羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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2015年02月04日 | 歴史


浪ノ音の振分親方はいつ出羽一門に入ったのだろうか(羽黒蛇)、










浪ノ音、高砂部屋。明治39年1月新入幕、明治40年5月関脇、大正3年5月引退。引退後、振分親方。相撲レファレンスの株歴史によると、



大正3年5月(KA)~大正8年まえ(HB)高砂部屋付き



大正8年まえ(HB)~昭和15年5月(HI)振分部屋親方



昭和15年6月(HI)~昭和16年12月(HB)玉ノ井部屋付き



昭和17年1月(HB)~昭和22年10月(HS)振分部屋親方



昭和22年11月(HS)~昭和36年1月1日(RM)出羽海部屋付き










引退後の部屋付き親方の時の部屋持ち親方は、



元関脇高見山の高砂親方(大正3年6月まで)



元大関朝潮の高砂親方(大正4年1月から)



元十両陸奥錦の玉ノ井親方



元小結両国の出羽海親方(昭和24年1月まで)



元横綱常ノ花の出羽海親方



元前頭一出羽ノ花の出羽海親方(昭和35年12月から)










相撲玉手箱によると、「大正 3年の高砂襲名争いでは、温和な性格を見込まれて高砂の婿に成って相続してはと一門の年寄達から勧められたが即座に辞退し、同郷の綾川を担ぎ出したが敗れて出羽ノ海一門に転じた。」
相撲レファレンスは、昭和3年以降高砂部屋付き。出羽一門に移ったのはいつ???










陸奥錦の玉ノ井の株歴史を見ると、振分部屋付きの親方から、昭和15年6月には部屋持ち。同時に振分が部屋付き。



昭和17年1月に振分が部屋を再開した時、玉ノ井部屋は続いている。部屋が分かれたようだ。



玉ノ井部屋は昭和21年10月に閉めて、出羽海部屋の部屋付き親方に。



振分部屋は、昭和22年11月に閉めて、出羽海部屋の部屋付き親方に。










大相撲記録の玉手箱によると、陸奥錦は浪ノ音の養子。高砂一門の陸奥錦の玉ノ井親方、高砂一門の浪ノ音の振分親方、いずれも部屋をしめると出羽海部屋へ。部屋持ち親方の当時から出羽一門だったのか???










昭和28年の雑誌「相撲」増刊「相撲通になるまで」には、玉ノ井と振分が出羽海部屋所属と記載あり。










博多のちゃんこ料理「上潮」で、元十両の上潮さんから聞いた話。



昭和43年5月新十両、昭和46年11月引退。高砂部屋の上潮は、元浪ノ音の振分親方から、昔の相撲の話をよく聞かされたそうです。










玉手箱によると、波ノ音は「部屋を経営しながら宿禰神社の社務を請け負い、昭和23年には家を建てて住みながら神社を管理し、28年 6月から正式に社務専属で奉仕した。」
上潮さんが振分と話をしたのは、昭和36年1月に定年引退後、宿禰神社時代。高砂部屋に出入りしていたということ。










羽黒蛇

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