芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

技術の国?

2016年04月30日 | コラム

 だいぶ以前、よくセミナー、講演会なるものの企画やブッキング、実施の仕事を請け負っていた。広告代理店もクライアントも、よくTVで顔を見かける著名人のブッキングを好んだ。私の個人的意見、あるいは内心では下らないと思っている先生方がよく決まった。十人くらい実名を挙げたいが…やはり差し障りがあるので止めておく。
 ただ話の行きがかり上、申し訳ないがお二人の名前を挙げさせていただく。長谷川慶太郎先生、三原敦雄先生である。その講演の 内容は「カネカネトーシ、カネカネトーシ…」と蝉の鳴声に似ていた。
 三原先生は何度もお世話になり、個人的にはその気さくなお人柄が好きである。 しかし私の中 に「おかしい」という強い違和感があった。一年二年経ち、やがてバブルが弾けた。当然である。特に長谷川慶太郎先生は、軽薄にバブルを煽った戦犯の一人である。

 アメリカの「製造」業がその拠点を人件費の安い海外に続々と移転した。象徴的な例はナイキである。本国ではデザインとマネジメントをするだけなのである。 こうしてアメリカの製造業は空洞化した。チマチマとした物作りの利益などたかが知れている。日本は自国の販売価格より安い価格で輸出してくる。いわゆる内外価格差である。日本を急追する韓国、台湾は安い人件費という競争力で輸出攻勢をかけてくる。さらにマレーシア、タイや中国などが続く。
 それらとの競争は愚かである。製造は彼等に任せる。アメリカの製造はジャマイカやハイチ、インドネシア、フィリピン等の最貧国に作らせればよい。それより世界の金融を牛耳るのだ。こうしてアメリカは製造業から金融とサービスにシフトしたのである。これがアメ リカの戦略だった。金融と言っても、金を貸しチマチマと金利を稼ぐのではたかが知れている。新しい金融商品はデリバティブである。そして美味しいのは投機である。「金融工学」ともてはやされるギャンブルである。ワンクリックで数十万ドル、時に数億ドルの利益が可能なのだ。…これはおかしい。こういう経済システムそのものが、狂っているのだ。

 日本のバブルが弾ける前の話である。ある著名な経済評論家や東大の経済学の教授が、TVなどで明るい持論を展開していた。日本は技術立国である、 その高い技術を海外に売るというのである。よく聞けば、その高い技術の「製品」を海外に売るという話ではない。彼等の言う「技術」を売るというのは「技術移転」をいうのである。簡単に言えば製造 システムを売り、さらに技術料、技術指導料、技術コンサル料を稼ぐのである。私は強い違和感を覚えた。海外の優れた技術はどんどん導入すべきである。しかし海外より優れた日本の技術は移転してはならないと思うのだ。 技術が日本の競争力なら絶対「技術移転」してはならないのだ。

 さて、アメリカを追うように、日本も人件費の安い国々に生産拠点を移しはじめた。技術移転、生産拠点移転である。これらの企業は日本の雇用に何ら役立っていない。こうして製造業の空洞化が進んだ。
 さらに日本もアメリカの模倣をしてこれからは「金融サービス」だと後を追った。しかしたちまちアメリカ主導のBIS規制の罠にかけられ、日本の銀行は苦境に追い込まれていった。そのため貸し渋りに拍車がかかり、景気の浮揚が図れなかった。
 また日本の金融機関は「金融工学」…このババ抜きのようなデリバティブ、投機に弱かった。さらにアメリカ型の金融投機は世界各国に金融危機を拡散し、つい にリーマンショックを引き起こした。当然の帰結である。この強欲金融資本主義は、懲りることなく再びショックを起こすことだろう。

 昨年タイで洪水が起こり、これが長引いた。すると日本の有名企業の製品が日本に入ってこなくなった。ある日本の半導体メーカーだったと思うが、洪水で生産が停まったため、日本国内で代替生産することにした。ところが日本国内には若い派遣労働者しかおらず、彼等はほとんど技術がない。そのためタイ人従業 員(熟練 工)を日本に呼び寄せ、日本人の派遣労働者の技術指導に当たらせたのである。かつてタイ人を指導した熟練工はもはや日本には存在していないのだ。これは象徴的なことである。これが日本の技術の現実なのだ。…何が日本は技術立国だ、何が物づくりの国だというのだ。これが製造業、物づくり、技術の空洞化である。

 売国奴的小泉やアメリカの手先竹中屁蔵らによって規制緩和が唱えられ、社会はこれまでの知恵を愚弄され、コストカットの名目で社会のセーフティネットを破壊された。国際競争力の名分の元に賃金が抑えられ、いつでも気兼ねなく解雇できる雇用に関する規制緩和が、大量の派遣労働者を生み、大量の貧困を生んだ。
 いい気になって海外に技術移転し、さらに生産拠点を海外に移し、日本の雇用には全く寄与せず、移転先の国に技術を盗まれ、キャッチアップされる。 技術の高さが比較優位だった日本が、人件費の安さが国際競争力だったこれらの国に技術で並ばれ、さらにその技術の継承もなく、その技術で超された。
…こんな売国奴的財界がまた亡国のTPP(※)をごり押しし、原発ゼロなら電気代が上がるから海外に生産拠点を移さざるを得ないと政府を恫喝する。
 ふん、生産拠点を中国などに移しているから、焼き討ちにも遭うのだ。…そうしたら工場の門扉や店舗の入り口に中国国旗を掲げていた。そうかもはや日本企業ではないのか。こんな企業、日本でも不買運動をすべきである。
 (※)ちなみにTPPは途中からアメリカが乗っ取って主導権を握った。アメリカは再び日本を罠にはめるだろう。

 今年の春頃だったと思うが、NHKの「おはよう日本」が珍しく企業名を出して特集を伝えた。ビジネスジェット機をつくるホンダエアロインク(ホンダエアクラフトカンパニー)である。ホンダ全額出資の子会社であるという。自動車で研鑽した技術が活かされ、広い客席を実現(主翼上面にエンジンを配置) し、受注も順調だという。社長は日本人の四十代の技術者である。日本の優れた物づくりの技術が、高らかに報告されていた。
 しかしよく聞いていると、本社も工場もノースカロライナ州である。社長一人が日本人で、従業員はほとんどアメリカ人であるという。日本資本に違いないが、これはアメリカの会社であって日本企業とは言いかねる。日本の雇用には何の貢献もしてい ないのだ。これで日本(人)にこの技術の集積や継承が可能なのだろうか。工場で直接製造に携わっている日本人は誰もいないのだ。


          (この一文は2012年7月22日に書いたものである。)

競馬エッセイ セダンの話から

2016年04月29日 | 競馬エッセイ

 セダンの話である。と言っても自動車の話ではない。むかしセダンという種牡馬がいた。1955年のフランス生まれで、イタリアで走った。伊ダービー、イタリア大賞、ミラノ大賞、共和国大統領賞、ジョッキークラブ大賞等を勝ちまくり、20戦13勝を挙げた名馬である。
 ちなみに車のセダンも、もともとラテン語が語源で、イタリアの人が乗る駕籠から来た名詞らしい。
 さて、セダンは1000~3000メートルの距離をこなし、スピードとスタミナを兼ね備えた万能系の競走馬で、フェデリコ・テシオが目指した理想の馬のようにも思える。引退後はイタリアで種牡馬となり、リーディングサイヤーにも輝いた。1964年、そのセダンが日本に来た。
 セダンの父プリンスビオはフランス産で、11戦6勝。仏2000ギニーを勝った名馬で、フランスのリーディングサイヤーにもなった。プリンスビオの父はイギリス産のプリンスローズで、ベルギーで走り20戦16勝を挙げたベルギー最強馬だった。この馬は1944年、第二次世界大戦のノルマンジー上陸作戦の戦火に巻き込まれて、焼死した。
 戦後プリンスローズ産駒はフランスとベルギーでリーディングサイヤーとなって、その血脈を繋ぎ、プリンスキロ、プリンスビオ、プリンスシェバリエとそれぞれの系統を拡げた。父系はセントサイモン系だが、この系統の牡馬はプリンスローズ系と呼ばれる。私のイメージでは、プリンスローズ系は大レースに強い底力血統なのである。
 
 セダンの日本での初産駒は1966年生まれである。ハクエイホーが69年の4歳(現馬齢3歳)クラシック戦線に名乗りを上げ、ダービー3着と好走した。その後、日本短波賞、クモハタ記念を勝った。マツセダンは4歳秋から充実し、七夕賞、福島大賞典を勝ち、古馬となってアルゼンチンJCCを勝った。
 1967年生まれのトキノシンオーも4歳夏から力をつけ、古馬となって新潟記念、毎日王冠を制した。
 1968年生まれのヤシマライデンはデビューから伊藤正徳騎手が騎乗し、71年の4歳クラシック戦線で有力視された。京成杯、東京4歳Sを勝ったが、1番人気に推された皐月賞は6着に敗れた。ダービーは野平祐二騎手で臨み、3番人気に推されたが13着に惨敗してしまった。勝ったのは後方一気のサラ系ヒカルイマイである。
 同じ1968年生まれのトーヨーアサヒはじっくりと成長し続け、4歳秋に京王杯AHを制し、古馬となってからもダイヤモンドS、日本経済賞、ステイヤーズS、アルゼンチンJCCを制した。小柄な馬格で、精確なラップを刻んで逃げ続け、走る精密機械、逃げる精密機械と呼ばれた。
 1971年生まれのアイテイシローは京都牝馬特別を勝ったが、オークスは4着だった。同年生まれの牡馬コーネルランサーは、74年の皐月賞を2着と好走し、ダービーを制覇した。しかしレースで脚を痛め、復活することなく、種牡馬となったが、何故か人気がなく、ほどなく韓国に寄贈された。
 アイフルも1971年生まれだが、クラシック戦線には縁が無く、2着、3着と好走するもなかなか勝ち上がれなかった。しかし怪我も無くタフで従順な馬に見えた。この馬はゆっくりと、ゆっくりと成長し続けていたのであろう。やがて5歳(現馬齢4歳)秋あたりから勝ち始め、正月の金杯で初重賞勝ち、秋には天皇賞も制した。まさに大器晩成の典型である。43戦12勝を挙げ天皇賞を含む5つの重賞を勝った。
 1974年生まれのプリティアカツキは、新馬戦勝ちのわずか1勝馬ながらオークスに挑み、これは15着と大敗した。しかし秋のクイーンSを優勝した。
 1975年生まれのスリージャイアンツは、半兄が天皇賞、宝塚記念、高松宮杯を勝ったフジノパーシアという血統もあって、デビュー時から期待されていたが、なかなか勝ち上がることができなかった。また兄のように晩成型の血が開花せず、賢兄愚弟とまで言われ、このまま条件馬で終わるのではないかと思われていた。しかしやがて3200メートルのダイヤモンドSを勝ち、ついに天皇賞・秋(3200)を制覇した。彼はやはり典型的な晩成型のステイヤーだったのである。

 セダン産駒の特徴は、比較的に素直で御しやすい馬が多かったのではなかろうか。細身で小柄な馬格の馬が多かったが、これはステイヤーの特徴だろう。素軽く、そのためか重馬場が苦手だった。持続する成長力があり、本質的には晩成型のステイヤーながら小気味よいスピードも持ち合わせ、短距離のレースや3歳(現馬齢2歳)から活躍する馬が多かった。また無事之名馬と呼べるような健康なタフさもあり、ダートもこなした。
 産駒に屑馬は少なく、みなある程度は活躍した。重賞勝ちした馬たちを列挙すれば、種牡馬としては成功であり、一流であろう。
 ちなみにトウフクセダン(1973生まれ)は「走る労働者」と呼ばれ、56戦7勝と重賞戦線でタフに活躍し続けた。実はこの馬、セダン産駒ではない。父がネヴァービート、母の父がセダンであった。宮田仁騎手にとってトウフクセダンはまさに「この人この一頭」であったろう。彼等は東京新聞杯、オールカマー、ダイヤモンドSを勝っている。この馬もネヴァービートよりもセダンの特徴が色濃かった。セダンはブルードメアサイアーとしても、なかなか優秀だったのである。
 しかしプリンスローズ系の名馬セダンの血は、日本で途絶えた。当時の日本の馬産界は舶来モノならありがたがり、特に流行の血がもてはやされ、内国産種牡馬を蔑ろにする風潮が強かった(今でもその傾向はあるが)。
 そのためコーネルランサーもアイフルも種牡馬となったが、ほとんど蔑ろにされ、ろくな機会も与えられず、名馬セダンの血は日本で途絶えたのである。一流血統馬や名馬を日本に輸出し、活躍馬が出てもそこから後が続かず、その血はほとんど途絶えるのである。だから、日本は欧米の競馬界から「血統の墓場」と言われたのだ。
 これはセダンに限ったことではなく、その後継は三代、四代と続かないのである。ネヴァーセイダイ系もネヴァービートの成功で数多くの種牡馬が日本に来たが、その父系は全く残っていない。マイバブー系のパーソロンの大成功で大挙輸入されたが、その父系もほとんど残っていない。プリンスリーギフト系の父系も全く残っていない。レッドゴッドの系統は今も欧米でブラッシンググルーム(赤面する花嫁)系として、ナシュワン、レインボークエスト等、多くの活躍馬が輩出され繁栄しているが、レッドゴッド産駒で類い希なスピードを持ったイエローゴッドの血は、日本で途絶えたのである。
 レインボークエスト産駒のサクラローレルは、後継種牡馬に恵まれていない。日本はナシュワンの晩年の産駒パゴを輸入したが、おそらくバゴの血も日本で途絶えるだろう。パゴの代表産駒の菊花賞馬ビッグウィークは種牡馬になれなかった。
 サンデーサイレンスの登場以降、その優れた産駒たちが後継種牡馬としても数多くの活躍馬を出し、種牡馬の舶来信仰は薄れたかに見える。しかしそれはサンデーサイレンス系に限ったことで、トニービンもブライアンズタイムの後継も、今や風前の灯火のように思われる。サンデーサイレンス系も、これから果たして四代、五代と続くだろうか。
 舶来信仰はおそらく「日本的」特質なのだろう。馬に限らず、「外国人騎手は上手い」という信仰が続き、その信仰はむしろ強固になりつつある。何勝しようが、ラフプレーの多い香港の騎手などもてはやすべきではないのに。

柄谷行人さんの言葉

2016年04月28日 | 言葉
                                                             

デモをすることによって、社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモする社会に変わるからです。


1バーセントの富裕層に対する99%の人たちのデモが世界中で広がる。「反新自由主義、反市場原理主義、反グローバリズム、反現行経済システム」のデモ。

伊丹万作が見た日本人

2016年04月27日 | 言葉
                                                            


 だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない…。…だまされたものの罪は、…あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしに封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

                                                                  

光陰、馬のごとし オルフェーヴルの血統

2016年04月26日 | 競馬エッセイ

 三歳クラシックレースの三冠最後のレース菊花賞、距離は淀の三千メートル。すでに皐月賞とダービーの二冠を制したオルフェーヴルが最後の一冠へ挑戦する。過去第71回の菊花賞を勝利して、三冠を達成したのは6頭のみである。
 スタート直後から彼は前に行きたがり、口を割り、頭を上下させた。危ない、これはまずいことである。池添謙一騎手がどうなだめたか、レースの中盤に入ってようやく落ち着いた。4コーナーを向いてからが強かった。圧勝と言ってよい。ナリタブライアン(異論もあろうがJRA史上最強馬。…私に言わせれば少なくとも最強の三冠馬)のような勝ち方であった。
 入線後オルフェーヴルはうまく止まることができず、外ラチにぶつかりそうになって、池添騎手を振り落とした。池添はラチに胸か脇腹をしたたかに強打した。しばし絶息していたのだろう。柵にもたれるようにして屈み込む池添の元に近寄ったオルフェー ヴルは「おい大丈夫か。悪りィ悪りィ」と声を掛けたようである。「大丈夫、大丈夫だよ」と池添がオルフェーヴルの首を軽く叩き、彼の勝利を称えた。
 オルフェーヴルがレース後に勢い余って外ラチにぶつかりそうになったのは、これで二度目である。最初はデビュー戦だった。この時は、転がり落ちた池添を放ったまま、オルフェーヴルは好き勝手に走り続けた。池添も調教師や厩務員も、そんなオルフェーヴルを「やんちゃ」と言った。
 こうして日本競馬史上に7頭目となる三冠馬が誕生した。三冠馬は傑出した一頭を除いて全体のレベルが低い年に誕生する。例えばミスターシービーやシンボリルドルフの年である。ディープインパクトの世代も、彼のみが天才的に突出し、他はそれほどレベルが高かったとは言い難い。ディープは前年生まれの無冠馬ハーツクライに有馬記念で敗れた。ディープの前年は三冠全て勝ち馬が替わった。
 レベルが極めて高い年は皐月賞、ダービー、菊花賞の勝ち馬が全て異なることが多い。しかも彼等はその後、世代の異なる先輩馬や後輩馬を撃破して安田記念、宝塚記念、ジャパンカップ、天皇賞、有馬記念などを勝ちまくるのだ。古くはランドプリンス、ロングエース、イシノヒカル、タイテイム、ストロングエイト、ハマノパレード、ハクホオショウ、ナオキ、タニノチカラの年(なんと凄い世代だったのだろう。最後方から飛んできたイシノヒカルや、大江健三郎の小説の題名のように「遅れてきた青年」タニノチカラは強く、首を低く下げたランニングフォームは美しかった。ちなみに名騎手、名伯楽の野平祐二は、かつてタニノチカラを史上最強馬と評した。)や、トウショウボーイ、クライムカイザー、グリーングラス、テンポイント等がそういった世代だった。
 もっとも、全体的にレベルの低い年も、ドングリの背比べで、三冠レース全ての勝ち馬が異なることが多いのだが。

 さて三冠馬オルフェーヴルである。その血統表を眺めると、実に感慨深い。父も、母も母の父も、またその父も全て内国産馬なのだ。日本は血統の墓場…長く続いた内国産種牡馬の冬の時代を思えば、まさに隔世の感がある。
 父はステイゴールドである。その父は日本のサラブレッド生産史上、最も優れた種牡馬と断言できるサンデーサイレンスである。サンデーサイレンスが日本にやってきたことは、競馬界にとってまさに僥倖と言えた。競走成績も血統も超一流に限りなく近く、本来なら決して日本に入らなかったはずである。これは稀代のホースマン吉田善哉が、子息たちをアメリカの馬産地や競馬界に修業に出し、人脈づくりをさせていたことが結実したものである。
 日本の馬産界には、ノーザンダンサー系の優良な繁殖牝馬が溢れていた。同時代にブライアンズタイム、トニービンという、血統も競走成績も一流に少し届かなかったゆえに日本に来た馬たちも、実は凄い種牡馬だった。彼等はこれらの牝馬と高い和合性があったのだ。これらが相俟って、サンデーとブライアンズタイムとトニービンは日本の競走馬の質を一挙に世界レベルに引き揚げ、競馬界に革命を起こしたのである。特にサンデーは、世界的にも屈指の名種牡馬だったのだ。
 オルフェーヴルの父ステイゴールドは、綺羅星のごとく居並ぶサンデー産駒の中では、その成績は決して一流ではなかった。ステイゴールドは母の血統が魅力的だった。母ゴールデンサッシュは未勝利馬ながら、あの瞬発力の塊のようなサッカーボーイの全妹なのである。サッカーボーイ自身は本質的にはマイラーであったにもかかわらず、種牡馬となるやスタミナ溢れるステイヤーを何頭も送り出した。

 ステイゴールドの一口馬主に、作家で血統研究家の山野浩一がいた。彼もこのサッカーボーイの全妹の血に強く惹かれたものと思われる。私は山野の種牡馬解説が大好きだ。かつて、テインキングという種牡馬について「スピードのない短距離馬」と評したものである。私は声を立てて笑ってしまった。たしかにスピードのない短距離馬が勝ち上がることは難しい。同じく、スタミナのない長距離馬も。
 ステイゴールドは大型馬が増えた昨今の男馬にしては小柄で、大レースではいつも二、三着に善戦するも勝ちきれないのである。一流には少しばかり届かなかったのだ。このようにいつも二、三着に善戦する馬は不思議と人気が出る(かつてメジロファントムというのがいた)。ステイゴールドはGⅠレースを勝ち上がるには何かが欠けていたのだ。それはおそらく「底力」である。山野浩一の定義によれば、「底力」とは「ゴール前で全能力を出し切って、もうこれ以上は無理だというところから、さらに絞り出される力」のことだという。今世界で超一流の典型的底力血統はといえば、おそらくサドラーズウェルズだろう(日本には産駒のオペラハウスが輸入され、テイエムオペラオーやメイショウサムソンを輩出した)。
 ステイゴールドは彼の競走生活最後のレースに香港の国際GⅠレースを選択した。彼はそこで、劇的に「勝ってしまった」のである。山野はその時の凄まじい末脚を、「まるで映画のフィルムのコマが飛んだようだった」と評した。ステイゴールドは最後に一流馬の仲間入りを果たしたのだ。サンデーか、サッカーボーイの父ディクタスか、母系に流れるノーザンテーストが伝える底力は持っていたのである。(そう言えばいつだったか、ステイゴールドも4コーナーが曲がれずに外ラチに向かって逸走し、熊沢騎手を振り落としたことがあった。父と子は欠点も似ているのだ。)

 オルフェーヴルの母はオリエンタルアートといって、3勝馬に過ぎない。その父はメジロマックィーンで、その父系はメジロティターン、メジロアサマと遡る。アサマの父はイギリスのミドルパークステークスを勝ったパーソロンで、マイラーであった。しかしアサマは天皇賞を勝ち、母系によってステイヤーになることを証明した(パーソロン産駒ではシンボリルドルフもステイヤー型である)。
 メジロアサマは種牡馬初年度27頭に種付けされたが、全て不受胎であった。おそらく現役時の流感騒動の際に処方された薬の影響があったのだろう。彼は種牡馬失格の烙印を押され、その後はオーナーのメジロ牧場の繁殖牝馬数頭にのみ種付けを続けた。なんとか年に一、二頭の産駒を送り出したが、その中からメジロエスパーダが出た。エスパーダは異次元の能力を持った馬である。このスーパーカーは出れば大差のぶっちぎり勝ちをするのだ。しかし自らが繰り出す異常なスピードに、彼自身の脚が耐え得なかったのである。出走後は脚部不安を発症し、一年もしくは二年近い休養を余儀なくされた。それほどのブランクがあれば復帰初戦は勝てない。生涯7戦4勝。
 次にメジロティターンが生まれた。彼は能力が高そうで、どこかひ弱に見えた。しかし天皇賞を勝った。ティターンはアサマに替わって種牡馬となった。そしてティターン産駒からメジロマックィーンが出た。晩成型でスタミナと底力に溢れ、菊花賞と天皇賞を勝った。マックィーンの半兄は、いまだ評価の低いままのメジロデュレンである。デュレンはリボーやシカンブルの底力と狂気の血が入ったフィディオン(長距離・晩成血統)産駒で、レース振りは先行型、典型的なジリ脚で、しかし決してバテないスタミナを持ち、他馬がバテる中、最後は勝ち残るステイヤーであった。こうして全くの人気薄で菊花賞と有馬記念を勝った。「まぐれ」で菊花賞と有馬記念は勝てない。底力がなければ勝てないのだ。何しろデュレン、マックィーンの母メジロオーロラは底力のあるアルサイド系リマンドで、ヒンドスタン(シンザンの父)の血も入った極めつけの重厚な血統なのである。メジロマックィーンは種牡馬として活躍馬を出せなかった。素軽い血統が全盛の今日、お呼びではなかったのだ。しかし母の父としては、素晴らしい底力と重厚さを伝えていることを証明した。(※)
 ステイゴールドとオリエンタルアートは、オルフェーヴルの前に宝塚記念と有馬記念 を勝ったドリームジャーニーを出した。この全兄弟をはじめ、ステイゴールドとオリ エンタルアートは、今後も凄い一族を形成するにちがいない。

          (この一文は2011年10月25日に書かれたものです。)

(※)翌年、芦毛のゴールドシップが皐月賞、菊花賞、有馬記念を勝ち、さらに古馬になってから宝塚記念も勝った。父はステイゴールド、母の父はメジロマックィーンで、オルフェーヴルと同じ配合である。彼の毛色はメジロマックィーン譲りのものだろう。