KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

長崎の鐘

2020年10月23日 | 俳句
天気 雨

写真は、15年前のもの。この当時は花を撮りに行っては蝶を追いかけていた気がする。
今日は通院日、晴天ならスマホ写真くらいは撮る機会があったのに。

朝ドラ「エール」で、今朝は「長崎の鐘」の話が放送された。
戦中の話はもうイヤ、と暫くは見ていなかったが、昨日は「鐘の鳴る丘」。やっと戦後になった~と思い、またゆっくりと観る気分になれた。それにしても「鐘の鳴る丘」も「長崎の鐘」も、歌詞を全部諳んじている自分に驚く。今の歌なんて、曲は知っていても歌詞は一小節も覚えられないのに・・

「長崎の鐘」には思い出がある。小学校2.3年だったか、やっと歌詞の意味が少しは解ってきた頃のことだ。多分私が、ふざけて歌っていたので母が戒めのためにそんな軽い歌ではない、と言いたかったのだろう。モデルとなった永井隆博士の本を読んだらしく、子供相手に詳しい話をしてくれた。
原爆のこと、一瞬にして奥様を亡くされて、博士も大けがをした身で原爆被害者を助け続け、そして白血病で亡くなられたこと。
その話を母がしてくれて「こよなく晴れた青空を 哀しと思うせつなさよ・・」の歌詞の本当の意味から教えてくれた。そして、二番の歌詞「召されて妻は天国へ・・」の話で、私は泣いてしまった。
田舎の村でも、戦争に征き帰らなかった男はたくさん居た。幸い、わが家の身内・親戚は皆帰ってきたが。でも、家に居る女子供にまで戦火は及ばなかった。東京大空襲も、上空を通り過ぎる夥しいB29の爆音だけは記憶にあるが、火災は海の向こうの赤い空を見ただけで。
当時、外地から帰った父が戦犯となって(軍人ではない)とんでもない貧乏暮らしのわが家だったが、私は物心ついた時から何もなかったから、貧乏、という言葉は知らなかったようだ。多少飢えていても日々の暮らしに満足していた。とにかく、父も母も兄姉も戦争を生き抜いた有難さを知った、初めての体験だったかもしれない。

その後、20年近く前、長崎へ行く機会があった。平和記念公園を下り、念願の永井博士の旧居だったという「如己堂」へも行った。
今も、「長崎の鐘」の歌を聴くと涙が出そうになる。

火の恋し遺る同胞(はらから)姉一人   KUMI
コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする