水戸の歴史を書いた本をみていると、「濠」は水戸城のものを(ただ、一般的に「ほり」という場合は「堀」と書かれているようです)、「堀」はその他のもの(例えば備前堀)をあらわしているようです。面倒ですので、ここでは堀に統一します。
堀の名前については、紀州堀以外は定説がないようで、水戸市史にもはっきりとは書かれていません。内堀、外堀という表示は市史にありました。地図内の内堀、外堀の表示は便宜的なものです。(地図左の3つを外堀、城郭内右2つの堀を内堀というようです。)
水戸西方から水戸城本丸に至るまでに、5つの堀があったようです。また、本丸台地東の崖下にも、崖に接した堀と、明星池を含む、その外側の堀があったようです。
水戸城というと、空堀で有名ですが、西の谷や、備前堀、二の丸-三の丸間の堀は、千波湖の水がある程度引き入れられていた時期があったようですし、三の丸西側堀も、銀杏坂の下までは水がきていたようです。地図の写真は水戸市史のものです。
①、② ①は水戸城崖下のお堀、②は旧明星(めいせい)池などの外側のお堀です。ともに、今はありません。写真は、本丸下のそのあたりです。
本丸-二の丸間の堀(内堀) 今は新しい本城橋がかかり、下には水郡線が走っていますが、以前線路は2車線で(今でも少し手前まで、行き止まりの2本目の線路があります。)、1本は杉山通りにあった河岸の貨物駅に通じていたそうです。江戸時代の堀底を掘削してひろげて線路を敷いたようです。写真は水郡線の線路です。
二の丸-三の丸間の堀(内堀) 弘道館側から旧二の丸に渡る、大手橋がかかる堀です。写真は、堀から見上げた大手橋です。
三の丸西側堀(外堀) 奈良屋町から田見小路にいたる間を掘削した堀をいうようです。水戸城を代表する史跡となっている一番有名な三の丸西側の空堀です。
紀州堀(外堀) 水戸藩初代徳川頼房の前に一時藩主になった、頼房兄・賴宣(よりのぶ)が紀州藩主になったことから、なにかの縁で名づけられたようです。
西の谷(外堀) 千波湖から、大工町を横切って末広町に至る堀です。
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