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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

コップの使い方?!

2015年12月13日 | 考えごと
コップって、
水とかジュースとかお酒とかを「飲む」ためだけに
あるんじゃないって思ったのよね。

たとえばギョーザを焼くとき、
蒸すために入れる水を蛇口から汲んでくるのに、
そこに見えるコップそっとつかんで鍋へかけたりするし。
だいたい何ccぐらい入るかわかっていれば、
きっちり計るときじゃなければ計量カップ的にも使えるし。
ぼくのばあいですと、
さいばしを調理中ちょいと置いておく台として
なにかコップがちょうどよいもんで重宝だし。

お花を活ける「水さし」とか。
「ペン立て」にとか。
紙コップならば「糸電話」にできたりするし。
スターバックスのカップチェック欄に記された記号みたく、
コミュニケーション・ツールにも成る的な…
(店員さんがメッセージを記してくれたりってすてき。)

これはまだうまく言えないんだけどね、
【このこれはこうです。】と伝えるような「説明」って、
想像とか思考を縛ってしまうんかもなぁと感じていて。
コップに【これは飲むための道具です。】と書かれてたら、
「飲む」ため以外にはどこか使いづらくなっちゃって。
そのほかの用途で使うの悪いなって感じたり。。
そんなときコップを例えば「ペン立て」にしてしまったら
もう反逆者のように見られちゃう、
みたいなことだって起こりうるかも知れないじゃん。
コップにおいては現実そんなことは無くっとも、
ほかの物ではどうかわからない。

なにか特にそんな意図は無いだとしても「説明」ひとつで、
「従う・従わせる」のような関係性にも、
簡単に成ってしまうことってあるかも? ってさ、
そんな感じでちょっと理屈として考えていた~。

2015年12月13日

思考モーター(パート2)

2015年11月10日 | 考えごと
前回エントリを書いていたら、
中学生のときだったかな記憶があいまいなんだけれど。
理科の授業で、導線をじぶんで巻いて作る
「コイル」のキットを組んで「モーター」のように
ぐるぐる回したのを思いだしたの。

回ると言えば回るんだけど、
なんかうまく回らなくってさ~。

空気抵抗なのか。回る部分の摩擦なのか。それとも、
おれの導線の巻き方がへたっぴで磁場に乱れが出たとか、
詳しいことは知りませんが。
原理としては、外側に取り付けた「N極 & S極」と、
「コイル」に電流を流して生まれた「N極 & S極」が、
くっつこうとしたり、反発しようとしたりして、
それがうまいこと噛み合わさって回る。。

そのことを前回エントリでのように申しあげますと、、、
じぶんの「思考」もね、
「思考するものごと」を「コイル」といたしまして。
そして、じぶんによるじぶんへの
「肯定(プラス)」と「否定(マイナス)」を、
「コイル」へと流す電流の「向き」だとする。

その全体を「モーター」と見立て。。

「モーター」を回すためには、
じぶんへの「肯定」と「否定」を繰り返す。というか、
でもかと言って空回りしないようにタイミングよく
「肯定」および「否定」を切り替えながら、
すこしずつ「思考モーター」が回り出したらだんだんと
切り替えを速くさせてゆく‥‥
このWEBページでの実験のように。。。

そーすることによってそれがなにか原動力に成るみたいな、
そんなイメージを考えておりました~。

2015年11月10日

思考モーター

2015年11月09日 | 考えごと
じぶんが、じぶんに対して、
肯定するってぇのは大事だとおもうけれど。
肯定だけじゃなくて否定(正確に言えば「疑問」かな?)も
ばあいによってはしないとなぁ。と個人的にはおもってて。

「考える」ときにそのじぶんの思考が、
ちゃんと先へ進むように。変な暴走が始まらないように。。
肯定だけだとたぶんちょっと危険だし、ぎゃくに、
否定だけなら思考が進んでゆかない。
肯定も、否定も、どちらも適宜でおこないたい~っ!!!

って考えてみますとねぇ、
肯定と否定とをいっぺんに同時にするていうのは、
不可能ですので。それらは真逆のことだから。でも、
なるべくなら肯定しながらも否定させてなおかつ肯定を。。
とおもえばもう究極、
肯定&否定をものすごい早さで入れ替える。つまり例えば、
照明のON・OFFスイッチを超高速に点けたり消したり
するみたいに「考える」、っておもっているのよね。
(そのスイッチが壊れてしまわない程度に…)

そーすればさー、
肯定から否定したものをさらに肯定し否定そして肯定する。
みたいなことが(理屈の上では)できて。
「考える」ときにはそのように考えて行ったほうが、
よいかもしれないなぁ、とも感じながら‥‥

肯定を「プラス」とし、否定を「マイナス」とすれば、
なんてゆうのかね、
「プラス」および「マイナス」を切り替えて動かす
「モーター」の原理、みたいな??
物理についてよく知らないので、
詳しいこととかわからんですが。
でもそのような「思考」における「原動機」を、
じぶんのからだのなかに創造して駆動させる。。。
‥‥って、なんかそんな内燃機関的なふんいき?!
が「考える」ときには大事なのかなぁ。とおもいました~。

2015年11月9日 @ 水中モーター<Jam Remix>

「わからない」の効能

2015年11月07日 | 考えごと
さいきんブログで申しておりました「自問自答」の、
「自問」からによる「答え」でもそーなのですが。
【わからない。】て言う・思うことがさ、
じつはけっこう大事なのかもとおもいまして。

先日も申しあげましたが、
「自問」に対して【わからない。】って「自答」してから
さらなる「自問」するもなお【わからない。】と言い、
そこから幾度かの【わからない。】を経てなんとかいつか
ほんのちょっとだけ解決の兆しがみえてくる。。。

‥‥とすればだよ、ある意味【わからない。】が、
「自問自答」のほんとうのスタートだと思ったの。
逆を言えばまずさいしょの【わからない。】のことばを、
どーすればじぶんから引き出すことができるか??

たとえば、
「きょうは西暦何年の何月何日だっけ?!」って、
じぶんへ問うたところでそれは手帳やカレンダーを見れば、
一発で【わかる】から、【わからない。】はずがない!!
でもかと言って、ならば、
(あこがれのあのこはおれのことどうおもってるだろうか)
的な「自問」するとしてみても当然【わからない…】けど、
そこからさらなる「自問」を追求したって
ずぶずぶと思考がドロ沼にハマってゆくだけ‥‥

すぐにも【わかる】問いや、
ドロ沼の【わからない…】にはならない「問い」を、
立てることができれば。。と言いつつ、では、
「『よい問い』とはどういう『問い』であるのか?!」
ってのはようわからんだけどね。

でもそんな「よい問い」を立てられたら、
もうその【わからない。】という「答え」は恥じゃないし、
どちらかと言えばあたらしい思考のばしょへと進む
チャンスかもしれないぜ。とおもいました~。

2015年11月7日

言い聞かすか、問い掛けるか。

2015年11月06日 | 考えごと
前々回および前回エントリでは、なんか、
ふと書こうと思い「自問自答」について書きまして。
その前回ブログ書き終わったあとでちょっと
じぶんの中で思ったのはねぇ。
ぼくはこれまでじぶんに対して、
【問い掛ける】よりも、
【言い聞かす】をしていたかも、って。

【問い掛ける】と【言い聞かす】は似てるけど、
でもぜんぜん趣旨が違ってて。
えーとなんだろーなー、言うことばの語尾がさ、
【言い聞かす】だと「!」で終わり、
【問い掛ける】だと「?」で終わる。かのような。。
「自問自答」は「自【問】自答」ですので、
【問い掛ける】の「?」系なのですが‥‥

じぶんへ【言い聞かす】というコトはだよ、
言い聞かせさせられる側のじぶんは、
言い聞かす側のじぶんの言いなりになってしまい。つまり、
言い聞かす側のじぶんは、
なんでも知っているなんでも解っているひとになっている。
そんな「完全に正しいじぶん」にじぶんが従いなさい!
てなわけよ。理屈で言うとさ。
でもそのよーな「完全に正しいじぶん」なんて、
じぶんの中に居るはずがないっ!!!

ぎゃくに【問い掛ける】のほうはそーでなくって。
問い掛ける側のじぶんも、問い掛けられる側のじぶんも、
どっちもなんにもわかっておらんからねぇー。
不安なので、じぶん同士のお互いで、相談し合いたい。
相談し合ったところで解決するかは知らんけど、
でもなんかそっちのほうが「従う」よりも建設的じゃね?

‥‥とゆーような「自問自答」についてでした~。

2015年11月6日

「問い」の性質。

2015年11月05日 | 考えごと
昨日のエントリでは、
もしかしたら「自問自答」ってのは、
「自問」だけでもOKかもしれん。と書きましたですが。
それから少し考えていたのはね、
「自問」をふくめた「問い」ってば、
それがたとえどのよーな「問い」であったとしても、
「問い」が出て来てしまった瞬間に
ひとを考えさせてしまう力を持っているなぁ。と思って。

たとえばテレビ番組の「クイズ」や
雑誌・ネットでの心理テスト等の「問題」って、
一目でも見かけてしまえば、
もうどーにも頭が考えてしまっていたり…





・机のうえには、
 『◯』型と『◇』型と『☆』型と『×』型という
 4種類のクッキーがあります。
 今の直感であなたはどのクッキーを選びますか?






…っていきなりでも問われてしまうとさ、
ぼくなんかだとどーしても頭が考えたくなってしまい。
まぁこれはダミー問題ですので結果とかはないですが。
(『◯』型のクッキーを選んだあなたは、とか特にない。)
仮に考えたく無くともひとを考える方向へ向かわせてしまう。
よくも。わるくも。。。

「よい疑問文」というのと、
「よくない疑問文」というのがあって。
なんて言うでしょうかたとえばイメージで言ってみますと、
「よくない疑問文」とは、
【沼のなかに引きずり込まれ息ができなくなってゆく…】
みたいな? その逆に「よい疑問文」とは、
【地上に顔が出せて困難だった息ができるようになる。】
な感じですかねぇ。

あいてに対する「問い」でもじぶんに対する「自問」でも、
その「問い」を出した瞬間、
うえ↑でのどちらかの方向へと回答者の思考やからだを
向かわせてしまう。
そのよーな「問い」の性質を考慮させながら、
「よい疑問文」的な「自問」ができれば、
そこからはもう結構自動的に「自答」の方向へも進む。

そーいうさ、じぶんの救いかたもある!
っていうのをねぇ、じぶんでは信じたい。
みたいなことはちょっと思っているんだよね~。

2015年11月5日

自問だけでOK?!

2015年11月04日 | 考えごと
「自問自答」ってさ、
もしかしたら「自問」だけでもOKかもしれん~。
じぶんの「問い」にじぶんで「答える」までしなくとも、
じぶんに「問いかける」ことがまずは重要で。

いや、むしろ、
その「自問」が「むつかしい問い」であればなおのこと、
そんな簡単にはじぶんで「答える」ことできないわ!!

じぶん自身が簡単に答えられる「問い」だけを、
じぶん自身に投げかけるようになってしまえば、
それだともう「自問自答」の意味ないし。
簡単に答えられるてことは「考えるまでもないこと」なので
じぶんが考えないひとに成って行ってしまう気もする。。。

「自問」によるじぶんの「答え」がさ、
「わからない。」でもぜんぜんよくって。
「わからない。」と答えてからもなお「自問」させながら、
「わからない。」を幾度も繰り返したそのさきに、
よーやくなんか出てくる「自答」が重要なのかも???
つまりはね、「わからない。」でも何でもよいので、
じぶんがじぶんで何かの葛藤を引き出すことができちゃえば
もうそれだけで「自問自答」の半分ぐらいは成功でよ。

あとなんかもうすこし言ってしまえば。。。
無感覚のような状態から些細な反応を引き出して、
その場よりじぶん自身を救い出すために行う
じぶんへ対する「あらゆる問いかけ」のことを、
「自問自答」て呼ぶんかもとおもったんだよねぇー。

ってゆーのもどーなのか?そーなのか?こーなのか?自問?

2015年11月4日

太陽と月と昨日の自分。

2015年11月03日 | 考えごと
ここ↓のところはじぶんにとってとても大事と思ったので、
このごろ何度も書いてますっ。の、
それはねぇちかごろブログで申しておりました
【時間】についてのことなんじゃけれど。

内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』より最近また、
「学ぶ力」というエントリについて思い出していて。
そのなかの一節を引用申しあげます‥‥





人間が生きてゆくために
ほんとうに必要な「力」についての情報は、
他人と比較したときの優劣ではなく、
「昨日の自分」と比べたときの
「力」の変化についての情報なのです。






‥‥とおっしゃる内田さんのことば。そのさ、
「『昨日の自分』と比べたときの『力』の変化」のことが、
じぶんのなかでは、ここ最近書いておりました
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』関連のエントリと、
リンクしているように思われまして。

「1日」という単位とは「夜があけ朝がきた回数」、
つまり「太陽」の周回カウントとすればだよ、
もしも「太陽」がなかったならば、
そこではのっぺりとした「暗闇」の状態が永遠に引き続く。
そーなれば、朝も昼も「1日」ていう単位もない。
「太陽」が在るおかげで「1日」はあり、そして、
内田樹さん曰くの「昨日の自分」と比べることもできる!

と、さらに地球にはさ、
「太陽」だけでなく「月」も在るからねぇ。。
「太陽」の昇る回数だけじゃなくって、
「月」の満ち欠けやまわる時間のサイクルだってあるので
(昨日のお月さまと今日のお月さまはちょっとだけ違う。)
地球での暮らしにメリハリ(みたいな?)が生まれ。
「太陽」と「月」という2つの大きな「光」の明暗により、
地球は永遠の闇でなくて昨日はあり今日があり明日もある。

この「太陽」と「月」のことってば、
当たり前のように感じるけど当たり前じゃないんかも??
と思ってさ~。そんな【時間】についてでしたっ。

2015年11月3日 @ 文化の日

数字の興味ぶかさ。

2015年10月28日 | 考えごと
前回エントリでは、
日にちと時間のデジタル表示について申しましたですが。
ほんじつもそれに少し関連させまして。。。
漢字で云えば「日」の形象を模したような、
7つの線それぞれをオンにするかオフにするかで示される
「デジタル数字」の仕組みおもしろいんだけれど。
それ以上にさ、
「数字」自体がおもしろくって興味ぶかい!!

まずは、「1」「2」「3」‥‥ていうよーな、
「数字」のかたちが美しいし~。

またたとえばぼくはこれまで海外旅行には、
パリ&ロンドンへのいちどだけ行ったコトがございますが。
街内でことばがわからなくとも「数字」はわかるのでさ。
あらゆる国のコトは存じませんが「数字」ってば、
けっこう各国共通語なのかもなぁ??? と感じたり。

ほかにはぼくは本をよみはじめるまえになんとなく、
その本が何ページまであるか? や、
何年に書かれた本なのか? が無性に気になり、
(震災の2011年3月以前なのか以降なのかを想ったり…)
先にちらっと見てしまうんですが。
図書館で借りてきた本ですと、お値段はいくらか? とか。
「何ページ」や「何年」や「何円」って、
すべて「数字」だからねぇ。。
「数字」を見て安心したいとゆーか、
なにかをわかったきもちになりたいとゆーか???

「数字」にできるモノと「数字」にできないモノがあって。

気温や体温やテスト点数&偏差値と年齢に長さ重さ大きさ、
大サジ小サジの調味料配分や電話番号やストレージの容量…
そーいうような「数字」に日々囲まれてて。
それらはとっても大事なモノだけど、
でもそれだけ見ているとそれ以外の数字にできないモノを
見逃してしまうコトにもなりそうで‥‥

「数字」って興味ぶかいしおもしろいし美しいけれど、
その力はもうあまりに強力だからさ、
すぐその力に縛られちゃうよなぁ。とはおもいながら、
リモコンでテレビのボリュームをあげた。

2015年10月28日 @ 1.2.3.4.5.6. Baby

デジタル表示の恩恵?!

2015年10月27日 | 考えごと
前回エントリでのコトはさ、でもかと言って、
一日一日を大切に過ごそう。ていうようなコトでもなく。
一日一日を大切に、ってよく言われるけれど、
考えてみれば一日をどーいうふうに過ごせば
その日を大切にできるのかじつはあんまりわかっていない。
たぶん、それがおれのダメなとこだとおもうけど。。。

たとえば、
きちんと予定を立ててちゃんとこなしながら頑張りながら、
遊ぶときには必死に遊び、休むときには必死に休み、
つよい理想をもってたえず先を追い求める。
そんな暮らしを人生かけて生涯まいにち続けてゆくなんて、
おれはけっこう疲れてしまうから‥‥

だからなんの成長もないんかもしれんが。

と。それはそれとして、
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」観てておもったのは、
時間のデジタル表示っておもしろい~!!
【OCT 21 2015 PM4:29】のようにしめせばさ、
その時刻に移動するコトができて。
そこで表示された時は唯一その時だけしか存在しなくって、
まさに一瞬を切り取ったよう。。。

デジタル表示の発明によってどんな日時の時刻の時にでも、
杭を打つ(みたいな)コトができて。
その杭のおかげでそれを眺めたり目安にして
過去や未来へと思いを馳せるのもできるようになる!
それってばもう現在では当たり前みたいに感じるけれど、
たぶんそうでなくって。
誰か先人の方がそのような表示方法を考えてくれたおかげで
ぼくもそのデジタルの恩恵を受けているっ。
(それに伴うなにかの弊害も在るかとぞんじますが…)

たぶん、なのですが。先ほど申しました、
「一日一日を大切に過ごそう。」の説法って、つまり、
日々のとある瞬間を意識できるようにしてくれた時計と、
時間を発明(発見?)した方へ感謝を感じながら
生活する。的なコトかもしれない、となんか想いました。

2015年10月27日(満月)

太陽のカウント

2015年10月24日 | 考えごと
「時間」についてちょっと考えていたのだけれど。
もしも地球が太陽の周りをまわっていなくって、
いつも暗黒なまいにちだったならば、
「時間」は無かったか、別のかぞえかたの「時間」が
採用されてたかもしれないわー。

朝がきて、昼もすぎ、夜はあけ、また朝がくる。

の、朝がきた回数を「1日」としてカウントして。
そこから「季節」と照らし合わせながらの「月」や「年」、
また「時」とか「分」とか「秒」ができていったのかねぇ?
よくは知りませんが。。。
太陽が無ければそんなサイクルも生まれないからさ、
朝は来ないし、ずっと夜のまま。ていうよりも、
それは「夜」とさえも呼ばれないんだろーなぁ。
暗黒が常の状態だから。

いまの地球文明が採用する「時間」は、
「数字」で数えるコトができて。
その「数字」はなんか抗えない絶対的な存在だ!!

それはたぶん太陽と関係しとるので、
太陽があって太陽がめぐって夜から朝になるのは、
絶対的な周知の事実だから。

もしも太陽が無かったならば、カウントもできないっ。

カウントすることによってなにかの秩序が生まれ、
過去と現在と未来というふうに考えたり想像したり、
時計やカレンダーで「時間」をおもったり。
でもそのカウントされる「時間」もね、だれか人間が、
法則(のような)を発見して人間用につくられたもの。
なのかも???

「時間」をおもいながらスケジュール等を組むのは、
とてもだいじなコトだけれども。
ときにじぶんのからだがそれに合わせられないときだって、
あってもよいかもしれない。
思考とか、成長とか、アイディアとか、タイミングとか…

太陽は(月もね)たいせつ、なのですが、
太陽のない太陽がめぐらないどこか宇宙の地帯では、
また地球とはちがった「時間」が流れていて。
もしやその別の「時間」にぼくも知らぬまに影響を受けてる
かもしれないわ~! 知らない、見えないだけでさ。

2015年10月24日 @ TIME

現実の「因縁」について。

2015年10月19日 | 考えごと
前回エントリでは、なんか、
「因縁」のようなコトについて申しましたですが。
「因縁」ということばってなんとなくおどろおどろしくて、
非現実的の怪談話みたいなニュアンス。なのだと、
感じていたけれど。考えてみれば、そーではないのかも??
ともおもいまして。本日はそのコトについて申しあげます。

それはさ。たとえば、
幾年前に生きておられたどなたかがどこかの場所で
じっさいに経験をされた後悔や無念のような想いが、
すこし世界を変えてその変化が現在にまでも残っている‥‥

と、そのような現実の事実を、
「因縁」って呼ぶのではないのかなぁ? とぞんじまして。

いつかどこかの沼でおぼれてしまった幼子の供養のため、
その近くにはお地蔵さまがたてられて。
現代ではもうすでにそこには沼の形跡がなくとも、
お地蔵さまは今でもまだ立っている。。
また、ほかには、過去の自然災害を後世に伝えるための
石碑や地名や伝聞や。。。

のように今に残されている想いもあれば、
無念のまま、でも誰にも知られなかった想いもあるだろう、
って想像すればさ、そのような想いは
古代から現代まで数えるともう無限のごとく存在していて。
(大きな想いから小さな想いまでのすべて‥‥)
そしてそのような想いが今にも作用しているコトって、
じつはたくさんあるとおもうのね。

在ったかもしれない想いと、
無かったかもしれない想いとがあるとはおもいますが。
在ったかもしれない想いを、
【在ったかもしれない‥‥】て思いを馳せるのは
してよいかもしれない、とは感じていて。
それがさ、たとえ、非科学的であってもさ。。。

前回エントリでのぼくの祖母のコトを受け、
そのような「因縁」についてすこし考えておりました。
そして、祈ります‥‥

2015年10月19日

「まなぶ」と「まねる」と「似る」のこと。

2015年10月16日 | 考えごと
昨日のほぼ日『今日のダーリン』で糸井重里さんが、
「まねる」と「まなぶ」のコトを書いておられて。
文書よみながら少しじぶんで考えておりましたのは、、、
「まねる」とは漢字で「真似る」って書くけれど、
そこには「似る」という字が入っているので、
「まねる」や「まなぶ」と、
「似る」は関連が深いとおもいまして。

んでも「似る」ってさ、たとえば誰かからの、
よいところが「似る」場合もあれば、
よくないところが「似る」場合もあって。

それは、なんでしょう、たとえば。。。
伊丹十三さん監督映画『ミンボーの女』のあるシーンで。
主人公が立ち向かう相手側のコトをずっと考えているうち、
いつのまにかじぶんの口調が、相手側の口調と
似てきてしまってた。かのような。。。
イヤだなと思うイヤな相手のイヤなところを見たり
考えたりしてるうち、
そのイヤなところがどうしてだかじぶんのものと成って、
相手と「似る」みたいな事態があって。

ほかにはさ。たとえば、
家族や友だちや恋人同士のたたずまいが似ている。的な‥‥
その「似る」のコトってばよくもわるくもそれは
近くにおればどーにも抗えないコトだと感じるのよね。

そんなときっ、うえで申しましたとは逆に、
ステキだなと思うステキな相手のステキなところを見たり
考えたりしてるうち、
相手のステキなところがじぶんにも移って
「似る」みたいなコトだってあるんかもと思ったの。
いや、まぁそれは、ひとつの希望として。。。

でもたぶんよ、
能動的にじぶんのほうから「似る」をさせたいと願うこと、
それが「まなぶ」であり「まねる」であり。
そしてさらには、その目のまえにいる相手のかたのコトを、
いわゆる「先生」て呼ぶのだと思った~。

2015年10月16日

学び方を、学び続ける?!

2015年10月13日 | 考えごと
「学ぶ」について考えているのだけれどね。

「学ぶ」ためには「学び方」を身につけていなければ、
「学ぶ」ことができないっ。とすればだよ、これまで
「学び方」を知らずに「学ぶ」ことのできなかったひとが、
どーすれば「学び方」を「学べる」か?

(ややこしい言い方ですみません。)

「学び方」を知らなかったひとが、
「学び方」を「学ぶ」ことは可能なのかどうか。。。
ていうジレンマ的な???

それはさ、よく、わからない。

いやさ、そもそもぼく自身がさ、
「学ぶ」のをちゃんとできているかどうかわからないし、
【わたしは「学ぶ」ことがきちんとできます!】
とはどうにも言えない。

もしもだよ、「学びのジレンマ」を克服できて、
「学び方」を身につけ「学べる」ように成れたとしても、
そこで【「学ぶ」ことができるように成った!!】と
言ってしまえばまたすぐにでも、
「学べない」ひとへ逆戻りしてしまうよーな気もして。
いちど「学び方」を「学んだ」としたっても、
それでほんとうに「学べる」ひとに成れたんかどうか?!
てのも、あやしいと言えば、あやしい。

(あぁ、またもやややややこしい言い方で、すみません。)

前回エントリでは、「学生」とは、
「学びながら生きるひと」なのだと申しまして。
そこで【「学び」とは何か?】をひたすらに考え続ける
究極な「学生気分」でいなければ、ダメかもしれない。
って書いたんですけど。もし仮に、
じぶんが「先生」に成るようなときの場合にでも、
「先生気分」でいるのはよくないかもしれないとも思って。
いかにも「先」を生きているぞと話す「先生気分」よりかは、
学びながら生きようとする「学生気分」でいなければ‥‥

‥‥と。。。
「学び方を学ぶジレンマ」についてと、そして、
「学び方を学び続ける。」のコトでございました~。

2015年10月13日(新月)

学生と先生と

2015年10月12日 | 考えごと
「学生」というのは
「学校に生徒として在籍するひと」のコトでなくて
「学びながら生きるひと」なのだとおもったのね

だから
どのときも いつまでも 学ぼうとするすべてのひとを
「学生」って呼んでよいんではないか? ってさ

また
「先生」というのは
「先を生きるひと」のコトなのかなぁ と

ですので
ぼくの位置から見て「先」を生きているひとならば
すべてのひとが「先生」で

さらには その「先生」も
「学びながら生きるひと」であるとするならば
「先生」でありながら「学生」だ

「学生」は 「先生」の背中を見ながら 生きる

「学生」のひとが 修了をして
わたしにはもう学ぶことは何も無い! と叫びながら
学ぶのを止めたとき「学生気分」が抜ける?

それとも
「学び」のパフォーマンスを最高まで身につけようとして
究極の「学生気分」を携えながら 学び続ける?

「学生気分」ということばは 
ふつうは「幼さ」のような意味で使われるとおもうんだけれど
そうではない「学生」的な気分もあって

「学ぶ」ことを止めてしまった 抜けた「学生気分」よりも
「学ぶ」とは何か? をひたすらずっと考え続けるような
「学生気分」でいたほうが よいかもしれない

「学生気分」でいなければ ダメかもしれない

2015年10月12日 体育の日