しい子だからね。
      それと、上のが欲しがっていた犬も飼わせてやろう。あの子は
      俺に似て大の動物好きだから。下の二人にはピアノがいいね」
  ヘス夫人「みんな大喜びよ、きっと」
  ヘス  「これから給料も上がるからね。そのくらいの余裕は出来るよ」
  ヘス夫人「ありがとう、ルドルフ」
  ヘス  「なに俺が今子供たちにしてやれることってそれくらいさ」
  ヘス夫人「ありがと、それでもみんな喜ぶわよ」
  ヘス  「…これからますます仕事、仕事、仕事で、お前たちには淋しい
      思いをさせるかもしれないが…大変なんだ、これからが。今度、
      部下になる者たちには、俺より古参の者が多い。おまけに評判の
      無能、札つきの怠け者が多いときてる…」
  ヘス夫人「大変でしょうけど、がんばって下さいな。子供たちのために、
      私のために、ドイツのために」
  ヘス  「うん…これからますます仕事、仕事、仕事。朝も今より早くな
      る。夜の帰りも遅くなる」
  ヘス夫人「今より、ずっと…」
  ヘス  「部下の隊長や隊員に最大限の成績を発揮させるためには、
      俺自身が率先、範を示さなければならないからね」
  ヘス夫人「そうね。(ヘスの手を握り)私もがんばらなくちゃ」
  ヘス  「ああ、頼むよ。やるよ俺は…例えば、これまでの収容所で伝統
      になっていた一切の悪しきしきたり、一切の愚かな慣習を破らね
      ば。例えば、保安本部や統監府との文書はともかく、所内での官
      僚的で煩雑な事務手続きの思いきった簡素化を。例えば、SS隊
      員が目を覚ます時俺は出かけ、彼等が務めに出かける時俺はすで
      に仕事中、そして夜彼らが休息の床に就く時俺は仕事を終える。
      …覚悟してくれ」
     うなづくヘス夫人
  ヘス  「困難な問題が山積しているんだ。少ない予算、あまりにも短い
      仕事達成までの期限、次々に押し寄せるであろう仕事、しかもま
      まならぬ部下、はたからの干渉、陰での悪口、足の引っ張り合い、
      嫉妬、裏切り…これに打ち勝つには人一倍働く以外ない」
  ヘス夫人「たいへん…男の方の仕事って」
  ヘス  「今のザクセンハウゼンのローリッツ所長は、俺のことをただ要
      領のいいだけのゴマスリ男だと言い回っていたんだ」
  ヘス夫人「まあ、私もあの人嫌いよ。なんとなくだけど。奥さんもすごく
      意地が悪いの」
  ヘス  「悲しい男さ。ああいう手合いが実に多いのだ。しかし、見てい
      る人はちゃんと見ているよ。今日もヒムラーSS全国指導者と、
      グリュックス強制収容所統監が直々に《ヘス君、君しかいないの
      だよ、我々が期待しうる最良の適任者は!》って、俺の肩を叩い
      て励ましてくれたんだ」
  ヘス夫人「まあ」
  ヘス  「…それにしても…気の重い…困難な仕事だ(頭をそっと押さえ
      る)」
  ヘス夫人「あなた…」
  ヘス  「わかってる、うん、大丈夫。(気を取り直すように立ち上がっ
      て)俺の取り柄は、人への誠実、国家への忠実、仕事への熱意、
      勤勉、努力、創意、工夫!子供たちにも常々そう教えている」
  ヘス夫人「ええ、ルドルフ、そういうあなたの美点は私が一番知っていて
      よ!」
     ヘスの胸にもたれかかる夫人
  ヘス夫人「でも、身体だけは気を付けてね。《ヘス君、君しかいないのだ
      よ、我々が期待しうる最良の大黒柱は!》」
   笑いながら抱き合う二人
   美しい音楽が流れている。

  ヘス  「俺はね…戦争が終わったら、きっぱりと軍人をやめ、また農場
      の夢にもどろうと思うんだ」
  ヘス夫人「軍人を…やめるの」
  ヘス  「ああ。また開拓農民として一から出直そうと思うんだ」
  ヘス夫人「それで」
  ヘス  「それで、額に汗して働き、農場を持ち、子供たちの故郷をつく
      り、子供たちを立派に教育する」
  ヘス夫人「ええ、ええ、きっと。ほんとね。約束しましょう」
  ヘス  「約束する」

   深くうなづくヘス

  ヘス夫人「農場かあ、いいなあ」
  ヘス  「辛いよ。またおまえも重労働だよ」
  ヘス夫人「平気、平気。慣れてるわ…でも…」
  ヘス  「でも、…なに?」
  ヘス夫人「不安だわ、私」
  ヘス  「不安?」
  ヘス夫人「…戦争、どうなるのかしら…このまま勝てるかしら」
  ヘス  「ああ、勝さ…信じなさい…ただ信じるように、君たちは」
  ヘス夫人「ええ、勝てるわね、きっと…」
  ヘス  「もちろんさ。ただ信じて…今の生活を精一杯生きよう」

   今度はヘス夫人が深くうなづく

  ヘス夫人「ただ信じて」
  ヘス  「精一杯、額に汗して働き…」
  ヘス夫人「子供たちに素晴らしい故郷を残し」
  ヘス  「子供たちを」
  ヘス夫人「素直で優しい」
  ヘス  「そして強く、たくましい、立派な人間に育てる」
   微笑み合う二人
  ヘス  「踊ろうか?」
  ヘス夫人「えー、めづらしーい」
  ヘス  「いやか?」
   首を振る夫人
  ヘス  「では奥様、お手を…」

   踊りはじめる二人

             (暗転)




   アウシュヴィッツ収容所
   所長室
   ヘスの副官カール・フリッツを、報告書を見ながら叱っているヘス。
   苛立っている。壁に《労働は自由への道》のスローガンが掲げてある。
   《卍》(ハーケンクロイツ)の旗も。

  ヘス  「カール・フリッツ君、私は残念だ。この書類を見ても君の報告
      を聞いても、一週間も前に私が下した命令は全く遂行されていな
      い。五日前に君から提出された計画書は全くのデタラメな作文に
      すぎない! この報告書、このデータは君たちの怠慢を証明する
      以外のなにものでもない!」
  フリッツ「お言葉ですが所長、無理ですよ、無理なことが判明したのです」
  ヘス  「無理? 何が無理かね、フリッツ君」
  フリッツ「はっ、所長のご命令を遂行するには余りにも予算が足りません。
      あんなものではご命令の建設も、技術改良もかないません。また、
      工期的にも無茶ですよ。時間が足りません」
  ヘス  「時が必要というのかね」
  フリッツ「はい、一年は必要なのに三ヶ月でやれとおっしゃっているので
      すよ」
  ヘス  「常識的には無理だな」
  フリッツ「はい」
  ヘス  「しかし今は非常時だ。常識など通用しない」
  フリッツ「しかし」
  ヘス  「フリッツ君、君は毎朝何時から勤務につくかね?」
  フリッツ「はっ、規定通り八時半からです」
  ヘス  「私は六時半には勤務に就いているよ」
  フリッツ「六時半!」
  ヘス  「フリッツ君、非常時なのだ。私は上から、いついつまでに収容
      所そのものの建設と改修を、いついつまでに排水工事を、いつい
      つまでに収容所周辺の第一地帯の住民立ち退きを、いついつまで
      に地雷原の埋設をと、全て期限付きで命令を受けているのだ。
      (窓の外に目をやり)
      見たまえ、それでなくとも、こちらの受け入れ態勢に何ら猶予も
      与えず、ああして家畜列車で毎日三千人、四千人とユダヤ人やロ
      シアの捕虜が運ばれてくる。
      フリッツ君、上からの命令には何一つ論議も、解釈も、反論も言
      い訳も許されないのだ!…はなから無理だ、出来ないと諦めるの
      ではなく、どうしたら可能かを考えてみようではないか」
  フリッツ「…と言いましても」
  ヘス  「…よろしいフリッツ君。
      我々の官舎から収容所まで通勤に三〇分かかるな」
  フリッツ「はい三〇分ぐらいですね」
  ヘス  「収容所の敷地はまだまだ余地があるし、第二期、第三期と拡張
      命令も出されている。…
      こうしよう! 我々全所員の官舎を収容所敷地内に移す」
  フリッツ「我々の官舎を、ですか?」
  ヘス  「D地区が適当だろう。明日までにその計画書を提出せよ。
      明後日には実施にとりかかる」
  フリッツ「我々が、我々の家族が、ユダヤ人やジプシーや犯罪者と一緒に
      暮らすんですか? 同じ囲いの中で!」
  ヘス  「それで三〇分早く勤務に就けるし、従来より三〇分遅くまで勤
      務が可能だ。脱走や暴動が起きた際の対処も迅速に行えるだろう。
      命令だ。早速とりかかれ」
  フリッツ「所長、我々は囚えている身であって、囚われの身ではありませ
      ん。年中同じ囲いの中で暮らすなんて、囚われの身とかわらない
      ではないですか」
  ヘス  「フリッツ君。時間はつくるものだ。予算も私が再検討して後で
      指示する」
  フリッツ「所長…」
  ヘス  「命令だ! これは命令なのだ!」
  フリッツ「わかりました。すぐ取りかかります」

   出て行こうとするフリッツ

  ヘス  「フリッツ君。所長室のドアは開け放しにしておいてくれたまえ。                        
      私と君ら中堅幹部、それと若い隊員らの間の意思の疎通が欠けて
      いるとは思わんかね。命令伝達が徹底していないと思わんかね。

      いいか、所内掲示板に貼り紙を出してくれ。君たちの意見、提案、
      具申は直接私のところに持って来てかまわんと。提案制度を実施
      するのだ。よいアイデアはどんどん取り入れる用意があると告示
      するのだ。それも早速とりかかってくれたまえ」

  フリッツ「わかりました。手配いたします」

  ヘス  「あ、それと、今日から私の昼食を所長室に運ぶ必要はない。
      私用の特別メニューも取り止めだ。私も所員といっしょに隊員食
      堂で食べる。若い所員が、今何を考え、何を悩み、何に不満を抱
      いているのか、みんなと共に付き合う中で聞いていきたい」

  フリッツ「はい、手配いたします」
  ヘス  「あ、それと建設主任のトム・ヘイゲンを呼んでくれ」

  フリッツ「はっ!…(独白しながら出て行く)…しかし無茶苦茶な話しだ、
      全く! 同じ囲いの中で暮らすようになるとは」
       
     一人苛立っているヘス

  ヘス  「(独白)囚われの身ではない。(スローガンの前に立ち)ドイツ
      の永遠の解放のために、我々は責任を果たさねばならないのだ。
      …自由のために!」

     建設主任のトム・ヘイゲンが入口のところに立っている。
     気付くヘス。
  ヘス  「なにをしている。さっさと入って来たまらどうだ。ヘイゲン君」
  ヘイゲン「はっ! 入ります」
  ヘス  「ヘイゲン君、一体いつになったらできるんだ! 有刺鉄線は?
      どうした? まだ一〇メートルも手に入れることができんのか? 
      他の資材は? まだ収容所統監府は指一本動かそうとしないのか
      ?」
  ヘイゲン「は、全てその通りです」
  ヘス  「全てその通りだと!」
  ヘイゲン「はっ」
  ヘス  「建設主任、君は一体何をしてきたのかね。工兵隊倉庫には有刺
      鉄線が山と積まれて眠っているというのに」
  ヘイゲン「は、工兵隊には何度も当たってみましたが…」
  ヘス  「どうした」
  ヘイゲン「管轄ちがいですし、複雑な申請手続きもあり、またあれは戦線
      に使用とのことで…」
  ヘス  「それで」
  ヘイゲン「は、そのダメでした」
  ヘス  「馬鹿め…よし、ヘイゲン君、今夜工兵隊倉庫に有刺鉄線を盗み
      に行くのだ。倉庫内に他に有用な資材があれば、それも盗って来
      い。特別隊を至急編成せよ!」
  ヘイゲン「あの、盗みに…盗みに行けとおっしゃるんですか?」
  ヘス  「そうだ」
  ヘイゲン「あの工兵隊倉庫に」
  ヘス  「そうだ、工兵隊倉庫にあるのだろう?」
  ヘイゲン「は、でも、あの…自分は盗みはいけないことだと思います」
  ヘス  「何と、素晴らしい役立たずの道徳だろう! ヘイゲン君、今週
      中に収容所周辺に有刺鉄線網を張めぐらさなければならんのは、
      君もとくから承知のはずだ! 有刺鉄線を張らずに、どこに高圧
      電流を流すのかね。君の頭にでも流すのか! いい刺激になるだ
      ろうな! 
      いいか、こうなったら非常手段だ。早くしろ! それとこの工程
      表のデタラメさかげんは何だ! 練り直せ! 明日の昼までに再提
      出せよ!」

   机上に書類を投げ出す

  ヘイゲン「はっ!(そそくさと書類を抱え、、独白しながら出ていく)…
      泥棒は、やっぱりいけないことだと思うんだけど…嘘つきのはじ
      まりだ」

   苛立ちながら懐中時計を取り出し時間を見るヘス

  ヘス  「馬鹿め! 全くどいつもこいつもノロマの間抜けぞろい。特に
      管理部隊長はワラが服を着て歩いているようなもんだ。…
      なんで私が、奴に代わって部隊と抑留者の全生活資材に関する交
      渉をしなければならんのだ。奴の仕事だ! 間抜けめ、パンも、
      肉も、ジャガイモも、鍋にいたるまで! そんなものを手に入れ
      る交渉もできんのか! 阿呆め!」

   立ち上がり、出て行こうとするヘス

  ヘス  「ベッドの台や、藁ブトンの調達に至るまで…何もかも私がやら
      ねばならんのか!」

   部屋の外に向かって

  ヘス  「管理部隊長! 管理部隊長! 交渉に出かけるぞ!」

   出て行くヘス

  ヘスの声「…ヘイゲン、こんな所で何をしている。盗みの手はずを整えて
      いるのではなかったのかね」
  ヘイゲンの声「(聞きとれないが)…」
  ヘスの声「いいか、足りない資材は野営地だろうが町の工場だろうが、片
      っぱしから盗みに行け! 手に入れろ! さっさとしろ!…
      管理部隊長!…出かけるぞ!(遠のくヘスの声)」


                        

芽むしり仔撃ちとエクソダス

2016年01月16日 | エッセイ

    これは2006年11月15日付けの小文である。ちょうど富山県高岡市で子どもたちが集団で
    行方不明となった時に書かれた。もう9年前の話である。第一次安倍内閣は「美しい国」
    を標榜していた。

               

 富山県高岡市の児童養護施設の男子中学生、小学生8人が、集団登校したまま行方不明となったという。そのニュースを聞きながら、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」を思い浮かべた。「芽むしり仔撃ち」は大江の青年期に書かれた最高傑作で、瑞々しくも悲しい作品であった。
 また村上龍の「希望の国のエクソダス」を想い出した。

 翌日未明、施設から20キロ離れた場所で彼等は発見された。彼等は富山市内の雨の県道を歩き続けた。その夜は駐車中のトラックの荷台で眠っていたという。子どもたちの一番上は中学3年生、一番下は小学2年生である。半袖半ズボンの子どもたちもいた。集団の家出らしい。
 家庭に何らかの問題が在ってか、あるいは両親も引き取り手もないためか、養護施設以外に帰る家はない子どもたちの家出なのであった。家なき子らのエクソダスである。

 昨年春、演出家のナガノユキノさんと万博会場に下見した帰りの車中、芝居や小説の話しで盛り上がった。
 唐突に彼女が「芽むしり仔撃ち」について、あれほど優れた作品はないと言った。本当に好きな作品らしい。私は直ちにその作品の素晴らしさに賛同し、その昔、作者の大江健三郎には無断で「芽むしり仔撃ち」の映画用の脚本を書いたことがあると伝えた。ぜひ読ませて欲しいと言われて、お渡しする約束をしたが未だ果たしていない。
 帰宅後に、原稿用紙に清書したものを探したがどうしても見当たらず、古びて黄ばんだ藁半紙20数枚に、汚い小さな字でビッシリと書き込んだ下書きしか残っていなかったからである。それをお見せするわけにはいくまい。

 だいぶ以前、TVドラマ「金八先生」が評判になっていた頃、その偽善的セリフとストーリーにうんざりした。そのときは番組に強い反発を感じたが、家庭に流されるテレビとしては、ああいうストーリーしか成り立たないのだろう。
 灰谷健次諸の児童文学もそうだが、「金八先生」も、どこか子どもたちに阿っているように思える。
 大人たちは子どもたちをどう導こうというのか、またどう管理しようというのか。大人たちの偽善が、子どもたちを落胆させ反抗を招くのだ。大人たちはいち早く、その反抗の芽、大人の常識と管理から外れる芽を、摘もうとするのである。子どもたちは「隔離され」「捨てられる」のだ。
 その頃の深刻な教育問題の本質をテーマとするなら、「芽むしり仔撃ち」を映画化したほうが、よほど強い衝撃を与え得るだろうと考えて、私が勝手に脚本化したのである。…
「芽むしり仔撃ち」とは、大人たちに見捨てられた少年たちの絶望と憤怒と、自分たちの国をつくり生き残らんとする意志と、彼等(悪い芽)を摘まんとする大人たちの残酷な欺瞞の物語なのである。
「芽むしり仔撃ち」は今も荒廃した教育問題、大人たちの姿勢を激しく撃つ、大江健三郎畢生の名作と断言する。

 以下は私の脚本の中での科白である。無論原作の通りではない。また原作本を引っ張り出せる状況にない。
…南という少年と、私という主人公の少年の間で交わされる会話である。

  南 「俺は、今このままここにいても、どこか遠くに行っても、同じだと
     思うんだ。…だから俺は、どこか遠くに行こうと思うんだ…」
  私 「南へかい?」
  南 「ああ」

 少年の南という名は本名ではない。少年がいつも「俺は南へ行きたい」と言っていることから付いた渾名なのである。
 そう言えば「どこでもいい、どこでもいい、この世界の果てならば」と詩った詩人はボードレールだったか。どうしても思い出せない。

 村上龍の「希望の国のエクソダス」は2000年に発表された。子どもの世界もインターネットやメールでつながる時代である。ある日突然8人ならぬ80万人の中学生たちが不登校におよぶ。中学生による独立国の建国…。国会に召還されたリーダーの中学生の少年が言う。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。ただ希望だけがない」
「…はっきりしているのは、今のこの国と同じで、養鶏場には希望だけがないということです」

 安倍晋三は「芽むしり仔撃ち」と「希望の国のエクソダス」を必読すべきである。教育基本法を改正して、愛国アイデンティティを叩き込んでも、この国の子どもたちに希望は見えてこないだろう。