羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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2015年02月17日 | 歴史
峰崎親方(元行司木村銀次郎)が、検査役を勤める(羽黒蛇)












雑誌「野球界」昭和6年1月号、三木愛花「古今近代の立行司」より引用します。

立行司に到らず中途で止めた行司に、木村銀次郎と木村源太郎がある。

銀次郎は早く行司を止め年寄峯崎となり後に久しく検査役を勤めたが、

この人は経済に巧みで又興行の才があり小角力を引いて片田舎を巡業して金を残し

尾車の死後にその門弟を預り三杉磯以下を率いていた程であり

また行司を止めた動機も面白いものがある。

その時は大雷が取締であった。

その門下で大鳴門と言われた大関が後に八角になって検査役を勤めていたが、

この八角は才気のあった男で協会改革などの考えがあって、

これまで行司は一切木村式守の両家が支配したのを、その時より大雷につとめて取締において支配する事に定めた。

で銀次郎はこれを憤慨し直ちに辞表を出して年寄になる事も届け出た。

これを見た大雷は銀次郎に向い、「君はこの次には庄之助になる順だのに今にわかに止めるは馬鹿なことではないか」と言ったのを聞いて銀次郎は、

「行司を止める私も馬鹿だが、人の言うことを聞いて行司の制度を改めたお前さんも馬鹿だ」と言い棄ててサッサと帰って行ったとの事であった。

後に検査役となった行司としては前例のない位であるが、これが庄之助になるまで行司を勤めていたならばあるいは立派な立行司になったかも知れぬ。






羽黒蛇感想:こちらの記事 http://hagurohebi6.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/13-9675.html では、審判は元力士ではなく、行司が担当すべきだと主張した。峰崎親方(木村銀次郎)という前例がある。峰崎は親方だから検査役になれたのであるが、親方ではなくとも、現役の行司が土俵下に座るべきだと羽黒蛇は考える。











――

昭和14年春場所千秋楽を観戦された方より教えてもらった一番。






大相撲となった羽黒山と玉ノ海。

まわし待ったをかけた清之助

水が入ったと思って別れた羽黒山と玉ノ海

組み手を十分には見ていない清之助

勝負再開、土俵に上がる両者

玉ノ海右、羽黒山左の攻防。再現難しい。

おおらかな玉ノ海、こだわらずに組み手決まる。

再度水。

千秋楽なので二番後取り直しにならず引き分け。



昭和14年春場所、羽黒山ー引き分けー玉ノ海をさばいたのは木村清之助、という逸話を聞いて、江戸博物館で調べました。

日本相撲史

大正15年5月東京大相撲協会、庄之助、伊之助、錦太夫、勘太夫、木村鶴之助

大正15年3月大阪相撲協会台北本場所、木村玉之助、木村清之助、岩井正朝

大正15年10月第二回東西連盟大相撲、庄之助、伊之助、玉之助、清之助






近代日本相撲史、昭和14年春場所番付

松翁庄之助、伊之助、玉之助、清之助、玉二郎、庄三郎、正直、与太夫

羽黒山ー引き分けー玉ノ海

名寄岩ー寄り倒しー綾昇

前田山ー寄り切りー鏡岩

双葉山ー上手投げー男女ノ川

清之助が番付にのっているのは、17年夏場所まで






羽黒山ー引き分けー玉ノ海が清之助。ということは、最後の三番は行司一人一番ずつということだったと推察できる。

近代日本相撲史には、右四つと書いてありました。水入りのことは書いてありませんでした。






羽黒蛇

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