横濱kabitanの、あれこれ話

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YCCスクール「大佛次郎のパリ探訪」:5

2013年07月05日 03時23分39秒 | 横浜文芸関連

1)1958年、欧米旅行の続き
・6/24「パリの南郊、フォンテンボロー(の森)の少し先に、モレ(=シュル=ロワン)というな野村がある。古典的な昔の村のかたちを留めているのでおもしろかった。大ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリにはいる前に二日とか三日、泊まった民家もそのまま残っている。ロワン川という水量のゆたかな川が、村を巡って古い石橋の下をくぐり、中洲の水車小屋に水を分けて、流れている。大陸の川は水源がアルプスにあり氷河の重量が地殻をこするので本流の水は濁っているものだが、ロワンのように枝川は水がきれいで、水藻の花が白く咲いてうかんでいる。橋の上に立って岸辺を見ると、洗濯小屋に女たちが並んで、せっせと川水で洗っている」(モレの写真と記録はかなり少ない分、戸口から洗いものする女性の洗濯小屋出の写真が秀作。寝歩レオンが村人に見つかるが見逃してもらうという、逸話がある)
・6/21「友人が迎えに来て(パリ北郊の)サン=ドニ寺院へ行く。モンテマルトルに帰り食事。友人らと落合って再び行く。それより(パリ西北郊)オーベル(=シュル=オワーズ)に行き(ファン)ゴッホの墓や臨終のホテルの家、(ゴッホの侍医)ガッツェの家、(パリ北郊)リル・ダタム(ジャン=ジャック・ルソーの墓所)、シャンティの城を見、夕立の中をパリに帰る」(オーベルはパリから50キロ離れている。電車だと、乗換えで1時間。ゴッホらが集団生活したとして有名)
・6/23「私はゴッホが最後をひき取ったオーペルの村の宿にも行って見た。屋根裏になっている二階に、最後の部屋が、破れた椅子や寝台とともに残っていた。その宿から裏手の丘に昇ると、ゴッホが描いた道があり教会堂があり、弟テオと並んでゴッホの墓がある墓地もあった。
 墓地の石の堀の外は一面の麦畑である。ゴッホが自殺を計ったのもこの麦畑のどこかだろうし、あの黒々と鴉(からす)の群が飛ぶすさまじい絵となった麦畑も、これだろうか?立っていると、荷馬車が一台、のどかに馬を歩かせて通って行った。麦畑は痩せて、みすぼらしくて、芥子(けし)の花が青麦の穂の間に咲いていた。こんな貧しげ麦畑が、あの、すごいようなゴッホの絵になるのか、と、むしろ幻滅を感じるくらいに、村裏の平凡な畑であった」(ゴッホが自殺をはかった宿は、今では観光施設になっていて有料化している。ゴッホとテオの墓は、何の説明もなくか角っこにひっそりとある)
2)1961年、「パリ燃ゆ」取材旅行
-このときは夫人も伴って取材に専念、著書の舞台になった所を断念に回りパリ・コミューン関連書を大量に買い込む、帰国-すぐに執筆入る。
 連載中、文面が最初現代・過去行き来していたが、途中から史実に沿ったものになり、登場人物も中心になっていた人から無名の人へ変っている-作家目線から史実巡る目線、公平な眼・客観的目線・・・悪評高い人物も一人の当事者として評価して書いているので、そうした人々の違う姿を読みとれる。
 宿はコペルニク通り沿いの宿-現在は、人質殺害跡は許可がないとは入れなくなっているが大佛氏も写真におさめた(著者ラストの)「連盟兵の墓」という(殺されて放置された兵らの亡きがらがあった)壁は普通に見れる。

■Q&Aから
 1958年に訪れた、著名画家が集まった飲み屋ラパン。アジールは元々ブドウ畑で、店の裏にはまだ残っている。今は、観光地化して水でも金とる。
 お弟子もとらなかったので、蔵書・記録が散乱して痛みもひどかった。今回は講師は、18の時に「パリ燃ゆ」を知り、横浜で記念館が設立の際に資料編集手伝いから、専門分野を変更する勢いで今に至る。講師が最近思う、(受け持つ)大学生の姿は女子が分野的に広範囲にやっていて書物もよく読んでいる分、男子はその逆で難しいのにすぐ飛びつくけれどわからずまいな場合が多い。



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