意外性は思ったことや予想したことから外れている状態のことである。人は普遍的に多くのことについて想像したり、予測したりして、それに基づいて計画を立てて物事が適切に進行するようにしているのだが、意外性は計画の基となる想像や予想を覆してしまい、計画の変更や中断を生じさせる原因となる場合がある。私は意外性のある事態に毎日確かに遭遇しているのだがあまり気に留めていないので印象の強いものは少ない。しかし、その中でも最も印象が強いのはお金を科学的に考えることがとても難しいことだと論理的に書いてある経済学的な本を大学生の時にレポートを書きに行った図書館で立ち読みした時だったと思っている。頭痛や肩こりと合わせて少し読んでいる間に意外性によって未来像が破たんし本当にどうして良いのか分からなくなった記憶がある。
そのような不確定要因と言いかえることもできる意外性を有する事象に対する遭遇は経験の少ない新しい環境に身を置いたり、不慣れな作業を行わないようにすることによって遭遇する頻度を下げることが出来、事故の発生を少なくすることが可能である。そのため、常に意外性を有すること避けるのは正しいと感じる時は多い。
しかし、人間は基本的に何の事実も覚えずに生まれてきて、実際に自発的にも受動的にも、色々なことを試したりしなければ経験や知識が身につかないことも事実である。また、他の競争者よりアドバンテージを高めるために意外性を持つ新事実の発見といち早い習熟を求められる場合はかなり多い。大学・大学院でも言葉上、一般人にはそれが求められていて確かに周囲の人は実際にやっていた気がするのだが、自分の場合はそうでもなかったかもしれない。三次元でなく二次元で濃度を考えるという過ちをした二次元酔歩拡散のシュミレーションプログラムを人から手渡されて、ほかのプログラムにも同じルーチンが入っているのを発見した時に多分、私が新発見することは出来ないし許されないものになっていった気がする。家の庭でタマムシを発見した時に生命科学の世界に進んでいきたいと考えていた小学生の新鮮な好奇心はもう影も形もないような気がする。
そのように意外性を避ける事によって安全を確保する態度と意外性のある新事実を発見して状況を打開しようとする態度は、時々、対立するわけだが、人間の多い社会で人は生存のために状況によって複雑にそのバランスをとっていかなければならない。対立する感情を生じる態度を細かく組み合わせて行うのは人間の生理的には少し無理があるはずなのだが、社会の多くの場面で要求されている事である。上手く扱うことが出来るようになったときには意外性は多くの利益を人間にもたらしてくれる力になると私は感じている。
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