goo blog サービス終了のお知らせ 

なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

星のカービィから「学ぶ」を学ぶ。

2015年07月19日 | 考えごと
「学ぶ。」とはどーいうことか?!

「学んで、変わる。」とはどーいうことか?!!

を考えながら、ゲーム『星のカービィ』シリーズの
主人公「カービィ」のコトをねぇ、
なんとなくおもっていたですが。

ご存知のかたにはご存知の、
「カービィ」には「コピー能力」というのがございまして。
「コピー能力」とは、
「カービィ」がある特定の敵を口で吸い込んで
(「カービィ」は掃除機のように吸い込むことができる。)
ほおばったまま「したボタン」を押せば、
敵が持っていた能力をコピーできる。というもの。

そんな「コピー能力」をつかえばさ、「カービィ」は、
「火」を吐き出せるようになったり、
「電撃」でビリビリ敵をしびれさせたり、
「冷気」で敵を凍らせてそのままふっとばしたり、
「剣」や「パラソル」等を持ったりできるように成る!

吸い込んだ「もの」を
ごくんっと「したボタン」で飲み込むことによって、
まさに「カービィ」が変身するんだよね。

そのさ、「コピー能力」による「カービィ」の
変身こそが「学ぶ。」を示しているのかも知れないなぁ。。
ってふとおもい立ちまして。

「Bボタン」で「ものごと」を吸い込み、
ほおばったまま「したボタン」を押しそれを飲み込む。
すると、なにも起こらない「スカ」のときもあるけれど、
あるときにはじぶんが
なにかの「能力」を使えるように成る、ときもあるっ!!

まぁ、人間は「カービィ」では無いからさ、
まるのまま「ものごと」を飲み込むことできないもんで。
よく噛んで、しかも、胃袋をいつも鍛えておかないと
消化させたあげくの「能力」は身につかないんだけれども…

「星のカービィ」ってば、
そーいう、その、なんと申しあげましょうか
「コピー能力」によって「学んで、変わる。」のコトを、
伝えてくれているのかも知れないっておもいました。

星に乗り、あの場所まで、移動したい。。。

2015年7月19日 @ Starman

魂のかたち。

2015年07月14日 | 考えごと
「魂」がどんなかたちをしているのかは知らないけれど、
もし仮に、そのかたちが「風船」のようだとすれば、、、
ってゆうのをね、すこし考えていたの。

ふにゃふにゃの「風船」にふぅ~っと空気を入れ、
空気が入ったら口をしばってとめて、
そして、ぱんぱんに張った「風船」はふわふわ宙を舞う…

と、そーいう感覚なのだけどもさ。

「風船」には、その、
「張り」が重要なのだとおもったんだよねぇ。
ぱんぱんに張る「風船」は生き生きとしている!!
もしもしぼんでしまってるんなら、舞うことはできない。

「風船」が張った状態とはサ、
「風船」の中の空気と「風船」の外の空気とが
ちょうどよい感じでバランスを取りあっていて。それは、
外の世界より押されてくる空気の圧力を、
中へと入れた空気の圧力によって押し返す。

外からの空気圧によって「風船」はへこまないし、
中からの空気圧はそれ以上、外を侵食してゆかない。

破裂しそうなほど空気を入れるのは危ないけど、
かと云って、空気のぜんぜん入っていない「風船」は、
もう「風」に舞う「船」とは、呼べない……

「魂」がどんなかたちをしているのかは知れないけれど。
「風船」みたいに外からの圧力を物怖じともせず、
優雅に宙を舞うかのごとく。。
ときには攻撃的な「針」にも負けないような「張り」を、
「魂」は手に入れることができるのでしょう。。。

2015年7月14日 @ EPIC DAY

決めたから。

2015年07月12日 | 考えごと
変わることがどうして出来難いのか?
を考えてみると、それは、
「決めた」からなんじゃないかとおもった。

製作だって、計画だって、またじぶんのコトだっても、
これまでたくさん決めてきた。
過程過程でどしどし決めて行かないと物事は先へ進まない。
その、いちど決めた決定を白紙に戻し、
また一から考え直すなんて‥‥ たいへんだ!!

決めるとゆうことは、
「もうその以前には戻らない。」の了解だとおもうので、
決める前ならよかったけれども、
すでに「決めた」ことで後から反対意見とかを言われるのは、
了解を踏みにじる行為でありふつうは忌み嫌われる。。。

と、そして。

本を読んでも、話を聞いても、怒られても、
なかなかじぶんでじぶんの考え方を変えられないのは
この↑「決めた」のことが関係してるような気がしたのね。

じぶんの考え方は、どこかのときに、じぶんで決めた!

のようにおもえてて。その、
じぶんで「決めた」決定を「覆す」ためには
じぶんのなかで「何かの手続き」が必要になってくる。
それはさ、どちらかと云えば「決めた」ときよりも、
あとになって「覆す」ほうがむつかしくって。

もしかしたらば、
決めるときには【覆ることもあるやも知れぬ…】と、
もしもの状況も想定しながら決めて。
「既決」だけれど、「未決」、だけれど完全に「既決」。
みたいな(んーと、うまく言えないですが。。)状態に、
じぶんを置いておく。

そーすれば、
決めながら、変わりながら、教わりながら、学びながら、
過ごせるかも知れないなぁとおもいました~。

2015年7月12日 @ 夢見が丘

ことばについて。(最長老さまver.)

2015年07月10日 | 考えごと
ものごとを「ことば」にするのってさ、それが、
だいじなのか、だいじでないのか、
なんかよくわからなくなってきたーっ!!

よく言われてるみたいな、じぶんのきもちを
「ことば」で書いたり口にしたりして表現することって、
そしてその表現を、たとえば「表現者」として
しごととして表現で食ってゆく。
みたいなところまで考えてしまうともうさっぱりぼくには、
どーしたらよいかとかわからん。。。

「ことば」について、ちょっと考えてみてみる。

かんたんに「ことば」にできるものごともあれば、
うみのくるしみのように「ことば」にするのが
とってもむつかしいものごともある。

そんなときにさ、
かんたんに言える「ことば」はダメで
かんたんには言えない「ことば」のほうがよい。
とか、そういうのだっても
正しくもあれば正しくない場合もありそうで。

ならば。ってゆうわけでぎゃくに飛躍させてしまって、
ものごとを「ことば」にしないほうがよくって
ものごとを「ことば」にしちゃうほうがダメか?!
なんてことだってぼくにはようわからない……

…ぼくと「ことば」との年齢を比べてみるとね、
「ことば」のほうがぼくよりも圧倒的に年上で。
年上で。とゆうよりかは、長老、いやさらに言えば、
最長老とお呼びしたほうがよろしいかもとも存じまして。
(ナメック星の「最長老」さまをおもいだしたよ!)
なんか、なんとなくだけれど「ことば」と接するときには
そんなような、
最長老のかたとお合いする的な感じのコトが
だいじなのかも?? って、ちょっとおもいました~。

2015年7月10日 @ The Thrill Is Gone

「ない」と「ある」と「対立」のこと。

2015年07月05日 | 考えごと
昨日のブログを書いていてじぶんで思ったのはさ、
 エントリの文章中に
 「ない」と云うことばが多すぎるっ!

 「ない」のことばによって、言ってることがなんかよく
 わからない。。。
 みたいにじぶんでも思えてきて‥‥

 たとえばさ「ない」のことで申しあげますと、
 「できない、ことでも、ない。」とか
 「しないわけには、いかない。」とか
 「足りないほどでは、ない。」とか言うって、
 そのなかに「ない」のことばが2つ入っていて。
 最初の否定をあとで否定しているんだけれど。それだとね、
 「できる」のか「できない」のか。
 「する」のか「しない」のか。
 「足りる」のか「足りない」のか。
 の意味がなんかちょっとわからなくなってくる。。。
 そのさらには、
 「しないわけには、いかない、というほどでもない。」
 とまでなってきてしまえば、もう複雑怪奇っ!!

・対立している「意見」同士とは、
 「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている。」
 のでは「ない」って思ったんだよね。

 どちらとも、正しい。

 ……とゆうときだってあるよ、たぶん。んでも、
 「正しい」の反対は「間違っている」のだから、
 なら、どっちのほうが「正しい」のか?! とかさ、
 どっちがより「間違っている」かの数を競争したって
 しょうがない気もしてくる。。

 間違いの数量の少ないほうが正しくて、勝ち。
 間違いの数量が多いほうには価値はなく、負け。

 とゆうような「勝ち・負け」の決め方ってば、
 決め方のうちのひとつではあると思うけれど、
 そのうちのひとつにしか過ぎないかも。とも思った。

 どちらとも、正しい。

 からスタートする対立の議論ってある気もするのよねぇー。
 その対立とは「勝ち・負け」の競い合いでは「ない」、
 のよーなさ。。。

2015年7月5日 @ Re-ある鼓動

こじれは、解きほぐせるか?!

2015年07月04日 | 考えごと
お互いの関係性があまりにもこじれてしまったとき、
どのようにすれば
その関係を解きほぐすことができるか?!

なんてぇことは、ようわからん。
ケースによってもまったくちがうのだろうし。。。

んーと。でも、まずはひとつおもったのはさ、
こじれてしまったときのそのまんま前と変わらぬように
接していれば、関係性は、さらにこじれてゆくだろう。
こじれはもっとさきへと進んでしまうだわ。

なら、それ以上「なにもしない」ほうがよいか?!

そーしたらもうこじれはさきへ進みはしないけれど、
かと言って「解きほぐす」ことには至らない。
至るはずがない。
同じ状態でこじれたまんまただ時間の過ぎてゆくだけ‥‥

時間が、どれだけ経ったところで、
どこか知れないあいだに「時間さん」がこつこつと
靴を創ってくれるかのようには、関係性は解決しない。

ってなるとさ、こじれが解きほぐれるためには、
なにか「解きほぐす」的なアクションを起こさない限り
すべはない。ってことかの。
そのアクションとは果たしてどーいうアクションか??
の、それはさ、もうぜんぜんよくわからない。

それは、
これまでに考えておった方向性とはぜんぜんちがった
まったく未知のアクションなのかも知れないね。

そして。
「こじれた関係性をどうするか?」よりも、その以前に、、
「関係性が『こじれない』ためにはどうすればよいか?」
を常日頃考えながら過ごすってのは、
どうなのか???

「こじれない」ためには、あいてと
さいしょから関係性を持たない・赤の他人のように接する、
なのだとおもうので、それだとこじれるコトはないけれど、
ほかのことさえ、すべてが、なんにもない。

(関係性が築かれたなら、必ず、何かの問題は浮上する!)

対立となってしまったお互いの「思考」
(←人間の「からだ」ではなくって。)が、
対立軸の境界線まで歩いて行って、握手できたらよいのに…
とは言っても、それは困難なのでしょう。たぶん。。。

2015年7月4日 @ アマリニモ

正しさの囚人。

2015年06月30日 | 考えごと
「正しさ」の弱点とは、
「間違っていない」ことなのだとおもったのね。

「間違っていない」とゆうことは、間違っていないのだから
《それ間違っているよ。》とは誰も言えないわけですし。
もう、誰にも、その「正しさ」を止められない。

「正しさ」とは、誰の目から見ても明らかに
《正しい》ので、
でもその「正しさ」になにかふと違和感をおもった誰かが、
《正しい。んだけれど、なんかちょっと……》
って言い始めたとしてもその話しは異様に複雑に長くなり、
「正しさ」のほうがなまじ短くてシンプルだから、つぎの
《正しいんだ!》のひとことによって、誰かのその
《正しい。んだけれど、なんかちょっと……》
のことばをかき消すことだって、できる。。。

「間違い」のほうが、ある意味では、柔軟だ!

「間違い」とは、もちろん「間違っている」のだから
《それ間違っているよ。》と言われれば、
いつでもその姿を「変える」ことが、できる。

「正しさ」は、あるひとつの方向性で
固定されてるけれど、
「間違い」は、あらゆる方向に、道が開かれている。

「間違い」のほうが、「正しさ」よりも、自由だ!

そして、「正しさ」とは、「正しさ」の「囚人」だ。

「正しさ」は、目の前に居る「間違い」の自由さに嫉妬し、
だから「正しさ」は「間違い」を正し、
じぶんの住居である「正しさ」の牢獄へ誘い込む。
「間違い」にはそのいざないを拒むことは許されない。
こうして「間違い」も、おのれの間違いが正され、
「正しさ」をまとった「囚人」のうちのひとりとなる。

誰も、その牢獄からは、抜け出せない。。。

なぜならば、「正しさ」は、《正しい》のだから。
なにも「間違っていない」のだから。
「正しさ」の牢には、検察も、裁判官も、看守も、いない。
つまり、釈放や面会のシステムがない。ちかづけない。

窓からは、すきま風さえ、入って来ない……

2015年6月30日 @ 白い雲のように

政府の力、新聞の力。

2015年06月27日 | 考えごと
「政府」の力を使えば「新聞」をも潰すことができる。
とゆう可能性なのか事実なのかを知り、
「政府」とは力が強いのだなぁ。とおもって。

でも逆に言えば、
「『新聞』を潰さないといけない。」
て「政府」の界隈の方がおっしゃるって云うことは、
じつは、「政府」は、「新聞」を恐れているのかねぇ??

《このままだと
 政府が 新聞に 潰されてしまうから
 潰されるまえに 潰さないと いけない……》

であるかのように。。

ぼくはよくわかりませんけれど最近耳にするのは、
「『新聞』の発行部数が年々激減している。」
と叫ばれている中で、でも、
「政府」は「新聞」に恐れおののき脅威をおもわれながら

《まだまだ「新聞」には、強い「力」があるのだ。》

と、いかにも「政府」が、
「新聞」の力を「認めている」かのような、、、

先日、吉本隆明さんの著書『13歳は二度あるか』を、
ひさしぶりに手に取り読了いたしまして。
著書の「第1章」で吉本さんがおっしゃる「新聞」について、
ちょうど思い出していたところでございましたので、
このようなことをすこし考えてたのだけれど。

日本では、今なにが起きているのだろう?!

2015年6月27日 @ Winner and Loser / 勝者と敗者

誤解は解けるか?

2015年06月26日 | 考えごと
前回エントリよりさらにひきつづきまして、
「理解」や「誤解」について申したいとおもうですが。

「誤解を解く。」とゆうのは、
もうほんとうにたいへんなことだ。と感じるのですけれど、
なぜたいへんなのか?? 
を申しあげますと、これはね、たぶんなのですが、、、
「誤解」をしている側は、
(たとえほんとうにそのことが「誤解」であったとしても)
じぶんでは「誤解」をしてるとはおもわずに
きちんと「理解」しているのだとおもってて。

「誤解しよう」とあえて考えて、
「誤解」したわけじゃないからさ。

「理解している!」ってじぶんではおもっているから
「それは誤解だよ。」と相手から言われても、
いきなりは信じられない。

いちど「理解した(とおもった)」ことをね、
ふたたび「理解できていなかった」の位置にまで戻すのは、
じぶんの経験からおもえばかなりたいへんなのよね。
いや、相手には申しわけないことではあるんだけれど。。。

つまり、なんて云うのかな、
「理解」とゆうのは何かを規定させ固めてしまうことで、
それはなんか "かたくな" のようなイメージがあるんだわ。

「理解しよう!」っておもえばおもうほど、
「理解」したその「理解」がじつは「誤解」だったときには、
もう取り返し難いところまで来てしまっている。

「誤解」ではない
ほんとうのほんとうに「理解」できた! の場所へまでは、
おそらくとんでもないほど果てしなく厳しい道のり。。
じぶんの頭のなかで、ひたすら、
この「理解」はもしかしたら「誤解」なのかも知れない…
と思い続けていないとたどり着けず。。。

みたいなことを考えておりましたら、
スタートは「誤解」からなのかも知れないなぁー!!
っておもった。うえ↑で申しました、

・この「理解」はもしかしたら「誤解」なのかも知れない…

と思い悩むのではなく、逆に

・この「誤解」はもしかしたら「理解」なのかも知れない?

そのようにずっと考えているほうが、
そもそもの思考のスタート地点が「誤解」なのだから、
「それは誤解だよ。」って指摘されても
「やはり誤解でしたか!」と言えるし、修正も早い。

これって変な話なんかもですが、ぼくは逆に、
じぶんのほうから積極的に「理解」を、ではなくって、
「誤解」してゆこう! とおもったんだよね~。
そっちのほうが
「ほんとうのほんとうに『理解』できた!」という、
真の「理解」へとも到達ができるかも知れぬ??!

2015年6月26日 @ 巡礼の年《第1年:スイス》

そもそも「理解」とか「誤解」とかって‥‥

2015年06月25日 | 考えごと
昨日のブログを書いておりましたら、
「理解」とか「誤解」とかって
じつはそもそも何なのだろう?! って考えてしまって。

「『理解』の反対が『誤解』なのか??」とか、
「『正しい解釈』が『理解』で、
 『間違った解釈』が『誤解』なのか??」とか、
「『理解』すばらしい、『誤解』よくない」であるのか??
みたいな‥‥

まずは仮にね、ぼくには
なにかちゃんと「理解」できていることは、ある?!
って自問してみると、
もうそれはかなり怪しいんだよね。。

たとえば1冊の本を読んで、読み終わって、
本の内容をきちんと「理解」できたか。
なんて言われても怖いもん。どんなにメモして付箋貼って、
幾度も音読し、読み返してみて、覚え、、、た! と、
おもってもそれでも時間が経てば忘れてる、
なんてざらだもんねぇ。おれ、しょーもねぇ奴なんだわ‥‥

んでも、そんな「理解」しておらんぼくに対しても、
「本」は怒らない。
ことさら「理解」を求めることも、なさらなければ、
ぼくが仮に内容を「理解」でなく「誤解」したとしても
その解釈間違っているぞとして、正そう、ともなさらない。

どちらかと言えば、あなたのその解釈も
ひとつの解釈として【あり】なのかも知れませんね。と
本は「誤解」を許してくれるかも知れないわ。

そして。

その「本」のことをぼくは素敵だなぁ! と感じても、
他の誰かの人たちにとったら(あんな本…)っておもうのは、
勝手にぼくが素敵だと「誤解」しているだけかもだし。
(あんな本…)と思われている方側のほうが、
「本」の本当の価値を「理解」できているのかもね。。。

それらの、
どっちが正しくてどっちが間違っているかなんて、
ぼくにはようわからん。

それが、たとえぼくの「誤解」であったとしても、
(素敵!)とおもってしまったなら(素敵!)っておもえば
よいじゃん。ともおもってて。
そういう「誤解」ならどんどんしてもいいかも知れない!!
かどうかもじつはわからん‥‥

それが「誤解」でも、ぼくは、素敵って「誤解」したい~。

2015年6月25日 @ ぜんぶカン

丁寧な説明を尽くす?!

2015年06月24日 | 考えごと
「丁寧な説明をこれからも繰り返し尽くし理解を求める。」
とおっしゃるときに、ぼくがよくわからないのはさ、
これまで「大反対」の立場だったひとが、
そのような「丁寧な説明」を受けることによって
いきなり「大賛成」へ移ることは、あるのか??

なるほど そういうことでありましたか それならば
これまで「大反対」しておりましたが
これからは「大賛成」をもうしあげます。

…と。ぼくがおもうのは、ただのそれだけで
「大反対」から「大賛成」へと移行するなんて、
なかなかありえないとおもうのね。

「理解を求める。」って言うのってば、
相手が「誤解」している場合に限ると思うんだけれども、
けっこう相手は「誤解」しておらず、
もうすでに「理解」している気もするのよね。
「理解」をしているからこそ「大反対」も出来る。

てゆう流れだとおもっていて。。。

「丁寧」な説明をしても、もし仮に「雑」な説明をしても、
そのどちらでも相手側の「理解」に関しては、
もしかするとそれほどちがわないかも知れなくって。
つまり、「とある一大事」においては【←ここ重要!】、
ひとが「理解」するときにでの
その説明が「丁寧か、雑か。」はあまり関係なくて。
説明それほど受けなくとも、
一目のパッと見で「理解」できてしまうことも
あるのかも知らない……

そして。

「説明を繰り返す」とは、「言う」のみ、であって。

言って言って言って言って言い続ける。
のときにはぼくなんかでは
「聞く」が無いやん?! とおもう。

つまりはよ、
「丁寧な説明をこれからも繰り返し尽くし理解を求める。」
ってひとが言うときには、
「誰の『反対意見』も『聞く』気はさらさらありません。」
であり、そしてやがては、
「『賛成』してくれるまで黙りません。」
そう宣言するようなものなのかも? とかんじた。

じぶん自身、できるのならば、気をつけたい。

2015年6月24日 @ Caterpillar / 芋虫

その「膜」の超えかた

2015年06月17日 | 考えごと
前回からつづきのエントリです。】

最近のブログのここまでのこといったいぜんたい
何について書いておるのか? と申しますとそれは、
「額縁」のことを、
「額縁」に囲まれた「絵」を鑑賞するときのことを、
の、そこから京都の「御土居」を思いだしたんだった。

なので、じきに、その
「鑑賞」についてにつながってくるとおもうっす。
話が、異様に、複雑になってきてしまっててすまぬ。。
でも、つづきを書かないとこのシリーズ終われんもんでさ、
書きます、申します、申しあげます!!

さて。前回エントリで申しあげました、
うすくて伸縮自在の見えない「膜」のコトについて。

そんな「膜」を、
ぺたーってからだに張りつかせながら進んでゆくのか。
すぅーってからだを透過させて目的地へ到着するのか。

できるなら、透過させ、超え、通り抜けて、
ほんとうの意味で到着したい。となると、では、
どうしたら「膜」を抜けることができるのか?!

的な問題をかんがえているんだけれども……

あのぉ、よく、わかりません。

ぼく自身ができていないことだからさ、
ちゃんとできるようになりたいとおもいながら、、
すこしだけ妄想の理屈で申してみますと、、、
やはりなにかの「手続き」が必要だとおもったのね。

入り口の横にある「受付」カウンターのおねえさんや、
「門」に立つ門番のかた、「関所」で守る番人のかたから

通って、よし!

と言ってもらえるような。。。
それはお金だけではなくって、通行証や手形だけでもなく、
なんか服装とかさ、たたずまいとかことばづかいとかの
なんて言いますか「礼節」であるかのような‥‥

ああぁー、言うのはかんたんなのだけどねぇー。

なにかはよくわからないけど「膜」を越えるためには、
なにかの「行為」や「行動」や「手続き」などが
あるんではないか???

てゆうよーな、
「観光」についての話の次にはまたもとに戻りまして、
「鑑賞」のコトなのですがっ!
それはさらにまた次回へとつづきますです~。

2015年6月17日 @ Man Of The Match

ふたつの到着のしかた

2015年06月16日 | 考えごと
【さらに、前回エントリからのひきつづき~。】

これはじぶんのなかで完全に覚えがあることですので、
自戒をこめて申しますのですが。
たとえば、団体の観光バスでおとずれた観光地では、
たとえば、ぼくのような観光客が、
厚顔にふるまってしまうようなことがある。

それはでもぼくがおもうのは昨日も申しあげました、
越境せずに「目的地」へ着いてしまったことによる
ギャップから来るものではないか?! っておもって。。

うーんと、いや、なんか全然うまく言えてないけれど…

えーと、なんて申しますか。。。
「京都」だけに限らず、そして「観光地」だけに限らず、
あらゆる場所での「目的地」を訪れるときには、
その「目的地」へと「到着」はするんだと致しましても、
「ただ到着する」場合と、「本当に到着する」場合、という
ふたつの「到着のしかた」があるって考えていて。

あ、やっぱ、わかりづらいっすよね。んー、どうしよう。

この場所(家)とあの場所(目的地)とのあいだには、
すくなくともひとつ以上の見えない「線」が介在していて
(「京都」で申しますと「(現在の)御土居」のごとく)。

その「線」とはつまり、
うすくて伸縮自在な「膜」みたいになってるからさ、
「線」の範囲を越えようとするときには、
ぺたーって「膜」がからだに張りついて。んでもそれは、
見えない・感じることのできないものだから、
じつはからだに張りついていることだってもわからない。
そしてそのまま「膜」の張りついたまま「目的地」へ…

…とゆう状態が「ただ到着する」でございまして。

もうひとつの「本当に到着する」とはさ、
その見えない「膜」をなんとか通過・透過し
からだごと「目的地」へ到着する。の状態。。。

「膜」越しで感じられる景色や温度や匂いと、
「膜」を越えてつまり「線」を越境させて
感じることのできる感覚は、やはり全然ちがっていて。

そこを超えていかない限りは、
本当には「到着」できなくって。ですから、
こちらと先方とのあいだには深いギャップが生じる。

また。さらに申しあげますと、
その「『膜』を透過させた移動」のコトを、ぼくは、
「ブレーク・スルー」って呼ぶのではないか?!
とおもったんだよね。ま、ちがうかもだけれどもさ~。

2015年6月16日 @ Stardust Train

額縁ライティング

2015年06月07日 | 考えごと
【先日申しあげました「額縁」のことについてさらに。】

この先日のエントリでは、
「絵」を描いてからそれに似合う「額縁」を探す場合と、
「額縁」に触発され「絵」を描き始める場合、
のふたつの「絵」の描き方があるのだとうかがって。

じぶんのなかでは「額縁」って、
「絵」を描いた後で填めることしか頭に無かったからさ、
「額縁」によって「絵」がうまれる。
なんて、そんな真逆の発想にとっても驚いたのよね。

(朱音せんせい、その節は、ありがとうございました!)

そして。そのことでね、また思ったコトをもうします~。

それは、たとえばじぶんの場合では
「文章」を「書く」ときに、
書かなきゃの気持ちはあるけれどもでもなかなか書けず、
ずっとずっと筆が進まないとき。てゆうのがあって。
そんなときに、ふと
(あ、こんなふうに書けば、書けるかも?)
っておもったらこれまで全然書けなかった「文章」が、
すこしずつ形をなしてゆく。。。

みたいな感じの状況が幾度かございまして。それってさ、
うえで申しました「絵」のことと照らし合わせてみますと…
(あ、こんなふうに書けば、書けるかも?)
っておもったのは、

「文章」における「額縁」が見つかったからではないか?!

とそのように感じたんだよね。
つまりこれまで描かなかった「絵」が「額縁」によって
描き始められるようになる事態と同じく、
「文章」もある「額縁」との出合いより書けるコトがある。

んでもここで問題になってくるのはよぉ、
「絵」での「額縁」は形があって目に見えるのだけれど、
「文章」における「額縁」とは
物体では無いから目に見えないんだよね~。

ですからそのこれなんとも申しあげにくいのですが。。
これまでのあの
全く書けなかった「文章」が書けるようになった瞬間とは、
もしかしたら何か「額縁(のようなもの)」と、
じぶんが出合った瞬間なのではないか?!

ってなんかちょっと想像してみたっす。

だけんどもさぁ、
「文章」における「額縁」ってば、
いったいぜんたい何のコトなのだろう???

2015年6月7日 @ I Can Make It

約束、冗長、フォーマット。

2015年05月31日 | 考えごと


【これまでのエントリ。】

・第1回 とある予告的な。 2015-05-18_MON
・第2回 「将棋」は、戦争のゲームなのか? 2015-05-19_TUE
・第3回 そう思った3つの理由。(前編) 2015-05-20_WED
・第4回 そう思った3つの理由。(後編) 2015-05-21_THU
・第5回 必死のお願いと「持ち駒」のこと。 2015-05-22_FRI
・第6回 わたしが「持ち駒」となる時には‥‥ 2015-05-23_SAT
・第7回 プレゼントを抱きながら。 2015-05-24_SUN
・第8回 「贈る」か、「戦場」か。 2015-05-25_MON
・第9回 トイレ&食事で、成る?! 2015-05-26_TUE
・第10回 ひとは「成る」か。 2015-05-27_WED
・第11回 こじつけの理屈だけれど… 2015-05-28_THU
・最終回 先に、とゆう矛盾?? 2015-05-29_FRI
・おまけの回 『そして父になる』の「なる」のこと。 2015-05-30_SAT




とゆーわけで、このこんかいブログシリーズの、
エピローグ的な話を3つ申しあげます。

まずは、たとえば
こんかいのような「第〇回」とかさ、ほかには、
「其の壱」や「前編」と云うことばでブログを書くときに
いつも感じるのだけれども。

そのことばで書き始めたら最後、
「最終回」や「後編」や「おしまい。」や「お開き!」って
しるすまでシリーズはつづき。
そのブログの文章をとくに誰が読むわけでもなく、
でもなんかじぶんと致しましては
どーしても中途半端では終われないとゆーか。

えと、なんて申しますかそーいうときに、これは
「じぶんとの約束。」なのだと感じてさ。
この感覚ってば、
じぶんなりにどこかなんとなく面白いって思ったんだよね。

そして、ふたつめは、、

こんかい申しました「将棋」での「駒が成る。」のことは、
シリーズ第1回めの時にも申しあげましたが、
たしか去年の夏くらいに骨格的な事は思いついて。
それからは、んでも書こう書こうと思っても、
なかなかタイミングが合わなかったりで書けず。。

当初の予定だとさー、
「成る!」とゆうタイトルの一回で書こうと思ってたのね。

それが、本日のこの「エピローグ」を含めたら、
「全14回」になってもうて。

って云うのもさ、もういっそのこと
「冗長」で書こう! ってはじめに決めちゃって。
もしかすれば「140字」でも書けるようなコトを、逆に、
長時間(結果的には2週間)かけてダラダラ書こう!
みたいな、なんか時代にそぐわない的な???
そんな書きかたと相成りました。

最後、みっつめのことは、、、

このシリーズの毎回冒頭では、
【これまでのエントリ。】とゆう「目次」を
つけていたのですが。この「目次」のフォーマットは、
ちきりんさんのブログ「Chikirinの日記」での
とあるシリーズを見たときにね、
あぁー、すばらしいなぁ! と感じまして。

このフォーマットで記しますと、
毎回ご挨拶やシリーズの説明を書かなくてもよくなり、
(それを見れば今このブログでは
 なにかのシリーズをやっているんだなぁ。とゆうことが
 パッと見で分かるから。)
それはすばらしいデザインだなぁと感じましたので
あの、その、いただきまして。。。

ちきりんさんに、多大なる感謝!!

さて、それではでは~。このブログシリーズを
お読みくださったかたがおられましたら、
どうもどうもありがとうございます。ありがとうね~。

すばらしい日曜日となりますよう‥‥

2015年5月31日 @ Lightly…