考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。
霊的な内奥の自分からである。
この内奥の自分は神につながっている。
ゆえに、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、
自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給たもうているのである。
そこに、人が地上における司宰者たる、また、たり得る本質がある。
地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、
地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。
これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、
霊界でも見、聞き、味わい、嗅かぎ、感じ、生活することができるのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、
物質の衣ころもにすぎないことが判明する。
肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現れとなって呼吸する。
霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。
また、心臓は、その情動の現れとなって脈打つ。
霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。
この二つの動きが、一貫せる生命の現れであって、
生前も、生存中も、死後も、また同様である。
肉体の呼吸と脈拍とは、新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、
死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。
かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。
為に死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。
ゆえに、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。
しかして、霊界においては、先に述べたごとき状態であるがゆえに、
各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、
これに対応する霊的の事物と変じて現れるものである。
この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。
人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、
すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。
そして、それはまた完全なる人間の形であり、
人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、
さらに大宇宙そのものの形である。
大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、
また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、
常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。
大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。
変化、進展、弥栄いやさかせぬものは歓喜ではない。
歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。
ゆえに、歓喜は肺臓と心臓とを有する。
この二つは、あらゆるものに共通であって、
植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。
人間の場合は、そのもっとも高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通じる
最奥の組織を有する。
これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、
肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。
しかして、この二者は一体にして同時に、
同位のものとなっていることを知らねばならない。
それは心臓としても脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現れである。
そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、
すなわち、大神より直流し来るものを感得し、
それを行為し得る独特のものを有しているのである。
人間が一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、
霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、
それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。
第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、
第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。
七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、
三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。
日月神示
霊的な内奥の自分からである。
この内奥の自分は神につながっている。
ゆえに、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、
自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給たもうているのである。
そこに、人が地上における司宰者たる、また、たり得る本質がある。
地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、
地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。
これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、
霊界でも見、聞き、味わい、嗅かぎ、感じ、生活することができるのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、
物質の衣ころもにすぎないことが判明する。
肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現れとなって呼吸する。
霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。
また、心臓は、その情動の現れとなって脈打つ。
霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。
この二つの動きが、一貫せる生命の現れであって、
生前も、生存中も、死後も、また同様である。
肉体の呼吸と脈拍とは、新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、
死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。
かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。
為に死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。
ゆえに、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。
しかして、霊界においては、先に述べたごとき状態であるがゆえに、
各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、
これに対応する霊的の事物と変じて現れるものである。
この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。
人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、
すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。
そして、それはまた完全なる人間の形であり、
人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、
さらに大宇宙そのものの形である。
大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、
また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、
常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。
大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。
変化、進展、弥栄いやさかせぬものは歓喜ではない。
歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。
ゆえに、歓喜は肺臓と心臓とを有する。
この二つは、あらゆるものに共通であって、
植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。
人間の場合は、そのもっとも高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通じる
最奥の組織を有する。
これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、
肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。
しかして、この二者は一体にして同時に、
同位のものとなっていることを知らねばならない。
それは心臓としても脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現れである。
そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、
すなわち、大神より直流し来るものを感得し、
それを行為し得る独特のものを有しているのである。
人間が一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、
霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、
それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。
第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、
第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。
七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、
三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。
日月神示