江戸時代の庚申塔は、大きく3期に分かれるそうです。第1期は寛文(1662-1673)から延宝(1673-1681)までの前期文字塔時代、第2期は元禄(1689-1704)から天明(1781-1789)までの青面金剛時代、第3期は寛政(1789-1801)以降の後期文字塔時代であると書かれています。今回は、元号の分かる供養塔です。
庚申供養(見川町 36°22'03.7"N 140°26'00.0"Eあたり)
享保13年(1728 戊申(じんしん))と見えます。交差点内にある小丘上にある石造物群にの中にあります。左下に同行と見えますので、その下に何人という、講の参加者数が書いてあるのでしょう。今回、年号の分かる碑で、庚申の年に建てられた碑はないようです。
庚申供養(塔)(酒門町 36°20'56.5"N 140°29'43.1"Eあたり)
寛政13年(1801 辛酉(しんゆう))です。物見塚といわれるらしい小山に建つ石造物群の中にあります。ここにはその中に、もう1基の庚申供養塔と青面金剛もあります。庚申信仰が盛んだったということなのでしょう。
庚申供養(大塚町 36°23'14.5"N 140°23'36.9"Eあたり)
寛政(1789-1801)までしか見えません。12年なら庚申の年なのですが。上部の梵字はウンという青面金剛を表す字のように見えます。成就院池公園入口右脇あたりにあります。比較的大きな石樋です。
庚申供(養)(吉田神社 宮内町3193-2)
文化9年(1812 壬辰(じんしん))とあります。上部には日と月があります。半分埋まって境内にありました。
庚申塔(岩根町 36°27'19.3"N 140°24'42.6"Eあたり)
文化11年(1828 戊子(ぼし))とあります。斧沼(よきぬま)前の道を東北方向へ行った交差点の石造物群中にあります。文字が斜めになっていますが、割れて建て直したときにこうなったのでしょうか。これも比較的大きな石碑だったようです。上の酒門町の碑も傾いているようです。
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