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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

謝罪とは、「許せ!」という命令か?!

2014年03月17日 | 日常
先日このブログでね、ある記事の一環として
6年前の「いったんブログ休止」エントリーに、
リンクを張ってみたのですがー。

その6年前のエントリーをねぇ、
こうなかなか、なんていうのか
直視して読むことができない‥‥。

恥ずかしい。というよりも、痛々しいっ?!

と、それでもね。まぁ、読んでみましたら、
とっても気になって、ちょっとじぶんが
どうしようもなく思ってしまった文章がありましたので。

きょうは、そのことについて記したいと思います。

その文章とは、


 「俺の書いたブログで苦しめてしまったあのヒト、みんなには、
  ここで深くお詫び申しあげます。ごめんな。」


のところです。(↑コピペするだけでも、キツイ‥‥)

その文章のなにが問題か?! と言えば、
それは、「謝罪」についてのこと。

そんなこんなの。ここで突然ですが、
ほぼ日の「おとなの小論文教室。」にて連載されている
山田ズーニーさんの著書『人とつながる表現教室。』より、
ある箇所を引用いたします。

著書のその箇所では、

「おわび」について考察なされたズーニーさんの記事に、
ほぼ日読者の方々がメールを送り、
そのメールより、またズーニーさんが「おわび」について
思索を深められていく場面‥‥ (←ほぼ日ではこちらより。ですっ)


──────────────────────────────────


  読者とのこんなやりとりを見ていた、
  「ほぼ日刊イトイ新聞」の、私の編集担当の木村さんが、
  ふと、こう言った。


     おわびをされる側は、返事はひとつ「ゆるす」しか言えなくて、
     そこに違和感というか、
     まるでボランティアを強制されてしまうような
     居心地の悪さを感じるのかなぁ。
                    (木村俊介さんからのメール)


  返事は一つ「許す」しかない。
  これは、とても囲い込まれたコミュニケーションだ。
  強制、ゆき過ぎれば、暴力になる。(38頁)


──────────────────────────────────


相手の返事は「許す」しかない。
それは「強制」であり、
ゆき過ぎれば、「暴力」にもなる。

「おわび」という行為は、
方法を誤れば、
ただ「許せ!」という「命令」なのかもしれない‥‥


先程、ぼくがじぶんの記事より引用しました文章ってのは、
そのようなことは、まるで考えられていなくって。
その空気感をいまぼくが読んでも、ちょっとしんどい。
と言いますか…… うーんと。。。

この、ぼくがつくってしまったその状態を、いまでこそ、
なんとかしたい!! という動機より、
きょうのブログを書いています。

うーん、どうしよう?? よしっ!!

あの文章でね、
「あのヒト」と名づけてしまった「その人」と、
そして「みんな」が
いまも、これからも、健やかに暮らすことが出来ますように。

と、ぼくはここで祈ります。

まずは、そのように申し上げたいっ!
と感じました。

それではぁー!!
よい一週間を過ごしましょーっ。
「謝罪」についてのこと、これからも考えていく!

2014年3月17日 @ スヌーピーとオムライス

母国語ものがたり

2014年03月11日 | 日常
ぼくはいつ、母国語である「日本語」を学び始めたのか?

そして、

ぼくはいつ、母国語である「日本語」を学び終えたのか?

というよりも、

ぼくは、ほんとうに「日本語」を学び終えたのか?

それは、

「学び終えた」という勘違いではないのだろうか?

もしそうならば、

ぼくはいつ、母国語である「日本語」を学び終えた。

という勘違いに気がついたのか?


世界には、母国語が
なくなってしまった国がある、という話を聞きました。
(これまで使われていたことばを英語に変える。など)

そうなると、どうなるか?

グローバルな国家として、
世界で通用する人間がうまれる、のかもしれない。

のですが、そのお話しではね。
国内でこれまで書かれたあらゆる文献に、
(数世代前のものにさえ)タッチすることができなくなる。

という危惧について記されていた。

日本で言えば、

(ぼくは読んだことないので、知ったかぶりで、
 なんとも申し上げることはできませんが。)

『万葉集』や『枕草子』、『源氏物語』はもちろんのこと。
漫画『ちはやふる』での『小倉百人一首』や、それから、
松尾芭蕉、小林一茶などなどの、古典文学‥‥??

そしてその後の、福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介などなど。
あらゆる近代文学、歌、落語に及ぶまで、
すべてのテキストに触れることができなくなる。

(そして太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎のまでをも…)

「読めない」の理由が、
「興味がないから読まない」のではなく、
もう「読むことが出来ない」という事態。。。


これはまだ、ぼくには、よくわからないのことだけど。

「日本語」をきちんと使うことには、そして、
「日本語」のなかには、ぼくのまだ知らないような、
あらゆる可能性で満ち溢れていて。

「頭がいい!」とか「ガリ勉」のことではない、
もっと素敵で大切なことが、(心にも、身体にも。)
母国語である「日本語」にはあるのかもしれない‥‥


という、そんなことをねぇ。ぼくは
(恥ずかしながら)これまで考えたことがなかったので、
ほんじつブログに書きました。

すこしずつ、すこしずつ、
やっていくしかないのかな??

そしてまた。これまで「日本語」をつくり、育て、
伝え続けてくださったすべての方々に、感謝!
という気持ちも生まれてきたー。

ありがとう!

2014年3月11日‥‥

誰かからの「声」を聞く?!

2014年03月04日 | 日常
「よし、入ろう!」と意気込んで、足を踏み入れた途端。
いきなりゾワゾワーっと、からだ全身に
寒気と鳥肌が立っちゃって。

すると、なんとなく誰かから、

「ここには入るな! 帰りなさい。」

と言われたような気もしてきちゃって、
足を踏み入れるのを躊躇する。

ってぇーとき、あなたなら、どーする??

ぼくならば、
「言われたような気が‥‥」と思うのではなくて、
「言われた」って断言して、
その声に忠実に従って、帰ります。

「誰かからの声」というのはねぇ、
もちろん科学的でも現実的でも、ありません。
根拠もないし。もはや、これ、
幻聴や妄想のたぐいかもしれない。。。

でも、もしその「誰かからの声」が聞こえてきても、
無視して、中へと入ってしまったら。
じぶんの身に何が起きるのか?!
は、よくわかりません。(なにしろ帰ってきたわけだから)
何かが起きたかもしれないし、何も起きなかったかもしれない。

うーんと。なんだろうねぇ??

なんか、もしかしたらさ、

「ここに入るな! 帰りなさい。」

という「声」のことを
「信頼できるのか?」どうか、
ぼくが判断をしているのかもしれないな。

その「声」を聞いて、ぼくがその「声の主」のことを
「信頼できる」と思えば、聞けばよいし、
「信頼できない」と思えば、聞かなければよい。

そういう「判断力」が
必要になってくる、のかもしれない。


・大事なことを知らせたいと思ってくれているのか?!

・ぼくのことをあやつろうとしているのか?!


しかし「声」を聞かず、中へと入って行ってしまったら‥‥
(そこで何があろうと、なかろうと、)
「声の主」は、もう何も言ってこなくなるだろう。

ぼくが「声の主」なら、そうするもん。

「声の主」もさ、
根拠のないこと言って申し訳なかったなぁ。
と思えば、もう何も言わなくなってしまう‥‥かもしれない。

こんなとき、どうしたらいいか??
って考えて行動するのは、じぶん次第っ!!

ってなわけで。

ぐちゃーっと理屈っぽいこと書いてしまったけれど、
まずは「ゾワゾワーっ」って感じる感覚を、
たいせつにすることが大事かもしれないなぁ。

それではー。
「かもしれない」ばっかの文章を、最後まで読んでくれて、
どうもどうもありがとう!!

「信じる」のことと「信じない」のこと。

息をするように‥‥

2014年03月01日 | 日常
さくじつ、
詩人・まどみちおさん逝去のニュースを
NHK総合「ニュースウォッチ9」の番組のなかで知りました。

テレビでは、以前行われた
インタビューに答えられるまどさんのお姿。
そのなかでね、まどさんは

「息をしないと死んでしまう。
 私は詩を書かないと死んでしまうほどではないが、
 息のつぎに大事なのは「ことば」。」

そのように、おはなしされておりました。

と。

この2ヶ月間、
「ゆっくりじっくり鑑賞する」企画といたしまして、
内田樹さんのテキストを「引用」しながら読んでいく。
みたいなことを、このブログでやっていたのですが。

それが終わって、いま思うことは

「鑑賞する」企画での一番の肝。ってのはさ、
「きょう書くことがある。」ということ。
(きょう書くべき「内田さんのテキスト」が手元にあるからね。)

でも、逆にそれは、
「きょう何を書こう?」と考えなくても、よい。
っていうことでもあって‥‥。じつは、それは
どんどん「考えなくなってしまう」ことではないのか?
とも思いました。

そのことをね、
まどさんがおはなしされておりました
「息」より連想をしてみますと‥‥

「鑑賞する」企画っていうのは、
ぼくが「海」へと潜っていって、向こう岸まで泳いで渡る。
そのとき、内田樹さんのテキストが「酸素ボンベ」となる。
だから、ぼくは「息」ができる。

でもその呼吸は、限りなく「他力本願」であって。

また逆に、「きょう何を書こう?」と
毎日根詰めて考えながら書く。のようなことは、
ひっそり息を止めながら進んでいく。また、ときには、
過呼吸みたいなこともあるかもしれなくて。

それは、自然な「息」ではない‥‥

‥‥そんなことを思いながら。
頑張る、気張る、でもない、
楽に自然に「息」するように、「ことば」を書きたい!
と、さくじつの放映を観て感じました。

まどみちおさんのご冥福をお祈り致します。

まどさんの、素敵な「詩」と「ことば」を思いながら‥‥

おろしたて。

2014年01月01日 | 日常
2014年1月1日。
のさきほど、ことし使うあたらしい「ほぼ日手帳」を
箱から出してきましたー。

おぉー!

もうねー、おろしたてでぇ、ぴっかぴか!!
(まだ、ちょっと固い…。)

さくねん夏のことですが、
「ほぼ日手帳」仲間とも言える友だちとね、
2014年につかう手帳について話しておりまして。

すると、友だちは、
ぼくが2013年の「ほぼ日手帳」を、
「新月の日」におろしたことを覚えてくれていてー。

っといいますのも!

2011年にほぼ日で連載されていた、
シルク・ドゥ・ソレイユのジル・サンクロワさんと
糸井重里さんとの対談(第6回)のなかで、

ジルさんが


    「なにかプロジェクトをはじめるときは、
     新月にやるべきです。」


とお話されていたのをきっかけに、
ぼくも、新月や月のことを
ちょっとばかり気にかけるようになり。

それから「ほぼ日手帳」を、
新月の日におろすようになったのねー。

そしての、そんな、さくねん。

「おれも、こんどは
 新月に
 あたらしい手帳をおろすかなー」

と話した彼が、
持っている「ほぼ日手帳」を開いて、
元旦にいちばん近い「新月の日」をさがしてみると‥‥

それがねぇ、きょう元旦だったのねー。

へぇー、そーなんだぁ!
って、ドトールで話していたのよん。

ことし使う手帳のカバーはさっ、
その友だちと当てっこ対決していて、彼にはまだ伝えてないもんで、
ちょっとぉ、秘密ですがー。(そんなん、どーでもいいかねー)

じぶんに似合うカバー、というんじゃなくって、
そのカバーに似合うような
じぶんになりたい!

が、ことし
「ほぼ日手帳」の目標ですっ!

どーなっていくかやー??

ではではー。
あけましておめでとう!
本年もよろしくおねがいしまーすっ。

おっしゃ!Let’s 新月より、スタートだーっ!!!

2013年のFavorites!(また会えるver.)

2013年12月31日 | 日常
2013年の感謝をこめて、
2013年のFavorites!を
こんかいブログに書きまーす!!

まずは、
奥田民生さんのご活躍っ!!

地球三兄弟のアルバムや、11月に発売された
ソロアルバムもすばらしかったしー、
コンサートに行くこともできたしーっ!! たのしかったぁ。

そしてっ!

ことしは、矢野顕子さんのコンサートに
はじめて行ってきましてー。
「矢野顕子、忌野清志郎を歌うツアー2013」、ステキでした。

矢野さんの歌う、キヨシローさんの
『胸が張り裂けそう』がかっこよくてー! また、
ゲストで出演された岡林信康さん、かっこよかった‥‥。


9月。浜松市美術館で観てきました
「やなせたかしとアンパンマンのキセキ展」は、
もう圧倒的なボリュームでさ。

でも、その後の10月。
やなせさんが亡くなられて‥‥。
やなせたかしさんの、ご冥福をお祈りいたします。

やなせさん、ありがとう!


ことし読んだ本では、
西畠清順さんの『そらみみ植物園』(←ブログではこちら!)と、
武富健治さんのマンガ『鈴木先生』に、ハマったり。

夏、

名古屋・岡崎を歩きまわった
あいちトリエンナーレ2013』は大変だったけど、たのしかった。
岡崎は、オカザえもん一色だったー!

映画では、
恋の渦』が、あまりにすごすぎて。
こんなすごいものを創る人がいるんだ! と脱帽‥‥。


んで、やっぱ
豊橋市民としては、
穂の国とよはし芸術劇場プラット」のオープンねー。

運よく観ることのできました
高座開き・立川志の輔さんの独演会や。

柴幸男さん作・演出、
劇団「ままごと」の『日本の大人』と。

平山素子ダンスワークショップ ショーイング』も、
すてきだったなぁ。


豊橋つながりで。

ことしは、
曙町の園芸店 garageさんに、
とてもとてもお世話になりました。

ライブイベント『 bouquet 』での、
2月の「vol.4」・8月の「vol.5」(←リンクは、ブログに書いた感想でーす)が、
もうめっちゃたのしくて。

「手作り」をテーマにされたという、
12月のイベント『 from 17 』は、雰囲気がとっても素敵でした。

また、プレゼント用に創っていただいた
「リース」や「多肉植物の寄せ植え」は、
これ、じぶんでも欲しくなっちゃったりー。

あとは、こちらこちらこちらこちらの下側でも、
garageさんのこと書いてるなー、おれ。

感謝!


そしてのそして。

ことしいちばんはね、11月に
ほぼ日で行われた
ものが生まれる瞬間フェス」!!!

糸井重里さん、谷川俊太郎さん、荒井良二さんなどなど。
みなさん、素敵でカッコよかったー。

フェスの最後に糸井さんがおっしゃた


     「全部、言い切って、悔いのないものにしよう、
      と思うと、重くなるんだよ。
     『また会える』って思えば軽くできるんだよ。」


のことばが、ありがたかった!

と言いながら‥‥。
まぁ、きょうの記事はさ、もう完全に、
「全部」を言い切ってしまってる感じですがー。

うーん‥‥と、ね。
もう、オッケー!!

それではー。

2013年、
ブログよんでくれて、ありがとう!
よいお年をー。

ウルトラな魂

2013年12月30日 | 日常
「夢じゃないあれもこれも
      その手でドアを開けましょう
 祝福が欲しいのなら 悲しみを知り
      独りで泣きましょう そして輝くウルトラソウル」

      ultra soul / B'z


──────────────────────────────────

ハロルド作石さんの漫画『 RiN 』3巻で、
主人公のおとこのこが
凛という少女に出合い、そのとき


     「魂が喜んでいる」


と、主人公が感じた‥‥。
のこととかさ。

河合隼雄さんの著書『こころの最終講義』で、
河合さんが話されていたことば、

(すこし長いですが、引用いたします)


     「ユング派のヒルマンという人が非常に面白いことを言ってまして、
     魂というのは、
     あるとかないとか、そんなものじゃない。
     そうではなくて、魂というのはひとつの見方なんだ。

     自分の人生をみるときに、魂があると思って人生をみてみる。
     それはどういうことかというと、
     人間を心と体に分割してしまわない。

     これは心の問題だから、体の問題だから、などといわずに、
     心も体も全体として人間をみていこう
     という見方をする場合に、
     「魂」という言葉はすごく強力である、というわけです。」(224ー225頁)


という箇所と、また


     「性というのは、先ほど言いました、
     ちょうど心と体のあいだにあるといってもいいぐらいで、
     魂の問題なのです。」(232頁)


の文章を読みまして。

そんな「魂」のことを考えながら、
改めて
B'zの『 ultra soul 』を聴いています。

いままでさ、「心」とか「体」については
すこし思ったりもしていましたが。

「魂」というのはーっ、
もちろんことばは知ってたけれど、
あまり意識をしてこなかった、といいますか。

下手ないいかたをしてしまうと、

上にあげました作品を観てからかな、
さいきんになって、ようやく
じぶんの「魂」をみつけた。というか、

「魂」がさ、こころの奥深くに眠っていて、
その「魂」が眠っている金庫のドアを
ついに開けることが出来た!

みたいな‥‥

『 ultra soul 』って
21世紀さいしょの俺の誕生日にね、
CDが発売されまして。

(その日に、スーパーの駐車場(今はなき、豊橋・前田南のジャスコ!)で
カーステで聴いたのをおぼえています。)

そんで、CDでもライブでも、
もうどれだけ聞いたか分からない! ってくらい、
聴いてはいたつもりだったんですけどー。

いまになって、よーやくね
その歌の意味がつかめたような(いや、どーかな??)、
そんな気がしています。

っとゆーわけで。
年末、どうぞおげんきで。

まずは、じぶんの「魂」を大事にしたいっ!

呼び水になりたい。

2013年12月13日 | 日常
このまえ、ともだちと
喫茶店のね
ランチへ行ったとき。

よく行くおいしい喫茶店なんだけど、
ちょうどその日は
ランチの終了まぎわだったからか、
あんまり他のお客さんもおらんくて。

ちょっとさみしげな感じで、
ともだちと食事の出てくるのを待っていてー。

でも、なんか、
話してたり、水のんでたりー、
そーこーなことしているうちに

すこしずつ、
ドリンクでのお客さんなのかな?
の方々が、どんどん入ってきて。

気がついたら、お店はいっぱい!!

のこととかさ。
ほかにも、これはずっとまえの話でね。

母親と出かけていて、
夜おそくに(9時くらいかな)
よーやく豊橋へと到着しまして。

晩ごはん、どーしよーか? って話してたら、

以前よく行ってた
近所の中華料理屋さんは、
まだ開いてるかねぇー??

となって、行ってみたら
うれしいことに開いておりまして。

閉店ぎりぎりだったから、
じぶんたち以外のお客さんはもうおらんかったけれど。

なんか、こう待ってたらねー、
あれよこれよ、というあいだに
どんどんとお客さんがやって来て。

いつの間にやら、ほぼ満席じょうたい!!

こんな時間おそいのにー。
おれら、呼び水かよっ!!
って話していたりとか。

そーいうさー、
呼び水になりたい。
と、いまはおもってる。

まぁ、人間の60%は水だって言うからー、
その水の水質をちょっと替えること出来ればー、
呼び水にだってなれなくもないー?!

とかなんとか言いながら、


   ♪太陽と風と雨と緑の
    虹をすべりおり ぼくはきたんだぜ


地球三兄弟の
『呼びにきたよ』を聴いてるんだぜー。

いや、実はもしかしたら、
あなたが呼び水となって、おれは、
その呼び水に呼ばれてやって来たのかもしれない。

じたく、温泉、桃源郷。

2013年11月25日 | 日常
お風呂に入るとき、
たまーに、電気を消して
暗くして湯船につかる。

そうするとー、
だんだん天井から
星空が見えてくるようになってきて。

なんとなく、
ひのきの匂いもしてきたり。

と、そーいえば、
どこかしらお湯の
成分が変わってきたよーな‥‥

なんて思いはじめたら、
もうそこは

三谷のような、下呂のような。
伊豆でもあり、熱海でもあり、箱根でもあり。
加賀か? 十和田か? 登別か? 
伊香保だ! 草津だ! 水上だーっ!
別府… 湯布院‥‥んー

ってな具合でたのしんでいるときによ。
いきなり電気がついたかと思えば、
裸の父親がとびらを開けてきて

「なんだ、入ってたのか?!」

なんて言われて。
「せっかくの別府が」と嘆いても
父親にはちんぷんかんぷん。

そう、ここは豊橋‥‥

これを、
コミュニケーション的に
言ってしまうと。

電気の明かりが
「ここに居ます」のサインになっていた。

とかゆーような、
理屈が分かりました、先生!
みたいな?!

いや、
んなことはどーでもいいんだ。
温泉だ。温泉につかりたいんだ。

父親に電気を消してもらったのち、
想像を、また最初の
星空からやりなおすも。

もう暗さに目が慣れちゃっていて、
どーにも
自宅の風呂場にしか見えない!

なので、身体を洗いはじめてみたりー。

そんなのこんなで、
温泉は
まだまだ遠い‥‥

『 1980 』と「塞ぎ」と贈与。

2013年09月28日 | 日常
「震える鼓膜をもって
      僕らは誰を選んだ?
 耳も目も 手で塞いだんだ
      もう何十年も」

      1980 / ASIAN KUNG-FU GENERATION


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さいきん、ふと気づいたのだけど。

おれってのは、
精神的にも身体的にも弱くて、
脆いもんだから。

みんなが遠慮をして、
なるべくおれが傷つかないように、
話すことばを本当のことから少し変えて話す。

だから結果的に、おれは
本当の情報が入ってこずに、
損をする。

こんな流れが、
じっさい起きているんじゃないか?
とおもいました。

アジカン
『 1980 』で歌われている


  ♪耳も目も 手で塞いだんだ


のは、おれだ!

ってゆーよーなさー、
こーんなときはーっ!(イェイ♪)
どーしたら良いのでしょぉぉーっか???

と考えていたとき、

アジカン後藤さんが編集長をされている
THE FUTURE TIMES 』第5号に掲載の、
内田樹さん×釈撤集さん×後藤さんの鼎談記事を思いだした。

この記事では、


  後藤「今日は“贈与”をテーマにお話を伺えたらと思っています。
     僕はこの新聞の発行を続けていくうえで、
     おふたりが著書で語られているような
     贈与やお布施の考え方に、
     背中を押してもらっている部分があるんです」


という、後藤さんのことばから
スタートしていくのですが。

この「贈与」について、その後
内田さんは
つぎのように説明されています。


  内田「贈与って聞くと、多く持っている者が
     少なく持つ者に分け与えるというような
     偉そうなイメージを持たれるかもしれませんが、
     違います。贈与は

     “自分は何もしていないのに
      先行者から贈り物をもらっちゃった”

     というところから始まるんです。
     もらったままだと負債感を覚えるので、次にパスしたくなる。
     これが基本的な流れです。
     何を贈与されたものと感じるかは人それぞれ。
     自分の身体髪膚(しんたいはっぷ)、
     何千年もかけて体系づけられた日本語、文学、音楽……。
     身の回りのすべてが贈与されたものに思える人は
     幸福なんですよ」


そして、


  内田「被贈与感って、自分が
     誰かに承認されて愛されていることの説明にもなりますよね。
     何しろもらえるわけですから。
     大きなものをもらえばもらうほど、
     人にもあげたいという“反対給付”の義務が発生する。
     これが人間の本質です。」


このね、「贈与」から
「反対給付」をなすときの
具体的な行動については、そのあと


  後藤「釈さんにお聞きしたいんですけど、
     仏教では贈与という概念は
     どのように捉えらえているんですか?」


後藤さんからの質問に、
釈さんは
「お布施」と答えます。


   釈「布施は、大きく
    “財施(ざいせ)” “法施(ほうせ)” “無畏施(むいせ)”
     の3つに分けられます。」


とおっしゃる
3つの「お布施」のなかでも、
じぶんは特に「無畏施」のことをおもいました。


   釈「“無畏施”は文字通り
     相手に畏(おそ)れを与えないことです。
     何を持たずともこの布施はできます。
     柔らかな表情で
     相手を思いやる言葉を発し、快適な場所を準備する。」


そして、その
「相手を思いやる言葉」というのが、
“無財の七施”(「一文なしでもできるお布施」)のうちのひとつ

“愛語”なのだと、
釈さんのお話は続きます。


   釈「仏教において、言葉というものは
     非常に重要であると同時に
     警戒すべきものだという考え方をとります。
     最古のお経『スッタニパータ』にも

    “人は口に斧を持って生まれてくる”

     とあります。つまり、言葉は
     使い方を間違えると相手のみならず自分も傷つけるので、
     言葉が暴れないよう日々心がける。
     これが愛語です」


この釈さんのことばを受けた
後藤さんは、


  後藤「簡単なようで難しそうですね」


とおっしゃるように、
なかなかむつかしそうだけれど‥‥。

そのあと、内田さんがお話された


    「毛筆で手紙を書くように、
     とってもゆっくり文字を書く」
 

のようなことが、まずは
大事なのかもしれないなー。
と、記事を読んで感じました。

そーなんだぁー!

おれは、おれのなかに流れてる、
この流れを
なんとか良い流れに変えてみたい!


きょうは、『あまちゃん』の最終回!

さいごの週は、
マジとくに熱かったぁ。
『あまちゃん』ありがとう。そして、

ゴーストバスターズ!!

よい週末をー。

木を想う

2013年09月20日 | 日常
このまえ
園芸店 garage さんへ行ってみたら、
なんか雰囲気ちょっと違うなー
と思って。

店員さんと話してみると、
お店の顔にもなっている大きい木が、
こないだの台風で
倒れてしまったんだって。

隅のほうにね、
切られた木が置いてあったから
もしかしたらと思ったんだけど。

「寂しい…」って
店員さんはお話をされながら、

その倒れた木は、
なにか良いふうに使ってあげたい!
と、いま計画されているのだって。

じっさいに
そういう話を聞くと、
寂しさもあるけど、気持ちの面というのかな、
そんなすばらしさを感じました。

うちの近くでも、
カーポートの
屋根ガラスが割れてたり、
公園の木が倒れていたり。

改めてではございますが、
被災されたみなさまに
お見舞いを申しあげます。

そしてっ!

きのうの
中秋の名月は、
あまりにも名月だった!

あれほどまでの名月は、
名月いじょうの名月で、
さすが名月! とおもった。

いよっ! 名月。

今日のあまちゃんと、レールロード

2013年09月02日 | 日常
「哀悼
    君と町を結んで 海辺に沿って
 愛を載せて 心結んで
    列車は行くのです」

    レールロード / ASIAN KUNG-FU GENERATION


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昨日、またひさびさに
アジカンの『ランドマーク』を
車中で聴いていて。

ちょうど『レールロード』に差し掛かったとき、
ふと思い出して、
助手席に座る母にこう言った。

「あしたの『あまちゃん』なんだけどね、
 2011年3月12日にアキちゃんの初ライブがあって、
 招待してもらったユイちゃんが
 その前日、東京へ向かう道中の
 列車内で震災にあうの‥‥」

母は『あまちゃん』少ししか知らないのだけど。
おれ、土曜の放送後からさ、
なにか落ちつかんくて(夢にまで見るし‥‥)、
気づいたら話してました。

そして、きょう。

アキちゃんから春子さんに代わった
ナレーションだったり。

観光協会に置いてある
模型での説明だったり。

どうしても東京に行くことの叶わない
ユイちゃんの気持ちだったり。

そして、

車掌 大吉っつあんの
あまりのカッコよさに、泣けた‥‥。

雑誌『 Cut 』8月号で、
宮藤官九郎さんがお話されていたことを
思い出しながら、こんしゅうの放送みるです。

『レールロード』大好きっ!

♪未来へ続くレールロード

会いたかった(イエスっ!)の話。 (ぽてんしゃる。ver.)

2013年07月20日 | 日常
小学生のころ。
ゲーム『 MOTHER 』の紹介記事をどこかでみて、
「なんておもしろそうなんだっ!!」とおもいながら、
でも当時はファミコン持ってなかったし。

そして『 MOTHER2 ギーグの逆襲』は、
キムタクのCMや、雑誌(たぶん『ファミ通』)でみたり。
あと、友だちの家に遊び行ったとき、
友だちがプレイしてるのを眺めてたり。

でも、スーパーファミコン持ってなかったし‥‥。

だからさ。
ぼくは、『 MOTHER 』シリーズを
2003年にゲームボーイアドバンスで発売された
MOTHER 1+2 』で、はじめてプレイした。

『 MOTHER 1+2 』を買ってきた当時のぼくは、
まず『 MOTHER 』からはじめる。

のだけど、じつはぶっちゃけ
はやく『 MOTHER2 』をやりたかった。

だから、はやいところ
『 MOTHER 』をクリアしたかった。んでも、
そーいう急ぎのプレイだもんで、レベルあげを怠って
とちゅう(たしかスノーマンあたり)から進めなくなった。

というときに、
もうぼくは『 MOTHER 』をあきらめて、
『 MOTHER2 』に取りかかった。


あのとき、なぜ
そんなにはやく『 MOTHER2 』をやりたかったか?
っていうのは、うまく言えないのだけど。

たぶん、「おんなのこ」と
「どせいさん」にはやく会いたかったから。
なんじゃないかなぁ? とおもいます。


その後の、いまから2年前。

痔の手術で10日間入院したとき、おもいたって
『 MOTHER 1+2 』を病院へ持っていき、
そこで無事『 MOTHER 』を(8年越しで!)クリアした。


『 MOTHER 1+2 』を手にして、
もう10年がたつ。

いまでは、
MOTHER3 』のサントラCDにおまけで付いてきた
「おしのびどせいさん」が、MYつくえで「おしのび」している。

ぽてんしゃる。

とある友人のこと (2013年7月ver.)

2013年07月05日 | 日常
グラフィックデザインの
専門学校に通っていたころ。

まー、当時(入学当初)は
毎日が、初めて触れる
グラフィックデザインに夢中で。

どうすれば
グラフィックデザインができるのか。
どうなれば
グラフィックデザインがわかるのか。

グラフィックデザインでは何ができるのか。
グラフィックデザインには何が必要か。
グラフィックデザインとは何なのか。

グラフィックデザインは、ほんとうに
グラフィックデザインなのかーっ??!

みたいな
ねてもさめても、いてもたっても
グラフィックデザインのことばっかりで‥‥


と、そんなある日。

高校からの友人と酒飲んどって。
おれはまぁグラフィックデザインのことを
話しちゃうわな。そんな日々だから。

そんなおれの
止まらないグラフィックデザイン話に、友人は
「おまえの話は専門的でつまらない!」とぴっしりおっしゃった。

そのね、友人が言ってくれたことばは
おれのなかですっごい大事で。

それからすぐに、いろんなバランスが
めっちゃよくなったわけでは
全然ないけど。

たまに、その場面をおもいだす。


最近ちょっと縁あって、
その友人のことを考えます。

いろいろ思うと さみしいけどねぇ。。。
うーん、やっぱ
みんなが どうか健康でいられたら‥‥ と、おもいます。

はろー!

2013年05月08日 | 日常
2005年にブログをはじめて、
2008年3月いちど中締め。
2011年10月、ひょんなことから
ひとつ投稿してみることになって。

という、その年の暮れ。
またぽつぽつとブログするようになっての
それからー、いまに至るのだけど。

そのすべての記事にね、
ひとつだけ共通点があって。それは‥‥
専門学校へ入学したとき学校で買いました
アップルの Mac 『 ibook G4 』で書いてた!
ってことです。

でね、そのおれの ibook の
電源アダプタ(3代目)がさ。なんか、
昨日のブログ書いた直後、反応しなくなっちゃって‥‥

なので、きょうは別の
ウィンドウズのPCで更新しています。

もうそろそろねぇ、新しい Mac に買い換えたい!
とか。いやいやアダプタどうにかするのか??
なんかを考えながら。それに、
ウィンドウズでブログ書き続けていくのは
家的にちょっと無理があるので。
Mac の環境がそろうまで、更新はお休みしようとおもいます。

んでもでも、また何かあったら
書くことあるとおもいますので、
そのときはどうぞよろしくね。

いままで見てくれた人にも
これを見てくれている人にも
これから見に来られる人にも
素敵な毎日がずっと訪れますように。。。

どうもありがとう!

それにしてもさー。
おれがブログを書くってことは、じつは、おれが
Mac の画面を眺めたい!
Mac を触っていたい!使っていたい!
とゆーことだったんかもねぇ。

ibook に感謝!

ではでは。