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日本経済新聞5月28日付、第5面「領空侵犯」の「囲碁・将棋を義務教育に」とのタイトルのインタビュー記事は面白かった。
日本総合研究所調査部長湯元健治氏をインタビューしたもので、サブタイトルは「勝負通じ精神力鍛える」である。
湯元氏は、現在の教育問題の解決には、「親の躾などの家庭教育」、「学校教育の改革」だけでは不十分で、その根本原因として、「子供たち自身が深く物事を考える力、自分の感情を適切に制御する力が失われてきている」点を指摘し、「囲碁・将棋を義務教育に」取り入れることを提唱している。
納得できる考え方である。
湯元氏は、囲碁・将棋の効用として、「第一に、論理的な思考や大局的に物事を考える戦略的な思考を養えること」、「第二に、どんな状況でも情緒や精神状態の安定を保つことができる辛抱強い精神力と、短時間で最善の手を探索する集中力を培うのに適していること」、「第三に、未知なる世界が多いので、新しいものを生み出す独創性を育てるのに有効であること」を指摘している。
つまり、将棋や囲碁の効用として、「勝負の厳しさ=競争社会の厳しさを教えること」とともに、「負け癖=負けてもへこたれない精神力」を培うことが可能であるとしている。
確かに、「勝負事を通じ得られる忍耐力」、「独創性」、「戦略的思考」などは、残念ながら通常の学校教育ではなし得ない分野と考えられる。
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もちろん、湯元氏の主張は、一朝一夕には「霞ヶ関の教育論理を変更させる」ところにはつながらないかもしれない。
仮にそうであるとすれば、逆に「草の根レベル」で実証作業を積み重ね、最終的に「霞ヶ関を変化させる」手法でもいいのではないかと考える。しかも、囲碁・将棋を教えることのできる人口には限りがあり、プロ棋士等の助力も必要になるかもしれない。
しかし、実行してみる価値がある(私自身は実行価値ありと考えている…)とすれば、日本のどこかの義務教育校で、「勇気を持って実行に移す校長先生がいてもいいのではないか」と考える。
「ヒカルの碁」が、子供たちの間に「囲碁ブームを巻き起こした」ことは記憶に新しいところであろう。
少なくとも、少子高齢化時代に突入し、「家庭で子供を甘く育てる状況」が出てきている中で、やはり、「勝負事を通じた忍耐力のある人間教育」は面白い視点であり、湯元氏の主張は面白い。
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非常に短絡的な発想ですね。
義務教育は全ての基本である読み書き計算を
教えれば良いのです。
(むかしは最後が算盤だったんだろうが、今の時代に
算盤を教える意義は0。単に本来ならば数十年前に
消滅しているべき算盤業界に最低限の需要を
生み出して維持してやっているだけ)
その基本をちゃんと教えないで、高校生になっても
簡単な分数計算も出来なければ、マトモな文章も
書けない人間を輩出し続ける義務教育のやり方、
つまり基本をちゃんと教えずに、無意味に色んな事を
教え過ぎている状況こそ改めるべき。
将棋や囲碁を義務教育で教える意味なんて何もない。
将棋や囲碁ができない立派な社会人は幾らでもいる
のだから。
義務教育で教えればファン人口の減少に悩む
将棋界には朗報だろうが、将棋界なんてたかが
百数十人の下らん非常識人間どもの巣窟(名人戦
騒動と女流騒動で、将棋界に居る棋士達のモラルや
社会常識の欠如ぶりが明白になった)の存続を
維持する為に、日本中の子供に無駄な事を教える
なんてのは本末顚倒。
忍耐力は、そもそも授業中にお喋りを許さない、
お喋りすれば立たせる、といった規律の徹底で
教え込むべきもの。将棋などの遊びに頼って
教えようなんてのは論外!
何が大切で何が枝葉末節かを判断できぬ人間の
全く下らない意見だ!
この原因の一端が教育にもあるとして、教育論議が盛んに行なわれている。
例えば、「親力」を回復するために何か手立てが必要ではないかといったこと等々である。
日本総研湯元氏の見解、また、囲碁プロ棋士の梅沢さんも、人間形成の一環として取り入れる価値があると主張しているわけである。
教育は、「読み・書き・算盤」に徹すべしということも確かに一つの考え方であるとしても、「人間形成」、「人格形成」に問題のある教育システムは逆に意味がないのではないか?
少なくとも、義務教育の重要な要素として、「人間形成」、「人格形成」があることに間違いはなく、囲碁や将棋等をどのような形で取り入れるかは別にして、その価値はあると考える次第である。
それはその通りだが、将棋が人格形成に何の役にも立たない事はここ1年間の将棋連盟での棋士達の意思表示(棋士総会の票決結果)を見ても判る。
信義よりも金を選ぶ棋士達、また御自分で千人斬りが目標だとまるで女性を征服対象か何かとしか見ていない人物を平気で会長に据える棋士達、また今回退任したが女流棋士を弄んだ人間が幾ら将棋での実績は輝かしいものとは言え、一時は会長に、そしてその後も副会長に選んでいた棋士達、公益性を持つ社団法人として税金の優遇を受けている事を忘れて出来るだけ金儲けして山分けするのが正しいと考えている棋士達、こういう社会的常識の欠落した人間集団としての日本将棋連盟は、その将棋を突き詰めてやった結果の人間集団なのですよ。
単に戦いを経験させて忍耐や周到に用意する重要性、その用意を自分で考える重要性、そういったを学ばせるというならば、体育で競技スポーツをやれば良いし、試験の点数で争うのだって良いではありませんか。
今の日本の子供の最大の問題は、初等教育で基本を学んでいない事、そして、基本を身に着けるのに必要な忍耐をさせずに(家庭だけでなく)学校でも甘やかしている事、それが全ての根源です。
将棋や囲碁を導入する云々以前に、そういう最も重要な点を対策せずして何になりますか。現状のまま(つまり、学校で子供に対して秩序の大切さ、その為に必要な忍耐といった統制面を訓練せず)に、将棋や囲碁を導入したところで、出鱈目な科目が単に増えるだけですよ。
だから、読み書き計算を徹底的に教え、それと同時に人間集団における統制の重要性、その為に必要な忍耐を徹底的に鍛えれば良いのですよ。特に初等教育では。
将棋や囲碁なんて人生に必須でも何でもない科目を教えるくらいなら、まだ、お茶やお華でも教えた方が、優しさが身に着いてマシかも知れない。将棋や囲碁を教えたって目先の勝ち負けに拘る近視眼的な人間を増やすだけで人格形成には全くの逆効果です。
人格形成が大事ならば、なおさら将棋や囲碁の様に勝つか負けるかにしか意味がなくスポーツの様に敗北の中にさえ様々な意義があるといった価値評価の複雑性・多面性のない非常に単純な評価方法の勝負事、を教えるべきではありません。(将棋の負けには大差か僅差くらいの違いしかないでしょう。例えば、負けた時に持ち駒をたくさん持っていたからと言って何の意味もないし評価も出来ない。結局、将棋や囲碁は勝つか負けるかだけの単純で一面的な勝負事なのです)