幕府による東蝦夷地の直轄
1799年
1月 江戸幕府は松前藩のアイヌに対する苛斂誅求ぶりが、ロシアを利するとの疑念を持ち介入。「辺海警備の為暫く東蝦夷地官の直轄となす」とし、向こう7年間、幕府が仮に上地する決定。
2月 東蝦夷地のうち、「浦川より東北の知床半島及び国後、択捉」までが、松前藩から召し上げられる。松前藩には東蝦夷地に替えて新たに武蔵の国の久喜五千石を采地とする告示。
8月 松前藩、「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出る。幕府はこれも上地する。これにより幕府直轄地の範囲が箱館もふくめて拡大。
11月 幕府は、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を警衛するよう命じる。箱館を本陣とし、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所を設ける。
1799年 幕府、「三章の法」を発布。アイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定することとする。松前藩による場所請負制度を廃止し、運上屋に代え「会所」を設け、幕府の直捌制度にする。実態は変わらなかったとされる。蝦夷地の産物は江戸伊勢崎町の会所を通じて販売された。またまた禁止していた和語の修得を指示し、同化・改俗を計る。
99年 近藤重藏、高田屋嘉兵衛にエトロフ開発を命じる。場17か所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜那など7郷と25村の名称を定める。
1800年
2月 両藩は箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させる。これに伴い和人居住区が噴火湾の野田追まで拡大される。
4月 八王子千人同心の原半左衛門、農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうこととなる。天明の飢饉の救済策と考えられる。130人がユウフツ、シラヌカに入る。このうち33人が現地で死亡。3年後に残ったのは85人であった。
1800年 高田屋嘉兵衛、手船辰悦丸(1500石積)と図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して択捉に向かう。
1800年 伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年には蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。
01年 最上得内、富山元十郎などがウルップ島を探検。「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
1802年2月 幕府は、東蝦夷地一帯の直轄地を永久上地することに決定。箱館に蝦夷奉行をおく。アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。(99年政策と矛盾しているようだが?)
02年 近藤重蔵、「蝦夷地図式二」を作成。過去10年ほどのあいだに作成された各種の蝦夷地図を総合したもの。
1804年 長崎でのロシア通商使節ザレノフとの交渉は決裂に終わる。レザノフは帰路、宗谷地方や樺太を探検。蝦夷地の防備の手薄を知る。
04年 ユウフツ、シラヌカの八王子千人同心、入植を断念。箱館地役雇というかたちで幕府雇となる。
04年 江戸幕府、土人教化のため有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立。蝦夷三官寺と呼ばれる。これらの寺は檀家を持たず、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、アイヌ教化と和人の橋頭堡確保を目的とする拠点と位置づけられる。
1805 海岸部で鮭捕獲のため定置網がもちいられるようになる。さらに1864年になると大謀網(たいぼうあみ)の使用も開始される。網をおこすのに船3隻、漁夫25人を要したという。鮭を主要な生活資源とする内陸部のアイヌは、生活に困窮する。また漁業労働者としてアイヌを大量に使用したことから、内陸部の過疎化が進む。
川柳北海道・川柳北海道・川柳北海道
1799年
1月 江戸幕府は松前藩のアイヌに対する苛斂誅求ぶりが、ロシアを利するとの疑念を持ち介入。「辺海警備の為暫く東蝦夷地官の直轄となす」とし、向こう7年間、幕府が仮に上地する決定。
2月 東蝦夷地のうち、「浦川より東北の知床半島及び国後、択捉」までが、松前藩から召し上げられる。松前藩には東蝦夷地に替えて新たに武蔵の国の久喜五千石を采地とする告示。
8月 松前藩、「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出る。幕府はこれも上地する。これにより幕府直轄地の範囲が箱館もふくめて拡大。
11月 幕府は、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を警衛するよう命じる。箱館を本陣とし、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所を設ける。
1799年 幕府、「三章の法」を発布。アイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定することとする。松前藩による場所請負制度を廃止し、運上屋に代え「会所」を設け、幕府の直捌制度にする。実態は変わらなかったとされる。蝦夷地の産物は江戸伊勢崎町の会所を通じて販売された。またまた禁止していた和語の修得を指示し、同化・改俗を計る。
99年 近藤重藏、高田屋嘉兵衛にエトロフ開発を命じる。場17か所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜那など7郷と25村の名称を定める。
1800年
2月 両藩は箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させる。これに伴い和人居住区が噴火湾の野田追まで拡大される。
4月 八王子千人同心の原半左衛門、農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうこととなる。天明の飢饉の救済策と考えられる。130人がユウフツ、シラヌカに入る。このうち33人が現地で死亡。3年後に残ったのは85人であった。
1800年 高田屋嘉兵衛、手船辰悦丸(1500石積)と図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して択捉に向かう。
1800年 伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年には蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。
01年 最上得内、富山元十郎などがウルップ島を探検。「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
1802年2月 幕府は、東蝦夷地一帯の直轄地を永久上地することに決定。箱館に蝦夷奉行をおく。アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。(99年政策と矛盾しているようだが?)
02年 近藤重蔵、「蝦夷地図式二」を作成。過去10年ほどのあいだに作成された各種の蝦夷地図を総合したもの。
1804年 長崎でのロシア通商使節ザレノフとの交渉は決裂に終わる。レザノフは帰路、宗谷地方や樺太を探検。蝦夷地の防備の手薄を知る。
04年 ユウフツ、シラヌカの八王子千人同心、入植を断念。箱館地役雇というかたちで幕府雇となる。
04年 江戸幕府、土人教化のため有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立。蝦夷三官寺と呼ばれる。これらの寺は檀家を持たず、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、アイヌ教化と和人の橋頭堡確保を目的とする拠点と位置づけられる。
1805 海岸部で鮭捕獲のため定置網がもちいられるようになる。さらに1864年になると大謀網(たいぼうあみ)の使用も開始される。網をおこすのに船3隻、漁夫25人を要したという。鮭を主要な生活資源とする内陸部のアイヌは、生活に困窮する。また漁業労働者としてアイヌを大量に使用したことから、内陸部の過疎化が進む。
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