ウェザーコック風見鶏(VOICE FROM KOBE)

風の向くまま、気の向くままに……

なぜ日本の環境教育は上手く行かないのか

2007-11-07 17:02:26 | 地球環境


 日経ECOLOMY(-環境+経済+私-)のコラムコーナー11月2日付記事であるが、トヨタ白川郷自然学校校長、日本環境教育フォーラム常務理事を務める稲本正氏が、「日本の環境教育」に関する記事を投稿している。
 記事では、「日本の環境教育の遅れ」を指摘し、欧州等との比較対照を行なっている。

 稲本氏によると、「環境問題を解決するには、大きく分けて3つの方法がある」とのこと。具体的には、
○環境を良くするための「法的規制」
○環境を良くするための「技術革新」
○環境を良くするための「意識改革」
で、この3つの方法の中で、一番大切な原動力は人々の「意識改革」である、としている。

 確かに「法規制」には自ずと限界があり、「技術」は人が有効に使ってはじめて効果を発揮する。従って、「意識改革」がもっとも大事で、その「意識改革」を促すのが「教育の役割」ということになるのだと考える。
 稲本氏ご自身は、「日本環境教育フォーラムの理事を務めているが、残念ながら日本における環境教育はなかなか上手く進行していない」と感じているとのことである。
 欧米の現状の部分は参考になると考えられ、記事を引用する。

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 記事引用
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○論理的発想で環境に取り組むヨーロッパ
 
(環境問題に積極的に取り組むアンゲラ・メルケル・ドイツ首相)

 環境問題がなぜ今日のように重大な局面に陥ったのかは、ご承知の通り、産業革命以降に急発展した化石資源文明が爛熟気味になったからだ。特に地球温暖化を巡る二酸化炭素(CO2)の問題は、地球表面のバランスを地下から崩し始め、人類が地中に封じ込められていたC(炭素)をひたすらO2(酸素)と化合させたことに起因する。

 一方、産業革命はデカルト、ニュートンらによる近代合理主義に端を発している。また、彼らの近代思想はキリスト教と表裏一体の関係にあることが知られている。そして、キリスト教には「懺悔」そして「免罪符」という概念がある。

 この構造をよく理解してみると、キリスト教圏であるヨーロッパでは、産業革命から化石資源文明へと社会が発展し、そして今日の環境破壊に結びついたプロセスを、論理的・歴史的に受け止め、 “『懺悔』する必要がある”と考えた。そして、“せめて『免罪符』ぐらいは負わなくてはならない”との結論に達するのである。

 少々乱暴で短絡的な言い方にをすると、このような精神構造に基づきヨーロッパでは「地球の環境問題は我々が招いた。我々が環境を配慮した行動をとらなければ地球は危ない」と論理的に理解することから始め、何らかの具体的行動を即座に始めることができたのではないか。また自分が行動をとる余力がない場合でも、「免罪符」の意味から寄付ぐらいは積極的に取り組んでいると理解することができる。

 一方、同じキリスト教圏でもアメリカは、環境問題で今一歩ヨーロッパから後れを取っている。アメリカは同じ概念を根本に持ちながらも、産業革命から化石資源文明の発展、そして現代に至る過程で、「大自然の開拓」という要素が加わり、しかもその功績によって“豊かな実り”を最も受け取った。そしてその結果、世界最大の経済大国に発展したわけで、ブッシュ大統領をはじめ、化石資源文明にいまだに大いなる幻想を持ち続けていて、環境に対して反省する意識はまだまだ薄い。

○「理屈」が通らない日本の難しさ

 では、特に日本の環境問題の難しさは、どこにあるのだろう?

 日本は、江戸時代まではそれこそ「自然との共生において世界一のモデル」、つまり「緑の環境立国」の典型であった。それが明治維新以降、多神教を背景にした儒教と仏教が衰退し、ヨーロッパの近代合理主義の技術面が表面的に流入してきた。一部の人はキリスト教を受け入れ、一部の人は本当の合理主義とは何かを深く理解した。しかし、多くの人は合理主義の本質は理解せぬままキリスト教的「懺悔」「免罪符」の概念を持たず、それは今日もほとんど変わらない。

 したがって日本では、特に環境への取り組みにおいては「理屈ではわかりますけどね…」と、口先では理解を示すが具体的行動には結びつくことは少なく、実態は「平然と拒否」するに等しい姿勢がまかり通っている。 … この姿勢が通用しているがゆえに、日本では時として理論的帰結が社会的合意に至らず、解決策を実行に移せないことがある。

 日本の環境教育も、この論理的思考が欠けたまま進められているところに問題がある。たとえば日本には「腑に落ちる」という言葉がある。 … 環境教育においても、日本では理屈よりも「腑に落ちる環境教育」というものを求めがちだ。逆にいえば、「腑に落ちない」限り、論理的に説明できても行動に移せないことになる。

 ならば、いかなる時に日本人は「腑に落ちる」のか?それは「知・情・意」のすべてが、ある基準値を越えた時である。… 日本の環境教育のあり方を語る上でのキーワードだと考えている。次回のコラムでは、日本の環境教育の現状とともに、それが上手く進まない背景にある独特の思考回路について詳しくお伝えしたい。
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 ヨーロッパの人たちの論理構造及び認識、それと日本人の文化の流れ精神構造を比較対照しているところが面白い。
 また、そこまで遡らないと、教育問題もいい方向に進んでいかないのかもしれない。。。
 Written by Tatsuro Satoh on 7th NOV., 2007


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