羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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吉田秀和「相撲は勝ち負けがすべてではない」「わが相撲記」

2012年06月02日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想

「相撲は勝ち負けがすべてではない。」吉田秀和2011年(羽黒蛇)






ネット情報で見つけた、2011年2月19日の朝日新聞に、吉田秀和の一文を文末に引用。






「相撲は勝ち負けがすべてではない。」とは、相撲を文化として鑑賞するということ。

私は、このブログで、勝負に関する曖昧さを排除すべきと主張している。

それは、勝負については精緻なルールを決めることが、文化としての曖昧さ「例えば、同部屋は対戦しない。」を文化として残していくために大事だと思うから。 羽黒蛇








大正2年の生まれの吉田秀は、小学校に上がる前に、大工の棟梁から聞いたこんな相撲談義をよくおぼえている。以下引用。

Quote

「坊ちゃんも相撲は好きでしょう?相撲は何たって梅常陸。西と東の横綱が楽日に顔を合わせる。待った数回、やがて呼吸が合って立ち上がると、差手争いで揉み合ったあと、ガップリ四つに組むと動きが止まる。立行司の庄之助がそのまわりをまわりながら『ハッケヨイ』のかけ声も高く気合いを入れるが、小山のような二人の巨体はいっかな動かない。その姿は錦絵そのまま。いや見事なものです。相撲の取組はこう来なくちゃ行けません。」



彼に言わせると、相撲は勝ち負けがすべてではない。鍛えに鍛えて艶光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの。瞬時にして相手の巨体を一転さす技の冴え、剛力無双、相手をぐいぐい土俵の外に持ってゆく力業。そういった一切を味わうのが相撲の醍醐味。
それに花道の奥から現れ、土俵下にどっかと座り腕組みして、自分の取組を待つ姿から土俵上の格闘を経て、また花道をさがってゆく。その間の立ち居振る舞いの一切が全部大事なのだ。


これがおよそ私の受けた最初の相撲に関するレッスンであり、この時の話は酒臭い息の匂いとともに今も私は忘れない。
(中略)
落日の優勝をかけた熱戦といえば、ある年の大阪春場所での貴ノ花と北の湖の一戦も忘れ難い。当時の北の湖は「憎らしいほど強い」といわれ、実力抜群。一方、貴ノ花は猛稽古で鍛えた強靭な足腰と技の冴え。貴公子然とした容姿で絶大な人気を博していたが。相手の大太刀に対して細身の剣のような感があり、勝つにはどうかと思われたが、それがまた観衆の判官びいきの熱を一層高める。そんな中で、かなり長い攻防の末、勝ち名乗りを上げたのは貴ノ花だった。その時の満場の歓呼、歓喜の沸騰の凄まじさ!あれはもう喜びの陶酔、祭典だった。あとで北の湖は「四方八方、耳に入るのはみんな相手の声援ばかり」と言っていたが、私はTVを前に「北の湖、よく負けた」とつぶやいた。
今、相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。
あなたはまだ相撲を見たいと思っていますか。

Unquote

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吉田秀和「わが相撲記」感想(羽黒蛇)







図書館で、吉田秀和の全集より、相撲の記述を見つけたので、興味深いところを要約・部分引用します。







書籍:吉田秀和全集10



出版社:白水社



発行日:1975年11月25日



317ページ以降に、次の一文。



わが相撲記 文芸春秋 昭和47年10月号



国技館変貌 読売新聞 昭和46年1月27日



番付の擁護のために 朝日新聞 昭和50年7月23日



大鵬引退の報をきいて、その場で 朝日新聞 昭和46年5月15日







私が国技館で初めて相撲をみたのは、大正11年5月場所2日目。



http://sumodb.sumogames.com/Results.aspx?b=192205&d=2&l=j 取組表をリンク







初日に横綱栃木山が阿久津川に敗れた翌日。



めったに負けることがなかった栃木山が初日に負けるとは、まったくありそうもないことだった。







大関常ノ花が阿久津川に負けた一番を見て好きになった時の感情



「今にして思えば、これこそ、私が生涯でいちばん早く経験した情熱の劇だった。」



「人は必ずしも自分で望ましく、願わしいと思う存在を愛するようになるとは限らない。それどころか、初めからこれは不幸の種になるぞと、予感していたにもかかわらず、好きになってしまう。」



「小学から中学の初めにかけての私が、精神のほとんどすべてを傾けて努力したことは、まさに自分がはまりこんだ情熱の克服、それからの脱却にあったといっても、誇張ではない。」



「解決は、彼の引退によって、やっと獲得された。それ以後、私の相撲熱は、減退した。私は救われ、解放されると同時に、情熱を失った。



 私はやっと息をついた。



 だが、このときの私は、まさかまた何十年かの後になってから、またしても、そういう苦しみを味わう羽目になろうとは思ってもみなかった。」







最後の一文は、昭和35年に柏戸のファンになったこと。



筆者は、柏戸が、琴桜・清国を相手に、ものすごい力と力の攻め合いを演じた姿を思い浮かべる。







父は中立親方、現役時代は友綱部屋の後援会にはいっていた。



東京生まれで大関になった伊勢ノ浜。







ラジオもテレビもない当時、国技館からの電話を受け、商店街で力士の木札で表示したので、翌日の新聞より早く知ることができた。



制限時間がないので、いつ木札が表示されるか、待つしかなかった。














「相撲を知らない人は気がつかないだろうが、力士たちが立ち合いの呼吸を担うその微妙さは、超人間的動物的敏感さの絶頂であり、これが勝敗の大部分を決定してしまう。



 相撲ほど一つの呼吸が大切なものは、音楽を別とすれば、ほかに一つもないのではないか。」







相撲場で見られる公衆のあり方について、



「かきつくせないようないろいろな要素が重なり合う中で、一つの微妙な均衡が生まれ、ハーモニーが成立する。」



「そのためには力士をはじめ興行者の側だけでなく、公衆の間にも、ある本能的なものがかよっていて、異物を排し、本当に適したものを選びとり、保存するように働く。」







相撲土産に風呂敷が使われなくなったという「味気ない変化」に疑問を提示したあとに、










「相撲に限らず、およそ歴史があり、ある方向に向かって洗練されてゆく過程の中で、微妙なハーモニーを成立させるのに成功した集合的組織をささえるには、さっきいった本能的選択の力がなければならない。」







「本能とか直感とかいったものは、はっきりしたつかまえどころがなく、たよりにならないようでいて、実はこれほど根の深く強いものはない。」







「つまり、これは、意識的な努力で、育てたり強化したりしようのないものなのである。私の商売にしている音楽でも同じである。」










「私は、相撲がこのまま衰えるのではないかとなどといっているのではない。だが、新しい変化の中には、何か私を不安にするものがあり、もしこの新しいものがまた生き生きとしたハーモニーを鳴り響かす原動力の一つになるとするなら、それはいつ、どんな仕方でだろうか?と、宿題でも渡されたような思いでいる。」







最後の引用は、昭和46年に国技館の壁が猥雑でなくなり、力士のまわしの色が鮮やかになったことを不安に感じた一文。










「相撲は私の好物である。」と書いている筆者は、その魅力について、



「私たちの生活となんの関係のないところに反映されている人生の哀歓の姿、それから土俵をとりまくすべてにつきまとっている一種の祭礼のドラマとでもいった性格が、私にはたまらない魅力なのである。」



「これは、基本的にはこのうえなく簡単で原始的でありながら、しかもすごく洗練された精緻な近代的性格を発展させてきた競技である。」














感想:相撲が文化として継承されるには、相撲が相撲たる伝統を守りつつ、観客に見に来ていただき収入を得る必要がある。収入がなければ、文化としての維持ができない。



吉田秀和が不安を覚えたまわしの色は、カラフルさにより観客が増えたという効果があり、伝統が守られていると感じる。



まわしの色はなす紺か黒という伝統はなくなったが、失ったものより、大きな収入があったと解釈できる。



これからも、試行錯誤して、伝統を変えつつ、収入を維持しなくてはならない。










ファンサービスの議論で、「野球場のようなスクリーンでビデオを見せる」という案が出るが、私は反対。



理由その1:相撲場の文化に似合わない。



理由その2:次の取組の邪魔。



理由その3:携帯電話でNHKの中継を見ることができるので、見たい人はすでに見ている。










羽黒蛇