日々の便り

男女を問わず中高年者で、暇つぶしに、居住地の四季の移り変わりや、趣味等を語りあえたら・・と。

拓海君の霊に

2008年04月07日 17時07分37秒 | Weblog
拓海君 お地蔵様に導かれて、岩木山の嶺を目指して歩むお花畑は、花盛りですか。  顔も合わせたこともない見知らぬ、越後の里に住む、おじさん?いや君のことをこの世で一番愛したお爺さんと同じ歳位の、いずれ近いうちに君に逢えるかも知れない、一人で現世を自然に任せて細々と日夜を過ごしている者です。

下界では、君のことを讃える新聞記事も散見されますが、人の噂も四十五日、いずれ忘れ去られることでしょう。

東北には、悲しい出来事があまりにも多く、ましてや、現実のめぐるましい社会・経済の変化に、自分を守ることに精一杯であることを考えれば、これも致し方ないとも思いますが、人の心が荒んでいることは、向こう三軒両隣りの古い時代に人生の大半を過ごした、おじさんには、あまりにも悲しすぎる世の中です。

君が、不本意に天国に旅立つ歳のころ、おじさんは、盛岡の郊外に学童集団疎開しており、厳しい冬を良く理解できます。

そのころ、先生に教えられたことを、今でも良く覚えていますが、
 「人は死すと、その霊は五十年かけて近隣の高い山に登り、現世の汚れた心を澄んだ空気に浄化されて、五十年かけて山を降りて、村の鎮守様に帰り祀られて、氏神様となり、村の五穀豊穣と村人の幸せを守る。」
と言い伝えられてきたとのことです。

 その後、読んだ本でも、民俗学の先駆者柳田国男?の「遠野物語」でもそれらしきことを読んだ記憶がありますが、東北地方に残る「神仏習合説」からも、流転の激しい人の心の最終的なよりどころと、私の胸には今も焼き付いております。

 君が、9歳で畑を耕し、おじさんも知らない多くの野菜の名を覚え、それをわずかな子遣いで求めていたと知り、君の才能の豊かさに驚きました。

 おじさんの脳裏に、君の人間的な素晴らしさが永遠に残るように、君の面影を想像しながら、勝手に書きましたが、安らかに「道」を歩んでください。

 何時の日か君に逢えることを念じつつ。           合掌







 
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