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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

ブログを始めたときのこと。

2015年10月08日 | 日常
なんか、このブログは、
10年前のきょうに始めたらしいんですが。ですので、
どんな感じでブログ始めたかを思い出していたのよ。

それはさ。当時通っていた専門学校の先生(土井先生)が、
「さいきんブログというものが流行ってるらしいけど
 ひでしくんもやってみたら??」とおっしゃって、
なるほど!! て思ったから、なんだけども。

それもね、先生は、
ぼくと同じく大学を卒業してから専門学校へ入学しました
同じクラスの「ともひろ」くんといっしょに、
『ともひろ&ひでしのデザイン学校日記』みたいなのを
やってみたら?? というごていあんに、
なるほど‥‥ とは思ったけれどそれはまぁやらずに。
とくには「ともひろ」くんに訊ねてみることもせずに。。

それからブログのタイトルは、なんとなく、
じぶんのへやのたまたま戸が開いていた押入れを眺めてたら
おもいついたのでそれでブログ登録いたしまして。
いまに、至る、んだけど。。。
もしも土井先生よりそういうふうに言ってもらわなければ
たぶんこのブログはやってなかったとおもいますので、
先生に感謝をもうしあげます。

そしてここへ来てくれるかたにも感謝!!
どーも、ありがとう、どーぞ、おげんきに。。

2015年10月8日 寒露

実物を見る!

2015年10月05日 | 日常
さくじつはとある用事で母親と名古屋へ行って参りまして。
そしていまちょうどJR名古屋タカシマヤで開催中の
「〈気仙沼ニッティング〉期間限定ショップ」へと、
行ってきたよ~!!

すてきでした。。。

ぜんぶで4種類の「編み物」が展示されておりまして。
眺めたり、手で触れてみたり、
すこし持ちながら重さ(軽かったー♪)を感じたり、
また店員さんのご説明を伺ったりで、すてきでした!!
なんて言うんでしょう。どれもすてきだったですが、
とくにはセーターの赤の色みが輝いて見えましたー。

そんで。そのさくじつの用事のばしょはねぇ、
栄の方面だったんですが。

さいきん母はあたらしいお財布を探しているみたいで、
ちょっと見てみたいと言うので松坂屋もおとずれ、
見ておりましたら「ほぼ日手帳」でもおなじみの
HENRY CUIR[アンリークイール]」のお店をふと
見かけまして。(←本年3月OPENだったとのことです。)
お財布や手帳カバーやを見たり触れたり、また、
店員さんのご説明をうかがったり。
横で聞いてればなんだかじぶんもわくわくしてきちゃって…

ネットの画面でなくじっさいに実物を見るコトって、
なにげにすごい経験なのかもなぁと改めて想いながら。。

「気仙沼ニッティング」さんの「編み物」も、
「アンリークイール」さんの「革製品」も、
どちらもとっても高価なもので今すぐとかはなかなか
購入できないんですが、【いつの日か】と決意したっ!!

2015年10月5日

うまくできないときに

2015年10月01日 | 日常
じぶんのコトをふりかえっておもえばさ、ぼくってのは、
なにかが「うまくできないとき」に
不機嫌に成ってしまうところがあるんではないか?
ておもったのね。
じぶんの「できなさかげん」にイヤになる、と申しますか。
「できない」からと言って他人にやつあたりを
してしまうことさえあったり。。。

そーいうじぶんってよくないわ、っておもいまして。

いや、むしろ「うまくできないとき」にはさー、
そーやって不機嫌になればなるほど
さらにもっと「うまくできなくなる」んではないか??
アイディアとかがおもいつけなくなるんではないか?!
そのようにおもいまして。

これは、たぶん、なのですが。
たとえば、なにかとてもむつかしいコトに
日々、挑戦しておられるようなかたを想像いたしますと。
そのかたは「うまくできない」の状態が、
もうまいにちのように続いているんではないか、って。。
それが「日常」だとすれば「うまくできない」ときにでも、
不機嫌にならずに、機嫌よくいられることも
できるのかもしれない。って。

それをね、『ドラゴンボール』で喩えて言えば、
「精神と時の部屋」から出てきた悟空と悟飯が、
いつもにこにこ顔でスーパーサイヤ人。みたいな。。
知らないかたにとってはわからない喩えでごめんなさい!

2015年10月1日 @ CHA-LA HEAD-CHA-LA

最強のホームラン!!

2015年09月20日 | 日常
「さぁ行こうか 常識という壁を越え
 描くイメージはホームランボールの放物線
 そのまま消えちゃうかもな
 いいさ どの道いつか骨になっちまう」


      未完 / Mr.Children





「ホームラン」の放物線をね、
あたまのなかでおもいだしているんだけれど。
そんな放物線の軌道にも、飛距離やスピードや届く場所やと
いろいろあるわぁ! とおもいきや、
「ホームラン」だってたくさん種類があるわー!!

まずは、
「ソロホームラン」から始まって。
「ツーラン・スリーラン・満塁」の「ホームラン」もあれば
「同点ホームラン」に「逆転ホームラン」と
「先頭打者ホームラン」とか「サヨナラホームラン」とか。
「二打席連続ホームラン」や「二者連続ホームラン」はさ、
げんざいの最高記録では「何打席&何者」連続で
「ホームラン」がでたのだろう??

「場外ホームラン」は驚愕だし。
「代打ホームラン」は劇的だし。
「ランニングホームラン」は放物線とはあんま関係ない。。

昔のファミコンのゲームですと、
「バント」でする
「バントホームラン」てのがあったし。。。

あとは、インターネットで調べてみますとね、
同じチームの2人の選手がそろって打つ
「アベックホームラン」、
1人の選手が1試合で「ソロ&2ラン&3ラン&満塁」を打つ
「サイクルホームラン」、というのもあるらしい。

ポーカーの「ロイヤルストレートフラッシュ」みたいにさ、
最強の「ホームラン」はなにかやぁ?
とおもったら、いろいろ組み合わせちゃっての
「代打逆転サヨナラ満塁ホームラン」かとおもったけれど。
「代打」「逆転」「サヨナラ」「満塁」のことばの順列って
計算するとぜんぶで(4×3×2×1=)24種類ございますが、
どの順列がいちばん正解っぽい~???

ま、なんにしろ、
「ホームラン」の放物線を
あたまのなかでおもい描きながら過ごしたいーっ!!

2015年9月20日 @ CHILDREN'S WORLD

神様の声

2015年09月18日 | 日常
「お客様は神様です。」と言うからと言っても、
お客様であるそのひとはお店の店員さんに対して
なにを言ってもよい!!
ていうわけでもないような気がしたのよね。

たぶんさ、
「お客様は神様です。」って言うんだったならば、
じゃあわたしは「神様」のように言います・行動します。
のような意だとはぞんじますが。
よく考えてみるとさ、たとえば神社を訪れたとき、
「神様」が実際に行動されているのを見たことがないし、
「神様」の声を直接聞いたこともない。
ましてや【おれは「神様」だぞ!】とおっしゃりながら、
「神様」から、いきなり大声で怒鳴られたりとか
とつぜん電話が掛かってきてクレームを言われたりとか、
ってのは、ぼくにはないから。。。

「神様」のように行動をする、なんて、
どういうふるまいが「神様」のふるまいなのか、
見たことがないからわからないっておもうんだよね。

「神様」の存在とは、
これはぼくの稚拙な宗教観の元での考えではございますが、
ご本人の「思いのままに」行動なされるのでなく
もっと奥ゆかしさがある。かと申しますか、、、
たとえ「神様」がぼくにご用件が【ある】と致しましても、
そのお声は、とても小さかったり、
また、文字や言葉になっておられなかったりするので、
じっと耳をそばだてながら感じることをしなければ、
ご用件を受け取ることもできない。

「お客様」が「神様」であるかどうかは、
ぼくにはよくわからないのでなんとも言えないけれど。
「神様」の声とは、声にならない声。
であるのだと、なんか、
昨晩の大雨とカミナリを聞きながらおもいました。

2015年9月18日 @ 大利根無情

2-C南條の「スピーチ」のこと。

2015年09月16日 | 日常
武富健治さんのマンガ『鈴木先生』での
「生徒会選挙」というおはなしより、
2-C南條がしたスピーチ(9巻)のことを思い出しまして。

『鈴木先生』は中学校が舞台なのですが。
「生徒会選挙」のおはなしでは生徒会に立候補した
生徒たちが体育館の壇上でスピーチを行って。
それも、それぞれ生徒たちの想いが複雑に絡み合いながら、
マンガのストーリーが進んでゆく。

そのなかでもね、ぼくは、
南條という生徒のスピーチが印象に残っていて。
と、そのスピーチというよりもさ、
南條のスピーチを聞いたみんなの反応、と申しますか。
なんて言うんだろう。そのスピーチとは、
ここではうまく説明できないのだけれども、
言うなれば「失言」のようなもので。
それを聞いたみんなの反応はブーイングの嵐。。。

でも、スピーチをしっかり聞いていた生徒たちは、
失言にも見えるそのスピーチの真の意図を汲み取ろうとし、
ブーイングの嵐のなかでも、
すこしずつ賛同の拍手が贈られる‥‥

うーんと。なんか、うまくは言えないんですが。
ある話を聞いてさ、その話を、
簡単に否定しちゃってはいけない話。というのがあって。
一度その話を否定してしまえばもうこれから先ずっと
「それ的」な話をぜんぶ否定して行くことになり、
今後一切「それ的」な情報が入って来なくなることとなる。

そーいうような、あの、なんて申しますか、
人生における「ボタンの掛け違え」が起きてしまうような
「話」がある。とおもって。
真剣な想いで否定するのは尊いとはぞんじますが、
例えば「尊敬できないから」みたいなバイアスの元で、
それほど話を聞かずにすぐさま否定しまうのは、
否定する本人のこれから先の人生が閉じてしまうことにも
成りかねない。

いや。たぶんぼく自身がかつて、
そのように否定してしまったお話というのがあって。
そこで起こしてしまった「ボタンの掛け違え」を、
なんとか戻したいと思っているのかもしれないわ~。

って、すみません、今回のエントリは完全に
抽象的な内容になってしまった。なんか、
頭の中がぼわぼわしていていうまくことばにならねぇ。。。

2015年9月16日 @ New Animal

改めて「流域思考」を。。。

2015年09月12日 | 日常
昨日は、以前「ほぼ日」に掲載されました、
岸由二さんのおはなし
小網代は、流域思考で自然をまもり、地球の危機も考える
をまた読み返しておりました。

そのおはなしのこと、
おおまかにまとめながらブログを申しあげます。

水害とは、「◯◯市」や「◯◯区」のような、
地名という枠組みで起こっているわけではなく、
「流域」の中で起きている。と、岸さんはおっしゃって。
「流域」とは、
「雨が降って、その水が集まってくる、大地の窪地」つまり、
「川のいちばん上流の山のてっぺんから、
 下流の地域まですべてが『流域』」とのことで。

たとえ、下流の地域ではそれほど雨が降っていなくとも、
川の上流で豪雨が降っていたのだとすれば
その豪雨の水は、川の「流域」を流れ、
やがては下流にまで到達してしまう。
なので、水害を考えるときには、
「市」や「区」という枠組みではなくって、
それぞれの川の「流域」をひとつの枠組み・単位として
考えることが大事なのだと、岸さんはおはなしなされます。

(すべての場所が、どこかの川の「流域」なのだ、と。)

‥‥とは申しましても、ぼくはこの、
岸由二さんによる「流域」のおはなしのこと。
このたびのニュースを拝見して思い出したわけでは
ありませんくて。じつは糸井重里さんのあるツイートをみて
はっと思い返しまして。。。
つまり、知っていたはずなのに、もう忘れてた。
という、なんにも学べてないじぶんを発見してしまい、
それは、あの、なんて申しましょうか、
どうすれば本当の学びができるようになるだろう???

そして。
このたび、被災にあわれました方々の
お見舞いとご無事をお祈り申しあげます。

2015年9月12日 @ RIVER

なにが、空を舞う?!

2015年09月10日 | 日常
そーいえば、前回エントリのさいしょで
じぶんが出した問いにはまだ答えていなかった。それは、
なぜ思想の比喩として「翼」が選ばれたのか?!
のコトなんですけれど。えーと、さっぱりわかりません…

たぶん、昔。どなたかの方が名づけられたのでしょう。
もしも、外国人の方が名づけたのならば、
どなたかの方が日本語に翻訳なさったのでしょう。。。

「翼」っていうコトは「飛行機」であるのだから、
そこからいろいろイメージすることはできて。
たとえば「両翼」である【主翼】以外にも、【補助翼】や
【尾翼】はどのような役割りなのか?? とか、
「翼」だけでなくって機体全体で考えてみると
【機内】や【構造】や【エンジン】や【コックピット】など
のところまでおもいはひろがって。

「右の『翼』・左の『翼』」だけじゃなく、
「飛行機」のぜんぶでバランスを取り合っている???

そして、じぶんは、
【尾翼】のコトがとくに気になりましたので。
Twitter検索してみればたくさんのかたが呟いておられて。
そのなかでは、
武術家・甲野善紀さんが「私は垂直尾翼ですので」と、
ツイートしておられるのを見つけ、さらに気になり。。

また、内田樹さん×鈴木邦男さん共著
『概世の遠吠え 強い国になりたい症候群』
を先日読了いたしまして。その、おふたりの対話に、
少々大袈裟かのように申し上げますと衝撃をうけ、、、

あとは、なんでしょう。思想とは違うとはぞんじますが、
「飛行機」つながりで。
岩田聡さんが以前おっしゃったことば
"いってしまえば、飛びながら飛行機を修理するみたいな"
をまた思い出したり‥‥

2015年9月10日 @ There is (always light) -alternative mix-

崖か段差か

2015年09月06日 | 日常
こどものころ、いぬの
ゴールデンレトリーバーを飼っていたんだけどね。
そのいぬが家へ初めて来たときのコトを思い出したの。
と申しますのも、実家のねっ、



玄関ポーチには、



これくらいの段差がございまして。

そして、いぬは、
うちへ来たばっかりでずっと家の中に居たので、
外に出してあげたいと思い初めて玄関まで連れてゆくと。
まだ小さかったいぬは、ポーチの、
その10センチくらいの段差の前でうろうろしてて。。。
つまり、段差を超えられなかったんだよね。

結局その日はそこまでで。でも後日、
また連れてゆこうとすれば次はもう楽々と飛び越え、
お庭で悠々あそんでた!

そんなうろうろのコトを思い出してたのだけども。
その10センチの段差が、
もしかしたらまだ赤んぼだったいぬからしてみれば、
断崖絶壁のように見えていたかもしれないな。
でもいぬは、それから家へ帰ってよく考えてみたら、
【あれは、超えられる!】と思いさらにイメトレを重ね
次の機会ではそのイメージどおりに、崖を、超えた!!

すんごい些細なコトではあるのですが、
その成長ってなかなかやるなー。って、
あらためてふりかえりながら感じましたっす~。

2015年9月6日 @ 100ミリちょっとの

幼児性の克服と、触ってみたい欲望。

2015年09月05日 | 日常
じぶんの幼児性とどう向き合えばよいのか?
みたいなことを考えてたんですが、
なかなかむつかしいわーっておもって。

じぶんの場合は、執着なんだわ。
以前あることに執着しておったのが現在では
直接そのことについては執着していないって思うんだけど。
でもね、「過去じぶんが執着してた。」という事態には、
今もまだ執着してるよーな気がする。

んー、説明がうまくねぇー。つまり言い換えますと、
「執着した」という事実がまだ
完全には頭から離れていない。って言うのかな???

えーと、なんて言えばよいんだろう、たとえば、
かつて持ってしまった愛欲や肉欲から来る憎悪、てのは
憎悪はもう無い、って言い切れそうな気はするけれど。
「かつて憎悪した」ときのじぶんの醜態がたまに
脳の内部に在るイメージのスクリーンにひどくもたげる。

生き霊が、現れる、みたいな、さ。

そうなってしまったなら、
その現れた生き霊と戦ったりしてもむりだから
(戦えばどんどん膨れて増殖し強大なモノへなってゆく…)
なんとかなだめることをこころみたいと、
頭のなかで感謝を願ったり謝ったり幸せを祈ったりする。

そうしたところで、
かつての現実が消えてじぶんがよきじぶんへと変化する
わけでは無いが、でも、それをしようとこころみる。

ものごとがさ、じぶんの思い通りに行かないとどうにも
イヤなきもちになっちゃう幼児性が、
「執着」を生み出すような気がしたんですけど。じぶんは、
じぶんのなかみを探ってみると、
いまだに幼児性を克服できてねぇー。
どーしたら克服できるか?! のことがらさえも、
わかってるようでぜんぜんわかっちゃいねぇぇぇーー。

って、えーっと‥‥

おっぱい!!!

2015年9月5日 @ 夜行列車と烏瓜 / AL『Philharmonic or die』より

「応援」と「嘲笑」の戦争。

2015年08月31日 | 日常
「応援」のような「声」と、
「嘲笑」のような「声」とでは、
その「声」はどちらがより強いのでしょうか。

たとえば、昨日(2015年8月30日)、
貴方はどこでどのような「声」をあげられたのでしょうか。
その「声」は、
「応援」のような「声」なのか、
「嘲笑」のような「声」なのか。

大好きなミュージシャンが演奏をする「ライブ」の中で。
かのアイドルの「卒業コンサート」で。
お気に入りの「お店」の店員さんに対して。
大会やお仕事での「仲間たち」のすぐとなりで。
美術館での「作品」の前で。
あるかたの「スピーチ」を聴いて。
ひいきにされている「スポーツ・チーム」へ向けて。
「学生」のかたがたへ。

その「声」は、
「応援」のような「声」なのか、
「嘲笑」のような「声」なのか。

「声」の向けられた対象はそれぞれ違っていたとしても、
「応援」には「応援」のパワーがあって、
「嘲笑」には「嘲笑」のパワーがあって。
「応援」と「嘲笑」ではどちらがより強いのでしょうか。
「応援」と「嘲笑」ではどちらがより優しいのでしょうか。

昨日、誰かが誰かへおこなった「応援」は、
ひとつの「応援」ていう「塊」となって。
昨日、誰かが誰かへおこなった「嘲笑」は、
ひとつの「嘲笑」ていう「塊」となって。
そこで「応援の塊」と「嘲笑の塊」とがぶつかり合う‥‥

ぼくは、メタファーとしての「応援の塊」を、応援したい!

2015年8月31日 @ and I love you

土地の記憶

2015年08月24日 | 日常
豊川市・桜ヶ丘ミュージアムへと、
豊川海軍工廠展』を観に行ってまいりました。
先日のブログでは「中日新聞」の記事より惨劇を知り、
ぼくは「息をのむ」と申しあげましたが、
『豊川海軍工廠展』ではもう、さらに、さらに、、、

書類、女学生の制服、碁石、平行定規、消火栓、棚、立札、
空襲を受けた方々が描いた絵画、
爆弾の破片(体験コーナーで手に持ってみて、重かった…)
などなど。を、観ました。

そして、ジオラマ模型による
「豊川海軍工廠」の地形地図が展示されておりまして。
豊川市のおとなりの豊橋に住むぼくはこれまで
「豊川海軍工廠」の位置をよく存じ上げなかったけれど、
あぁ、そこだったのだ。と。。。

豊川市にはたまに用事でおとずれるのですが。
ぼくの頭のなかでは、
豊川市のある一帯がすこし「謎」の場所。と申しますか。
なにがあるのかよくわからない区域、
そして、なぜだか容易にはちかづけない区域。
っていう感覚を感じていた土地がございまして。

その土地が「豊川海軍工廠」の跡地だったんだ!
と初めて気がついた。
(現在では、自衛隊や工場や大学施設がございます。)

いえ、本当はもっと詳しく申しますと、
「容易にはちかづけない」ともじつは思えていなくって、
『豊川海軍工廠展』のジオラマ展示を観ることによって、
今回初めてそのようなことばに、することができた。
と言いますか‥‥

なにかさ、もしかしたら、
「土地の記憶」と呼べるかのようなものごとを、
じぶんは少しだけでも感じ取っていたのかもしれない。
とおもいいたりました。

慰霊と、鎮魂を、祈ります。

2015年8月24日 @ リバー

お墓まいりと自己肯定感。

2015年08月18日 | 日常
お墓まいりってこどものころはどこか苦手で、
親が行くからぼくも一緒についてゆく、
みたいなだけだったんだけれど。もっと大きくなってから
精神的に不安定な状態がちょっとつづいていたころ、
ふと「ひとりでお墓へ行ってみよう。」とおもいたち、
それで人生初めてひとりでお墓まいりをしたときに
大泣きしてしまった… という思い出があるんだけどね。

あのときどうして泣いたのか??
てのはじぶんでも理由がよくわからないのよ。
うーん、と、なぜなのだろうねぇ。。。

たぶんだけども、守られている感覚、と申しますか、
そのほかには、来てくれてありがとう、と
言ってくれているような気がした、
って申しあげますとちょっと変かもとも存じますが。

えーと、なんて言うんだろうねー。

たとえば、母方の祖父母はぼくが幼稚園の時に亡くなって、
少し遠くに住んでいたのもあり、逢ったことも少なく。
(たぶん、すべてあわせても10回と満たない…)
ですので、直接に声を掛けてもらったことも
ほとんど無いかも知れなくて。
でもさ、これはぼくの想像ではあるのですが、
祖父母は、ぼくのことを(も)、大事に思ってくれている。
って、なんかそのひとりで行ったお墓まいりのとき
確信をしたんだよね。そうとしか思えない、と申しますか。

それはぼくの思い込みだからぼくの誤解かも知れないけど、
でもそのように感じたの。

そして。今改めてそのコトについて考えますと、その
「ぼくのことを思ってくれている。」言い換えれば
「ぼくのことを祈ってくれている。」の確信こそが、
"自己肯定感" なのではないか?! っておもいました。

えっと、なんて言うのかや、、、
今現在ぼくのことを誰かが祈ってくれているかどうか?
って真実のところはわからないじゃないっすか。
場面を見に行けるわけじゃあないし。
でも、その確証を、きちんと心の底から持てている。
そういうひとがふたりでもひとりでも居てくれている。
という確信の感覚(誤解かも知れないけれど)こそが、
"自己肯定感" なのだって感じまして。

母方父方の祖父母・ご先祖さまにかぎらず、
友人や先生やお知り合いの方々‥‥

だから、そんな誤解のごとく確信を持ってしまったから、
感謝と共にぼくもそのような「祈り」をお返ししたい。
っておもい、拙いながらも、祈る祈る。。。

2015年8月18日 @ You make me happy

姪の実行

2015年08月17日 | 日常
げんざい高校三年生になる姪のブログを、
いつの頃だったかなんとは無しによんでいたらさ。
あるエントリのなかで姪が
「有言実行だけじゃなく、無言実行で、がんばりたい!」
と云うようなことを書いておって。
ぼくはそれを見て、なんか驚嘆したの。

姪のおっしゃった「無言(むごん)実行」とはさ、
ほんとうは「『不言(ふげん)』実行」なのだから
ことばとしては間違っているんだけれど、
ぼくが驚嘆したのはその言い間違えかたでございまして。

これはたぶんなのですが、姪は
その「無言実行」ということばを、
じぶんで考えじぶんの力で創り出したのではないか?!
とおもって。。
「有言実行」のことばは当初から知っておっても、
でもそれだけじゃあ何かがうまく行かなくて、ならばっ!!
ていうわけで姪は「有言実行」の「有」を「無」に変え
「無言実行」という "コンセプト" を発明した。

「無言実行」ということばの言い間違えかたってば、
じぶんのあたま(手とか足とか?)で生み出さないかぎり
生まれようにない「ことば」なのではないかーっ??
っておもったんだよね。

「有言」での実行、「不言」での実行、の、
2種の「実行」があることに姪はご自身で気づかれた。
ぼくなんかだとさ「有言実行」はもちろん知ってたですが、
「不言実行」のほうはもっと後になってから
本を読んで知ったくちですので、そんな、
「『無言』実行」なんておもいつきもしなかった……

…だとしたらさ、なんか、すばらしいなぁー!!
っておもったんだよねぇ。いや、
まぁ、おやバカ的・おじバカ的だともおもうけど。。

2015年8月17日 @ A Song for ××

8月14日、春日井市。同日、渥美線。

2015年08月16日 | 日常
8月5日より8月10日を経てそして8月15日が過ぎまして。
でも、昭和20年8月16日以降の日であっても、
まだひきつづきの戦闘で亡くなられたかたが
居るという史実をうかがい、なので、
拙いながらでもまだもう少し思いを馳せたいと。。。

先日ある用事で「春日井市」をおとずれまして。
そうして、その翌日に知ったのだったかな??
8月10日エントリで申しあげました「模擬原爆」が、
「春日井市」にも投下された、と、それも、
それは終戦前日の昭和20年8月14日に‥‥

また同じく終戦の前日、
豊橋市と田原市をむすぶ「渥美線」の電車が攻撃をうけ、
乗員乗客の方々がお亡くなりになられ負傷をなされ‥‥
・記事参照はこのリンク先の真ん中辺りです。

その「渥美線」のおはなしも「春日井市」のときと同様、
ちょうど田原へ行った昨日直後に知りまして。
「春日井市」のことも、「渥美線」のことも、
なにかご縁を感じたの。(深く哀悼を祈ります…)

知らないことが、まだまだ、たくさんある。

さいきんおもうのはさ、
知らないことをどんどん知りにゆこうとするのは、
これはなかなかむつかしくっても。
知らないことがじぶんのからだへと近づいて来たときには、
それをしっかりキャッチできるようなからだでいたい。
無理の無い範囲で、知ってゆきたい。

戦争のことにかぎらずに、できれば、いろいろなことを‥‥

2015年8月16日 @ Yellow Magus (Obscure)