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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

THINKING THINK(其の2)

2016年01月23日 | 考えごと
前回エントリのつづきです。】

「『【考える】とは、なにか?』を考える。」みたいな、
すこしややこしいのをブログ書いてみようって、
昨日なったんだけれど。
まず申しますのはさ、こーいうふうになるなんて、
じぶん自身が予期していなかった。。。

部屋の席についてブログ書こうとおもって、
Macを起動させブラウザ開くじゃん。
そのときには全く別の内容を書こうとしてただけども。
書き始めたら、おれ、それじゃなくって、
【考える】のことをタイピングしていて。
(え?!)とか思いながら、
まー、いつか書いてみたいとは思ってたから、んでも、
まさかそーなるなんて席ついた時からは想像できんかった。

書いておったらば、
原研哉さん著『デザインのデザイン』のことも思い出して、
それもじぶんの予想外だったし‥‥

ってゆうよなことをね、なぜ申してるか?と言いますとん。
昨日のエントリ書くあいだに、
このことは一回だけじゃ終われんわとか思いながら。
それでブログタイトルへ「前編」って記してしまうとさ、
次は「後編」もしくは「「中編」→「後編」」の、
2・3回しかできなくなるので「其の◯」にしたのですが。
「其の◯」とするなら、もうさ、書きたいように書こーと。
そもそもが予期せずのスタートだったし。
何回まで続きそうかもぜんぜんわからんし。
着地点もどーなるかさっぱり見えていないし。
なので、こんな、寄り道をさせながら。。。。。

でも、まぁいつも通りかもしれんけれど、
コミュニケーションには成っていないので読む方にとっては
退屈で面白くは無いかもですが。
これは、できるだけ「冗長」にやって行きたいと存じます。
じぶんの考えてることをじぶんで知りたい!

次回につづくます。よい週末を~!!

2016年1月23日

THINKING THINK(其の1)

2016年01月22日 | 考えごと
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」て書くと、
括弧の中がなんだか、
ロシアのマトリョーシカ人形みたいに、
つまり入れ子の構造?! のようにも感じるんだけれど。
【考える】について「考える」ことって、
じぶんが『考える』ためにも大事かなぁとも思ってる。
(←これ、ややこしくて、すみません。)

なにかを『考える』ときに、
【考える】とはどーいうことなのか?! もいっしょに
「考える」ようにしておかないとじぶんのその『考える』が
ブレてしまったり間違えてしまったりときに見当違いの
【考える】をしてしまいそうな気がしてて。。。

その「入れ子構造」をぼくがさいしょに意識しましたのは、
原研哉さん著『デザインのデザイン』という、
原さんが書かれた本の「タイトル」からでございますが。
『デザインのデザイン』とは、たぶん、
『【デザイン】を「デザインする。」』の意なのかな??
表紙には『デザインのデザイン』のタイトル下に、
『DESIGN OF DESIGN』と英語で記されて。
ぼくはグラフィックデザインの専門学校へ通っていたとき、
先生より教えてもらって著書を読んだのですが。

そしてその数年後。
大幅増補のスペシャル・エディションとして刊行されました
『デザインのデザイン』のタイトル英訳が、
『DESIGNING DESIGN』へと変更されておりまして。
その英語タイトルすばらしい! って思ったの~。
以前の『DESIGN OF DESIGN』のときにはぼくはまだ、
その意味よくわかっていなくって。
タイトルが『DESIGNING DESIGN』と成ってから、
もしかしたら上で申しあげました
『【デザイン】を「デザインする。」』て少し言えるように
成れたかもしれないです。
それをじぶんでできるかどうかはさておき‥‥

えっと、なんの話しだっけ?! あ、そーだ、
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」っていう
「入れ子構造」のことだった。

原研哉さんが「【デザイン】の『デザイン』」つまり、
「DESIGNING DESIGN」されておられるのならば。
ぼくは、その原さんの「構造」を拝借いたしまして。
「【考える】を『考える』」つまり、
「THINKING THINK」したい! って思ったんよ。

(次回につづきます。)

2016年1月22日

ぼくにはつくれない。

2016年01月21日 | 考えごと
たとえばぼくが、
誰かへ「メール」しようと思って。でもその、
「メール」を送信する「コンピュータ」も「携帯電話」も、
コンピュータ&ケータイに入ってる「メールソフト」も、
ぼくにはつくれない。

たとえばぼくが、
誰かへ「手紙」をおくりたいと思って。でもその、
「手紙」を書く「サインペン」や「万年筆」や「筆ペン」や、
「ハガキ」と「便箋」に「封筒」も。さらにはそれを届ける
交通機関の「クルマ」「バイク」「電車」「飛行機」も、
ぼくにはつくれない。

たとえばぼくが、
ただ単に「メモ」を取ろうと思って。でもその、
「メモ」する「ボールペン」も「鉛筆」も「紙」すらも、
ぼくにはつくれない。

買ってくれば、手に入れることはできる~。

「筆」も「紙」も発明されていない時代には、
「メモ」を取ることすら気楽にできなかったんよねぇ。
たぶん「木版」や「岩」や「洞窟の壁」に彫ったり、とか、
地面へ「石」などを置いておく、とか。わからんけど‥‥
いちばんの方法は「脳」に記憶する、かな。
「伝え合う」ためには「口」でしゃべって「耳」で聞く。
みたいな???

「ペン」も「紙」も「コンピュータ」も、
お金さえあればもうとびきりな最高級の品だって、
購入できるけれど。
じゃあそこに、ぼくは何を「記す」ことができる?
何を「言う」ことができる?!
何を「覚える」ことができる??!
何を「受け取る」ことができるーっ???

「紙」も「ペン」もつくれないとしても、
「紙」と「ペン」で「つくる」ものさえをも、
ぼくにはつくれない。かもしれねぇ。。。

2016年1月21日 @ 念書

変身シーンの官能性。

2016年01月12日 | 考えごと
前回エントリでは「変化」について申しまして。
そこからさ、「変化」や「変身」には、
「変身シーン」がつきものだなぁーと思ったんよねぇ。

たとえば、
「特撮ヒーローもの」でも「魔法少女もの」でも
「プリキュア」でも「セーラームーン」でも、
なんでもそうなのだと思いますが。
主人公が「変身」するためには「変身シーン」が不可欠で。
「変身前の状態」から、「変身シーン」が始まって、
「変身シーン」のあいだは「変身中」、そして、
「変身」が完了され「変身シーン」が終わることにより、
「変身後の状態」に成る。的な。厳密に言えば。。。

そーいうよーな「変身シーン」ってなにか、
官能的だわーとつねづね思うの。

たとえば「セーラームーン」で申しあげますと、
いったん裸になって服を「着替える」というだけでなくて、
からだの細胞ごとすべて「入れ替わる」働きが
「変身シーン」にはあって。
その「入れ替わり」が官能的なのかも? と思ってる~。
ん?! おれはいったい何を言っているんだろう‥‥
ま、いいや。それでさ、
誰だって、なにか戦士に「変身」するというよーな、
大げさなメタモルフォーゼじゃなくっても、
「変化」するには「変身シーン」を経過させることが
肝要だと感じてるのよね。

本人が歩いているときとかに本人の意思とは関係なく、
いきなり「セーラームーン」に「変身」しちゃったら、
それはまた奇妙な話だし。。。

いや、でもその「変身シーン」とはなにか?!
ってぇのはぼくはまだよくわかっていないんだけれど。
えーと、こう言ってはもしや怒られてしまうかもですが、
「変身シーン」とはつまり吉本隆明さんおっしゃる
自己表出」と近いものがあるかもしれない。
と思いました。

「変身シーン(のようなもの)」が無ければ、
「変身」や「変化」はできない気がする~。

2016年1月12日

「できない」から「できる」へ

2016年01月11日 | 考えごと
「わからない」から「わかる」へ、でもよいだけども、
「できない」から「できる」へ移るときってさ、
じぶんのなかで何があったときなのかねぇー??

「できない」から「できる」へ、とは言いましても、
あるときにふと「できる」ようになるときもあれば、
そう言えばいつのまにか「できる」ようになってた!
のときもあるかのう。
どちらとしましてもそのどこだかの段階で、
じぶん自身の「変化」と呼べるような、
経過があると思ったんよね。
「できない」の状態から、なにかしらの「変化」があり、
「できる」に成った。みたいな。。。

その「変化」とは、いったいなんだろう?!

‥‥と、最近またすこし考えております、
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』のなかで、
吉本さん仰る

「人間がある表現をすると必ず、
 人間の表現しただけ自然が変化します。そして必ず、
 表現した自分もその表現と同時に、
 自然の方から逆に変化させられてしまいます。」

のことが頭によぎりまして。でもその、
「表現によって自然の方から逆に変化されてしまう。」
という「変化」こそが、
「できない」から「できる」へ移るときの
「変化」なのかもなぁ?? と思いました。
うーんと、うまく言えないだけど。
たとえば練習をするとかさ。よく考えるとか。
会話や対話をするなかでなにか突破口が見つかるとか。
なんでもよいのですが。
「表現」をすれば必ず表現した人間も「変化」させられ、
その「変化」に人間は決して抗うことができない。

ここで言われる「変化」にはさ、
たぶん「よい変化」だけじゃなくって、
「悪い変化」だってもちろんあるだろうけど。
「変化」の境目には、
必ず「表現」や「表出」と言うものがあるんだと思って。
じぶんの「表現」による「悪い変化」にも目を向けつつ、
「よい変化」のほうだって、もしかすれば
できるかもしれない。って想うことが希望であるかも??

つまり、吉本隆明さんの講演『芸術言語論』とは、
そういう希望かもしれないと感じたの。
いや、まだよくわかってないのでまたじぶんで考えますー。

2016年1月11日

「わかった!」と言えるためには…

2016年01月10日 | 考えごと
「わからない」ことは「わからない。」って、
ちゃんと言えたらよいなー。と思っているだけれど。
じゃあさー、逆にいったいどーいうふうになれば、
「わかった!」て言えるんだろーか?!
を考えておりまして。。。

まずはねぇ、「わかる」とは、
「できる」と関連してるような気がしますので、
「できない…」から「できる♪」へ移ったときが
「わかった!」を言えるさいしょの一歩かと思ったの。
「わかってるけど、できない。」のときは、
まだまだ、わかっていない。

「『できる』ようになる」ていうのもさ、
なんていうか、自転車に乗れるようになったときみたく、
乗れるようになればもうこれからもずっと忘れずに
乗り方をからだが覚えている。のよーな??
そーいうのが真の「できる」だと思った。

「わかってるけど、できない。」の逆パターン、
「できるけど、なぜできるかがじぶんでもわからない。」
のときもあるとおもうけれど。
それはもう、それでよい、と思う。
「できる」か「できない」か、に比べれば、
「わかる」か「わからない」か、なんて、
ごくささいなことのような気がするー。
できるのならば、わからなくともよい、とも思える‥‥

かと言って、
「わかった!」を言えるようになるためには、その
「できるけど、なぜできるかがじぶんでもわからない。」や
「できないし、わからない。」でも、
じぶんで「わかる」ようにならなきゃ言えなくて。
つまり、じぶん自身で説明をこころみて、
さらに、その説明を相手に伝えて、
ひとりでもよいから誰かに納得してもらえたときに初めて
「わかった!」を言えるんではないかなー。と思った。

ってなればだよ。そんな段階を経てなんて、
おれが「わかっている」ことなんて皆無だわー。
うそになってしまうから、
「わからない」ことは「わからない。」て言わないとだわ。

2016年1月10日

半世紀に渡って

2016年01月09日 | 考えごと
ブログでなんどか書いているとも思うけども、
2008年7月開催されました吉本隆明さんの講演会
芸術言語論――沈黙から芸術まで』を、
ぼくは会場まで観に行きまして。

吉本さんのお話はぼくにはやはりむつかしく。
その後のテレビ番組やDVDや講演の音源、
ほぼ日での糸井重里さんの解説などを観ながら読みながら、
考えたりしてみても、それでも、
まだまだじぶんでわかっていない。とおもう。。。
できてないんだよねぇ。

「沈黙」って、どういうことだろう?!

当時、会場で拝聴しておりまして、
とくに印象的でした場面はいくつかございますですが。
それはたとえば、吉本さんが身ぶり手ぶりで
宙に舞うことばをつかまえるかのようにお話されていたり、
ときに黙ってことばを考えておられるお姿。。。
そして講演の最後。
終わりの時間がやって来たことを
糸井さんが講演中の吉本さんへ伝えに登壇されたとき、
吉本さんがお話されたことばがかっこよいなーと思ったの。
それはね…

「ほぼ半世紀に渡って頭のなかで考えてきたことだから、
 そうかんたんに、あんまり・・・」

と、そうおっしゃって、
お客さんみんな「わーっ!」て拍手されて。
その光景がすてきだったー。

吉本さんが、半世紀かけて考えてこられたことを、
ぼくがすぐわかるはずがない!!
折にふれて吉本隆明さんの「沈黙」について考えたい。
思い出したい~。 あ、そーかっ、
「沈黙」って、どういうことだろう?! て考えてる時が、
つまり「沈黙」な瞬間かもしれない。

2016年1月9日

「からだ」と「口」の距離

2016年01月07日 | 考えごと
「からだ」と「口」って、近いように見えるけど、
じっさいはどんだけの距離がある?!

言おうと思えば、
なんでも「口」で言えるように感じられても、
「言えること」は言えても「言えないこと」は言えないし。
「言えないこと」を言ったところで、
さっぱり言えてないし、どちらかと言えば、嘘っぽい。。
「口」からのことばでじぶんを飾り立てようとしてみたり、
自慢ばなしだったり、
おれはこれだけ知ってるぞとアピールするようなことって、
じぶんでも今だに日常茶飯事で。じぶん自身を、
よく見せたい欲求が出てきちゃうのってどーして???

言おうと思ったところで、
「民話」も「寓話」も「落語のお噺」も「すべらない話」も
とうてい言えないし。かと言って、
じぶんの「からだ」そのままの「ことば」っていうのも、
言えない。

「言えること」って、なんだろー。

まるで「口」と「からだ」が、
遠いところまで離れて行ってしまったようだわ。
「からだ」から「口」が「家出」しちゃったみたいなさ。
とするのならば、
「からだ」のほうが「口」まで「来てもらう」よりも、
「口」のほうが「からだ」まで「帰ってゆく」ほうが、
現実的のよーな気もする。
かつて「口」に何があったかは関係なく、
遠くまで離れちゃった「口」が「からだ」へ戻る旅をする…

とするようなことが前回エントリで申し上げました、
吉本隆明さんおっしゃる
「沈黙の言語」なのかもしれないと思いましたです。

でもたぶんさー、仮に
帰ることができたとしてもまたすぐに離れちゃいそうだし。
ってなると「首輪にリードでむすんでおく。」
なんてことをしてもよくねぇだろうし。
どーすればよいか、とかは、まだよくわからない~。

2016年1月7日

「幹」から発せられることば

2016年01月06日 | 考えごと
前回エントリを書きながら、
ぼんやり思い出しておりましたのは、
吉本隆明さんの講演『芸術言語論――沈黙から芸術まで
なのですが。。。

前回、ぼくが「人間」を「木」に例えましたのは、
そういえば吉本さんの例えそのまんまだし。でも、
かと言って、ぼくがその中でも「実」について考えていた
というのは、じぶんはまだまだ『芸術言語論』で、
吉本さんがお話されていたことは理解できていないなぁ。
とおもったのよね。

つまり、それは「沈黙」のこと、なのだけれど。

吉本さんおっしゃるには、
樹木の枝のところに「花」が咲いたり「実」をつけたり、
また「葉っぱ」をつけたりするというのは、
春には芽が吹き出して、秋から冬にかけては例えば
風にちょっと吹かれるだけで落ちてしまうものだから、
それは決して言語の「幹」ではない。
季節ごとに変化したり落ちてしまったりするような、
枝葉から出てくるのは「コミュニケーション言語」であって、
それは言語のほんとうに重要なところではない。

いわゆる「木」の「幹」と「幹」に近いところ、
「幹」のすれすれのところから発せられることば、
つまり「沈黙の言語」があって。
「花」や「実」という「コミュニケーション言語」と、
「幹」や「根」という「沈黙の言語」とを、
分けて考えれば考えやすい。とおはなしされます。

あ。いえ、すみません。ぼくはまたさ、
わかっていないことをわかっていないまま、
理解できていないまま、書こうとしてる気がする。。。

うーん‥‥

「幹」から発せられる「沈黙」のことばとは、
どういうものなのか?!
のことをまた少し考えてみたいとぞんじます。
ちゃんとできるかどうかはわかりませんが、わかりたい~!

2016年1月6日

「自分のことばで考える。」とは?!

2016年01月05日 | 考えごと
古賀史健さんが書いておられる「note」での、
バトンズ3つのルール
という昨日のエントリを読みまして。
ぼくにはお仕事での原稿のことはよくわからないけど、
じぶん自身が日々で言う「ことば」にだって、
それらは大切なことかもしれない。
と思い、考えましたことを本日ブログ申しあげます。

古賀さんおっしゃるくわしい内容は上部リンク先での、
「note」をご参照いただきたいですが。
ぼくがとくに思いましたのはルール3つめの、

【自分のことばで考える。】

でございます。
【自分のことばで考える。】とはよく言われることだし、
でも、それってじつはどういうことなのか?! 
って、ぼくはあんまりわかっていないんだよねぇ。
じぶんが言う・言っている「ことば」は、
果たしてほんとうに【自分のことば】なのか??

古賀さんは、
「借りもののことばでなく、一般化に逃げ込むことなく
『わたし』を主語にして考えること。」
とのように書いておられますが、
聞けば簡単そうに思えても、なかなかできない。

ぼくが実際にできてるかできてないかは別といたしまして、
じぶんで思ったイメージを申しますと。。。
たとえば、「人間」を「木」に、
「ことば」を「実」だといたします。
その、じぶん自身の「木」に成った「実」のことを
【自分のことば】と呼び、そして、
どこかのお店で買ってきたり他の木より採ってきた「実」を
セロハンテープ等でじぶんの「木」にくっつけたりすれば、
【借りもののことば】となる。のかなぁと思った。

誰かからの「ことば」でございましても、
その「ことば」をじぶんの根っこちかくに撒いたりでの
「水」や「養分」やまた「日光」とすることにより、
「実」が成ればそれは【自分のことば】だし。
つまり、じぶんという「木」の「内部」を
「通している」という意味なのだけどね。

ってゆうそれのいちばんの問題点はさ、
「実」が枝に成るまでに「とても時間がかかる!」なのかも
しれないなー。セロハンテープだと一瞬だもんねぇ‥‥

じぶんの「木」に「実」が成るかどうかわからないし、
その「実」がおいしいのかどうか、
いや、食べられるかどうかさえも知らないけれど。
ちょっとこのようなことを思いました~。
古賀史健さんのおっしゃる「3つのルール」のこと、
できるように成りたいです。

2016年1月5日

いつ「目」に「鱗」はついた?

2015年12月29日 | 考えごと
本を読んだり話を聞いたりすることによって、
「目から鱗が落ちる」ときってあるとおもうんだけれど。
その「目」から落ちた「鱗」ってさ、
いつ、じぶんの「目」についたのかねぇ??

たとえばお魚などの生物の「鱗」って、
外からの攻撃や環境から身を守るために皮膚をおおい、
と、そのように進化してきたらしいけど。
ぼくの「目」から落ちた「(比喩としての)鱗」も、
そんなよーな外敵や外的よりじぶんを守るため、
いつのまにやらついてしまったんかのう。

でもそんな「鱗」が、
たとえば本を読むことで「目」から取れた!
これってばどういう構造なのかね??

あまりにも過酷な状態にさらされてしまうとさ、
「目」にも「体」にもびっしり「鱗」的なものにおおわれ、
厚い鎧を装備したりサングラスを何重にもかけたごとく、
全く動けなくなり、なにも見えなくなってしまう。
そんな大変な場合では果たして「鱗」は落ちるのかどうか。

びっしりとこびりついた「鱗」のあいだをかきわけ、
網膜へと飛び込んてやって来た「愛」のおかげで
「目」から取れるのか。

おかげさまで「鱗」も落ちすっきりとしたその「目」には、
もう「鱗」はつかないのか。それとも、
また「鱗」はつくのか。

そーなのか、どーなのか。。。

生活をしているだけで「鱗」がついてくるならば、
どうすればなるべくくっつかないようにできるか?!
どうすればなるべく生えないようにできるか??!

今日一日で生えた「鱗」を、
その日の夜のうちにちゃんと落としておかないと、
毎日毎日「鱗」は積み重なりもういつか手遅れにも成って‥‥

年末歳末の大そうじのようにはいかないだわよ。

まずは「目」についている1つの「鱗」を
落とすところから、
「鱗」落としの生活がスタートするのかもしれねぇ~。

2015年12月29日 @ 鱗(うろこ)

2種類の困難さ。

2015年12月26日 | 考えごと
なにかゲームで「1面」をクリアーしたら、
「2面」が始まって、
あたらしい敵やギミックも登場してきて、
「1面」よりむつかしくなってることってあるじゃん。

【新ステージの困難さ】と申しますかのような??

そして、それならばまだしもさ。
今度はそのゲームをクリアーいたしまして、
次のゲームを遊び始めるときにそのゲームの
ルールやシステムがわからなくて少し戸惑う、みたいな。。

たとえば、
スーパーマリオブラザーズ』での「1」と「2」を経て
「3」になったときのことでしたり。
ドラゴンクエスト』での「1」「2」「3」より、
「4」で「天空シリーズ」がスタートしたとき。や、また、
MOTHER』の「1+2」から「3」になって、
セーブの方法が「パパへ電話する。」から
「カエルへ話しかける。」に変わった、などなど‥‥

の、それをね、
うえで申しました【新ステージの困難さ】と比較させ、
【新シリーズの困難さ】ってここでは申しまして。

これらのような、
【新ステージの困難さ】と【新シリーズの困難さ】って、
ふたつ、困難さの種類がちがうよなぁと思ったんだよねぇ。
「レベル」が上がったことによる「ハードさ」なのか、
「枠組みのちがい」からによる「ハードさ」なのか。
技術が向上すれば解決できるのか、
それだけでは、どーにもままならないか。

ゲームだけに限らずなにかをクリアーできたときの、
その次にやって来た「困難さ」が、
【新ステージの困難さ】か【新シリーズの困難さ】かの
どちらのほうの「困難さ」か?!
を見極めることって大事かもなぁとおもったんよ。
あたらしい「ステージ」が始まったか? それとも、
あたらしい「シリーズ」が始まったか? 的な。。。

じつはさ、じぶんが、今ちょっと悩んでいる~。

いや、でも別になにかひとつをクリアーしたかどうかも
よくわからないし。
ていうより、これはまったくそーじゃなくって、
ただじぶん自身が退化しただけかもしれんですが‥‥
あれだよ、たぶん、これはこのまえブログで申しあげました
「虹を見た。」のエントリ直後ぐらいからだと思うだけど。
その最後でぼくが申しました
「なにか、だいじょうぶ、とおもえた。」っていうのは、
じつは「だいじょうぶ」では無かったんにょ。

そのときには「だいじょうぶ」だとおもったけれど、
それ以後のことはあんまり考えておらんかった~。
どーしよーかねぇ?? 部屋のかたづけするか。

2015年12月26日

「ないもの」を「ねだる」か?!

2015年12月24日 | 考えごと
「ないものねだり」ってさ、
やってはよくないことだとよく言われていて。
ぼくもそう思ってたし。でもほんとうのところは、
どーなんだろー?! って最近ちょっと考えてたのよ~。

じぶんに「ないもの」だけを見て、うらやましがって、
持ってるひとに嫉妬し恨みがましく思うのは、
よくない! からと言って。
じぶんの持っている「あるもの」だけを見て、
「あるもの」が「ある」ことに感謝し、
それ以上にはもうなんにも求めないようにしたほうが、
よい!!! ていうのも、
それがほんとうによいものかどうか、
ぼくはちょっとわからないかもしれんなぁって思ったの。

「ないもの」には全く目もくれないことが「よいこと」で。
「ないもの」を求めてしまうのは「だめなこと」か。
これからの生活でも「すでにあるもの」のみで、
満たしていったほうがよいものかどーか?!
そのほうがよいようにも思うし、そうではない気もしてる…





帰り道に見つけた
路地裏で咲いていた
花の名前はなんていうんだろうな


ないものねだり/フジファブリック





フジファブリックの『ないものねだり』という曲をねぇ、
いま聴いているのだけども。この歌の主人公がさ、
知らない「花の名前」を知ろうとすることって、
ある種の「ないものねだり」のような気がするのよね。
「知ら『ない』こと」を求めているのだから。
でも、その「ないものねだり」は別に悪いことじゃない。
「ないものねだり」にも種類があるのかな??

…と、そっから考えましたのは、
「ないもの」を「ねだる」ことが、つまり、
「せびる」や「せがむ」や「奪う」だったりをすることが、
よくないのかもしれん。

知恵とか才能とかお金や人でございましても、
「ねだる」でなくって、
正式にオフィシャルに健康的に「求める」のであれば、
それはそれほど悪いことじゃないかもなー。と感じた。

12月24日、志村正彦さんの声を聴く。。。

2015年12月24日 @ Anthem

固有名詞と知らなさ。

2015年12月19日 | 考えごと
ちょっとまえのブログでは、
本年11月に訪れました一泊二日東京旅行のことについて、
そのまた以前にはぼくがすきな歌やおんがくについて、
なんどかに渡ってシリーズで申しましたですが。

そのときのエントリ書きながら考えておりましたのは、
「固有名詞」をできる限り記してゆく!
でございまして。

たとえば、作家さんやミュージシャンの方々のおなまえ。
曲とアルバム、そして、とある映画&ゲームのタイトル。
施設や建物やイベントやお店の名称。地名。駅名。作品名。
これらのような「固有名詞」を、
なるべく記したい。と書く途中から考え。。。

そのふたつのシリーズ、
当初はあんなに長くなるなんて思っていなくって。
「おんがく」のときは書いてたらどんどん思い出しちゃうし。
「東京旅行」では「プロローグ」「一日目」「二日目」
そして最後「明日の神話編」の全4回だと考えていたけれど、
書き出してみればなんだかキーボードが先へ進まず、
(これは長くなりそう・・・)て思ったときに
「固有名詞」をきちんと記そうと決めたですが。。

そのような「固有名詞」を記しておりまして思ったのはね。
じぶんが知っている「固有名詞」を書くということは、
「知っている」ことを書いているわけだけど。それと同時に
じぶんの「知らなさ」を表してるんじゃないか?? って。
聴く「おんがく」や行く「場所」だけしか書かない。
知らないことやものは「知らない」から書けない。
書いているのはじぶんの「知っている」範囲、
それより外側にある事柄は書くことができない。

つまり、「知っている」ことを書いてゆくことでね、
どれだけじぶんが「知らない」かを
可視化させているような感覚がしたんだよね。

「知らなさ」を「知る」ためには、
じぶんの「知っている」ことを記すことが肝要で。
さらに、「知らない」こととあたらしく出あうためには、
じぶんが「知っている」範囲のなかの
そのいちばん外側にある物事を「描く」ことによって、
じぶんは「知らない」けれど、でも、
じぶんの位置からいちばん近くにある「知らない」ことへ、
初めて触れることができる。

そんなことをブログ書きながら思っておりました~!

2015年12月19日 @ 674

誤解を恐れずに

2015年12月16日 | 考えごと
「誤解を恐れずに言えば、」ということばを、
ぼくはきちんと使えたことがない。って思ったの。
「誤解を恐れずに言えば、」のことばを、
さいしょにじぶんで意識したのはたしか
原研哉さんの著書の中からだったと思うのですが。
それ以来もどこかで「誤解を恐れずに言えば、」と聞けば、
なんだかかっこよいなぁ、と感じて。。。

まず思うのはぼくの場合ですと、
「誤解」を「恐れてしまう」ことがあるんだわね。
「誤解コンプレックス」みたいなことかもしれねぇ。
「誤解」されないように、逆を言えば
「理解」だけを求めるかのように、
ことばを使っている気がする。

だから、ぼくが使うことばにはいつも、
「誤解」を許せない不自由さが
つきまとっているんではないかなぁと感じてる。
「誤解」ではなく「理解」しか許さない、みたいな…
説明っぽくなるし、理屈っぽくもなるのは、
そういう「誤解」を「恐れる」性格にあるのかなー??

「誤解を恐れずに言えば、」ということばを読むときには、
著者のかたが描かれたそのあとに続くことばを、
とても慎重に読もうとしている、ことに気がついて。
もしもそこに「誤解を恐れずに言えば、」のことばが
無かったらぼくはそんなに慎重になることもなく、
読みながらよく考えることもなく、
たださらっと先へ進んでいたかもしれない。

じぶんは、誤解してるか? 理解できてないか?

そのテキストにはすでに
「誤解を恐れずに言えば、」のことばは記されてるから、
もしも無かったら、を考えるのもむつかしいけど。
なぜその場所に著者のかたは「誤解を恐れずに言えば、」と
入れたのだろう。

みたいなことを考えても、よくわかりません~。。

2015年12月16日