神戸新聞1月13日付一面「兵庫人」のコーナーの主人公は、元神戸大学教授室崎益輝(よしてる)氏(63歳 現消防庁消防研究センター所長)である。
室崎氏は震災前、神戸市の消防防災計画の作成に関わったとのこと。当時の被害想定は震度5強。その地が震度7の激震に襲われ、6,434人の命が失われたことに関し、「震度7の想定で計画をつってくれていれば…」と遺族にいわれたこともあるとのこと。 . . . 本文を読む
時の回転は速いものである。
第13回目の1月17日5時46分はもうすぐやってくる。
今日の神戸新聞「兵庫人」の主人公は「もんた&ブラザーズ」のボーカリスト、もんたよしのり氏である。
もんた氏は、神戸市東灘区出身で、老舗寝具店の長男として生まれたとのこと。 . . . 本文を読む
日本経済新聞12月7日付43面で、「神戸ルミナリエ」開幕との報道がなされている。タイトルは、「鎮魂・希望の灯守れ」であるが、もうひとつ「風前の…灯」と記述してある。
神戸ルミナリエは、阪神淡路大震災の犠牲者6434人を追悼し、復興への思いを込めた光のイベントとして、1995年末に第1回目が催され、今年で13回目である。 . . . 本文を読む
神戸新聞8月12日付デスク回線コーナーの、社会部の宮沢之祐記者の「私たちのルミナリエを」とのタイトルの記事が気にかかった。
今年の神戸ルミナリエでは、入場者に対して「1人100円」の募金を呼びかけることになったとのこと。
約5億円程度の事業収支規模の取り組みであるため、赤字運営を危惧する組織委員会が、 . . . 本文を読む
昨日ゴルフからあがってきて、テレビ画面に釘付けになった。
字幕で、「新潟・長野で震度6強」の文字が躍っていたからである。阪神淡路大震災を、現実に体験した者の一人として、被災地の方々にお見舞いを申し上げる次第である。 . . . 本文を読む
我が家の次女の海外旅行初体験は3歳の時。
行く先はカナダのバンクーバー、家内、長女、次女の3人での海外旅行体験で、今から12年前のことである。
この旅行は、エアーカナダのプレゼントであった。
12年前、阪神淡路大震災の時に、エアーカナダの副社長が、神戸市東灘区に居住する社員宅を訪問、震災の惨状、地震の被害に打ちひしがれている神戸の人々を、目にすることになった。
1995年2月のある日 . . . 本文を読む
阪神淡路大震災は、もうひとつの側面で、子供たちにも多大な影響を与えた。
多くの人たちが家を失い、あるいは、自宅が危険な状態にあるか、余震等の影響で倒壊する危険性があるため、各学校の体育館が避難場所となり、学校の先生たちも避難している人たちの世話に明け暮れなければならない状況の中で、授業どころではなかった。 . . . 本文を読む
「阪神淡路大震災の記憶」を閉じるに当たり、今でも大切に保存している(PC保存であるが…)ひとつの寄稿文を紹介したい。
それは、1995年1月25日神戸新聞朝刊一面トップに掲載された、陳舜臣さんという台湾生まれで神戸東灘区(?)に在住の作家の「神戸よ」と題する寄稿文である。
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神戸よ
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我が愛する神戸のまちが、壊滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。 . . . 本文を読む
1995年1月23日、地震後の初出勤。
出社しても、それほど仕事に傾注できるわけではなく、周辺への挨拶、地震の話題でもちきりという状況。その際に、通勤は可能であるものの自宅に帰ると風呂が焚けないため、風呂道具持参でリュックサックで通勤し、退社時大阪市内の銭湯で一風呂浴びてから帰宅しているという話がそこかしこから聞こえてきた。
午後3時には、帰りの交通の便が気にかかるため、早々に退社させても . . . 本文を読む
1995年1月17日夕刻になり、その晩何を食べたかの記憶はない。
おそらく、当日午前中から午後にかけて、長蛇の列の中に並び、仕入れたインスタントラーメンを食べたのではないかと思う。
家内の実家から、ガスボンベを装填して使う簡易ガスコンロでお湯を沸かし、それで簡単に調理できるインスタント食品を調理し、食べたのであろうと思う。
その当日から、食料の確保、水の確保、ガスボンベの確保、といった日 . . . 本文を読む
昨日投稿時、その2の記事を呼び出し、その紙面に記述して投稿したため、上書き効果で、その記事が消滅させてしまうというミスを犯してしまった。
どのような記述したか不明な部分もあるが、再度記載しておくこととする。
1995年1月17日の朝、玄関の外に出て、周辺の状況を確認したところ、東西方向のなり日の住居については、さしたる被害もないように見受けられ、安堵した。
そのうちに、一角の若い人がコー . . . 本文を読む
1995年1月17日、その日の朝8時過ぎ、阪急、JR、阪神等の主要幹線の交通遮断状況を確認し、自宅に引き返した。
帰宅後、すぐに、白鶴美術館近くに住んでいた、当時の職場の上司宅に電話、交通遮断状況を報告し、会社を休む旨伝えた。あわせて、大阪の事務所に電話をすれども電話がつながらず、会社には連絡ができない状況であった。
記憶は定かではなくなったているが、同じ時間帯に、東京の本社に電話をか . . . 本文を読む
今日は「薮入り」。年末から年始にかけ、大掃除や掛け取り、初荷、初売りで大忙しの奉公人が16日に休みをもらって生家に帰る昔の正月休みとのことである。
しかし、記憶に鮮明に残っているのは、1995年1月17日5時46分の阪神淡路大震災のことである。
多くの人たちの命を一瞬にして奪い、また、多くの人たちに悲痛な苦悩を与えた、あの阪神淡路大震災の発生から、今日で満12年が経過しようとしている。
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