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接触していない人間が自分の事を理解する可能性は高いのか

2013-05-12 15:52:22 | 日記
 ここ5年くらい、人間とあまり話せていないし、はた聴きも多くないので人間がどんなものだったのか良く思い出せない。
 人が人を避けるきっかけになるのは美醜も利益もあるのだが、話した時に自分と態度や仕草が合わないのが一番大きいように思えなくもない。
 今まで接触していなかった人間が自分と同じ考えを持っている可能性というのは、共通して行っている学校の学習の内容が最も高く、多くのチャンネルや新聞、ネットで報じられていたことがその次に来るはずなのだが、大学時代や高校の時に勉強の方法や考え方、時事について人に話しかけてみると大抵嫌そうであり、映画、アニメ、漫画、小説、占い、ゲームの話題の方で自分の前では盛り上がっていた。
 Youtubeのようなネット上の場所でもそちらのアクセス数が多く、本来のニュースへのアクセスは非常に少なくなっている数字が見える時が多いが、それが広く起こっている現象なのだと思う。
 現実の物理法則や多くのバリエーションが存在するようになった周辺状況に照らし合わせると事前に理解されていたり話題が共通する可能性が低い事象やコンテンツを自分やその周囲の狭い範囲の興味の対象としていて会話にそれを用いねばならないならば接触していない自分と他人が事前に考えや話題が共通していて第一印象が良い可能性はかなり低く、その後も交際が成立する可能性は低くなる。
 それは挨拶を覚えていないのと近いかもしれない。
 将棋や囲碁、トランプ、花札、麻雀のように昔から永い間、ルールも共通していた方が本当は挨拶同様に広いコミュニケーションには都合が良かったのだが、産業がゲームやルールを覚えないと集団には入れない状態をいつの間にか利用して大量の商品を投入したがために、人が把握できなくなって、その状態を崩し、コミュニケーションを小規模に分断して、移動して新しいところに行ったときに共通する楽しい話題がある可能性をより一層減らしたように時折見ており、それを補償するためにより新しいものを購入する場合もあるのだが、その前に実体の人間のコミュニケーションがある程度楽しく有益なものだと覚えていてもらえないと困るのではないかというのが自分の体感である。
 人間の仕組み自体は変わっていないので、場所によっては確かにコミュニケーションが発生しているわけだが、そのコミュニケーションに必要性がある場合の頻度はかなり低下しているように感じる。
 必要がある事が、実際には不必要ではあっても面白いという話題で会話がつながるのでそれをしている間にやってきていたので大抵の人があんまり意識せずに不必要なことも必要としてやっていたわけだが、コピーを大量に印刷出来て配布出来たり、ネットの掲示板に載っていたりして人づてで聞く必要があまり大きくなくなってから、実際に不必要な話題というのは場合によっては本当に不必要になってしまったのではないかという感じを持っている。
 そんな感じで、今日三十分ぐらい書きながら考えて出した結論は接触していない人間が自分との対話の内容を共通話題だと思いこんでいる、数が多そうなのに多くが知らないエンターテインメントなどに持って行ったら実際に共通の理解がされる可能性は低く、一般的に共通話題でないように感じる学校の勉強や実際にある具体的な場所に持って行くとやってみると実際には理解される可能性は高いと自分では感じているという事がわかったという事だが、実際はどうなのだろうか。
 上手くいかない事を障害というのであって、能力や技量の高低よりかは結果論であり、コミュニケーション上手くいかない状況を形成すれば、大抵の人は社会では頻繁にコミュニケーションの方法やそれを行っている人が見えているように感じていて、実際に普通の状態であれば確かに上手くいく状況は多く、普通のまともな思考とは例外を排除して出来ているわけで、その原因は本人以外にない事に社会の定義ではなり、確かに障害を保有している事になる。
 私は現況では道行く人は元々、ほとんどの他人の事を理解していないわけで、自分で人を選んでみると必ずコミュニケーションに障害を多少持った人を選ぶことになり反対も正しかろう(対偶は必ず正しいわけで、相手にあまり障害がないと自分により障害があったり、自分にいくらか障害があるときに相手にはより少なく見えるというのもある程度正しそうだと思う)と思っていて、色々な思考や態度が違う状態である人間でも関わるうちにそれがある程度緩和されるという事を様々な悪情報により信用できなくなった人が案外多い状況の場所には自分はあんまり長いしない方が良い気もしている。
 

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