二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

地震予知について

2012-03-09 05:46:25 | ニュースの見方
地震に関係する科学技術情報の取扱い方の問題について
  私が前回の記事: ▲朝三暮四と理系思考:[A-147]
に書いた後で、同じ問題を指摘した書籍、報文の幾つかを
   紹介した、新聞の書評(「今週の本棚」)、を目にした。
その筆者、海部宣男氏は、大事な要素が三つあるとして、
  ①科学者の明確で責任ある発信、②それを伝える
   メデイアの正確さと伝達力、③受け取る人の理解力』
  を上げ、日本では三つとも、かなり低い、ことを、
  紹介書の内容に依って説明している。 
誠に同感であり、私の前回記事は、その②,③に関する
  ものだったが、この書評で紹介されている①に関する
  部分が抜けているので、マルマル引用し写しておく。
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書評によると、 ①の意味で明確な問題指摘が、
  『日本人は知らない「地震予知」の正体』
   (ロバートゲラー著、双葉社)、にある、という。 
  本の著者は米国出身の地球物理学者、東大教授で、
    3・11を受けて昨年8月に出版された。
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「予知は出来ない」、 と知っているのに
  政府の予知政策の金に群がる「地震予知研究者」たち。
  東大地震研究所のある所長の研究費獲得法
  を語る「正直発言」・・には度肝を抜かれるだろう。
「地震予知研究」は名を変えながら大規模化してきたが、
  「予知」のかけらも生まず、鳴り物入りで警告した
  東海地震ではなくて、警戒されなかった阪神・淡路
  大震災、東日本大震災が続発した。 
それでも存続している裏には、原発ほどではないが
  良く似た学・官・政の「地震予知ムラ」がある
  という。 
著者は、地震研究の意義は認めつつ、
国策としての「予知」研究の廃止、震災対策強化
  を求める
。 書評では、正面から反論出来る
地震学者は居るだろうか、  と書いている。
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実に明快な話であり、私も含めて多くの人々が
  もやもやした気分で、何となく感じていたこと、である。
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予知ではないが、あれほどの災害が有り、批判されている中でも、
. 九月末に霞が関の作った原子力関係予算は減らなかった。
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2011/11/7の新聞コラムの指摘で知ったことで、10月中の
  ニュース報道でもその様な話は聞かなかったのだが、
  復旧・復興関連を除く原子力関連予算総額は、(一般会計と
  特別会計を合わせ)2011年度並みの4400億円だったという。
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しかも、現役稼働中の原発関係だけでなく、全世界で
  実績ゼロ、前途暗澹たる高速増殖原型炉「もんじゅ」
  の関連経費が、2011年度とぴったり同じ215億円。
  もんじゅ以上の夢物語である「核融合」の経費が
  2011年度の2倍の332億円に増えている。
もんじゅは1967年立案、80年代に実用化の筈が延びに
  延びて最近では2050年をメドと言っているのだし、
  核融合に至っては、お題目の年度さえも存在しない。
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科学技術の進歩のためには最初から打算の成立するモノ
だけでなく、夢やアイデアを育てる必要が有ることは
我々技術屋仲間は良く知っているが、
現在の国情での予算措置としてこれらが出てくるのは
発想の原点に問題が有る。 もんじゅにこれまでに
注ぎ込まれた国費が、延べ1兆円だというのに、
民衆の生活現状を考えるとき、非常識である。
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個人的な感覚では”怪しげだなあ”と思っても
  それなりの肩書のある人々が群れを成して
  そこに集っていると、正面切って、「本当に
  そんなことが出来るのですか」とは聞き難い。 
また、世間を知った大人の智慧としては
  実社会には、そうしたことは良くあるのであって、
  平穏に暮らしていくためには、あまりその様なことを
  穿らないのが利巧だ、という生き様が身に付いている。
 
例えば、
  ●自分の会社が行っている社会的不正を
  99%の社員は黙っているもので、
  内部告発する人は、例外的存在である。
  ●古くは村祭りのときに寄付を集めにきたら、
  ボスどもの飲み代に回るのだろう、などと言わずに
  黙ってそこそこの金額を出してお居た、のも同じだ。

●敗戦後に初めて、民主主義体制で選挙が行われた時に、
  ある村で買収が有ったのを小学生の子供が見咎めて
  新聞に投書した。 新聞はそれを記事にして
  手柄顔をしたが、実はその後の長い時間経過の中では、
  その子の一家は村八部に遭ってその村に住めなくなった。
  未だ大人の智慧が育っていなかった純真な子どもが
  家族に齎した不運であった。

●村会議員選挙でなく、国家行事の 「叙勲」だって
  利益誘導の方便であるのは、佐久間氏が
   ▲ 2010秋の叙勲と褒章(3):[B-142]
   ▲ 2009春の叙勲を見て :[B-92]
 あたりに書いたとおりである。 
 子供レベルの正義感で『叙勲するならば、
     B氏よりもA氏のほうが先だ』、などと言っても、
  官僚は痛くも痒くもない。
  法文にちゃんと、逃げ道が用意してあるのだから。
  功績の有った人物を叙勲『することが出来る』、
  とは書いてあるが、より優れた功績の者を
  先行しなければならない、とは書いてないのだ。

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この様にしてムラに金を出す官僚がムラの住人とツルンで
  見当違いをやっても責任を問われないように
  社会の仕組みが出来ている。 
その中で、社会を改良する為には前記の条件①、
  つまり当事者(地震予知の場合ならば、科学者)自身が
  責任のある行動をする以外には方法が無い、のである。 
余りに当然なことではあるが、私の前回の記事に抜けていた
  大きな要素を新聞の書評で見たので、此処に引用しておく。

現実に、叙勲の場合には、本当に立派な該当者は
  自身が受取りを断ってるのは、
   ▲ 2010秋の叙勲と褒章(3):[B-142]
の通りである。 しかし、これは何といっても税金を
  使用する無駄遣いである。 
ロバートゲラーの口調を真似るならば、
『社会が立派な業績を挙げた人物を評価する意義は認めるにしても、
国策としての「叙勲」は廃止するのが、正しい智慧』
なのだろう。


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