茨城県は「第4の被災地」といわれる。東日本大震災で大きな被害が出た岩手、宮城、福島の東北3県に次ぐ被災地という意味だ。茨城県で震災取材を続け、北茨城市で出会ったのは被災者による地域コミュニティーだった。被災地への国や自治体の手厚い支援は当然のことだが、やはり東北3県との温度差を感じた。同市ではそんな乏しい支援を吹き飛ばすように、被災者が肩を寄せ合い、足元を見つめ、踏ん張り、互いに助け合っていた。行政の甘えは許されない。しかし、その姿は住民主体の震災復興の先進モデルになると思った。
◇住民主体の復興、芽吹き
茨城県内の死者・行方不明者は25人で、東北3県と比べて数百倍の開きがあるが、一部損壊も含めた建物の被害棟数は22万8233棟で宮城、福島に次いで全国3位、道路損壊は307カ所で千葉県、宮城県に次ぐ(警察庁調べ、5月23日現在)。文化財の被害数は182件と全国で最も多かった(文部科学省調べ、5月17日現在)。県単位では東北3県と茨城県の被害の差は歴然としている。しかし、市町村単位では「もっと支援の手が差し伸べられてもよいのに」と感じることが多く北茨城市もそうだった。
その高台の雇用促進住宅の集会所では週4回「サロン」が開かれている。雇用促進住宅の3棟(120戸)には市内と福島県から約100世帯が入居し、サロンは有志57人による住民組織「北茨城あすなろ会」が運営している。「頼りになったのは親戚より近くに住む他人さま」と参加者は言う。毎回、女性を中心に10人程度が集まり、お茶を飲みながら会話する。たまたま抽選で同じ団地を引き当てたという縁だが被災体験を共有し冗談や笑い声も飛び交う。市内は津波で住宅188戸が全壊、1282戸が半壊した(5月25日現在)。浸水は725戸(床上562戸、床下163戸)に及んだ。サロンを運営するのも利用するのもそうした被災者たちだ。
4月からはサロンで食事も出し始めた。これも住民のアイデアだ。1人暮らしのお年寄りの男性向けに総菜や軽食を低料金で出す。サロン責任者の伊藤晴江さん(51)は「ご近所に支えられてここまでやってこられた。生かされた命なのだから、次は支える側に回りたい」と話す。
団地や民間アパートなどで避難生活を送るこうした被災者は市内に約900人いる。仮設住宅も10戸建設したが、市は既存住宅の借り上げを優先した。「震災当初は全国的にプレハブ資材が不足していた。福島や三陸の被害を目の当たりにし、そちらに使ってもらうことにした」(豊田稔市長)というのが理由だ。
ただ、借り上げ中心だと困ったことが起きた。仮設住宅とは異なり、団地などで暮らす被災者は目立たず、支援の手がほとんど届かなかったのだ。物資は不十分で、衣類が20〜30着しかない時もあった。団地の中で、もらえる人ともらえない人ができ、不公平にならないように小口の支援物資は断らざるをえない局面もあったという。
◇少ない支援の中、支え合う「場」に
あすなろ会の副会長、古茂田かつ江さん(66)が震災直後の生活を振り返る。「おしょうゆもみそも服も、何もなかった。困った時はお隣に相談すると、持っている人が『ハイハイ』って言って、すぐ持ってきてくれた」。支援は少ない。しかし、生活必需品などの温かい貸し借りをきっかけに近所付き合いは次第に深まっていった。そして、将来の生活への不安、子どもの学校のことなどを互いに語り合った。「何でも話ができ、安心することができた」と話す女性もいた。余震におびえ、不眠に悩まされていたが、仲間ができて睡眠薬なしで眠れるようになったという。
昨年6月に会の形になり、インターネット上にホームページを開いたり、会報を発行したりするうちに、住民同士の絆は一層強まった。夏にはみんなで草刈りをしたり、夏祭りも開いた。「命が助かったことには意味があるはず。ここでは孤独死は出さない」と会員らは口をそろえる。壊れた自宅を再建し、団地を出て行ったものの、「第2の古里」としてサロンに通う人もいる。
市が3月に策定した計画では津波被害の大きかった3地区は復興を見据えたまちづくりに力を注ぐ。外部や行政の支援は必要だが、住民が自ら主体的に動き復興を進めていくことも求められるだろう。
全国にはいまなお避難生活を送る人がたくさんいる。そこで培われた温かく、強いつながりやたくましさが地域復興の大きな原動力になっている。「地域力」とも呼べる力が、震災という逆境から芽を出し、育っているのを心強く感じている。