君は硬いのは好きですか?
カッチカチです。これほどないくらいカッチカチです。
フニャフニャよりカッチカチが好きでしょう?
いや、フニャフニャも感触的には悪くはないだろうけど、やはり最終的にはカッチカチが良いでしょう。
そうでもない?
わかりやすく説明しよう。
カッチカチが好きなのです。
それはもう切れるほど鋭利なカッチカチ感。
まるで噛むことを拒むような、鋭利に割れた先が口の中を傷付ける程に。そんなカッチカチ感。
まだなんのことかわからない?
これですこれ。
八つ橋。
これが大キス、いや大好きなのです。
なんだ、八つ橋か、と心の中で吐き捨てませんでした?
いや、もしかして画面に向かって吐き捨てませんでした?
生じゃないのかよ、生だろ、やっぱ生だよ、生が大好きなんだよ、なんで生じゃないんだよ、硬い方の八つ橋の存在意義に疑問を感じるよ、だってそうだろ? 今時京都土産で八つ橋と言ったら生だろ生八つ橋だろ!
そりゃあ餡子はあまり好きじゃないが今ならチョコとか抹茶とか色々あるのにそれを買わずに硬いほうかよ、歯が折れるだろフニャフニャの方にしとけよこの馬鹿! なんなの死ぬの?
とか吐き捨ててませんか?
実に不愉快。三角に折り畳んだフニャフニャの生八つ橋と一緒になんてされたくない。
僕は硬いのが好きなんだ。しかも鋭利な程に硬い奴だ。カッチカチなのがいいんだ。噛みしめるんだ、噛みしめるほどに味わうんだ。カリ、カリ。
しかもたまに舐めてみる。ペロ、ペロ。
生八つ橋なんて食ってばかりいたら、顎が退化するよ。顎が緩むよ。物を噛めなくなってさ、顎がゆるゆるになっちゃうよ。
何が生チョコだよ、生チョコも好きだけどさ、餅の中にまで入れなくていいよ。いや美味しいけどさ。生チョコ好きだし餅も好きだけどさ。
僕は今、八つ橋が好きだって話なんだよ。
硬いのが好きなんだよ。カッチカチのさ。
そんなわけで昔から八つ橋が大好きなのだ。
最初に買ったのはあれだ、安いし、たくさん入ってるし、お土産に配りやすいからだ。修学旅行のお土産としてなんともこう適していたように思えたんだ。そりゃあ生が主流さ。でもペロッとさ、手で持って渡せないだろ?そんなの食べたくないだろ。
可愛い女子がペロッと渡してくれるならいざ知らず。思春期の男子が何を握ったかわかりゃしない手でペロッと渡されたらもうその感触がさ、まるでフニャフニャの皮を被った感じでさ、もうアレじゃんか。
硬いのは袋詰めされてて小分けされてて何枚も入ってるし言っても八つ橋だしなんかわかってるというか知ってるねーというか通ぶった感じで本物はこっちなんだよとか偉そうに言えるのに安くて手渡ししやすいんじゃないかと思ったわけ。
んで馬鹿みたいに考えなしに買うから実際は余るよね。そんなに渡す人いないよね。だってみんな一緒に修学旅行いってるんだから。ハハ。
だから余ったら自分で食べるわけです。必然。それが自然の成り行き。自分にとって不都合な真実。認めたくない。だから証拠は消してしまおう。食べるに限る。
以来、八つ橋は僕の中で別格になった。
思い出だけじゃない。そんなセンチメンタルだけのものじゃない。
そう言えば「シナモン」が好きだと知ったのも八つ橋のおかげだ。
この「ニッキ」味は美味しいね。と言った僕に誰かが「シナモン」でしょ?と教えてくれた。
僕はそのシナモンという言葉に衝撃を受けた。うっとりした。シナモン。ニッキとは違うなんとなく優雅な響き。「ニッキ」か好きと言っても「?」な反応なのに、「シナモン」が好きだと言うと「あたしもー」と同調されるあのメジャー感。
女子会でよくある「あー、あたしもー」「わかるー」というフレーズな悪魔の響きだ。
シナモンと教えてくれたのが誰だったかはもう覚えていないが、シナモンを忘れることはないだろう。
ただ、厳密には日本のは「ニッキ」であって「シナモン」ではないというのも大人になって知ったことだ。
八つ橋を噛むと口一杯に広がるシナモンの香り。
ナイススメル。グッスメル。
カリカリカリカリ。
しかし最近歳をとったせいか、硬すぎる八つ橋に歯が悲鳴をあげることがある。悲しい現実。知りたくなかった老い。迫り来る現実。
噛めば噛むほど美味いのに、噛めば噛むほどに痛む歯。この矛盾。受け入れ難い矛盾。
口に入れたまま、しばし痛みが去るのを待つ屈辱。
しかし、そこで噛む八つ橋の新しい感触。
サクッとな。サクサクサクサク。
八つ橋に新しい食感。歯触り。考えたこともなかった。果てしなく硬いからこそ、水分を含むことでおこる変化。柔らかさ。
しかしこう、もう少し。あ、ペロペロする時間を減らしてみよう。もうすこし。もうすこし。
もうすこし。
ポリポリポリポリ。
あ、これだ。
ポリポリポリポリ。
今求める最高の八つ橋の食感。
歯触りとはよく言ったものだ。
まさしくこれが求められる最高の歯触り。
その八つ橋。
もしかしたら、もっとお爺ちゃんになったら、いや、もうすでに来年とかには、柔らかさを追求ししていくかもしれないし、そんなことはなく明日にはまたカリカリカリカリと硬さにこだわりながらまさしくこれが八つ橋のあろう姿、これ以外の硬さは認めないとまた繰り返すかもしれない。
しかしその我が儘さにあるがまま付き合ってくれる八つ橋が好きだ。
だって生八つ橋が硬くなってたらもう食べたくないだろ?