羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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中村淳一さんの小説。後半です。

2012年06月03日 | 小説
夏場所の新番付が発表された。

東横綱、羽黒蛇。二十五歳、場所中に二十六歳。山形県出身。庄内部屋。186センチ、152キロ。優勝十五回。

西横綱、玉武蔵。三十歳。埼玉県出身。菱形部屋。194センチ、172キロ。優勝二十三回。

東大関、伯耆富士。二十一歳。場所中に二十二歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ、136キロ。優勝一回。

西大関、若吹雪。二十二歳。北海道出身。千葉乃海部屋。182センチ、151キロ。優勝一回。

東張出大関、早蕨。二十六歳。奈良県出身。瀬戸内部屋。180センチ、135キロ。

東関脇、荒岩。二十歳。兵庫県出身。菱形部屋。186センチ、145キロ。

西関脇、緋縅。二十三歳。群馬県出身。石見部屋。183センチ、123キロ。

東小結、曾木の滝。二十三歳。鹿児島県出身。瀬戸内部屋。188センチ。147キロ。

西小結、若飛燕。二十三歳。青森県出身。越ヶ浜部屋。184センチ。116キロ。

東前頭筆頭、豊後富士。十八歳。東京都出身。照富士部屋。186センチ。126キロ。

西前頭筆頭、竹ノ花。二十二歳。宮城県出身。浜寺部屋。184センチ。143キロ。

東前頭二枚目、芙蓉峯。三十二歳。山梨県出身。秋月部屋。190センチ、176キロ。

西前頭二枚目、獅子王。二十九歳。中国出身。飛鳥部屋。183センチ、167キロ。

東前頭三枚目、神剣(みつるぎ)。三十四歳。静岡県出身。村里部屋。180センチ、134キロ。

西前頭三枚目、神王(しんおう)。三十一歳。モンゴル出身。村里部屋。176センチ。125キロ。

東前頭四枚目、北斗王。三十五歳。北海道出身。飛鳥部屋。193センチ、155キロ。

西前頭四枚目、松ノ花。二十四歳。宮城県出身。浜寺部屋。187センチ。156キロ。竹ノ花の兄。

東前頭五枚目、安曇野。二十九歳。長野県出身。志摩部屋。186センチ、130キロ。

西前頭五枚目、光翔。三十四歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。182センチ。155キロ。

東前頭六枚目、早桜舞(はやおうぶ)。三十歳。京都府出身。沢渡部屋。191センチ、137キロ。

西前頭六枚目、高千穂。三十一歳。宮崎県出身。日高部屋。183センチ、144キロ。

東前頭七枚目、神翔(しんしょう)。三十七歳。兵庫県出身。村里部屋。179センチ。130キロ。

西前頭七枚目、若旅人(わかたびと)三十三歳。秋田県出身。志摩部屋。185センチ。127キロ。

東前頭八枚目、光聖(こうせい)。二十八歳。福岡県出身。鳴尾部屋。191センチ。142キロ。

西前頭八枚目、光優(こうゆう)。三十二歳。山口県出身。鳴尾部屋。171センチ。148キロ。

東前頭九枚目、神天勇(しんてんゆう)二十四歳。青森県出身。村里部屋。184センチ。145キロ。

西前頭九枚目、萌黄野(もえぎの)。二十九歳。千葉県出身。志摩部屋。188センチ。147キロ。

東前頭十枚目、飛鳥王。三十四歳。奈良県出身。飛鳥部屋。182センチ。168キロ。

西前頭十枚目、雪桜(せつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。131キロ。

東前頭十一枚目、神天勝(しんてんしょう)二十三歳。愛知県出身。村里部屋。185センチ。163キロ。

西前頭十一枚目、光翼(こうよく)。三十四歳。岡山県出身。鳴尾部屋。185センチ。153キロ。

東前頭十二枚目、月桜(げつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。134キロ。雪桜の双子の弟。

西前頭十二枚目、神天剛(しんてんごう)二十一歳。大阪府出身。村里部屋。188センチ。150キロ。

東前頭十三枚目、神優(しんゆう)。三十五歳。東京都出身。村里部屋。187センチ。188キロ。

西前頭十三枚目、白鳥。二十五歳。静岡県出身。結城部屋。185センチ。139キロ。

東前頭十四枚目、翔翼(しょうよく)。二十七歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。175センチ。155キロ。

西前頭十四枚目、青翔。二十五歳。モンゴル出身。芦名部屋。187センチ。134キロ。

東前頭十五枚目、北乃王。二十四歳。ロシア出身。高梨部屋。193センチ。210キロ。

西前頭十五枚目、優翔。二十九歳。徳島県出身。美馬部屋。177センチ。132キロ。

東前頭十六枚目、金の玉。十九歳。東京都出身。武庫川部屋。182センチ。127キロ。

西前頭十六枚目、満天星(まんてんせい)。二十七歳。モンゴル出身。秋葉部屋。189センチ。185キロ。

東前頭十七枚目、近江富士。二十歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ。109キロ。











近年、本場所の土俵は連日、満員御礼となっていた。

初場所、夏場所、秋場所と、東京の国技館で場所前に行われる、一般ファンにも無料で公開される、稽古総見。近年は、この行事のときも、満員になる。

が、その夏場所前は、異常だった。開催日の数日前から、入場するための徹夜組が出現したのだ。この報道が流れたことにより、徹夜での順番待ちはどんどん増え、二日前には、その時点で、もう満員になるだけの人数が列を作った。相撲協会は、その前日から、列の先頭のファンから順番に、国技館内の客席に誘導していた。

なぜ、ただ稽古を見せるにすぎない行事が、それほどの人気を呼んだのか。それは、稽古土俵であっても、まだ一度も実現していない、四十連勝中の横綱、羽黒蛇と、入門以来、二十二連勝中の、新入幕力士、金の玉の土俵での初対戦が、この日、実現することになるであろうと、予想されたからである。

羽黒蛇は、照富士三兄弟の、豊後富士、近江富士とも本場所ではまだ対戦していない。だが、羽黒蛇が属する庄内部屋と照富士部屋は同じ一門でもあり、稽古場では、これまでに既に何度か胸を貸し、対戦もしていた。

そのときもマスコミは、稽古風景を大きく取り上げた。稽古場での対戦では、豊後富士も、近江富士も、やはり、羽黒蛇の敵ではなかった。






だが、羽黒蛇と金の玉は、まだ一度も土俵で顔を合わせてはいない。違う一門とはいえ、しばしば出稽古を敢行する羽黒蛇が瀬戸内部屋に、あるいは、金の玉が庄内部屋に出稽古に行けば、ふたりは顔を合わせることになったはずだが、なぜか、ふたりとも、そうしようとはしなかった。






また、ふたりの対戦には、別の興味も持たれていた。立ち合いである。長田が書いた記事により、ともに後の先の立ち合いをする両者が対戦したら、いったいどちらが先に立つのか、という興味である。






国技館での公開の稽古総見の日がやってきた。

十両力士を中心とした稽古。幕内力士を中心とした稽古。大関を中心とした稽古と続き、羽黒蛇が、土俵に上がった。

大きな歓声が上がった。いきなりの金の玉の指名があるかと、満員の観衆は固唾をのんだが、羽黒蛇が最初に指名したのは、もうひとりの新入幕力士である近江富士だった。

これまた人気力士である。歓声があがった。

三番取った。いずれも羽黒蛇の完勝だったが、内一番は、近江富士に存分に取らせる、という意図があったのか、三十秒足らずの相撲になった。

横綱が次に指名したのは豊後富士。

そこここで「照さまあ」という若い女性ファンの嬌声がこだました。

横綱は、今度は四番取った。やはりすべて羽黒蛇の勝利であったが、内一番、豊後富士が、横綱を土俵際まで持っていく相撲があり、大きな歓声が沸いた。






羽黒蛇の体が十分に温まった。羽黒蛇と、土俵の周囲に立つ、金の玉の視線が交錯した。

「征士郎」

横綱が、金の玉に呼びかけた。

「来い」

金の玉が、新鋭とは思えない、悠然たる態度で土俵に上がった。

大歓声があがった。

一度の仕切で羽黒蛇と、金の玉がともに仕切線に両手をついた。

ふたりは、にらみ合う。

十五秒たった。

満員の観衆は、息をつめて見続けるが、両者ともに動かない。

記者席にいた長田は、ふたり連れてきたカメラマンの内、ひとりに指示して、金の玉が土俵に上がった時から、ずっとビデオをまわさせた。もうひとりには立ち合いに入ってからの連写を指示していた。

三十秒たった。

羽黒蛇が立ち合うことなく、すっと立ち上がった。

合わせて、金の玉も立ち上がった。

羽黒蛇が、ふっと顔をくずし、右手で金の玉の左肩を軽く叩いた。金の玉がお辞儀する。

長田は、後刻、「これは羽黒蛇の力士生活における、初めての「待った」ではないか」と気付いた。






両者は、再び仕切線の後ろに下がった。

一度、仕切り、

両者が仕切線に両手をついた。

十秒を超えたところで、両者が立ち上がった。

どちらが先に立ったのか、肉眼では分からなかった。

金の玉がやや押し込んだと見えた瞬間、羽黒蛇の右が入った。金の玉の体が起こされた。

相手力士に廻しを取られることはおろか、組まれることさえほとんどない金の玉が、横綱に組まれた。

そのまま横綱が、左の上手を取りながら一気に寄り、寄り切った。

観衆の間からため息がもれた。

金の玉は、今や稽古場では、大関早蕨を圧倒し、先頃瀬戸内部屋に出稽古にやってきた横綱玉武蔵と三番稽古をして、むしろ分が良かったという。

その金の玉をもってしても、やはり羽黒蛇には敵わないのかと。






この相撲のあと、横綱は、すぐに次の稽古相手として、荒岩を指名した。

稽古総見の中で、羽黒蛇と金の玉はただ一番だけ、相撲を取った。






金の玉との取り組みが終わった直後、

羽黒蛇は、記者席に座る長田のほうを見た。偶然かと思ったが、羽黒蛇の視線は明らかに長田の視線をとらえていた。横綱は、長田に向かって、軽く笑った。






長田は、社に帰るのももどかしく、すぐに、撮影したビデオを再生した。






分析には長い時間がかかった。超低速で再生しても、ふたりは同時に立ち上がったとしか思えなかった。

だが、さらに精密な機械で解析した結果、長田は、横綱が、いつもとは異なる立ち合いをしたことを知った。

立ち合いは、・・・羽黒蛇が先に動いていた。刹那の差で、金の玉が動いた。これは、金の玉のいつもの立ち合いだ。金の玉は、今、マスコミ、ファンの間では、その稽古のすさまじさや、相撲への打ち込み方から「修羅の力士」というニックネームが定着しつつあるが、この絶妙なタイミングの立ち合いにより、一部のファンから「刹那の力士」とも、呼ばれていた。

すると、羽黒蛇の動きが止まった。これまた刹那の時間のみ。金の玉の動きは変わらない。羽黒蛇が再び動く。金の玉の体に微妙な驚きが走った。当たるはずの瞬間に、相手はまだ、その地点に到達していない。金の玉の体が、わずかに伸びた。両者が激突し、羽黒蛇が少し押し込まれるが、押し込まれながら、羽黒蛇の右が入り、金の玉の体をとらえた。






翌朝、長田は勤務する雑誌社と提携しているスポーツ紙の朝刊に、横綱の立ち合いを分析し、解説した記事を書いた。見出しは「神技、先の後の先」

しかし、長田は疑問に思った。

なぜ、横綱は、この立ち合いを本場所まで秘めておかなかったのだろう。






この記事に対し、さすが横綱羽黒蛇、との賞賛の声が集まった。と同時に、相手が横綱であっても自分の立ち合いを押し通そうとする金の玉に対して、一部批判の声もあがった。また、羽黒蛇に対しても、相手が望む存分の立ち合いをさせて、それでも勝つのが横綱ではないか、との声も少数ながら寄せられた。


















夏場所初日の二日前の金曜日。

初日と二日目の取組が発表された。

初日の目玉は、羽黒蛇-豊後富士。そして、金の玉-近江富士である。

玉武蔵-豊後富士は二日目の取組となった。

三役以上の力士がからむ取り組みを除いて、初日は番付順に取り組まれるのが通例であるので、本来であれば、近江富士-満天星。金の玉-優翔。となるはずであるが、取組を編成する協会審判部は、夏場所幕内の最初の取組に、通例をくずして、金の玉-近江富士を選んだ。

さらに、東横綱には西小結の力士を当てるのが、初日の通例であるが、この通例もこわして、四十連勝中の横綱羽黒蛇に、横綱初挑戦、人気の美少年力士、豊後富士を当てた。それは、ただ一回対戦した千代の富士-貴花田(貴乃花)戦に倣い、注目の取組を、両者にまだ、場所の星取表がまっさらな内に当てよう、という意向が働いたものである。

その考えでいくのならば、と、取組編成の際、初日に、羽黒蛇-金の玉の取組を推す一部の委員の声もあった。金の玉の実力は、既に、全力士の中で、羽黒蛇に次ぐNo.2になっているのではないか。この取組こそ、今場所の最大の目玉であり、場所を盛り上げるためには終盤戦に、この取組を持ってきたほうが望ましいことは分かる。本来、幕内の下位力士は、よほど勝ちこまない限り、横綱と対戦することはないわけでもあるし。しかし、と同時に、この両者については、ともに負けがつかない連勝記録継続中に対戦が実現すれば、その盛り上がりは大変なものになるだろう。今の両力士の力からいって、終盤戦の対戦であっても、連勝記録継続中のまま対戦となる可能性はかなり高い。しかし、勝負事である限り対戦前に金の玉に、あるいは羽黒蛇にだって黒星がついてしまう可能性はある。初日に対戦させれば、間違いなく連勝記録継続中の力士の対戦となる。四十連勝継続中と、二十二連勝継続中の力士の対戦など、今後見られるものじゃない。初日にこの取組を実現させてしまっても、今場所は注目力士目白押しなのだから、好取組は、羽黒蛇-金の玉以外でもいくらでも作れる、と。

が、結局この提案は、慣例からはずれすぎるとして見送られた。と同時に、金の玉が勝ち進んでいった場合、早い段階から上位力士にぶつけていこう、との方針も確認された。






初日の前夜となった。

幕内力士としての金の玉との初顔合わせ。しかし、近江富士にとっては、初場所、春場所に続く三度目の対戦という思いが強い。初場所に幕下だった力士で、この夏場所に幕内力士となっているのは、もちろん、近江富士と金の玉のふたりだけである。近江富士と金の玉にとっては、お互いが、この三場所で、三度対戦する唯一の力士となることは間違いない。

俺は、この男を倒すために、相撲の道を選んだのだ。今も、近江富士の心の中には、その思いが強い。

しかし、過去の二度の対戦は、ともに鎧袖一触。あっさりと押し出された。どうやったら金の玉に勝てるのか、近江富士にはそのイメージがわかない。

 抜群の運動神経をもち、高校時代に相撲を取っていないにもかかわらず、図抜けたスピード出世を遂げている近江富士。ではあっても、十両以上の関取力士の中で二番目。幕内力士では最軽量の近江富士に、寄り、押し主体の相撲はまだ取れない。スピード。ここぞというときの勝負勘。そして、かつて150キロのスピードボールを投げた右腕から繰り出す上手投げ。これが今の近江富士の相撲だ。とにかく右上手だ。右上手がほしい。近江富士はそう思った。

 それにしても、初場所、そして春場所の金の玉との対戦の際も感じた、あの土俵上の感覚を、明日また味わうことになるのだろうか。近江富士は、恋人とのランデブー前夜にも似た、ときめきを覚えた。






 羽黒蛇関と初日にいきなり合うのか。

 豊後富士の胸は高鳴った。

自分は時代を担う力士になる。豊後富士にはその思いが強い。これだけの美貌の持主だ。そういう運命をもっていないはずがないではないか。

 今場所横綱を倒せば、十八歳六ヶ月での金星獲得。貴花田の記録を三ヶ月更新しての新記録である。来場所でもまだ新記録になるが、来場所は、俺は三役に昇進しているから、もう金星を得ることはできない。今場所が唯一のチャンスだ。十両昇進、幕内昇進では貴花田の記録を更新することができなかった。豊後富士は悔しかった。すべての最年少記録を更新するつもりだったからである。

 貴花田の初金星は、優勝三十一回の大横綱、千代の富士との唯一の対戦という歴史的一番で獲得したものだった。奇しくも同じ、夏場所の初日。

 明日、俺が羽黒蛇関に勝ったら。それは千代の富士-貴花田戦をも超える歴史に残る一番になる。羽黒蛇関の連勝記録を四十でストップさせることになるのだから。








 ああ、あの感覚だ。また、やってきた。近江富士は感じた。土俵にあがる前、金の玉とどういう相撲を取るか、近江富士は色々と考える。

 土俵下で、東の控えに座る金の玉の姿を見る。金の玉が、自分のほうを見ている。その視線は実に穏やかだ。勝敗の場に臨む勝負師の目とはとても思えない。自分を凝視しているわけでもない。彼は対戦相手ではなく、もっとはるかなものを見ているのだろう、近江富士はそんなことも思った。

 金の玉の姿を見ている内に、どういう相撲を取るかという思いが、脳裏から去っていく。






「ひが~~し~~、きんの~~た~~ま~~」「に~~し~~、おおみ~ふ~じ~~。」

呼出しが両力士を呼び上げる。金の玉と、近江富士が土俵にあがった。金の玉も、近江富士も高々と伸びやかに四股をふむ。

 仕切が続く。金の玉の仕切姿は、羽黒蛇のそれと同様、今や国技館の呼び物のひとつだ。静かなたたずまい。無駄な動きはいっさいない。これ以上削ぎ落とすことはできないであろう、という必要最小限の動きだ。そして動作は実にゆったりしている。仕切の最後に呼出しから差し出されるタオルを手にすることもない。だいいち彼は、本場所の土俵上で全く汗をかかない。

 本来、極めて三枚目的な四股名も、この仕切を見せられると、そんなつまらないことで揶揄することが、愚かなことと思わせられてしまう。

今、その四股名は、変な連想をもたらすことなく、元々の字義通りに受け取られている。

金色に輝く玉。美しい四股名である。

そして、征士郎。響きがよく、決然とした印象を与える美しい名前である。

金の玉征士郎、その名は崇高なものとなり、神韻を帯びる。






 近江富士は、他の力士との対戦の時は自分のペースで仕切る。しかし、金の玉とのときは、いつの間にか自分の仕切のペースが金の玉に同調していることに気付く。勝つとか、負けるとか、そんなことにこだわっている自分がばかばかしくなってくる。ただ、この男とふたりで、この土俵の上で、美しい時間を過ごしたいと思う。






 立ち上がった。はっと気が付き、右上手を取りに行こうとするが、そのときには、もう土俵の外に押し出されていた。

 礼をして土俵から降り、近江富士は夢から醒めたような気分になった。

今場所も、まるで相手にならなかったか。俺が、あの男に勝つ日はやってくるんだろうか。

 悔しくない、と言えば嘘になる。だが、それ以上に、何やら清々しい気持ちになっている自分に気が付く。いい夢を見させてもらった。そんな気持ちだった。











野望は潰えた。天才美少年力士、豊後富士は、羽黒蛇に対し、立ち合いで当たってから突っ張り、いなして右上手を取り、自分充分の左四つに持ち込んだ。よし、と思い、寄った瞬間、横綱の左からの掬い投げで、土俵に裏返った。






初日の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝              負

金の玉 (一勝) 1(押出し)  0 近江富士(一敗)

緋縅  (一勝) 3(寄切り)  1 神剣  (一敗)

荒岩  (一勝) 2(浴びせ倒し)1 獅子王 (一敗)

早蕨  (一勝)10(突き落とし)5 芙蓉峯 (一敗)

若吹雪 (一勝) 1(寄切り)  0 竹ノ花 (一敗)

伯耆富士(一勝) 4(切り返し) 0 曾木の滝(一敗)

玉武蔵 (一勝) 4(はたき込み)2 若飛燕 (一敗)

羽黒蛇 (一勝) 1(掬い投げ) 0 豊後富士(一敗)








二日目、波乱が起こった。玉武蔵と豊後富士の結びの取組。立ち合いから、玉武蔵は、豊後富士の顔面を張りまくった。美貌の力士、豊後富士はその美貌への攻撃をいやがるかと思われたが、そんなことはなかった。玉武蔵の豪腕をかいくぐり、なんとか懐に飛び込もうとする。そうはさせじとさらに突っ張る玉武蔵。激しい攻防が続いた。古老の中には、昭和三十年夏場所千秋楽、伝説の栃錦―大内山戦を見るようだったと振り返る人もいた。

豊後富士がようやく組み止めたが、両上手を引きつけ、玉武蔵は一気に土俵際に攻め込んだ。ここで豊後富士は、玉武蔵の巨体を腰にのせ大きく右から下手投げを放った。左の上手から潰そうとする玉武蔵。ふたりは同時に落ちたかとみえたが、玉武蔵が一瞬、早かった。豊後富士は顔面から飛び込んだ。

勝ち名乗りを受ける豊後富士の顔面は玉武蔵に張られ、真っ赤になっていた。左の顔面から流血。乱れた大銀杏で勝ち名乗りを受け、すっくと立ち上がる豊後富士。その立ち姿の美しさ。颯爽、少年美剣士、豊後富士照也。男一代の晴れ姿。

十八歳六ヶ月。金星獲得最年少記録である。






玉武蔵は、西の支度部屋に引き上げた。一番奥にどっかりと座る。一番負けたくない相手に負けてしまった。悔しい。記者連中が、玉武蔵を取り囲み、色々と質問を浴びせかけてくるが何も答えたくない。

その記者の集団の後ろに、大柄な相撲取りの姿がのぞいた。弟弟子の関脇荒岩である。見ると彼の付け人も全員付いてきていた。

横綱は、いつものように四股名ではなく、荒岩の本名で呼びかけた

「荒井か。何をしている。お前の支度部屋は東だろう」

「大将、残念でしたね。」

「おお、お前が仇をうってくれ」

「はい、豊後関とは序盤で顔が合うでしょう。必ず、勝ちます」

「頼むぞ。それを言うためにわざわざ残ってくれていたのか」

「いえいえ。大将、今夜は行かれるんでしょ」

「うん?」

「負けた時はベルサイユですよね」

「ああ、あそこのポンパドール夫人は、慰め上手だからな。またやる気にさせてくれる」

「行きましょう、ベルサイユへ。不肖荒岩亀之助、お供させていただきます」

「よし」

玉武蔵は、自分の付け人のほうを見やった。

「おい、ベルサイユに予約の電話を入れろ」

玉武蔵と荒岩の付け人全員から歓声が起こった。

横綱も荒岩関も、そこに行くときは、付け人全員に個室をおごってくれる。今夜は超高級ソープだ。






「横綱。今夜も吉原ですか。いいですね」

「おう、記者さんたちも一緒に行きますか」

「いえ・・・私たちはこれからが忙しいので、ちょっと」

とはいえ、サラリーマンの身の上では、とても行くことなど不可能な超高級ソープ様である。

もし、横綱がおごってくれるというのなら。仕事だって、締切だって、あとは野となれ山となれ。

行きたい。

だが、相撲取りは「ごっつぁん」である。

おごられるのが当たり前で、おごる、という生活習慣を持っている相撲取りなどいないはずだ。

この話はあぶない。

集まった記者たちは、暗黙の内にお互いの眼と眼を交わし、横綱の誘いを見送った。が、最近、相撲担当になり、そういう相撲界の慣習をきちんと教わっていなかった二人の若い記者が、「仕事は待合室でやればいいや」と、この大男たちの一行に参加した。

ニッポン新聞の清水記者と、さくらスポーツの野口記者である。






この種のお店で、客が、身分と本名を名乗って入店と言うことはあまり考えられないのだが「ベルサイユ」は、伝統のある一流店で、ファンの間では安心できるお店として定評があった。

お馴染み様で、身分のはっきりした人には、つけもOKであり、各種特典が用意されているのであった。

だが、名にし負う吉原の超高級ソープ「ベルサイユ」も、近年はなかなかに経営環境が厳しい。

一流店の格式も擲って「延長時間については、料金50%オフ」「新規お客様をお連れいただいたお馴染み様の入浴料の30%オフ」の二大キャンペーン実施中である。

今期の業務目標は、「売掛金の迅速な回収」である。その目標を達成するための具体的な行動指針として掲げたのは「ことのあった翌日に、お客様に請求書を送ろう」であった。この行動指針に従って、「ベルサイユ」から、ニッポン新聞の清水記者と、さくらスポーツの野口記者宛に、力士の分も含めた総額が等分された額面の請求書が送付された。

尚、二大キャンペーンについては、前者は一行の全員がその適用を受けたが、後者は記者二名と、力士の中で、最近入門した一名の計三名が、新規お客様なのであったが、当の連れてきたお馴染み様が、受付へのその旨の書面提出を怠ったので、適用はされなかった。






作者は、先程、不正確なことを書いた。

横綱も荒岩関も、そこに行くときは、付け人全員に個室をおごってくれる。という箇所である。

おごるのは、横綱と荒岩に同行する、そのときどきの後援者である。

横綱も荒岩も、後援者と付き合い、その種の場所に行くことになった場合は、後援者から渡されたご祝儀から、その分に相当する金額を付け人頭に渡し、お前たちも遊んで来い、と言ってくれる。あるいは後援者に、付け人たちもみんな遊ばせてあげないといけない、という気持ちになるような会話をする、と書くのが正しかった。






 二日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

 勝                    負

近江富士(一勝一敗)1(上手出し投げ)0 満天星 (一勝一敗)

金の玉 (二勝)  1(押出し)   0 優翔 (  二敗)

荒岩  (二勝)  3(押出し)   0 神剣  (  二敗)

緋縅  (二勝)  4(寄切り)   1 獅子王 (  二敗)

伯耆富士(二勝)  7(はたき込み) 2 芙蓉峯 (  二敗)

早蕨  (二勝)  8(突出し)   1 若飛燕 (  二敗)

若吹雪 (二勝)  3(寄切り)   3 曾木の滝(  二敗)

羽黒蛇 (二勝)  1(寄切り)   0 竹ノ花 (  二敗)

豊後富士(一勝一敗)1(下手投げ)  0 玉武蔵 (一勝一敗)






 三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

 勝                     負

近江富士(二勝一敗) 1(送り出し)  0 北乃王 (二勝一敗)

金の玉 (三勝  ) 1(押出し)   0 光翼  (二勝一敗)

芙蓉峯 (一勝二敗) 3(寄り倒し)  1 緋縅  (二勝一敗)

荒岩  (三勝  ) 3(寄切り)   1 曾木の滝(  三敗)

若吹雪 (三勝  ) 1(突出し)   0 豊後富士(一勝二敗)

伯耆富士(三勝  ) 4(寄切り)   2 獅子王 (  三敗)

早蕨  (三勝  )13(押出し)   4 神王  (一勝二敗)

玉武蔵 (二勝一敗) 1(寄切り)   0 竹ノ花 (  三敗)

羽黒蛇 (三勝  ) 9(寄切り)   0 若飛燕 (  三敗)






四日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝              負

近江富士(三勝一敗) 1(寄り倒し)  0 翔翼  (二勝二敗)

金の玉 (四勝  ) 1(押出し)   0 若旅人 (三勝一敗)

荒岩  (四勝  ) 4(突出し )  2 若飛燕 (  四敗)

曾木の滝(一勝三敗) 4(外掛け)   3 緋縅  (二勝二敗)

早蕨  (四勝  ) 1(突き落とし) 0 豊後富士(一勝三敗)

若吹雪 (四勝  ) 5(寄切り)   2 神剣  (  四敗)

伯耆富士(四勝  ) 1(打棄り)   0 竹ノ花 (  四敗)

羽黒蛇 (四勝  )21(上手投げ)  3 芙蓉峯 (一勝三敗)

玉武蔵 (四勝  )20(押出し)   1 獅子王 (  四敗)






五日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(四勝一敗) 1(上手投げ)  0 青翔  (三勝二敗)

金の玉 (五勝  ) 1(押出し)   0 神翔  (四勝一敗)

緋縅  (三勝二敗) 6(寄切り)   2 若飛燕 (  五敗)

豊後富士(二勝三敗) 1(寄切り)   0 荒岩  (四勝一敗)

伯耆富士(五勝  ) 5(内無双)   2 神剣  (  五敗)

竹ノ花 (一勝四敗) 1(押出し)   0 早蕨  (四勝一敗)

若吹雪 (五勝  ) 6(はたき込み) 0 獅子王 (  五敗)

玉武蔵 (四勝一敗)29(寄切り)   2 芙蓉峯 (一勝四敗)

羽黒蛇 (五勝  ) 4(寄切り)   0 曾木の滝(一勝四敗)






 荒岩が、二分を超える大相撲の末、兄弟子の横綱玉武蔵に次いで、豊後富士に敗れた。

取組後、荒岩が付け人を引き連れて西の支度部屋にやってきた。玉武蔵と荒岩は、お互いに黙って頷きあった。この菱形部屋コンビは、今や記者の間では秘かに(いや・・・露骨に)「ソープの義兄弟」と呼ばれている。

「記者さんたちも一緒にどうです」

声をかける横綱に応じる記者はいなかった。

 横綱玉武蔵は、自分の後援者の中で、最もスケベな某社社長の携帯電話の番号をプッシュした。






 ところで、例の請求書を受領したニッポン新聞の清水と、さくらスポーツの野口だが(この日の前日に到着)、清水は、送られてきた請求書に仰天し、心を大いに乱したが、場所も終盤に入ったあたりで、上司の笠間におずおずとその請求書を見せ、事情を説明した。

笠間は、自分も相撲を担当した経験があった。部下に対し、あらためて相撲界の慣習を説明した後、当該請求書に関しては、「継続的な取材対象者との、友好な人間関係を構築するための必要経費」という名目で、交際費で処理することとした。

 「天下のお関取とそういうところに一緒に行ったとなれば、本来であれば、こちらからご祝儀をお渡しするのが礼儀だ。まして今回は、相手は横綱と関脇なんだからな。まあ、この件については上に報告しておく。後日、「うちの若い者が、先日、懇ろなお世話になりまして」と言って、あらためてご挨拶となるだろう。うちの西尾社長も相撲はお好きだから、玉武蔵関と荒岩関となれば、「私が行く」と言われるんじゃないかな。その際は、多分、お前と私も同席を仰せつかるだろう。玉武蔵に荒岩か。うちの社長だって、経済界ではそれなりの立場におられる方だ。きっとこれまでの人生で一番高い食事が食べられるぞ」

 清水は、「どうすればいい」と悶々と悩み続けた時間を思い、夢にも思っていなかった結末に狂喜した。

「会食の際は、話の流れ次第では「それでは、今夜も行きますか」となる可能性もあるぞ。・・・いや、どう考えてもそうなるな。社長もそれなりにお好きな方だ。そうか。ベルサイユかあ」

笠間は、とろんとした目つきで、座っていた椅子の背に、深々と身を預けた。

清水記者は、このときほど、ニッポン新聞に入ってよかった、と思ったことはない。






 さくらスポーツは、「事前の申告が無かった」と、この請求書の会社経費としての支払いを却下した。野口は、自分の給料のほぼ二ヶ月分にあたる額を自腹で支払わなければいけない破目に陥った。野口は、結婚二年目、妻帯者である。

「嫁にどう説明すればいいんだ」と暗澹たる気持ちになった。

「巨大な体をしたお兄さんに、だまし取られた」という理由で妻が納得してくれるとは思えなかった。

 この話は、関係者の間にすぐに広まった。






 伯耆富士は「それは充分に殺人の動機になるな」と受け止め、

「ソープ横綱殺人事件」というタイトルが思い浮かんだ。

 だがこのタイトルでは、誰がモデルかあまりにも明らかだ。将来の一代年寄に、こんなことで目をつけられるのは避けておこう、との賢明な判断により、伯耆富士は、このタイトルの小説の執筆については、やはりまだ、一行も書かないうちに断念した。したがって、このタイトルの推理小説も、世に出ることはなかった。



 この話には、聞く人の涙を誘わずにはおかない美しい後日談がある。

二ヶ月分の給与がふっとぶことになった野口記者の元に、その金額を超える額面の商品券が送られてきたのだ。

送付主は、荒岩亀之助。

野口は、結局、収支計算で、二ヶ月分の小遣いにあたる額の利益を得たことになった。

 その利益分は、すべて、妻をなだめるためのプレゼント代で消えてしまったが、記者は、財政破綻を救ってくれたこの関取の、弱冠二十歳の若者とは思えない配慮にいたく感動した。

 野口は、荒岩の元に御礼を言うために赴いた。そのときの話で、あの日、野口が個室でともに時間を過ごしたデュバリー夫人は、かつて、荒岩のお相手をしたこともある女性であったことが判明した。

 ふたりは義兄弟の杯を交わし、終生の友情を誓ったのであった。






六日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(五勝一敗) 1(上手投げ)  0 神天勝 (三勝三敗)

金の玉 (六勝  ) 1(押出し)   0 早桜舞 (四勝二敗)

荒岩  (五勝一敗) 4(首投げ)   3 芙蓉峯 (一勝五敗)

豊後富士(三勝三敗) 1(下手投げ)  1 竹ノ花 (一勝五敗)

若飛燕 (一勝五敗) 5(蹴手繰り)  3 若吹雪 (五勝一敗)

伯耆富士(六勝  ) 8(吊り出し)  1 神王  (二勝四敗)

早蕨  (五勝一敗) 7(押出し)   2 緋縅  (三勝三敗)

羽黒蛇 (六勝  )13(寄切り)   0 獅子王 (  六敗)

玉武蔵 (五勝一敗) 3(突き倒し)  0 曾木の滝(一勝五敗)






大関若吹雪が苦手力士である小結若飛燕に敗れ、幕内での全勝力士は、羽黒蛇、伯耆富士、金の玉の三人になった。

 中入りの、翌七日目の取組言上で、豊後富士-金の玉の対戦が告げられた。満員の客席から大歓声が起こった。






 豊後富士の左の顔面には、男の勲章ともいうべき、二日目の土俵で受けた傷がまだ残っていた。

 この傷が、自分の男としての、力士としての株を一段と揚げたことを、豊後富士は、充分に自覚していた。相撲のためなら、この美貌を犠牲にすることもいとわない少年力士。なんてかっこいいのだろう。

 支度部屋で、取り囲む記者から豊後富士は、明日の金の玉戦に臨む心境を訊かれた。

 対戦が決まれば必ず、この質問を受けるであろうことはもちろん想像できていた。

 その質問を受けたら、日頃、自分が思っていることを語ろうと豊後富士は決めていた。大きな話題になることは間違いない。

 「僕は、金の玉関の相撲と生き方を否定したいと思っています」

 その答えを聞いた記者たちの眼が輝いた。フンドシ王子が、大きなネタになることは間違いない話をしようとしている。

 「僕は、金の玉関のことは尊敬しています。年上とはいっても、相撲界への入門については、僕よりずっと後輩になるわけですが、あの人の相撲に打ち込む姿勢は凄いと思います。それに、とにかく強いです。もう何度も稽古していますが、僕はほとんど勝てたことがありません」

 正確に言えば、一度も勝ったことがないのだが、まあいいだろう。

 「でも、あの人の相撲を見ていると、息がつまるんです。あの人の相撲は、見ていて面白い相撲ではない。あまりに研ぎ澄まされ過ぎています。金の玉関の、相撲にかける必死な覚悟がそのまま伝わってきて、見る人を緊張させる相撲です」

 記者たちが熱心にメモを取る。

 「僕は、相撲にあまり精神的なものを持ち込んでほしくない。相撲はもっと単純明快なものだと思います。刹那の立ち合いとか言われて、ずいぶん騒がれていますが、相撲をそんなに窮屈にとらえることはないと思います。金の玉関は、相撲漬けの毎日を送っているようですが、それで楽しいんでしょうか。

 僕にはできないですね。

 稽古するときは、一生懸命稽古する。鍛えて、鍛えて、強くなる。そして、遊ぶべきときは遊ぶ。僕はそれでいいと思います。」

記者から確認の声が出た。

「関取。このコメント、記事にさせていただいて、いいのですよね」

「いいですよ。金の玉関に対する挑戦状と受け取ってください。もっとも今の段階では、まだあの人には勝てないと思います。でも二年後、三年後には、そうはいかないと思っています」

 よし、言うべきことを言った。フンドシ王子は顔が良いだけでなく、勝負根性もある。その上、きちんと自分の意見を語ることができる、と。いいね、いいね、僕。それに最後は、明日負ける予防線もちゃんと張っておいたし。二、三年の内には勝たないといけなくなっちゃったけど、それだけあれば、間違って一番や二番は勝てるだろう。

 が、豊後富士の中には、忸怩たる思いもあった。自分は、時代を担う運命をもった力士だという信念があったが、同じ時代にあの男がいるのであれば、自分は時代のNo.2にしかなれないではないか。

 でも、そんなことはないのではないか、とも豊後富士は思う。

 相撲の稽古と言うものが、どれほど短時間での集中を要するものか。そしてそのあと体を休めることもまた、不可欠なことのはずである。伝え聞くことをそのまま受け取れば、金の玉関は、毎日、自分の何倍もの時間の稽古をし、稽古以外の時間も相撲のことを考え続けているということになる。そんな生活を続けていれば、そう遠くない時期に、あの人は壊れてしまうのではないだろうか。

二年後、三年後には、そうはいかない、か。だが、あの力士にそれだけの時間が残されているのだろうか。

 時代を担うこの僕の前に輝いた、一陣の風、一瞬の光。それがあの人の運命なのではないだろうか。

 それは、自分自身を納得させるため、豊後富士が無理矢理に考え出したことである。が、その考えはそうはずれてはいないのではないだろうか。彼はそう思った。






豊後富士が記者に語ったコメントは、直ちにインターネットにアップされた。






「征士郎、入るぞ」

そう断って、武庫川親方が、金の玉の部屋に入ってきた。

親子であっても、このふたりの間に、普段、会話はほとんどない。

武庫川は、息子を見ていて、痛ましくて仕方がない。

なぜ、こんな生き方しかできないのか。

 征士郎の大相撲界への入門が決まると、武庫川は、直ちに瀬戸内部屋を出て、独立した。

師匠ひとり、弟子ひとりの武庫川部屋。

この行為については、協会の内外からずいぶんと批判を受けた。

「それまでずっと瀬戸内部屋で厄介になっていながら、超有望力士を自分ひとりで囲い込むための忘恩行為」と。

そしてその理由が、金の玉に、関取ではない若い衆が行わなければならない、付け人としての雑務をさせないためであるということが知れ渡ってからは、その批判の声はさらに大きくなった。

相撲界の長きにわたる伝統を無視する行為である、と。修行経験のない関取など、存在させたらいけない、と。

しかし、我が息子は、そんな世間の常識とはかけはなれた人間だ、ということが、父である武庫川にはよく分かっていた。

征士郎は、いつも相撲のことしか考えていない。相撲に憑かれた男だ。それ以外のことなど何もできない。付け人の仕事などできるわけがない。

息子は・・・。武庫川は認めざるをえない、相撲以外のことについては無能力者であり、生活不適格者であると。

幼いころはそうではなかった。弘子が家にいた間は、明るくて活発な子だった。弘子が家を出てからは、母のことを思ってよく泣き、いつも自分にくっついていて、随分と甘えん坊になったが、境遇を考えれば、それは仕方がないことだろう。生活に関しては、母親がいない分、自分のことに関しては、むしろ他の同年代の子よりも、しっかり自分でやっていた。

変わったのは。そう、小学校六年生になった春からだったろう。相撲の稽古に臨む態度が、それまでより、さらに一段、真剣になった。そして、その分、その他のことに関しては、えらく無頓着になった。

中学時代、よく、学校の先生から注意を受けた。学校のなかで、他の生徒から浮いていて、ひとりでいることが多く、集団生活になじめないのではないかと。

でも、その段階では、中学を卒業して、相撲界に入門し、部屋で若い衆としての厳しい生活を送れば、それで矯正されるだろうと多寡をくくっていた。

高校に入ったら、さらにひどくなった。学校にも行かないようになったし、高校の相撲部にも行かず、瀬戸内部屋でただひたすら稽古に励む毎日だった。高校時代、色々な大会で、優勝したけれど、相撲部の他の連中とは、その大会のときに一緒に出場するだけで、普段は、ほとんど交流はなかった。






師匠ひとり、弟子ひとりの部屋。

征士郎を、それでも人間としての生き方をさせてやろうと思えば、こうするしかなかった。私が保護してやらなければ、息子は生きていくことなどできないのだ。

幸い、幼少時代から征士郎を見続けてきている瀬戸内親方も、征士郎がどういう人間かは理解してくれていた。

それにしても、と、武庫川は思う。征士郎のあの研ぎ澄まされた相撲が、そして、ひとつのことだけに憑かれてしまった生活が、いったい、いつまで続けられるというのだろう。ただのひとりの人間の精神と肉体の、その限界は、いったい、いつやってくるのだろう。

武庫川は、もうそう遠い日ではないであろう崩壊の予感におののいていた。



 武庫川は、征士郎に、豊後富士の談話の概略を伝えた。豊後富士は、無意識であろうが、征士郎の相撲と生活の本質をつかんでいた。

 それを伝えたら、征士郎が何か反応を示さないか。あるいは、自分自身のことを考えてみる、その契機にでもならないだろうか。






 征士郎は、父の話を聞き終えると、ぽつんとつぶやいた。

「そう、豊後関が、そんなことを言っていたの」

しばらく待った。が、息子は黙ったままだった。やはり何も話さないか。

武庫川が、あきらめて引き揚げようとしたとき、

 征士郎がまたぽつんと言った。

「僕は平凡な男だから。才能なんてない。ただの男がはるか高くまで昇りたいと思ったら・・・」

 征士郎は、それ以上は、何も言わなかった。

「父さん」

「ん」

「四股をふんでくる」

武庫川部屋に土俵はない。朝稽古は、瀬戸内部屋に出かけている。

しかし、征士郎は、本場所中の夜も、思い立てば近所の公園に行き、四股をふみ、古木に向かっての鉄砲を繰り返す。

「征士郎」

武庫川は叫んだ。

たったひとりの息子に、そしてたったひとりの家族に、背中から抱きついた。

「もう、やめよう。やめてくれ征士郎。相撲だけが、相撲だけが人生じゃないんだ。才能がないのならそれでいいじゃないか。豊後関も言っていただろう。楽しんだらいいじゃないか。何かほかのこともやってくれ。横綱だって、大関だって、みんな相撲だけじゃないぞ。ちゃんと楽しくやっているじゃないか。普通に、真面目に稽古して。それで行ける場所までいけたら、それでいいじゃないか」

 息子が振り返った。

「父さん、ごめん」

またぽつんとつぶやいた

「僕は、相撲しかできないんだ」











七日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(六勝一敗) 1(上手投げ)  0 萌黄野 (五勝二敗)

金の玉 (七勝  ) 1(押出し)   0 豊後富士(三勝四敗)

曾木の滝(二勝五敗) 2(寄切り)   3 獅子王 (  七敗)

荒岩  (六勝一敗) 2(寄切り)   0 竹ノ花 (一勝六敗)

早蕨  (六勝一敗)11(送り倒し)  4 芙蓉峯 (一勝六敗)

若吹雪 (六勝一敗) 5(割出し)   2 緋縅  (三勝四敗)

伯耆富士(七勝  ) 6(引き落とし) 1 若飛燕 (一勝六敗)

玉武蔵 (六勝一敗)26(吊り出し)  1 神王  (二勝五敗)

羽黒蛇 (七勝  )18(寄切り )  0 神剣  (一勝六敗) 






八日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(七勝一敗) 1(押出し)  0 神天剛 (五勝三敗)

松ノ花 (六勝二敗) 2(寄切り)   0 豊後富士(三勝五敗)

曾木の滝(三勝五敗) 3(突き落とし) 4 若飛燕 (一勝七敗)

金の玉 (八勝  ) 1(押出し)   0 荒岩  (六勝二敗)

伯耆富士(八勝  ) 1(寄切り)   0 北斗王 (四勝四敗)

早蕨  (七勝一敗) 9(押出し)   4 神王  (二勝六敗)

若吹雪 (七勝一敗) 8(寄切り)   2 芙蓉峯 (一勝七敗)

羽黒蛇 (八勝  ) 9(押出し)   0 緋縅  (三勝五敗)

玉武蔵 (七勝一敗)19(寄切り)   5 神剣  (一勝七敗)






九日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(八勝一敗) 1(上手投げ)  0 若旅人 (六勝三敗)

若飛燕 (二勝七敗) 2(突出し)   0 竹ノ花 (二勝七敗)

曾木の滝(四勝五敗) 1(上手投げ)  0 豊後富士(三勝六敗)

伯耆富士(九勝  ) 6(上手出し投げ)1 緋縅  (三勝六敗)

金の玉 (九勝  ) 1(押出し)   0 早蕨  (七勝二敗)

玉武蔵 (八勝一敗) 6(寄り倒し)  2 若吹雪 (七勝二敗)

羽黒蛇 (九勝  ) 6(上手投げ)  0 荒岩  (六勝三敗)






十日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(九勝一敗) 1(寄切り)   0 早桜舞 (七勝三敗)

竹ノ花 (三勝七敗) 1(はたき込み) 0 曾木の滝(四勝六敗)

芙蓉峯 (二勝八敗) 3(突き落とし) 2 若飛燕 (二勝八敗)

荒岩  (七勝三敗) 5(上手投げ)  1 神王  (二勝八敗)

緋縅  (四勝六敗) 1(押出し)   0 豊後富士(三勝七敗)

金の玉 (十勝  ) 1(押出し)   0 若吹雪 (七勝三敗)

羽黒蛇 (十勝  )18(寄切り)   2 早蕨  (七勝三敗)

伯耆富士(十勝  ) 5(下手投げ)  7 玉武蔵 (八勝二敗)






十一日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(四勝七敗) 1(突き倒し)  0 若飛燕 (二勝九敗)

曾木の滝(五勝六敗) 2(寄切り)   0 松ノ花 (七勝四敗)

荒岩  (八勝三敗) 1(寄り倒し)  0 近江富士(九勝二敗)

金の玉 (十一勝 ) 1(押出し)   0 伯耆富士(十勝一敗)

早蕨  (八勝三敗) 8(押出し)   5 神剣  (三勝八敗)

玉武蔵 (九勝二敗) 6(押出し)   0 緋縅  (四勝七敗)

羽黒蛇 (十一勝 )10(寄切り)   1 若吹雪 (七勝四敗)






十二日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(五勝七敗) 2(外掛け)   0 光翔  (七勝五敗)

曾木の滝(六勝六敗) 2(寄切り)   2 神剣  (三勝九敗)

若飛燕 (三勝九敗) 4(引き落とし) 3 獅子王 (一勝十一敗)

緋縅  (五勝七敗) 1(寄切り)   0 松ノ花 (七勝五敗)

伯耆富士(十一勝一敗)5(寄切り)   2 荒岩  (八勝四敗)

若吹雪 (八勝四敗 )6(寄切り)   6 早蕨  (八勝四敗)

羽黒蛇 (十二勝  )1(上手投げ)  0 近江富士(九勝三敗)

金の玉 (十二勝  )1(押出し )  0 玉武蔵 (九勝三敗)






横綱羽黒蛇と、金の玉は、十二戦全勝同士で、十三日目の結びの一番で顔を合わせることになった。






その前夜、

横綱羽黒蛇は、彼のマンションの居室にいた。彼は、本場所中、外出することはほとんどない。いつもの東京場所であれば、彼は、夜はこの居室で、AKB48の映像を見て、心をリラックスさせる。

だが、この夏場所では、彼が毎日見ているのは、美少女の集団ではなく、ひとりの若者の映像だ。






金の玉征士郎。この夏場所の取組映像。

羽黒蛇は、この男は、またさらに強くなっている。と思う。






少年時代に羽黒蛇が、近所にあったクラブに入り、相撲を取り始めて何ヶ月かたったころ、彼は、貴乃花光司の相撲の映像を見る機会があった。

彼が、横綱になる直前の場所の映像だった。

対戦相手が攻め込む。上半身は相手の動きに応じているが、下半身は乱れない。流れのままに対応している内に、いつの間にか、相手は土俵際に追い込まれている。貴乃花は、そっといたわるかのように、土俵の外に運ぶ。

少年羽黒蛇は驚愕した。相撲を始め、その世界に深くのめりこむようになった彼は、よほどの力量の差が無ければこの相撲は取れない、と思った。

この相撲こそ、自分が目指すべき理想の相撲。掲げた目標に向かって、羽黒蛇はひたすら修行を重ねた。いかなる相手の動きに対しても柔軟に対処し、相手を包み込み勝利を得る円の相撲。ようやくその相撲を完成させることができたと自覚した時、彼の連勝が始まった。






金の玉の相撲は、相手のことなど何も考えない。ただひたすら自分を貫く相撲だ。いっさいの無駄を排除して、単純に必要最小限の動きで勝利する、直線の相撲。

相手がどんな力量であっても、どんな相撲を取ろうとも、この一本調子の相撲を貫き通す。

それにしてもと、羽黒蛇は思う。

なんという体の動きだ。その全身の力が、いっさい放散されることがなく、ただ「押す」という一点に集中されている。人とはこんな動きができるものなのか。これは神の領域に達した人間の動きではないのか。

ただの人に対して、簡単に神などと言う表現はしたくない。しかし、この私は、人として力士の最高の領域まで達することができた、と自負している。それを超えるものを見せられてしまったら、神と表現するしかないではないか。

私は、これまでの人生を振り返って、この私ほど相撲のことを考え続け、相撲と言うものを深く理解することができた男はいないと思っていた。

だが、この男は、その十九年間の人生で、私よりもさらに深く相撲と関わってきたのだろう。そうでなければ、こんな相撲が取れるわけがないではないか。

この男の強さは、こんな高みまで達してしまったのか。






先の後の先の立ち合いか。あれは、たかだか三週間ほど前のことだった。元々、本場所であの立ち合いをするつもりはなかったが、仮に今、あの立ち合いをしても、もうこの男には勝てないだろう。






なぜ、ここまで強くなったのだろう。ただひたすら相撲の修行に打ち込み続けた男が、十八歳、十九歳とだんだんと大人の体になっていったから、ということか。

では、この男は二十歳、二十一歳、二十二歳と年齢を重ねるにしたがって、さらに強くなっていくのか。いや、それはありえない。と羽黒蛇は思う。

この男の強さは、もう神の領域に達した。人としての肉体と精神をもっているものが、神の領域に達してしまったら・・・・・・その身はもう滅びるしかないだろう。






明日の対戦は、本場所における、私と金の玉とのたった一度きりの対戦になる。羽黒蛇はそう予感した。やがてその予感は確信に変わった。






明日、私はどういう相撲を取るのか。

羽黒蛇は決心した。

受けよう。受けて、受けて、受け切ろう。

人として、最高の力士として、誇りをもって神の押しを受け止めよう。わが身が堪え得るその瞬間まで。






武庫川親方は、ひとり息子の部屋にはいった。

豊後富士との相撲に勝利し、そのあと、関脇、大関、横綱と、対戦相手の地位が上がっていっても、我が息子は、勝ち続けた。

強豪、強豪、さらなる強豪と。相撲を取るたびに、征士郎のたたずまいから、現実感が薄れていく。我が子はまだ、この現実の世界を認識しているのだろうか。その心はもう、別の世界に行ってしまっているのではないのだろうか。

又造は息子と何か話がしたかった。相撲のことや、人生がどうとか言ったことではなく、そこらに転がっているようなごくごく平凡なことを話したかった。

だが、征士郎と、いったいいつそんな話をしただろう。

又造は、ずっとその部屋にいた。

征士郎は、又造が同じ部屋にいることさえ意識してはいない。

又造は、たとえ何も話すことができなくても、無言で、ただひたすら精神を集中させ続けている息子のすぐそばで、同じ時間を過ごしたかった。











 土俵の向こうに、金の玉征士郎が、静かに座っていた。

 この男はこんな顔をして、呼び上げを待っているのか。羽黒蛇はそんなことを思った。

立呼出しが、羽黒蛇と金の玉の四股名を呼び上げる。

 地を震わすような大歓声が轟く。

 東横綱、羽黒蛇六郎兵衛、五十二連勝。

 東前頭十六枚目、金の玉征士郎、初土俵以来三十四連勝。

ついにそのときがきた。






 土俵に上がる。

 相対して礼をする。

力水を受ける。

塩を手に取り、蹲踞をして、背中で立行司の結びの一番の呼び上げを受ける。

塩を撒く。

塵手水を切る。

再び塩を取り、塩を撒く。

土俵中央で相対して四股をふむ。

 羽黒蛇と金の玉。ふたりのすべての所作がぴたりと合っていた。

 羽黒蛇は目に映っていようが、映っていまいが、金の玉の動きを、その呼吸にいたるまでを、全身で感じ取った。

 また塩を取りに行く。土俵に向かって振り返る。

 金の玉も同じタイミングで振り返っていた。






 土俵の上にいる行司が消える。

土俵を掃く呼出しが消える。

土俵の下にいる、勝ち残りと負け残りの力士が消える。

検査役が消える。

すべての観客が消える。






この広い天と地の間で、存在するのは、ただ彼と我のふたりのみ。

そうか、金の玉征士郎よ。お前は、こんなところまで私を連れてきてくれたのか。






最後の仕切。

両手をつく。

静止する。

立ち合う。

後刻の確認によっても、刹那の差もない同時の立ち合い。

当たる。

金の玉が押す。

羽黒蛇が受ける。

土俵際までしばしの距離を残して止まった。

両力士の静止時間は六秒に及んだ。後に「凍結の六秒」と称される時間である。このときの、押し込む金の玉と、受け止める羽黒蛇の姿は、相撲の攻防の理想の型が具現化した姿として、その映像、画像は、様々な場所で引用されることになる。

金の玉は押した。おのれの十九年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。

羽黒蛇は受けた。おのれの二十六年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。

だが、羽黒蛇の精神と肉体は、その最も深い場所で、明日も、そしてその先も相撲を取り続けることを選択した。

凍結の六秒が経過し、時間が再び動き出す。

羽黒蛇がじりじりと下がる。

金の玉は、押して、押して、押し切った。






 羽黒蛇の足が、土俵の外にでるやいなや、金の玉の動きはぴたりととまった。これまで勝利しつづけた三十四番と同様、金の玉の体は、土俵の俵の中に残った。

 そのまますっくと立ち、土俵の外から、土俵に上がろうとする羽黒蛇に手を添えた。



 対戦を終えた両力士は、東西に分かれ、礼をする。

 金の玉は、美しい所作で勝ち名乗りを受け、常と変らぬ姿で、支度部屋に引き上げた。






羽黒蛇が土俵を割ったあとの、いつもどおりの金の玉の姿は、彼の肉体が記憶する、力士としての最後の矜持だった。






支度部屋に駆け付けた武庫川親方が見たのは、常の人としての光を完全に失った、ひとり息子の眼だった。

又造は征士郎を抱きしめ、まだ髷の結えないその頭をゆっくりと撫でた。






十三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(六勝七敗) 1(上手投げ)  1 早桜舞 (九勝四敗)

若飛燕 (四勝九敗) 4(引き落とし) 1 北斗王 (六勝七敗)

曾木の滝(七勝六敗) 4(寄切り)   1 神王  (三勝十敗)

緋縅  (六勝七敗) 1(寄切り)   0 竹ノ花 (四勝九敗)

荒岩  (九勝四敗) 3(寄切り)   4 若吹雪 (八勝五敗)

伯耆富士(十二勝一敗)8(首投げ)   4 早蕨  (八勝五敗)

玉武蔵 (十勝三敗 )1(突き倒し)  0 近江富士(九勝四敗)

金の玉 (十三勝  )1(押出し)   0 羽黒蛇 (十二勝一敗)


















夏場所が終わり、金の玉の病状が明らかにされた。再起不能になったというニュースが全国に流れた。

父である武庫川親方から、金の玉征士郎の引退届が提出された。






相撲協会は、特別な措置として、夏場所の星取表の十四日目に記された、金の玉の不戦敗の記録を抹消すると発表した。

星取表に関して協会が決めたことはそれだけだったが、十四日目の対戦相手となるはずだった曾木の滝から、協会に対して直ちに、

「私の不戦勝の記録も抹消してほしい」

との申し入れがあった。

その白星により、曾木の滝は、初めて三役で勝ち越すことになったわけだが、協会は、瀬戸内部屋に入門以来、成長し続ける征士郎少年の、稽古相手をずっと勤め続けてきた男の思いを慮り、この申し入れを受理した。






征士郎の再起不能のニュースが流れた翌日。

出奔していた弘子が、十四年ぶりに又造の元へ帰ってきた。

又造は、弘子を責めた。

「なぜ、征士郎がこうなる前に戻ってきてくれなかった。あいつはな。入門するとき、四股名をどうするか尋ねた俺に「金の玉」と躊躇なく答えたんだぞ。お前が受け狙いの冗談で思いついた四股名を、あいつは「母さんが考えた四股名だから」と言って、それはそれは大切にしていたんだぞ。俺だってお前が出たあとも四股名は変えなかった。どうして俺たちの気持ちを分かってくれなかったんだ」

「あなたが、私が出て行っても、四股名を変えなかったのは知っていたけど、あのころの私は新しく手に入れた自由な生活に夢中で、あなたの気持ちを考えることはできなかった。でも何年かたって、八年前だったと思う。どうしてもあなたたちに逢いたくなって、もう一度一緒に暮らしたくなって、戻ろうと決心したことがあったの。お詫びして、お詫びして、許してください、と頼んで。許してもらえなくても、そのまま居座ろうと考えたわ。でもちょうどそのときに、征士郎が、天才相撲少年と書かれている記事が目に入ったの。今、帰ったら、ずっと放っておいたのに、息子が有名人になったら、すぐ戻ってきたみたいであんまりあざとすぎる、と思って、戻ろうとする自分が許せなくなったの。それからも征士郎は、どんどん有名になっていったから」

あざといのは、お前の持ち味じゃないか。なんで、一番肝心なことに限って遠慮する。

又造はしばらく黙った。

 「弘子」

 「はい」

 弘子が、緊張して又造を見る。

 「よく、戻ってきてくれたな」

 そうか、この人は、こんな場面でこんな台詞を言うんだ。そう、たしかにこの人はこんな人だった。

 「弘子、長生きしてくれよ。俺も長生きする。俺たちは、征士郎より先に死ぬことは許されないんだからな」

弘子はそれ以降、又造以上に、大きな赤ちゃんになってしまった征士郎の面倒を見続けた。






金の玉征士郎が、幕内力士としてたった一場所出場した夏場所の翌名古屋場所、相撲協会審判部は、その番付に、既に引退している金の玉征士郎の名前を残した。






番付表で、息子の四股名の上に記された、自分が届かなかった地位の文字を見て、武庫川親方は肩を震わせて泣いたという。






武庫川部屋は閉鎖されることなく、又造はそれから、入門を志願する弟子を受け入れた。






武庫川部屋に入門した若い力士たちは、朝起きると、先ず、親方夫妻の居室に入り、挨拶をする。

そのあと、夫妻のひとり息子が日常を送っている部屋に入り、挨拶する。

征士郎は、この挨拶に対し、いつも機嫌よさそうに、にこにこと応じた。






やがて、武庫川部屋に稽古場が出来た。部屋は自前の土俵を持った。

親方夫妻は、あるいは息子の正気が戻る切っ掛けにならないか、との儚い望みをかけ、新しくできたばかりの稽古場に、征士郎を連れてきた。

征士郎は、しばらく土俵のほうを見やったかと思うと、怯えたような表情になり、その目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

夫妻は、もう二度と征士郎を稽古場に入れなかった。











力士、金の玉征士郎。






最高位、東関脇。

金星獲得数 二。

殊勲賞 一回。

敢闘賞 一回。

技能賞 一回。

幕下優勝 一回。

十両優勝 一回。

幕内最高優勝 なし。

生涯通算成績 三十五勝無敗。