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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

針の発明。

2015年08月26日 | 考えごと
先日8月15日放映のEテレ『SWITCHインタビュー 達人達』、
「山極壽一さん×関野吉晴さん」の回でね、
探検家・関野さんが
「北度60度以上の極寒の地で、
 人類が住めるようになったのは「針」の発明があったから。
 はじめは羽織るだけだった防寒具が、
 裁縫によって密閉できるようになり、寒さに適応できた。」
のようにおっしゃってて。なるほどなぁとおもいました。

考えてみれば、お裁縫の「針」ってじぶんではつくれない!!
「針」の極細さはもちろんですがそこへさらに
「糸」を入れる小さな穴を開けるのだって、困難そう。。。
じぶんがそんな「針」の恩恵を受けていることさえ、
これまで考えもしなかった~。

‥‥と、そのおはなしから少しだけ妄想してたのはねぇ、
「縫い合わせる」の一歩手前、
「糸」をこちら側からむこう側へと「通す」ための
「針」のこと。

「糸」ってぇのはさ、材質がふにゃふにゃだから、
そのまんまでは布のむこう側へ通すのは不可能で。
なので、「糸」を「針」の穴に入れ、
「針」をむこうへ送ることによって「糸」を通す。

そんな「糸」のコトをね、仮に、
「糸(のようなもの)」としまして。それを
「なにか通したいものごと」の比喩だと致しますと。。
「糸(のようなもの)」だけでは通すことができないから
「糸(のようなもの)」を、
「針(のようなもの)」に取りつけて、そして、
「糸(のようなもの)」を通してゆく。

‥‥のコトが、なにかをむこう側へ通すためには重要でぇ。
とすればだよん、
「糸(のようなもの)」のほうだけじゃなくってさ、
「針(のようなもの)」の発明、みたいなことも、
たいせつだってかんじましたっ。

たぶんその「針(のようなもの)」てのはさぁ、
便利なんだけれど、つかいかたを誤れば、危ないもの。
だともおもった。

2015年8月26日 @ ハリがないと

「尊敬」考

2015年08月21日 | 考えごと
「尊敬」について考えてるのだけどね。
「尊敬」と云うことばって非常に強いことばだとおもうから
例えば「尊敬する人は誰ですか?」的な質問てのもさ、
かなり強い質問なのだとおもって。

「尊敬」には、
「ちょっとだけ尊敬する」みたいな「レベル」は無くって。
相手に対して、
「尊敬」を「する」か「しない」か。の2択。
(「尊敬」を「される」か「されない」か。の2択。)また、
「尊敬」が「できる」か「できない」か。の2択。
そのどちらかによって、人を分けてしまうことばなのかも…
とおもったのね。

だれかから、
「尊敬」を「される」のかたがたとは
すばらしくて、もちろん、すばらしい、のですが。
「尊敬」を「されない」側に入った人は、
もう、なんてもうしますか、
「人で無い」かのようにおもわれてしまうところが
あるかもしれぬ、と。。。

「尊敬」が「できない」ならば、それはそれでよいのに、
「尊敬」が「できない」イコール
「バカ」にしてもよい。とまでなってしまうと、怖い。

そうなれば、途端に暴力のようなことが出てきたり‥‥

さいきん、ぼくが「尊敬」ということばに
過敏に反応してしまうのは、そーいうのが理由やも??
と感じたの。

それならばっ、
「尊敬」ではなく、「敬意」でよいじゃん!!
「敬意」というのは「する」か「しない」じゃなくって、
「持とうとするもの」だとおもうので。つまり、
ちゃんと持ててるか?! をじぶんに言い聞かせるもの。
2択でないんだよね。

‥‥と。
そのようなことを考えておりましたら、ふと
以前の「ほぼ日」で岩田聡さんがおっしゃった





だいたい人間って、
自分の得意なことと他人の不得意なこと比べて
不公平だって文句を言うんですよ。






の「ことば」をおもいだしました。
できるのならば、気をつけていたい。。。

2015年8月21日 @ 富士夫人

ことばの絹糸

2015年08月19日 | 考えごと
たとえ どんな「ことば」であっても
その「ことば」を
言う以前 と 言った以後 とで比べると
言う本人のからだが ほんのすこしだけでも 変化している

って云う言説は どれだけ信憑性があるのかは ぼくには
よくわからないけれど でも今では
ぼくはその言説を信じてる

ですので ちょっとだけ じぶんなりに考えてみたい

口から(もしくは手から指から親指から)出た「ことば」は
口から出るカイコの絹糸のように
発語した本人のからだにまとわりつき やがて
目には見えない「ことば」の繭が できあがる

その繭より 本人は 「ことば」の絹を採取し
その絹より 本人は 「ことば」の衣を編み
その衣を 本人が 纏う

長いこと 纏えば 纏うほど
はじめはあんまりしっくりきてなかった衣でも
だんだんと 似合ってくる こともあって

たった一日だけでは 変化は微量かも知れないけれど
たとえば 十年間 まいにち
同じような 繭と絹と衣の作業をつづけるであるならば
十年前のあの日と 十年後のこの日では
本人の見た目はおろか 体型や 顔つき こころの内面まで
まったくもって変化している

たった一言 言った「ことば」は 数日後
繭となり 絹となり 衣となり 本人が 纏うこととなる
その衣を 纏いつづけるか 似合うようになりたいか
それとも 脱ぐことはできるのか

は わからない けれど

もしそうならば では 黙っていよう っておもってもさ
過去に言った「ことば」は つまり
纏った衣は もうすでに どれだけでもあるのだから
本人は 本人を すこしずつ変化させながら
この日まで来てしまった
その過去からの変化は 簡単には 取り消せない
よくも わるくも くも らくも みぎも ひだりも

さて と あしたはどんな絹糸を 吐き出すのか

2015年8月19日 @ 右から左

ふたつの主張について。

2015年08月15日 | 考えごと
ふと、思ってしまったことを、申しあげます。

「ホウアン」をめぐって、
ふたつの主張が(こちらのほうが正しいのだ!)って、
おたがいが正しさを争い合う。この場合、
どちらのほうが正しくてどちらのほうが間違いか?!
なのでは無いって、ふと思ってしまったんだよね。

どちらとも、正しい。。。

ここで、仮に、
「『ホウアン』が通ると『センソウ』になってしまう。」
の主張を【L主張】と致しまして。
「『ホウアン』を通さないと『センソウ』になってしまう。」
の主張を【R主張】と致します。

【L主張】と【R主張】とは一見、主張が
真逆のように矛盾しているように見えるけれども。
じつは真逆では無くて矛盾もしてなくて、
どちらともが間違っておらず、どちらともが正しい。
そう言えるのでは無いか、って。

「ホウアン」が通ればこれは今すぐでは無いにしろ
【L主張】の言う通りいつの日か「センソウ」になり、
「ホウアン」が通らなければ
【R主張】の仰る通り「クニ」を守ることができず
近いうちで「センソウ」になる。つまりは、
「ホウアン」が通っても通らなくてもどのみち
「センソウ」になる……

(それらの「センソウ」の始まり方はちがうとしても。。)

と。そのように考えてみるとねぇ、なんか、
すえ恐ろしくなってきちゃって。
「ことば」てのはつよい「パワー」があるから、
実現されてしまうっておもうんだ。

そして。でも、ぼくがよくわからないのはさ、
【R主張】のかたがたが主張なさる
「もう今すぐにでも『ホウアン』を通すべきである!」
のように仰る「今すぐに」のところでございまして。
「今すぐに」と云うことは、
今現在の状況を早急にでも変えないとよろしくない、
現況ではもうすぐにも「センソウ」が始まってしまうので
そうならないために「ホウアン」を通そう!!!
と云う論理だと思うのですが。

これは、ぼくが無知だからなのかもわかりませんけど、
(現況ではもうすぐにも「センソウ」が始まってしまう)
のコトがどうにもイメージできなくって、
今じゃないといけない理由のこと、と、さらには、
「『ホウアン』が通れば未来永劫まで絶対に
 『センソウ』の起きない世の中になります!」
と云うのも信じることができにくい。。。

(「ことば」があまりにつよすぎて、逆に‥‥)

うーんと。あ、なんかさ、
「ひとりの『神様』を『信じる』かどうか。」の、
宗教戦争ごとくな争い合いが、今、起きてるのかねぇ???

空と、雲と、蝉と、花と、実と、土と、魂と、を想いながら…

2015年8月15日 @ 明日はどうだ

「未来」に「賛成」できるか?!

2015年08月11日 | 考えごと
無知ゆえに間違いや不備等あるかと存じますが、
じぶんなりに考えてみたことを。。。

「原子力」に「反対」ということは、じどうてきに
「火力」に「賛成」になるらしいので、
化石燃料のことや環境問題について考えると、、、
どちらにも「賛成」しづらくて、だから
どちらとも「反対」なのだ。と成ってしまえば、あとは、
「新エネルギーの開発」に「賛成」するのか、
(とは云っても素人なのでアイディアなんてまるで無い…)
そもそも「電力」自体に「反対」するのか。

「電力」無しの生活は、考えられない。

コンピュータの電源やスマホの充電や無線LANの機器、
音楽だって聴きたいし、テレビだって見たいし、そして
冷蔵庫電子レンジ炊飯器洗濯機掃除機扇風機エアコン照明、
さいきんではガスこんろだってお風呂だって
電源を入れなきゃなので、
「電力」が無ければもう火さえ点けられない。

信号の点滅が消えてしまえば、
大きい道路であればあるほど横切るのはむつかしい。
あとは、さらには、
あらゆるお店や工場や事務所や施設や会社の仕事で使われる
「電力」のコトもあって‥‥

そんな状況下で、ぼくは
「電力」に「反対」なんて出来ない。なので、
「電力」には「賛成」です。

「電力」には「賛成」なんだけれども、、、

「電力」の「依存」に「懸念」はしたいなぁ。
とはおもいます。例えば「原子力」へ「依存」することに、
「賛成」は出来かねるし。でもかと言って「依存」に
「反対」なのだとことさらつよく言うコトもはばかれる。
なぜならば、ぼくもそうなんだけれど、
「依存」ってとても根が深いから
「依存」に「反対」を表明しただけでは脱却は出来ないし…

(どんどん「依存」して行きましょう、的なのは、怖い。)

じぶんの出来る範囲のことで申しますれば、
「節電」に「賛成」っす! なのですが、
「行き過ぎた節電」には「反対」。

それ以上のことは、なんにもわからない。
もしも未知の「新エネルギー」が開発され、そのために
電力会社もガス会社もすべてが倒産してしまい、
そのとき失業したひとびとの雇用問題はどうするんだ?!
と問い詰められても、それはぼくにはわからない。。。

「未来」に、「賛成」するのか、「反対」するのか。

2015年8月11日 @ Electric Prophet ~電気じかけの予言者~

「常識という壁」の考察。

2015年08月09日 | 考えごと
「さぁ行こうか 常識という壁を越え
 描くイメージはホームランボールの放物線
 そのまま消えちゃうかもな
 いいさ どの道いつか骨になっちまう」


      未完 / Mr.Children





ってゆーのをさ、って。いや。あの、その
前回エントリからの続きなんだけれど、、、
「壁」を「壁」だと認識できる。っていうこと自体が、
そもそも、特殊能力なのだとおもったの。

無限に広がる「壁」の中から「扉」を探し見つける。
のコトもさぞ困難かと存じあげますが、
その「扉」だって多分すぐには見つからないだろうから、
見つかるまで探すモチベーション保つのだって、大変だ!

高くて硬くてぶ厚い「壁」の向こうに、
【未来がある】って信じてるからそれも出来るだろうけど、
果たして本当にそーなんだって誰が言い切れるっ?!

目の前にある「壁」はじつは「壁」でなく、
「岩」なのかも知れないよ。
ぶ厚いんじゃなくてさ永遠の向こうまでひきつづいている
「コンクリートの塊」かも知れないよぉ。。。
そんな「塊」のコトを「壁」だって誤解し、
どこかに「扉」は在るはずだ!! っておもっても、
それは実際なにかの「塊」だし‥‥ とゆーか、
ぼくの存在が仮に【蟻】だとしてだよ、その
蟻の目から見た、横たわる【象】の「体」かも知れないぜ。

蟻であるぼくが、
どれだけ象の「体」の表面を探し歩いたとしても、
「扉」なんかあるわきゃ無いし。それ「壁」じゃ無いから。
象だから。さらに知識も無いからさ、
いつまで経ってもそれが象だってわからないし。でも
「壁」だって信じ込みどこかに「扉」もあるはずだって、
思い込み、一生かけて「ノック」を繰り返す。。。

力無い蟻の「ノック」では、象は、
じぶんの体が叩かれていることにさえ気づかない。

‥‥と、そんなふうには成らなくってさ、
ちゃんと「壁」を「壁」だってわかる! ってコトは、
これはすばらしいことだし。そしてもしかしたら、
そのようにきちんと「認識できる」のコトが、
いわゆる【知性】なのかも知れない。とも思った。

「常識という壁」の、「常識」が「壁」だってわかるなら…

2015年8月9日 @ WALTZ

「未来へ続く扉」の考察。

2015年08月08日 | 考えごと
「未来へ続く扉
 相変わらず僕はノックし続ける
 し続ける」


    未完 / Mr.Children





「未来へ続く扉」というものが本当にあったとして、
その「扉」を「ノック」し続けてゆくことが、
じぶんの「未来」のためには重要! なのだとしても、
その話はさ、そんな容易じゃあ無いのかも。
っておもいまして。

「未来へ続く扉」というコトはだよ、
目の前に「未来」があったとしてその「未来」とは
平原が壮大に広がるようにあるんではなくて、
「現在」と「未来」とのあいだに誰も越えられないほどの
高くて硬くてぶ厚い「壁」が立っていて。
その「壁」のどこかに、
「壁」とは性質・材質のちがう「扉」が存在してる。
(「壁」に「扉」がいくつあるか、とかはわかりません…)

「『現在』と『未来』とのあいだにある『壁』」って、
いま簡単に申しましたですが。
「『現在』と『未来』とのあいだ」なのだからさ、
その長さは無限だよ。無限!! 万里の長城より長いのよ。
時間軸の「現在」と「未来」とのあいだすべてだからねー。
そんな無限にそびえる「壁」の中から、
「扉」を見つけるって、けっこう大変だと思ったんよねぇ。

あっ、あれが「未来へ続く扉」ですか~。

って一目でわかるならよいけれど実際はどーなんだろ。
一目でわかる「扉」もあれば、
保護色のように一見わかりにくい「扉」もあって。
これは「壁」でなく、「扉」だっ!!
って確認するだけでも困難かも知らない。。。

毎回超える「未来」によって「扉」の形状が毎回違うの。

「扉」ではない「壁」を「ノック」したって意味無いし、
ちゃんと「扉」を、それも
ちょうどよい加減の「ノック」じゃないと届かないし……

…と、ここでふとおもったのはねぇ、
「扉」ってば、「受付け」みたいなものかねー??

動物園や美術館や会社や駅のホーム等へ入るためには、
まずは「受付け(なるもの)」を通らんと行けんくて、
ただ単に闇雲に
「(施設の)壁」を越えようとしてもダメ!!

んでも、ここでぼくが申しております
「『未来へ続く扉』への『受付け』」とはさ、
どこか施設のように「受付けはこちらです。」って
わかりやすいデザインによる案内表示板とか無いので、
じぶんの力「のみ」で探さなきゃ、見つからない。

つまりはっ、
「壁を超える。」とかを漠然に考えるよりも、
「受付け」である「扉」を探したほうが賢明だとおもい、
その「扉」を「ノック」したいぜ。とおもいましたっ。

2015年8月8日 @ 蜘蛛の糸

ふたつの実行?!

2015年08月04日 | 考えごと
「不言実行」ということばを、てゆーか、考えかたを
はじめて知ったときには驚いたーっ!!
それは確か、たぶん原丈人さんの書籍を読んでいるとき、
だったと記憶しているですが、(ちがうかな?)
あぁー、っておもったもん。

「不言実行」でない
「有言実行」ということばはもちろん知ってたけれど、
じつを言えばそれしか知らなかったからさ、
「実行」と云えば「有言実行」、みたいな。。。
でも「有言実行」ってば、なんかちょっと
前提みたいなところがあるからけっこうキツくって。
「有言」させたら「実行」しなければならぬ、的な‥‥

の、そんなときに「不言実行」を知りまして。
言わないままあたまのなかで秘めたまま「実行」するって、
画期的~!! とおもったんだよね。
この世は「有言実行」だけでは無かったのだ、と。

どーしたら、実際に実行する
実現のパフォーマンスは上がるのか?! を考えてて、
「有言」と「不言」のコトもおもいながら
ふとおもいだしましたのが、、、





「不言実行」寄りの姿勢で「有言実行」するのが、
いちばん大人っぽくて、かっこいいんだよなぁ。


糸井重里さん著『ぼくの好きなコロッケ』31頁より。)





という糸井さんの「ことば」なのですが。
その意味は、ぼくはまだよくわかっていない。
「『不言実行』寄りの姿勢で『有言実行』する」なのだから
基本の軸足は「有言」のほうにあって、
「不言」に「寄り」の「姿勢」?!

実現には、
「有言実行」だけでも「不言実行」だけでも足りなくて。
しかも「『有言』寄りの『不言』」のほうでない
「『不言実行』寄りの姿勢で『有言実行』する」を、
なんかもうすこし意識させてイメージをさせたいですっ。

2015年8月4日 @ チャンスは今夜

ことばに引っ張られてしまう。

2015年08月02日 | 考えごと
うまく説明できない「ことば」とか、
かんたんに「ことば」にしてしまうと、たとえば
大事な事柄が抜け落ちてしまったりする「なにか」とか、
そんなような「ことばにする。」における
懸念や留意点みたいなことを最近なんとなく考えていて。

そんなときのさくじつ、NHK総合
日航ジャンボ機事故 空白の16時間
 ~"墜落の夜" 30年目の真実~
』の番組を観ました。

1985年8月12日。
群馬県・御巣鷹山に墜落したジャンボ機の、
墜落現場の特定を経て生存者のかたの確認がなされたのは、
事故より16時間後の翌日13日午前11時前後。。
とくに、現場特定には情報が錯綜し、
現場近くのかたから寄せられた通報も活かされぬまま、
機体確認は朝明るくなってからの午前4時半過ぎ…

なぜ、機体確認が遅れてしまったか? とは、
さくじつのテレビ番組によりますと、、、
情報が錯綜する中での当初の報道では、
現場は「御巣鷹山」より数キロ(直線で約8キロ)離れた
「『御座山(おぐらさん)』の斜面である」と。

それによりその「御座山」付近にて捜索が行われていた。

このこと、ぼくは番組で初めて知り、
ショックをおもいながらテレビ観ていたですが。
誤報が悪いかどうかとかはここでは抜きにいたしまして。
「御座山」と云う具体的な
「ことば」によって引っ張られてしまうあたまやからだ、
そのような思考の癖っていうのは、
じぶん自身にもやはり日々たくさんございまして。

「ことばにする。」ことはとっても大事だけれど、でも、
「なるべく具体的にしない。」のもときに大切で。
(むつかしいことだとはおもいますが…)
番組を観ながら、事故の哀悼を想いながら、、、
「ことばにする。」のことについて考えておりました。

2015年8月2日 @ 見上げてごらん夜の星を

「舞台」と「客席」のあいだ

2015年08月01日 | 考えごと
劇場の中では、その空間が
「舞台」と「客席」とに分かれていて。
なぜ、お客さんはおんなじ空間内である「客席」から、
「舞台」へと駆け上がれないのか?!
‥‥っていうよーな問題に興味があるのだけどさ。

それは、たとえば
「それをすると警備員さん達に『怒られる』から。」
とかでは無いっておもうんだよねぇ。

なんか、べつの、理由のよーなものがっ???

おんなじ空間なのだから、まったくおんなじ空気、
のはずだけれども。いや、でも、
なんかちがう時間が流れている、みたいな‥‥?
つまりは、「舞台」や「客席」と呼ばれるような
規格的な「線」ではなくって、
もっと、心理的な、精神的な、宗教的な、聖域的な
「線」が引かれてて。

お客さん側にとってみればその「聖域的な『線』」とは、
「客席」より「舞台」へと身体的に超えたいと
思わせさせない「力」を持っている。。。

先日マームとジプシーの『cocoon』を観劇いたしまして、
そのようなことをあらためて感じたの。
なんかうまく言えないけれど、
『cocoon』の舞台を観ながら思っていたのは、
えーと、もちろん戦争のこと、等ではあるですが。
とっても大勢な人数の役者さんがたが、いっせいに、
規則ただしくばらばらに、すさまじいスピードで
縦横無尽に動かれ展開してゆく美しさ。

その「舞台」の内部に、完全に異物であるぼくが、
もしも紛れ込んでしまったならば、
芝居が壊れるというよりも、
ぶつかって、大事故・大惨事が起きてしまう。

だから「客席」で座るぼくは、
「舞台」へ駆け上がれないし駆け上がらないし、
「舞台」を「客席」より眺めるのがちょうどよくって、
しかもそれで、精一杯…

「舞台」への距離感が(遠い・近い)とかではなくって。
また、空間が「ちがう空間」って云うわけでもなく。
おなじ「場所」ではあるのだけど、でも、
おなじ「空気」じゃなく、かと言って
なにもかもまったくちがう「温度」でもない。。。

うーむ、これじゃあ説明になっていないわ、、

「からだ」はさ、「客席」と「舞台」とのあいだにある
「線」を越境できないけれど、
目に見えぬ「たましい」は「線」を超えようと試みる。
そのとき「線」のうえでは、
「客席」側の「たましい」と「舞台」側の「たましい」が
ぶつかり合うっ!!!

そんな「ぶつかり合い」のコトをね、つまり、
「鑑賞」って呼ぶかもしれないなぁ。
とおもいました~。

2015年8月1日 @ 青い闇をまっさかさまにおちてゆく流れ星を知っている(blue darkness)

じぶんに、伝わる?!

2015年07月29日 | 考えごと
どうしたら、じぶんのことばが、じぶんに、伝わるだろう?
とおもいながら、ぼくは、
ブログ書いてる気がしてきたのね。

つまり、伝える先の「じぶん」のことを「本人」でなく、
「他人」だと見ていて。その、
「じぶん(本人)」から「じぶん(他人)」へと、
なんとかコミュニケーションを図ろうとしてみるも、
「じぶん」という「他人」に伝えようとするだけで精一杯…
いや、むしろ、ちゃんと「じぶん」に伝わった経験は、
これまでで一度もないかも知らない。

そんな、
「じぶん」にすら伝わらないことばを、
他の誰に伝えられると云うのだろう。。。

っていうよりも「伝えたいことば」なんて、
ほんとうにあるのだろうか?!
それさえも、よく、わからない。

うーんと、なんと申しますか‥‥

「本人」である「じぶん」が伝えたいことばより、
「他人」である「じぶん」の聞きたいことばは、
なにか? を、
「じぶん(本人)」から「じぶん(他人)」へ
訊いたりしながら。その、
「じぶん(他人)」からの応答をまずは
聴くことが大切なのかも??
と、「じぶん(本人)」としてはおもいました。

できるかどうか、わからないけれど、、、

2015年7月29日 @ ソラニン

忘れないために、思い出す。

2015年07月26日 | 考えごと
「忘れない。」とは、
「忘れていない。」のことで。それとは、つまり、
「覚えている」っていうことでもあり。では、どうしたら
「覚えている」ことができるか? と云えば、
「思い出す」のがだいじなのだとおもったの。

あたまのなかで思い出したり、
紙に記しておいたのを眺めたり、
お喋りをしたり、本をよんだり、歌をうたったり‥‥

の、それは、それとして。

じぶんの記憶にある事柄だけしか、
「思い出す」ことはできないか? ともおもって。
たとえばご親戚やご先祖のことで申しあげますと、
もしも詳細な家系図みたいなものは無かったとしても、
その時代のこの場所には
もしかしたら「誰か」が居たかも知れない。。。
顔も名前も性別だってもなんにもわからないけれど、
居てもおかしくないならば「誰か」は居たかも知らない。

その「誰か」を「思い出す」ことは、可能かっ?!

過去、居たか居ないのか本当はわからない「誰か」の存在を、
「思い出す」ことが「可能」だとすればだよ。ぎゃくに、
未来、のことだって、その気になれば
「思い出す」ことができるよーな気もしてきた。

結婚すらしていないぼくが言うのもあれなのだけれど、
いつか、もしも、生まれてくるかも知らない
「孫」の「孫」のそのまた「孫」の顔だって、
ぼくは「思い出す」ことができるものなのか。

「誰か」の「孫」の「孫」のそのまた「孫」でもある
ぼくの顔のことは、その「誰か」のかたには、
ちゃあんと「思い出す」ことができた!!
のかも知れない‥‥

その仮の事実を「忘れない」ために、
ブログに記そうとおもった。

2015年7月26日 @ 波間にて

相手の行動「しか」見えないとき。

2015年07月24日 | 考えごと
考えててもなんか考えがまとまらなくって、んでも、
まとまっていないまま書いてみよう。
とおもったことを。。。

えーと、これはたぶんなのですが、
他人や相手の行動しか見えないとき。というのがあって。
相手の行動はばっちりよく見えているんだけれど、
逆に、じぶんの行動がぜんぜん見えていないとき‥‥

そういうときってば、相手の行動「だけ」を見ているから
なにかの不都合があれば、
その「相手の行動のせい」、もっと言ってしまえば、つまり
「相手のせい」にしてしまいがちなんだけれど。

相手の行動がうまれた背景には、
じぶんの行動だっても関与している部分あるかもなぁ。。
って思いながら。んでも、そのじぶんの行動が
うまれた背景にもその前に相手の行動があって、
そしてさらにはその相手の行動の直前にはじぶんの行動が…

なんか、因果、みたいな?!

こーいうふうに考えてしまうとね、どこかの
沼に足を持って行かれてしまいそうな感覚にもなって、
苦しいのだけれど。でも、あと、もう少しだけ。。。

どんなときにでも、ちゃんと
じぶんの行動をじぶんで見る。って出来るのかねぇ???
これはたしか以前にどなたかが仰っていたことなのですが、
人間の「目」は顔の前方についていて、
だから自然と前を向くようになっている。
そんなとき、どんなにじぶんが振り返ってみたとしても、
その先にはじぶんはおらず、
じぶんの「目」ではじぶんを見ることが出来ない。

のようなことを思い出してから、ふと思ったのはさ、、、

相手の行動「しか」見えないときの、その
相手のコトだっても果たしてちゃんと見えてるかっ?!
ってのもさ、なんか怪しい気もしてきた。
もちろんこの「目」で見ているのだから
実像として見えている。はず、なのだけれど。
じつは、じぶんの見たいようにしか見えていなかったり…

1秒前に見た景色でも、記憶ちがい、させている??

2015年7月24日 @ 斜陽

「いいもん」は「わるもん」か?!

2015年07月23日 | 考えごと
よく言われているよーな、
「いいもん」と「わるもん」という区別があったとして。
その「いいもん」側のほうが、
じっさいのほんとうには「いいもん」であるかどーか?!
が、なんかちょっとわからんくなってきたんだわね。

「いいこと」だけをしようとしている「いいもん」って、
もちろんすばらしくって。。。

でも、ときに「いいもん」は、
「いいもん」であるじぶん自身の「いいもん」さの度合いを
絶対に譲りたくないっ! とおもい、
かたくなに、自身が「いいもん」だとがなりはじめる。
目の前にいる相手の事を「わるもん」に仕立てあげてでも、
自身は「いいもん」であり続けたい。

「いいもん」のことばとはいつも結構「正しい」から、
「わるもん」に仕立てあげられた相手側には
たいてい反論や弁解の余地がなく
(じぶんは「わるもん」なのだ…)って認めるほか無い。

と、そーなることによって、
「いいもん」はずっと「いいもん」で居続けられる。
「いいもん」が「わるもん」となってしまうことによっての
「いいもん」で居られなくなる事態は避けられた。

そして「わるもん」になった相手側は、反省をし始めた‥‥

逆に言えばさ、相手が
敢えて「わるもん」の立場を引き受けてくれたことによって
ぼくは「いいもん」で居ることが出来た。であるとすれば、
それは、
どちらが「いいもん」で、
どちらが「わるもん」なんだろうか??

「いいもん」は「わるもん」で、
「わるもん」が「いいもん」なのか。いや、やはり
「いいもん」は「いいもん」で、
「わるもん」が「わるもん」なのか。

「『いいもん』なのか『わるもん』なのか」の思考が、
頭のなかでは雪のごとく降り積もり、
わたしは、思考の雪かきに明け暮れた。。。

2015年7月23日 @ ネイティブダンサー

星のカービィから「学ぶ」を学ぶ。のつづき

2015年07月20日 | 考えごと
昨日のエントリでは、
ゲーム「星のカービィ」シリーズの主人公
「カービィ」が持つ「コピー能力」から「学ぶ。」を学ぶ。
みたいなことを申しました。なのですが、
じぶんで書いといてはなんなのだけれども、
じぶんの書いたことちょっと間違っているかもなぁ。。。
ておもったの。

あの、すこし、ややこしい話になるかも知れませんが‥‥

それはさ、「カービィ」の場合では、
吸い込んだあと飲み込めばものの一瞬で「コピー」する。
とゆうその、一瞬で行われる「コピー」については、
それは「学ぶ。」では無い! ってかんじたの。

「学ぶ。」ってば、
そんなすぐに効果があらわれるものじゃないし。
そして、まったく同じものを「コピー」することでもない。
のだとおもったんよねぇ。。

つまり、とっても長い時間がかかりながら、また、
学び始める当初では、
学ぶ本人が思いもよらなかった予期できなかった事柄が
いつのまにか「できる」ようになっている。

みたいなことが「学ぶ。」なのだと感じてて。

んでもさ、そのスタートは「カービィ」のように、
「Bボタン」を押して「ものごと」をおもいきり吸い込んで
「したボタン」でごくんと飲み込むっ!!

対象をしっかり見据えながら、もう、そのすべてを
からだへ取り込んでゆく。みたいな??

と、そこまでは一緒なんだけれども。
人間には「カービィ」のような「コピー能力」無いからさ。
いつ、どんな、効果があらわれるか?!
はさっぱりわからない。なにも起こらないかも知らない。。。

でも、いつか、なにかは変化するのだと、信じたい。

2015年7月20日 @ 進化論