昭和・私の記憶

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偉い人 日露戦争・乃木大将

2012年09月08日 05時30分50秒 | 9 昭和の聖代

旅順開城成りて 敵の將軍ステッセル
乃木大将と会見の 處はいずこ水師榮
・・・「水師榮の会見」・佐佐木信綱


                              中列左中・乃木大将、右中・ステッセル中将
水師榮
  すいしえい

国民学校国語読本 巻六 第十二課 (三年生用)

明治三十八年一月五日午前十一時
この時刻を以て、わが攻圍軍司令官乃木大將と、
敵の司令官ステッセル將軍とが會見することになつた。
會見所は、旅順から北西四キロばかりの地點、水師榮の一民屋である。
附近の家屋といふ家屋は、兩軍の砲弾のために、影も形もなくなつてゐた。
この一民屋だけが殘つてゐたのは、
日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、
屋根に大きな赤十字旗をひるがへしてゐたからである。
前日、壁に殘つてゐる彈のあとを、ともかくも新聞紙で張り、
會見室に當てられた部屋には、大きな机を用意し、眞白な布を掛けた。
下見分をした乃木將軍は、陣中にふさはしい會見所の景にほほ笑んだが、
壁に張つてある新聞紙に、ふと目を注いで、
「 あの新聞紙を、白くぬっておくやうに。」
と いつた。
新聞紙は、露軍敗北の記事で滿たされてゐたからである。
さきに一月一日、
ステッセル將軍は、
わが激しい攻撃に守備しきれなくなつて、つひに旅順開城を申し出て來た。
乃木將軍は、
この旨を大本榮に打電し、翌日、兩軍代表は、旅順開城の談判をすましたのであつた。
その夜、山縣参謀總長から、次のやうな電報があつた。
「 敵將ステッセルより開城の申し出でをなしたるおもむき伏奏せしところ、
陛下には、將官ステッセルが祖國のために盡したる勲功をよみしたまひ、
武士の名を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで傳達す。」
そこで三日、
乃木將軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を傳達することにした。
命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル將軍のところへ行つた。
ステッセル將軍は、副官にいひつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持つて來させ、
身支度を整へてから不動の姿勢を取つた。
津野田参謀が、御沙汰書を讀みあげると、副官は、これをロシヤ語に譯して傳達した。
ありがたく拜受したステッセル將軍は、
「 日本の天皇陛下より、このようなもつたいないおことばをいただき、この上もない光榮であります。
どうぞ、乃木大將にお願ひして、陛下に厚く御禮を申しあげてください。」
と いつて、うやうやしく擧手の禮をした。
乃木將軍が、

たむかひし かたきも今日は 大君の 惠みの露に うるほひにけり

とよんだのは、この時である。
四日に、
乃木將軍は、ステッセル將軍に、ぶだう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけた。
長い間籠城してゐた將士たちに、このおくり物がどれほど喜ばれたことか。
會見當日は、霜が深かつたが、朝からよく晴れてゐた。
十一時十分に、ステッセル將軍が會見所に着いた。
白あし毛の馬に、黑い鞍を置いて乘つてゐた。
その後に、水色の外套を着た將校が四騎續いて來た。
土塀で圍まれた會見所に入り片すみに生えてゐたなつめの木に、その馬をつないだ。
まもなく、乃木將軍も、數名の幕僚とともに到着した。
乃木將軍は、黑の上着に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられてあつた。
靜かに手をさしのべると、ステッセル將軍は、その手を堅くにぎつた。
思へば、しのぎをけづつて戰ひぬいた兩將軍である。
乃木將軍が、
「 祖國のために戰つては來たが、今開城に當つて閣下と會見することは、喜びにたへません。」
と あいさつすると、ステッセル將軍は、
「 私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、つひに開城することになり、
ここに閣下と親しくおはひするのは、まことに喜ばしい次第です。」
と 答へた。
一應の儀禮がすむと、一同は机を取り圍んで着席した。
ステッセル将軍が、
「 私のいちばん感じたことは、日本の軍人が實に勇ましいことです。
殊に工兵隊が自分の任務を果すまでは、決して持ち場を離れないえらさに、すつかり感心しました。」
と いふと、乃木将軍は、
「 いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り續けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」
と いふ。
「 しかし、日本軍の二十八サンチの砲彈には、弱りました。」
「 あまり旅順の守りが固いので、あんなものを引つぱり出したのです。」
「 さすがの要塞も、あの砲彈にはかなひませんでした。
コンドラテンコ少將も、あれで戰死をしたのです。」
コンドラテンコ少將は、ロシヤ兵から父のようにしたはれてゐた將軍で、
その日もロシヤ皇帝の旨を奉じて、部下の將士を集めて激勵してゐたさなかであつた。
「 それに、日本軍の砲撃の仕方が初めと終りとでは、ずゐぶん變つて來ましたね。
變つたといふよりはすはらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代つたのでせう。」
「 いいえ、代つてはゐません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「 同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、實にえらい、さすがは日本人です。」
「 わが二十八サンチにも驚かれたでせうが、
海の魚雷が、山上から泳いで來るのには、面くらひましたよ。」
うちとけた兩將軍の話が、次から次へと續いた。
やがてステッセル將軍は、口調を改めて、
「 承りますと、閣下のお子様が二人とも戰死なさつたさうですが、
おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
と ていねいに悔みをのべた。
「 ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戰死をしました。
國のために働くことができて、私も満足ですが、
あの子どもたちも、さぞ喜んで地下に眠つてゐることでせう。」
と、乃木將軍は、おだやかに語つた。
「 閣下は、最愛のお子様を二人とも失はれて、平氣でいらつしやる。
それどころか、かへつて満足してゐられる。
閣下は、實にりつぱな方です。 私などの遠く及ぶところではありません。」
それからステッセル將軍は、次のやうなことを申し出た。
「 私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼つてゐます。
今日乘つてまゐりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。
ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思ひます。お受けくだされば光栄に存じます。」
乃木將軍は答へた。
「 閣下の御厚意を感謝いたします。
ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。
一應軍で受け取つて、その上、正式の手續きをしてからいただきませう。」
「 閣下は、私から物をお受けになるのがおいやなのでせうか。それとも、馬がおきらひなのでせうか。」
「 いやいや、決してさんなことはありません。私も、馬は大すきです。
さきに日清戰争の時、乘つてゐた馬が彈でたふれ、大變かはいそうに思つたことがあります。
今度も、やはり愛馬が彈で戰死しました。
閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思ひます。」
「 あ、さうですか。よくわかれました。」
「 ときに、ロシヤ軍の戰死者の墓は、あちこちに散在してゐるやうですが、
あれはなるべく一個所に集めて墓標を立て、
わかることなら、將士の氏名、生れ故郷も書いておきたいと思ひますが、
それについて何かご希望はありませんか。」
「 戰死者のことまで、深いおけをいただきまして、お禮のことばもありません。
ただ、先ほども申しましたがコンドラテンコ少將の墓は、どうか保存していただきたいと思ひます。」
「 承知しました。」
やがて用意された食が運ばれた。
戰陣料理のとぼしいものではあつたが、みんなの談笑で食事はにぎはつた。
食後、會見室から中庭に出て、記念の寫眞を取つた。
別れようとした時、
ステッセル將軍は、愛馬にまたがり、はや足をさせたりかけ足をさせたりして見せたが、
中庭がせまいので、思ふやうには行かなかつた。
やがて、兩將軍は、堅く手をにぎつて、なごりを惜しみながら別れを告げた。

此れは、尋常小学校が戦時下の国民学校になってからの教科書である
この国語読本は全十二巻からなり、十二巻を義務教育である小学校の六年間で学んだ
(一年間で二冊ずつ読み進めたのである)

乃木大將の少年時代
第五期(昭和一六年~) 初等科修身 二(四年生用) 十七

乃木大將は、小さい時、からだが弱く、その上、おくびようでありました。
そのころの名を無人なきとといひましたが、寒いといつては無き、暑いといつては無き、
朝晩よく泣いたので、近所の人は、大將のことを、無人ではない泣人なきとだと、
いつたといふことであります。
父は、長府の藩士で、江戸にいましたが、自分の子どもがこう弱虫では困る、どうかして、
子どものからだを丈夫にし、氣を強くしなければならないと思ひました。
そこで、大將が四五歳の時から、父は、うす暗いうちに起して、
ゆきかへり一里もある高輪の泉岳寺へ、よくつれて行きました。
泉岳寺には、名高い四十七士の墓があります。
父は、みちみち義士のことを聞かせて、その墓にお参りしました。
ある年の冬、大將が、思はず「寒い」といいました。 
父は
「 よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」
といつて、井戸ばたへつれて行き、
着物をぬがして、頭から、つめたい水をあびせかけました。
大將は、これからのち一生の間、「寒い。」とも「暑い。」ともいわなかつたといふことであります。
母もまた、えらい人でありました。
大將が、何かたべ物のうちに、きらいな物があるとみれば三度々々の食事に、
かならづそのきらいな物ばかり出して、
すきになれるまで、うちじゅうの者が、それをたべるようにしました。
それで、まつたく、たべ物にすききらいがないようになりました。
大將が十歳の時、一家は長府へ歸ることになりました。
その時、江戸から大阪まで、馬にもかごにも乗らづ、父母といつしよに歩ひて行きました。
そのころ、からだが、もうこれだけ丈夫になつていたのです。
長府の家は、六じよう、三じようの二間と、せまい土間があるだけの、小さなそまつな家でありました。
けれども、刀、やり、なぎなたなど、武士のたましいと呼ばれる物は、いつもきらきら光つていました。
この父母のもとで、この家に育つた乃木大將が、
一生を忠誠と質素で押し通して、武人の手本と仰がれるようになつたのは、
まことにいわれのあることであります。

戦前 (昭和二十年迄) の小學校で児童が学んだ乃木大将である
明治生れの祖父母は、昭和ひとケタ生れの父母は、此を学んだ
「乃木大将は偉い人」 と、國から教えを享けたのである


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