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流政之氏・・・瀬戸内寂聴氏の接点

2011年02月11日 | 川柳

            「これ読んで!」と手渡されたのが、

     あの有名な日経新聞の「男の履歴書」「流 政之氏」の随筆。

  当時担当者であった、元文化部長からの新聞のコピー一冊であった。

もう、10数年前のこと。

「彼がねえ・・・男の履歴書を書いてくれって・・・俺のところに来るんだよ。

だがねえ・・・あの記事を書くと殆どの人が、平均5年以内に死んじゃうんだよ!

だから・・・こいつにね、俺を早死にさせるな。。。あと5年たったら考えると言ってその5年後にやったモンさあ(笑)」流氏

「僕はね・・・流さんに、お前いつまでそんな仕事やってんだ!自分のやりたい事をやれって・・・一喝されて・・・いろいろ考えた挙句に今、○○に住んで小説を書いているんです。」元記者san

 それから2・3時間いろいろなお話をさせていただいたのですが、案外流先生の肉声って言うのは言葉で残すとトテモ面白い。

ある意味書ける範囲で書くのも、氏の人間性の破格な大きさが読んで取れるのかも知れない。

      初めての酒宴の席で、15・6名の自己紹介が終わった。

        流先生は横に座られた方の名刺をご覧になって

「ところで・・・あんたはずいぶん偉い人なんだねー・・・7つも8つも肩書きがあるけれど・・・ところで・・・何で食べてるの?」流氏のナガレ流

              「実はあのー・・・」D氏(沈黙)

(あー・・・これは・・・流先生には一地方の名士などなーんにも興味はないのよ!

名士であれば・・・自分の作品を買うか買わないか。。。・・・であろう・・・と思った。)

 十数年前に初めお逢いしたときは、確かに「地方の用心棒」のような風格がにじみ出ていたのだけれど、5年前は、かなり穏やかで本来の氏の温かさが伝わって来ました。

流氏からいただいた画集は主に海外で活躍された頃の各外国の所蔵品が主なものでした。

そのページの最後に瀬戸内寂聴さんと、流氏のエピソードが載っていました。

寂聴さんが離婚をして、再起の為にまだ小説を書く以前に、ある小さな編集社で仕事をする事になりました。

         その時の編集長が「流氏」であったという事実です。

「そして今日の、世界的な仕事をされて大成する事をその時から私は信じていた。」

                と、いう文言があるのです。

    寂聴さんは、おべっかやお世辞など・・・する必要もない方なので

  そのメッセージを読んだ時のインパクトが・・・私の脳裏に刻まれています。

 「女にふられ・・・さめざめと男泣きする流さん」・・なんても書いてありました。

                  実にすごいことです。

            当時は無名同士の、おふたりが・・・

          日本・世界を代表する・・・ナガレ流彫刻家に。

   日本女流文学の歴史上きっと最高峰に位置するでしょう・・・瀬戸内寂聴氏

   無名の頃の、未来がまだ見えていないお二人のかかわりが・・・妙味ですね。

            しばらく、妙味で粋なシリーズで・・・書こうかな。。。

                  興が乗ったら・・・の話

        酒宴も終わり席を立つと、席を予約された方が

       「先生。。。お料理はいかがでございましたか?」Mさん

           「あー料理に舌を合わせていたよ!」流氏は

                    ゆっくり応えた。

    言葉の使い回しが、独特です。決しておいしいとは言ってないのです。

           風 格 あるなーって・・・怖れいったものです、

 

     北海道大沼公園…流政之作品(ストーンクレイジーの森)

                       ↓

     http://www.jrh-zaidan.or.jp/business/page02.html

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流政之先生との思い出 (マイク青木(本名 青木 實 ))
2011-07-13 11:41:51
流先生とは確か1965年にニューヨークで初めてお会いしました。当時私はフリーのカメラマンをしてまして、週刊新潮から流先生の写真撮影を依頼され、個展を開催していたスタンフリー画廊で会って撮影させていただきました。この時の写真は週刊新潮の巻頭のグラビアページに掲載してもらいました。撮影後、タクシーに一緒に乗せていただいた時のことですが、開口一番先生は「先ほどの女性は何者かね」と尋ねられました。彫刻だけでは寂しいと思った私は、知り合いの若い女性に頼んでモデルになって彫刻とアメリカ女性の写真を撮影したのでした。私が、「ちょっと知り合いの女性です」と答えたら、「私に頼めば、もっとあの場にふさわしい女性を連れてきてあげたのに」というようなことをおっしゃられ、「しまった」と思いました。流先生の作品は、米国のセレブの間で大人気で、大金持ちのロックフェラー夫人なども流先生の大ファンであることはあとで知らされました。そういうことでしたら、上流階級の女性と彫刻が一緒のところを撮影すべきでした。この2年後私は帰国しましたが、先生が上京した際に再会しましょうということになり、それから暫くして先生から電話があり「今東京に来ているから、一緒にメシでも食おう」と誘っていただき、どじょう料理のレストランに連れて行ってもらってご馳走になりました。現在私はゴルフルールの研究の世界に身を置いていますが、モデルの選択の失敗はいい勉強になっています。それにしても、流先生と瀬戸内寂聴先生が無名時代に編集長と編集部員の間柄で働いていたなんて、面白い人の縁というものを感じます。寂聴さんからは、その当時の流先生のエピソードをもっと語って欲しいですね。特に、女性関係のことについて。
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