パーソナリティ(人格)という言葉は、ラテン語のペルソナから来ている。
ペルソナとは「仮面」という意味だ。
我々は、日々様々な仮面を被って生きている。
しかし最近、特に若い人たちは仮面を被ることに嫌気がさしているように思われる。
確かに若者は(昔からそうなのだろうが)、奇麗な嘘よりも、醜い真実を求める。
それは悪いことではない。
私の大学時代の同級生Nなどは、先生方の前、真面目な先輩方の前、不真面目な先輩方の前、我々同級生の前、後輩たちの前、色々な状況で実に多くの仮面を被りすぎ、自分を見失ってしまった。
彼は自分自身のやったことを僕がやったと言いふらし、おかげで7年間僕は行ってもいない場所で、やってもいないことをやったと言われ、心の風邪をひいてしまったのだ。
それにしても、Nの仮面の被り方は名人技と言えた。
卒業後、大学院に進学した僕は先輩たちにある事実をばらした。
「Nは全取得単位の半数以上を、カンニングで取ったんですよ」
僕は、次のように先輩の一人が言うのを聞いて、びっくり仰天してしまった。
「あの真面目なNがそんな事するわけがない、悪いけどお前の言うことは信じられない」
真面目なN・・・
我々同級生の中でいちばん不真面目だったN、彼は先生方や大学院の先輩方にとっては、真面目で誠実な男としてとおっていたのだ。
Nは怜悧な計算のもとに仮面を被っていたのではない。
彼は状況に応じて全く別の仮面を被っていることに自分でも気づいていなかったのだ。
だからこそ皆騙されてしまったのだ。
その後、僕の無実の罪がどうなったかというと、真実が明らかにされ、Nは指導教官から破門の宣告を受け、先輩から絶交された。
ある教官はNから送られてきた年賀状を、そっくりそのまま封筒に入れて送り返したそうだ。
状況に応じて仮面を被りすぎる人間は、卑小で醜い。
だが数年前、成人式で暴れた連中が捕まったように、品よく上手に仮面を被れない者も一人前の大人とは呼べない。
かつて松田聖子がぶりっ子と言われたが、それは彼女が仮面を被っていたからではなく、仮面の被り方が上手ではなかった、ということなのである。
ペルソナとは「仮面」という意味だ。
我々は、日々様々な仮面を被って生きている。
しかし最近、特に若い人たちは仮面を被ることに嫌気がさしているように思われる。
確かに若者は(昔からそうなのだろうが)、奇麗な嘘よりも、醜い真実を求める。
それは悪いことではない。
私の大学時代の同級生Nなどは、先生方の前、真面目な先輩方の前、不真面目な先輩方の前、我々同級生の前、後輩たちの前、色々な状況で実に多くの仮面を被りすぎ、自分を見失ってしまった。
彼は自分自身のやったことを僕がやったと言いふらし、おかげで7年間僕は行ってもいない場所で、やってもいないことをやったと言われ、心の風邪をひいてしまったのだ。
それにしても、Nの仮面の被り方は名人技と言えた。
卒業後、大学院に進学した僕は先輩たちにある事実をばらした。
「Nは全取得単位の半数以上を、カンニングで取ったんですよ」
僕は、次のように先輩の一人が言うのを聞いて、びっくり仰天してしまった。
「あの真面目なNがそんな事するわけがない、悪いけどお前の言うことは信じられない」
真面目なN・・・
我々同級生の中でいちばん不真面目だったN、彼は先生方や大学院の先輩方にとっては、真面目で誠実な男としてとおっていたのだ。
Nは怜悧な計算のもとに仮面を被っていたのではない。
彼は状況に応じて全く別の仮面を被っていることに自分でも気づいていなかったのだ。
だからこそ皆騙されてしまったのだ。
その後、僕の無実の罪がどうなったかというと、真実が明らかにされ、Nは指導教官から破門の宣告を受け、先輩から絶交された。
ある教官はNから送られてきた年賀状を、そっくりそのまま封筒に入れて送り返したそうだ。
状況に応じて仮面を被りすぎる人間は、卑小で醜い。
だが数年前、成人式で暴れた連中が捕まったように、品よく上手に仮面を被れない者も一人前の大人とは呼べない。
かつて松田聖子がぶりっ子と言われたが、それは彼女が仮面を被っていたからではなく、仮面の被り方が上手ではなかった、ということなのである。
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