連帯責任という考え方は、昔の軍隊でも部隊を統率するために常用されたという。
その部隊の誰かが不始末を犯した場合、他の部隊員には直接的な責任はなくても部隊全体の責任として全員を処罰するというものである。
これにより、部隊の各員を相互に監視させ、けん制させ合うことによって、不始末の発生を防ぎ連帯意識も高める、という一石二鳥の手段として、現在でもスポーツ界などでは当然のことのように根付いている。
しかし、ある組織で問題が発生した場合、その組織を統率する権限と責任のある者が責任を問われるのは当然としても、何も権限のない一般の構成員にまで責任を負わせる、というのは理に合わないことである。
私が小学生時代の担任教師もこの連帯責任を乱用し、自分がまったく知らないところでクラスの誰かが仕出かしたことでも、連帯責任として私もしばしば罰を受けたものである。
子供心にも理不尽だと思っていたが、先生に反抗するとまた連帯責任で他の皆に迷惑がかかるので、心ならずも我慢したことは一度や二度ではない。
皆で話し合ってこうしようと決めたことであれば、全員が責任をもつべきであることは子供でも理解できる。
しかしそうではなく、個々の構成員の勝手な不始末まで全員に連体責任を負わすことは被害者意識が強くなるばかりで、教育的なメリットは何もない。
チームワークは、チームの一員として各々が互いに助け合い、協力し合い、励まし合いながら養っていくものであり、連帯責任による処罰を恐れて互いに拘束し合うということではないはずである。
先日、横浜市の小学校教師が、一部の生徒が指導に従わなかったという理由で、連帯責任としてクラス全員に体罰を加えたということが問題になっている。
ただ、これは体罰そのものが問題視されているだけで、体罰さえなければ問題になることはなかっただろう。
今でも学校現場では、私の小学生時代と同様、このまったく教育的価値のない連帯責任という考え方が当たり前のように通用しているのだろうか?
<関連ニュース記事>
・女性教諭がクラス全員平手打ち=「連帯責任」、赴任2日目-横浜(時事通信)
その部隊の誰かが不始末を犯した場合、他の部隊員には直接的な責任はなくても部隊全体の責任として全員を処罰するというものである。
これにより、部隊の各員を相互に監視させ、けん制させ合うことによって、不始末の発生を防ぎ連帯意識も高める、という一石二鳥の手段として、現在でもスポーツ界などでは当然のことのように根付いている。
しかし、ある組織で問題が発生した場合、その組織を統率する権限と責任のある者が責任を問われるのは当然としても、何も権限のない一般の構成員にまで責任を負わせる、というのは理に合わないことである。
私が小学生時代の担任教師もこの連帯責任を乱用し、自分がまったく知らないところでクラスの誰かが仕出かしたことでも、連帯責任として私もしばしば罰を受けたものである。
子供心にも理不尽だと思っていたが、先生に反抗するとまた連帯責任で他の皆に迷惑がかかるので、心ならずも我慢したことは一度や二度ではない。
皆で話し合ってこうしようと決めたことであれば、全員が責任をもつべきであることは子供でも理解できる。
しかしそうではなく、個々の構成員の勝手な不始末まで全員に連体責任を負わすことは被害者意識が強くなるばかりで、教育的なメリットは何もない。
チームワークは、チームの一員として各々が互いに助け合い、協力し合い、励まし合いながら養っていくものであり、連帯責任による処罰を恐れて互いに拘束し合うということではないはずである。
先日、横浜市の小学校教師が、一部の生徒が指導に従わなかったという理由で、連帯責任としてクラス全員に体罰を加えたということが問題になっている。
ただ、これは体罰そのものが問題視されているだけで、体罰さえなければ問題になることはなかっただろう。
今でも学校現場では、私の小学生時代と同様、このまったく教育的価値のない連帯責任という考え方が当たり前のように通用しているのだろうか?
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人間は、かつて、自分が経験したことをもとにする傾向があります。
でも、教育は、いのちある大切な子どもたちのためにあるのです。
連帯責任なんて、正直、久しぶりに聞きました・・・。
連帯責任は、本来は相互扶助なども狙って行われたようですが、実際には不始末を起こした人がいじめられることにしかならなかったと思います。
子供たちの心を萎縮させるような教育はやるべきではありませんよね。