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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

「批判」考。

2015年10月07日 | 考えごと
「否定」とか「批判」について考えているんですが、
「否定」や「批判」は、大事なのか、大事じゃないのか?!
みたいなコトなのだけどもね。

まずは、なんでしょう。。。
「否定」の反対語は「肯定」で、
「批判」の反対語は「絶賛」かな。しらんけど。んでも、
もし仮にそーだとすれば、
「肯定」できなければ「否定」できる要素があり、
「絶賛」しないのなら「批判」をする要素がある。
‥‥とは申しましても「否定」や「批判」を、
「される」のってやっぱしイヤなものだからさー、
それを「する」ことにほんとうに価値はあるのか??
を考えだすとよくわからない。

ぼくなんかで言えばだよ、たぶんぼくには誰に対しても、
真に価値のある「否定」や「批判」、またさらには
真に価値のある「肯定」や「絶賛」ですら、
できないんじゃないかとおもえてて。
誰かに対しまして、もしくは、誰かの作品に対しまして、
「否定」や「批判」はおろか
「肯定」や「絶賛」を伝えようといたしましても、
どちらとしてもぼくのことばには価値はなくって。

つまり、ぼくには「否定」や「批判」を
(「肯定」や「絶賛」さえも)おこなう能力がねぇし、
もっと言えば「否定」や「批判」ってぜんたいてきに
むつかしいコトだし、いや、じつを言ってしまえば、
それは不可能なコトなんじゃないか?! と。。
ひとは、誰も「批判」できがたいし、
誰かから「批判」を受けることもできにくい。

じぶんから、じぶんへする「批判」しか、できない。

まぁ、じぶんへする「批判」だってもさ、ぼくには
「批判」する能力がねぇってのはうえで申しましたので、
ただ単にウダウダとじぶんへ「批判」するだけで、
「批判」された側のじぶんの口から
【じゃあ、どーしたらよいんだ?】
て問われてもぜんぜん答えられないし。なのでそこから、
「批判」をしたぼくと「批判」を受けたぼくのふたりで、
【さてどうしよう】てウンウン考え合うしか無いんだけど…

ぼくの場合ですと「じぶんを信じる!」って言いながら、
突き進むのはどちらかと言えば怖いほうなので。
たとえ稚拙でも自らからの「批判」を信じて聞けるような
【自信】は持ちたいなぁ~、とぞんじます。

2015年10月7日

「獲ったど~」的表現。

2015年10月06日 | 考えごと
「獲ったど~!」というのはさ、
よゐこ・濱口優さんが海に潜り何か獲物をゲットしたときに
叫ばれることば(ギャグ?!)なんだけど。
「獲ったど~!」ってほんとうに【獲った】ときにしか、
言うことのできないことばだわー。とおもいまして。

「獲ったど~!」て言うのにさ、でも獲物が手に無く、
さらには海からもじつは何も獲ってきていなかったのなら、
「獲ったど~!」とは言えないし。うそになるから。。。
たとえ、それでも、つい言ってみるとしてみても、
本当には獲物を獲ってきてないもんで、
テンションもあがらずに言うことばにすごみがでない。

なので、実際に獲ってきた獲物を手にしながらでないと、
「獲ったど~!」とは言えなくて。そして、さらに、
それをあたかもギャグのようにしてしまう濱口さんが、
すごいー!! とおもったですが。

じぶんもなにかで「獲ったど~!」て言いたいわー。
ってゆうのをふと思いまして。たとえば、なんだろう???
たとえば、読書のときとかで、
本のなかに潜り何かの思考をゲットし地上へ帰って来て、
ゲットしたその思考を手につかみながら
「獲ったど~!」って叫びたい。みたいな‥‥

それには、ほんとうに獲らなきゃ、言えねぇんだわ。

2015年10月6日

神様からの声を聞く?!(ひとまず、おひらき。)

2015年09月30日 | 考えごと
前々前回前々回前回エントリのつづきです。】

坂口恭平さん著『幸福な絶望』での、
"祈るとは言葉を聞くことである。" (284頁より。)
のことばをよみまして。これまでぼくは
「祈る」というのは、
神さまへおねがいをすることだと思っておりましたので、
"祈るとは言葉を聞くことである。"
というその全く逆のことばにおどろきまして。

それからはこのブログで「お祈り」のことを
書こうとおもって書いていたのだけれど、
やはりちょっとむつかしく。。。

なんて申しましょう。ぼくのなかではさ、
たとえば「なにか重要な用事」があったといたしまして。
でもその用事をすっかり忘れてしまってて、
ふと、ギリギリのタイミングでそのコトを思い出した!!
ていうときにね、ぼくは、
その思い出したことが「じぶんの力」ではなくって、
「神さま」なのか「ご先祖さま」かどなたかは存じませんが
どなたかが、じぶん(のあたま)へ教えてくれたから、
思い出すことができたんじゃないかな?! って感じるの。

もしもそうならばとっても有難いことだし。
いえ、そのかたは、もしかしたらいろいろなことを
いつもぼくに教えてくれようとなさっているのだけれど。
ぼくが「聞く」のができているのは、
たったほんの少しだけなのかもしれない。

できるのであれば、
ちゃんと「聞く」ことができるようになれたなら‥‥
と願いつつブログを書いておりましたっす。
んでもどーしたらよいかはまだわからないけども。
「お祈り」のことじぶんのなかでもう少し考えてみます。

2015年9月30日 @ 羊の歩み

神様からの声を聞く?!(その3)

2015年09月29日 | 考えごと
前々回エントリ前回エントリ、からのつづきです。】

「神様の声を聞く。」て言うことがさ、
どれだけ信憑性があるのかぼくはようわからんですが。
それは、たぶん、だけれど、
「『神様』という存在とはどういう存在なのか?問題」
についての範囲にもなりそうなコトでございますので、
そりゃああまりに果てしなくてぼくにはよう言えんから。。

ですので、
「神様の声を聞く。」ということばのところを見てみようと
おもったのね。
「神様の声を聞く。」での「神様」のぶぶんを、
他のことばで入れかえてみようって。。。

たとえば、
「人間の声を聞く。」ならふつうじゃん。それが、
「地球の声を聞く。」ではふつうのようではなくなって、
「宇宙の声を聞く。」だとふつうはそうは言わない。
(←この「ふつう」ていうのもぼくの主観ではあるけど…)

ほかには、
「植物の声を聞く。」では、
ほんとうのところはあるかどうかわからないだけれど、
なんかありそうな気がする。(水が欲しい‥‥)とか~?!
「動物の声を聞く。」ですと、
それが「声」ではなくっても「心」としてなら、
めっちゃある気がする。
「いぬの声を聞く。」や「ねこの声を聞く。」ならば、
もうなんかかんぜんにある。とおもう。

「風の声を聞く。」とか「岩の声を聞く。」とか
「海の声を聞く。」とか「大地の声を聞く。」とか、
「月の声を聞く。」とか「太陽の声を聞く。」とか。。。

このさいしょで申しあげました
「人間の声を聞く。」ていうのだってよ。
その【声】が外国語であれば聞いても意味はわからないし、
いや、たとえ同じ言語だったとしても、
わからないことばっていうのはたくさんあって。

つまりはさ、突き詰めて言ってしまえば、
じぶんと「同質」のひと・もの・ことの【声】だけが、
見える聞こえる感じられる場合。と、
いちばん遠くにあるような、でも、
あるかないかわからない【声】にまで耳をひそめるか‥‥
であるのかねぇ?? そして、
あるかないかわからない【声】の場合にでも、それを、
擬人化させるか、擬人化させずそのままの姿でなのか、で
なにかが変わってきそうな気もするし。。。

あーと、すみません。
今回のことよくわからないまんまで書いてしまったので、
めっちゃわかりにくくてすみません。えーと、考え中‥‥

(さらに、次回につづきます。)

2015年9月29日 @ 赤い風船

神様からの声を聞く?!(その2)

2015年09月28日 | 考えごと
前回エントリのつづきです。】

と、ここでぼくが申しております「神様」とは、
どのような存在なのか? をぼく自身がよくわかってない。
ということをまずはじめに申しあげるしだいです。
ぼくのつたない宗教観よりおもうことでございますので
不備や間違いがあるかとぞんじます。

でも、なんか、書こうとおもったので、書きます。

さて、
「神様の声を聞く。」のことでございますが。
前回エントリでは、「おみくじ」というのも、
【神様の声】のひとつなのかもしれない。って申しました。
たとえば神社で「お祈り」をいたしまして、でもそのとき、
それはよほどの霊性的なかたで無ければ、
「神様」のお声を「聞く」ことはできない。。。
のよーなときにでもさ、
「おみくじ」を引けばぼくのような人間であっても
【神様の声】を少しばかりかでもうかがうことができる。
【神様の声】が、わかりやすく
人間の「ことば」に翻訳してくれているからさ~。

もしかしたら参拝で「お祈り」をしているときにでも
「神様」はお声を発しておられてるかもしれないけれど、
ぼくのようなひとには感じることができなくって。

そしてそんな【神様の声】っていうのはこの現代では、
なかなか現実的では無い。とゆう雰囲気もあって。
ぼくはそれが現実なのか、幻聴なのか、原理なのか、
本当はよくはわからない。っておもいたい派なんだけども‥‥

次回につづきますっ!)

2015年9月28日 @ やさしさに包まれたなら

神様からの声を聞く?!(その1)

2015年09月27日 | 考えごと
前回エントリでは、
坂口恭平さんの著書『幸福な絶望』での
"祈るとは言葉を聞くことである。"(284頁より引用です。)
ということばをよんでから、
「お祈り」とは、神様へおねがいをするだけでなく、
神様からの声を聞くことまでが
含まれるかもしれない。のごとく申しあげました。

‥‥とは申しましてもさ、なんか、なんとなく
「神様からの声を聞く。」って言えばだよ、
どこかちょっとスピリチュアルな感じもただよってきて。
えーと、あんまり現実的でない、かのよーな???
(スピリチュアルがどう、とか言うわけでは無いです。)

んでもやっぱこれじぶんにとって大事なコトのような気が
してきたのでじぶんなりに考えながら、
もうちょいとブログに書いてみたいとおもった~。

まずは、なんでしょう。。。

「神様からの声を聞く。」ていうのは現実的でなくっても
「神様へおねがいをする。」では普通の感じがして、
「神様に声をとどけたい。」だとまた普通ではないふう。

「神様からの声を聞く。」の言い方はNGの場合でも、
「おみくじ」を神社ではひいて。
「おみくじ」ってば「御神籤」という漢字変換らしいので、
【神様からの声】のひとつだとはおもうんだけども。でも、
「御神籤に何が書かれてた~??」て訊ねてもさ、
「神様の声はどんなだった~??」とは訊ねない。

「御神籤」の「ことば」には御利益のようなパワーがある!
は信じられても、ちょくせつてきに「御神籤」が、
「神様の声である。」だとは言い切れにくいところがある…

…のようなところから、次回へつづきますっ。

2015年9月27日 @ VOICE

「祈るとは言葉を聞くことである。」

2015年09月26日 | 考えごと
坂口恭平さん著『幸福な絶望』でよみました
「祈るとは言葉を聞くことである。」(284頁より)
ということばにガーンって衝撃をうけまして。

これまではさ、
「祈る」って「ことば」をあたまのなかで想い、その想いを
「届ける」ようにするものだとおもってたけれど。
じつはそうではなくて、
「受ける」ための行為だったんかも???

たとえば、
神様へ「お祈り」をいたします場合にでも、
神様におねがいをするだけでなく、おねがいしたあとの
神様からの声を「聞く」までが「お祈り」なのかも、と。。
いや、むしろ、おねがいをしなくたって、
これまでの感謝を申しあげそしてまたこれからのことがらを
「聞く」。。。

のことをさ、ちょっと具体的に申しますと、
外からのことばを「受信」するために耳や皮膚の感覚を
じっとそばだて、集中させる‥‥

じつは、「祈る」とは、
「送信」のほうにあるではなくって、
「受信」にからだを特化させること。

なので「祈る」ときには、
しずかに目をつむり、手をあわせ、すこしうつむきながら
おごそかにおこなわれる。
そうしなければ「聞く」ことができないから。

と。それはよ、声だけでなくってよ、
音や空気の振動や風や温度や自然の微量な変化、的な?!
なんだかよくはわからないけども。でも、
「祈り」というのはこれまでぼくは
おねがいするためのコトだとおもってたんじゃけれど、、
それだけじゃない、かもしれない。とおもったの~。

2015年9月26日 @ noir

じぶんのなかの約束。

2015年09月19日 | 考えごと
じぶんのなかにある、
じぶん以外のひとは誰も知らない、
じぶん自身が「これだけは守りたい。」と思っている
約束みたいなものを、ひとが持っている。として。

でも、それはさ、
じぶんだけしか知らないわけだから何かが起きたとき
(たまには、ちょっとだけ、これくらいなら‥‥)
っておもえばその約束をぜんぜん破ることはできちゃって。

じぶんだけのコトだから誰に咎められるわけでもなく。。

そして、それでなんとか
その場をやり過ごすことができてしまったのなら、
そんな小さな経験がささいな成功体験となってしまい。
それからは、同じくらいのレベルの破りかたであれば
「大丈夫!」だと、もう通常のように行動するようになり。
さらには。もう少しうえの状況のコトでも
(まぁ、ちょっとだけ、これくらいだったらば‥‥‥‥)
と、またさらに破ることができるようにもなってしまう。
それが長い時間ずっと続いてゆくうち、いつのまにやら、
どんどんとエスカレートして行って。ついには、
「これだけは守りたい。」と思っていた最初の頃とは
もう全くの別人となってしまっている。

まだこれと言ってとくに大きな問題は起きていなくとも、
それがさらに進んでしまえばこれからさきはどうなるか、
ぜんぜんわからない。

んでも本人はさ、
(いや、おれは、おれのことをちゃんとわかっているから)
って思っていたりもするもんで、
なんかちょっと心配になった友人や知り合いのひとから
「最近はどう?」みたいに指摘して来てくれたとしても、
聞くことができなくて。。。

‥‥と。ぼく自身だって、これまで
そーいうじぶんの変化をどれだけ起こして来たのか?!
てぇのは、じつはよくわからないんだけれど。
なんかさ、「じぶんがどういう人になりたいか?」って、
日頃からじぶんへ問いかけていられたらなぁ。
とはひとつの理想としておもいました。むつかしいけども。

2015年9月19日 @ 風になりたい

どうしても聞いてもらわないと、

2015年09月17日 | 考えごと
どうしても、どうしても、どうしても、どーしても
聞いてもらわないと困る話が、
もしも聞かれなかったとするならば。その話は、そして、
(聞いてもらわないと困る…)という想いは、
どうなってしまって、どこへ向かう??

話はさ、
受けることによって、受けられることによって、
はじめて活きたものとして実体化して。。

なので、受け手から拒否されることに成ってしまった
でもどーしても聞いてもらわないと困る話は、
そのまま実体をもたぬまま、宙をさまよいつづける‥‥

その、
(どうしても聞いてもらわないと困る…)の想いと、
願いと、祈りと、懇請と、愛憎と、後悔と、反省と、が
聞いてもらいたいあいての周りへあつまって、
無念と呼ばれるかのような
ひとつの「念」となって、精神のドアをたたく。

それはもう、誰にも、止められない!!

「念」ができあがってしまったならば、
もう発語者本人でさえ「念」を動かすことはできない。
「念」は「念」自身で意思を持ち自立して行動し始める。
あいての【魂】の位置にまで届くよう、
精神のドアをたたき、たたき、たたき、たたき、たたき、
たたきつづける。。。

‥‥と。だからさ、
(どうしても聞いてもらわないと困る…)という話は、
なるべくならあまり無視せず聞こうと試みたほうがよい。
って、じぶんがかつて聞こうとしなかった
いまおもえばとても卑怯だった経験をおもいだしながら、
このようなことを考えていた。

2015年9月17日 @ 実況中継

ことばは形を変えるか?

2015年09月14日 | 考えごと
前回エントリでは、よく比喩として言われますような
「会話とはキャッチボール。」のコトについて申しましたが、
そのエントリの中でぼくは、
相手からの「ことば(=ボール)」を受け止める際にそれが

(とげとげのボールだったなら、手に怪我するか。)

と書いたんだけどね、今回ブログはそのコトについて。。
たとえばもしボールがとげとげだったとすれば、
それはボールではなくって只のとげとげだわ。
そうおもったのよね。

ボールってぇのは、
丸くって転がってあとは弾んだりして遊べたりするから
の「ボール」であってさ。それがとげとげならば、
それはもうボールじゃないとげとげの物体。。。
と。つまりだよ、「ことば」ていうのは、
「ボール」にもなるし「とげとげした物体」にもなる!!
のだとおもったんだよね。
"ペンは剣よりも強し" と言うことばがございますが、
「ことば」は「ペン」にもなれば「剣」にもなる。
「包丁」にも「ナイフ」にも「刀」にも、
「なた」や「のこぎり」や「チェーンソー」ともなったり。
「バール」とか「バールのようなもの」とか~???

「猟銃」と「拳銃」と「マシンガン」に「弾丸」にも‥‥

また、
「金槌」にもなれば「釘」にもなるし。そして、、
「お金」にもなる?!

てゆーようなときにサ、
「ことば」は「ボール」にもなって、「ボール」となれば、
キャッチボールができるーっ!!!

んでもねぇ「ことば」はすぐにも形が変化してしまい、
「ことば」を「ボール」にさせたり、その「ボール」を
「ボール」のままにしておいたりするのは、
たぶんけっこうむつかしくて。
なのでこの「会話とはキャッチボール。」のためにはよ、
「ことばをボールに『する』作業」が必要で。さらなるは、
ずっとボールにとどめておくためのつよい意識が大事。。。

いや、ぼくはまだぜんぜんできていないんだけれども、
じぶん自身そうあれたらよいなぁ!
ていう理想の話でございました。

2015年9月14日 @ Nights of The Knife

会話としてのボール。

2015年09月13日 | 考えごと
「会話とはキャッチボール。」という比喩のさ、
ぼくがおもしろいなぁっておもってるところは、
たとえキャッチボールでもボールが体に当たれば痛いっ!!
なのだと感じておりまして。。

豪速球のような「会話」ではもちろんのこと、
やまなりでゆるやかな「会話」だったとしても、
こちらへ投げられた「ことば(=ボール)」を
グローブや手で受け止めなければ体にぶつかって、痛い。

逆に言えばさ、これはもしかしたらなのですが、
どんな「ことば」でも、
受け止めることができたら体は痛くないのかもしれん。
(とげとげのボールだったなら、手に怪我するか。)

体が痛くならないためには、受け止めずに、よけちゃう。
っていうのもひとつの方法だともぞんじますが、
それだと「キャッチボール」には成らないので、
たのしくはなさそう。
えーと例えば、ゲームとして「よけるゲーム」をしていても
すぐ飽きちゃう気がするのよね。

あとは、なんでしょう、、、
相手には投げさせないでじぶんばっかり投げる。
というのも、じぶんの体が痛くならないためには
有効かもしれないけども。それだと相手がずーっと大変で、
相手ばっかりが痛い目にあう。
てゆーか、それも「キャッチボール」ではないわ!!

「会話とはキャッチボール。」の比喩ってば、
「会話」を行うときのイメージを表現してると思ったですが。
なんか、豪速球で投げられた「ボール」のように、
「ことば」が【凶器】に成りうるコトを
言っているのかもしれないっておもいました。

2015年9月13日 @ GOLDENBALL

「みんながハッピーになれたら、いいよね。」

2015年09月11日 | 考えごと
専門学校のときのこと。。。

みんなで集まってやるよーな課題の最中にさ、
先生(安武先生)がふと言っていた
「みんながハッピーになれたら、いいよね。」
のことばをさいきんまた思い出していたんだけれども。
いま思い返しても、じつはこれって、たいへんだわね。

「ハッピーになる。」ていう状態はどんな状態か?! 
についてのコトもあれば、さらにそこに、
それが「みんな」だからさ。

でも、そういう
「みんながハッピーになれたら、いいよね。」
を、先生は日々実践しておられたのではないか。
ってあらためて思いましたの。あ、でも、
ほかのみんなはどう感じておられたかはわからないけれど。
じぶんと致しましてはそのように感じてた。

先生は、そこで、なにを、されていたのか。
をすこし当時を振り返りながら想像させながら、
ブログ書いてみたいとおもうですが。まずは、
「ハッピーになる。」ていうのは「幸せの絶頂に立つ」とは
ちょっとちがう、とおもった。もうちょっと言うなれば、
「幸せの絶頂に立ち続ける。」っていうのではなくって、
もうちょっとおだやかなかんじ、なのかな?!
みんなが平穏な状態で居続けられるような状態。。。

そのためには、どでかい企画とか超アイディアとかでは
無いようなコトがたぶんだいじで。
あの、なんて申しあげましょうか、たとえば、
道ばたに転がっている石や岩を取り除いたり。
また逆に、あいている穴ぼこを埋めたり。
みんなが、つまずかないように。歩きやすいように。

それらを、誰も見てないところで黙ってやっている‥‥

のような。そして「なにか」が開通したら、
この瞬間ここぞとばかりの絶妙さで物事を動かしてゆく!
そのタイミングを見据えるために、
ひたすら現場を見ながらずーっと考えている。。。

あ、すみません、ちょっとこれ理屈っぽいんですが、
今のじぶんではこんな感じでしか表現ができなくて、
でもなんかそういうような印象だったんだよね。

そんな、先生曰く
「みんながハッピーになれたら、いいよね。」
のコトをちょっと思い出していた話、でございました。

2015年9月11日 @ ALIVE

機体のバランス

2015年09月09日 | 考えごと
たぶんこーいうことはネット検索すれば、
すぐにもわかるかもしれないんだけれど、ちょっとだけ、
じぶんで考えてみる。の、それはさ、
なぜ思想の比喩として「翼」が選ばれたのか?!

思想が、飛行機のごとく、
右の「翼」と左の「翼」であるのだとするならば。
前回エントリで申しあげましたみたく、
右の「翼」も左の「翼」も、
どちらともが胴体より伸びているから、くっついていて、
そして繋がってる。

どちらか一方でも「翼」がなかったら、
飛行機として飛ぶことはできないし、
両方とも「翼」がなければ只の細長いカタマリ‥‥

Wikipediaで調べましたら、飛行機の、
右の「翼」と左の「翼」は【主翼】と呼ばれるらしくて。
そして、【主翼】のうしろがわの縁には、
両方ともに【補助翼】がついている。
この「右」と「左」の【補助翼】とは、思想では、
たとえばなにをあらわしている??
また、【尾翼】というものもございまして、
【尾翼】にも「垂直尾翼」と「水平尾翼」がある。
二種の【尾翼】はたぶん【主翼】とは全く別の働きで、
飛行機のバランスを取っているんだろうなぁ。。。

あぁー、バランス、なのかもしれないなぁー。

まだよくはわからないんだけどさ、機体の前方には、
なんだかでかい壁が立ちはだかっていて。たとえば、
ここからちょいと右側にあるほんのわずかな箇所にだけ、
とおれる隙間みたいなのがある、として。
今のスピードのままその隙間になんとか入れるよう、
飛行機の全体でバランスを取っている。
まっすぐではぶつかるし、右に行きすぎてもだめだから、
そちら側へと行きすぎないように
重心は右へ置きながら左を以て慎重にバランスを取る。
そのバランスがなかったら、壁に激突してしまう!!

今現在の懸念は、
あまりにも急激に傾かせてしまおうとした【主翼】が、
「胴体」の付け根から折れてしまわないように‥‥

そして祈願するコトは、ずーっと未来まで
この機体が無事飛びつづけること。
そのためには、ぼくに、なにができる?!

2015年9月9日 @ 無限グライダー

その1秒のあいだに、

2015年09月02日 | 考えごと
その1秒のあいだに、
何かを言ったり書いたり描いたりすれば、
じぶんの言った書いた描いた表現に作用されて
じぶんがすこし変化して行っちゃって。

その1秒のあいだに、
何も言わなかったり書かなかったり描かなかったりすれば、
じぶんの言わず書かず描かずの沈黙の表現に作用されて
じぶんがすこし変化して行っちゃって。

どちらの変化が、よい変化かわるい変化かは、
その都度でわからないけれど。

毎秒ごと、
表現なのか沈黙の表現なのかをしてるはずなので、
毎秒ごとじぶんがどんどん変化して行って。。。
人ってさ、そんな
毎秒ごと起こる変化の積み重ねなのかもしれないわ。

実名であろうとも、匿名であろうとも、
そして、その表現による
あいてへの影響力がどれくらいの規模だろうとも、
じぶんへと作用する変化の力には抗えない。

その1秒のあいだに、
為した(または、為さなかった)表現によるじぶんの変化を
毎秒ごとちゃんとよく見ておらんと、
知らないあいだに変化したじぶんの変化に気づかずに
変化の迷路の中でじぶんが迷子になってしまう‥‥

じぶんは大丈夫だ! とおもえばおもうほど、
変化の積み重ねのギャップは、
もうどうしようもないほどにも広がって行く。

そしてまた、その1秒のあいだに、、、

2015年9月2日 @ サンフジンズのテーマ

比喩なのか比喩じゃないのか。

2015年09月01日 | 考えごと
なぜだかなんとなく気になってしまってさ、
比喩のコトについてまた考えているんだけども。
(いつかブログで書いたけどあれはいつだったかねぇ。)

比喩の表現には、
「直喩(シミリ)」と「暗喩(メタファー)」とがあって。
「直喩」とは、
【のように】や【ごとし】のことばを「用いた」たとえ話。
「暗喩」とは、
【のように】や【ごとし】を「用いない」たとえ話。

‥‥という説明を聞いてすぐさまに
(あ。なるほど、比喩のコトがよくわかりました!)とは、
なかなか思えないかもなぁ。と改めて感じまして。。

って申しますのもねぇ、
えーっと、「直喩」のほうはよいのよ、
文章や話しことばの中から【のように】の単語を見つければ
それが比喩だってすぐわかるから。
もんだいは「暗喩」なの。「メタファー」のほうなの。

【のように】が入らない表現ってたくさんあるじゃん。
その表現が「暗喩」なのかそれとも「比喩じゃない」のか、
どうやって見分けるかっ?!
わかりやすいものなら見分けられるかも知れないよ、
これは「暗喩」でこれは「比喩じゃない」ってさ。
でも、そうは問屋が卸さない!!
一見まったく「比喩じゃない」ように見えながら、
でもよぉく目を凝らせながら見てみると
なにか別のものごとへ導かれてるようにも見えることば、
そーいう表現だってある気がしてて。

【のように】を含んだ表現とは、つまり、
(これは比喩です。)と言う側の人が「指示」していて。
その「指示」を受けたから、
聞く側の人も(これは比喩なんだ。)とわかる。

んでも「メタファー」ではそうは行かない。

表現の中に(比喩です。)と直接的な「指示」が無いから、
聞く側の人は
(もしやなにかの比喩かも知れないなぁ?)と思っても、
それは単なる思い違いなのかも知れないじゃん。
じつは発語者はそんなコトぜんぜん考えてもいなくって。
また逆に、ほんとうは比喩なんだけれど、
受ける側が比喩だと気づかない場合もありそう。。。

このさぁ、なんかなんとも言えない微妙なやりとりのこと、
まだうまく言えないんですが、
ちょっとおもしろいかもって感じたのよ~!

2015年9月1日 @ 奇数したい