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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

私の終戦体験(その3)

2013-08-18 13:50:42 |  私の終戦体験

本稿は『私の終戦体験(その2)』ー2013-08-17 投稿分ーの続編である。

引揚げ(所謂、遣送)の開始を待つ日々;
 その頃はどこの邦人家庭でも、生活の為に商売を始めたり満人商店に雇われたりしてその日その日を食い繋いでいた。大人も子供も、豆腐・タバコ・酒・南京豆等を仕入れて街頭で売り歩いていたが、 大抵は所謂武士の商法で成功したとは思えない。
 家財道具や衣料品や寝具を持ち出して街頭やマーケットで売り歩くことが元手要らずの商売で確実だった。この商売は掛け声が「誰(すい)要(よう)」と呼び歩くので、『誰要(すいよう)』と呼ばれた。しかし時には、巧妙な満人たちの集団ひったくりにあって丸損になるリスクはあった。
 私もかっぱらいに合い、見事に委託販売の酒を一本やられたことがあった。ただ旨く行ったときご褒美の駄賃を貰う。それで屋台で買食いをする一刻はまさにワンダー・ランドだった。買い食いのお目当ては玉蜀黍の春巻きのチェン餅(ピン)と豆腐湯(トーフータン)だった。
 妹と敷布を売り歩いていたときに、満人街深く誘い込まれて危うく誘拐されそうになったことがある。機転を利かせ上手く逃げおおせたが、相手はしつこくどこまでも追ってきた。日本人の子供は当時高く売れたようだ。もし脱出に失敗していたら一体どうなっていたのかと、後年日本で残留孤児の親探し番組をテレビで見ながら、よくそう思った。 

 当時は親の生活の苦労は子供のゆえにもうひとつピンと感じていなかったと思う。だが物価の値上がりが酷く食料は終戦時の3―40倍に達し、親達はさぞかし大変だったと思う。安東の終戦後は物流の点で閉鎖的な環境にあったうえに、他地域からの避難民の流入で人口が一挙に倍増していた。経済はハイパーインフレーションの状態だった。

安東の物価状況;(満蒙同胞援護会編;満蒙終戦史より) 
終戦により統制から自由販売となったので一時物価は下落傾向となった。しかし八路軍の進駐以来内戦のため交通杜絶し孤立経済となる。逐次物価が上昇した。21年3月中共軍は軍票1円を、旧満州国2円の比率で発行し、5月に満州国幣の使用を禁止した。然し軍票(東北流通券)が対満州国幣比0.8と下落して、その為物価も上昇し米穀の大量購入には通用しなくなった。その後軍票の増刷、旧満州国幣の使用禁止、国共内戦の激化によって物価は高騰の一途を辿った。一般の生活は困難の度を深めるばかりだった。工場・鉱山の生産部門は殆ど復活せず、邦人の生活は逼塞の状態となった。 

安東における物価推移

 

 

 

 

 

終戦当時

昭和20年

11月

昭和21年

3月

昭和21年

6月

昭和21年

8月

白米1斤

1

5

12

25

40

高粱 ”

0.5

1.5

5

13

20

粟  ”

0.8

3

10

17

30

包米 ”

0.5

2

7

15

25

味噌 ”

1.5

3

5

10

20

醤油 1升

5

10

20

40

60

塩  1斤

1

3

10

15

30

牛肉 ”

10

30

40

60

80

馬鈴薯

0.3

1.5

4.5

10

5

甘藷 

3

5

7

10

7

大根

0.2

0.5

0.4

2

1

木炭

1

1.5

1

3.5

7

マッチ小箱

3

5

10

13

20

ローソク1本

1

2

5

10

20

当時日本人一人の一月の生活費は1千円見当といわれた。                 

当時の家財の売値;(満蒙終戦史より)         
背広服   一着   1,000-3,000円
布 団    一重    1,000-2,000円
セル着物  一枚   1,000-2,000円
ワイシャツ  一枚  100-200円    

 さて国府軍が進駐した地域では、昭和21年春頃から日本人の引揚げ所謂「遣送」が開始された。
中共地区の引揚げについては7月になってもはっきりした見通しはなく、日本人は国府地区の遣送開始の噂を聞いて焦躁に駆られた。各地で6月頃から自力で次々と瀋陽に流入しつつあった。

 安東でも安奉線の経路を徒歩などで奉天方面に脱出する動きが出てきた。
 しかし米国の働きかけで国共の停戦に係る所謂三人委員会が成立したことが発端となり、中共地区からの邦人引揚が、愈々実現されることになった。それが決ったのは8月下旬だった。
 安東地区からの自主的な陸路脱出は余りにも希望者が殺到し、6月末に一旦は禁止されていた。正式遣送は9月になってようやく実現した。
 悪名高い民主連盟員は国府軍の邦人受入機関である転運指揮所近くまで、ぴったり同行した。八路軍の最前線に近い安奉線の下馬塘から先約6キロは鉄道が破壊されていた。徒歩で行かざるを得ないが、民主連盟はわざと一般道路を通行させなかった。摩天嶺などの難所の山岳地帯を数日かけて、喘ぎ喘ぎ登攀させ、堪りかねてなけなしの荷物を放り出すように仕向けた。文字通り同胞から絞れるだけ搾り取ったのだ。こういう非人間的態度はまさに民主連盟員なるものの人間性の欠如と弾劾せざるを得ないのだが、その背景には「日本人をすべて同一水準のどん底生活に陥れ、それで新民主主義思想なるものを注ぎ込んで新しい意識に目覚めさせる。」といった彼等一流の教条的な理屈があったようだ。

 こうして9月中に10数回にわたって安東から遣送列車が瀋陽に向かった。しかし国共内戦が激化して9月末にはこの陸路も不可能となり、その後は、漁船船団により鴨緑江を下り、朝鮮経由で帰国する ルートに切り換えられた。

『私の終戦体験(その3)』(了)


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