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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

私の終戦体験(その4)

2013-08-18 15:11:33 |  私の終戦体験

本稿は『私の終戦体験(その3)-2013-08-18 投稿分-の続編・最終編である。

中共地区からの正式遣送の開始;(満蒙終戦史より)
 故国日本では在満邦人の引揚げについて種々の外交努力を続けていたが、ソ連の非協力に国共内戦勃発の事情が加わり困難な状況が続いた。
 米国がイニシアテイブを取って成立した所謂三人委員会(*)が発端となり、この延長線で21年7月末になりようやくベーカー大佐を中心とする国共両側の交渉が纏まった。そして中共軍占領下の地域から国府軍地区へ日本人を安全に引揚げさせるよう協議調整が行われた。
 (*)これは20年8月末、毛・蒋・ハーレー大使の間で国共停戦会談が行われたもの。その結果中共地区からの遣送は21年8月20日から実現する運びとなった。

  国府測では中共軍との接点のうちで長春・拉法・梅河口・本渓湖・大石橋の五か所に転運指揮所というものを設け、中共地区から送出される日本人の受入態勢を整えた。こうして21年8月から10月の間に、236、759名の日本人が転運指揮所を通じて送り出された。

中共地区からの遣走者数;
送出地区別の人員数は以下の表のとおりである。

      

8月

9月

10月

斉々哈爾

 

36,047

5,419

41,466

哈爾賓

 

92,011

6,576

98,587

牡丹江

 

5,058

21

5,079

京図線

 

31,732

5,543

37,266

通化

3,124

11,417

289

14,830

安奉線

 

4,251

28,708

32,959

大石橋以南

 

2,366

4,206

6,572

3,124

182,882

50,753

236,759

 しかしなにしろ遣送決定が急であったため、とり残された者がかなりあった。留用者・戦犯らは別として、奥地辺境の地にあり遣送のことを知らなかったか、また知らせを受けて出てきたが遣送列車に間に合わなかったのである。中共地区からの正式な集団遣送はこの時が最初でしかも最後であった。
 再び遣送が開始されたのは6年後の昭和28年春だった。それは中共紅十字会の関与によってであった。

 その間、朝鮮経由の引揚が行われた。朝鮮経由のルートはもともと闇の脱出ル-トだった。それが情勢の緊迫と共に公認されるようになった。その後、
海上経由の引揚げは民主連盟によって運営され、30隻から40隻の大船団を組んで前後3回に亘って約1万人が引揚げた。

 我家は父の徴用が解除されないで留用(八路軍の転戦に行動を共にすることを意味する)されるかと「ひやひや」していたが、最終段階に近い10月の初旬に、帰国を許されることになった。
 所持品については散々脅かされた末に厳しいチェックを受けた。金目のものは何も持ち出せない。父親のリュックには2歳の弟が納まり、母親がリュックと3歳半の妹の手をとるのと運ぶのが半々で、中学生の兄と小学生の私と妹が荷物の運び手だった。背中のリュックの中には寒さをしのぐ、若干の衣料と食料の乾パンが入っていた。それに加えて、一人3千円の紙幣が我が家の全財産だった。船賃は頭数あたり6千円という大金を払った。船団は南鮮に向う約束だったが、北鮮のさる漁港に降ろされてしまった。
 そこから2昼夜かけて38度線を歩いて越え、やっと米軍の管轄下に入り胸をなでおろした。南側で農家に分宿してやっと人間らしい食事にありつけた。私は栄養失調で黄疸に罹って、自力で起き上がるのが難しい脱力感に悩んだが、この2~3泊の休養と栄養補給で何とか回復し、旅を続けることができた。
 それから米軍の上陸用舟艇で仁川港に上陸し、朝鮮動乱の激戦地だったソウル郊外の義政府で約2週間テント生活の検疫を終え、釜山港で引揚げ船を待った。
 釜山港では民主連盟員が発見され壮絶なリンチに遭うのを見た。引揚げ援護の事務所の介入でこの男は助かった。海に投げ込まれる寸前で救出され保護されたのだ。頭から大量に出血し、顔中に幾重にも血の筋ができていた。大人達の恨みと暴力の凄まじさに震えあがったものだ。

 我々が釜山で乗った引揚げ船は「天佑丸」という誠に縁起のいい船名であった。500トンの老朽船で、博多まであと2時間というところで天運拙く難破して沈没してしまった。幸い引き潮で船が転覆する直前に我々全員がカッターで脱出した。大島という島に上陸して助かった。
 難破船からの脱出の冒険譚は、戦時中に「少年倶楽部」で読んで胸を躍らせたことがあったが、それを自ら体験したのだ。

 リンチといえば、葫芦島経由のルートで安東から引揚げた友人が同様なケースを見たという。岸壁から海に投げ込まれた途端に、ガバガバッという音を立てて鮫が飛び掛り、鮮血で海の色が見る見るうちに真っ赤に染まったそうだ。

 第一次中共政権下での、安東からの最後の引揚げは21年10月23~25日だった。
 この時の20数隻の船団の中で、最大の汽船の恵比寿丸と大連行の民主連盟員専用の1隻が沈没して、600人以上の犠牲者が出た。
 10月26日に最後の乗船者が川を下り始めたとき、撤退する八路軍が市内の要所を爆破した黒煙が街を覆ったという。同日にそれまで散々掛け声倒れに終わっていた国府軍が、今度は本当に入城した。

  安東はその翌年22年の6月に八路軍が再び奪還する。それまでの約8か月間は国府軍の勢力下に入った。

 敗戦後満州の安東で起きた状況を振り返ってつくづく悔やまれることは、日本の国の敗戦処理の拙さから見込みのない戦争を続けたことである。歴史に「もし」はないのだが、7月26日のポツダム宣言を遅滞なく受諾していれば、旧満州の戦後はかなり違った姿になったことだろう。日本政府はこともあろうに、ソ連に終戦の仲介を頼んでいた。ソ連は虎視眈々と参戦のチャンスを狙って国境に兵力を移動しつつ準備していた。ソ連は当然日本の依頼を無視して時間稼ぎをした。結局は米国による原爆の投下やソ連の参戦を招いた。 

 本稿は私の終戦体験を書くことであり、そもそも満州を略取して満州国を作ったことの歴史的評価という問題は、紙数の制約もあって触れえなかった。ここで強調したかったのは、日本人社会が初めて国家権力を失うと同時に異文化の真只中に放り出されたこと、情報収集もままならず国共内戦の戦乱をくぐり、その狭間で必死に生き延びようとする経験をしたのが、満州の戦後だったということだ。

  私達は幸運なことに一家七人が一人も欠けずに帰国できた。不幸にも戦犯として処刑された方々、虐殺されたり陵辱されたり、様々な不幸を味わった同胞は、喩えていうならば銃を与えられずに戦場に置き去りにされたのだ。最も辛い殿軍の立場を担って取り残されたようなものだった。
 不幸に合われた方々のご冥福をお祈りしたい。

『私の終戦体験(その4)』(了)

                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の終戦体験(その3)

2013-08-18 13:50:42 |  私の終戦体験

本稿は『私の終戦体験(その2)』ー2013-08-17 投稿分ーの続編である。

引揚げ(所謂、遣送)の開始を待つ日々;
 その頃はどこの邦人家庭でも、生活の為に商売を始めたり満人商店に雇われたりしてその日その日を食い繋いでいた。大人も子供も、豆腐・タバコ・酒・南京豆等を仕入れて街頭で売り歩いていたが、 大抵は所謂武士の商法で成功したとは思えない。
 家財道具や衣料品や寝具を持ち出して街頭やマーケットで売り歩くことが元手要らずの商売で確実だった。この商売は掛け声が「誰(すい)要(よう)」と呼び歩くので、『誰要(すいよう)』と呼ばれた。しかし時には、巧妙な満人たちの集団ひったくりにあって丸損になるリスクはあった。
 私もかっぱらいに合い、見事に委託販売の酒を一本やられたことがあった。ただ旨く行ったときご褒美の駄賃を貰う。それで屋台で買食いをする一刻はまさにワンダー・ランドだった。買い食いのお目当ては玉蜀黍の春巻きのチェン餅(ピン)と豆腐湯(トーフータン)だった。
 妹と敷布を売り歩いていたときに、満人街深く誘い込まれて危うく誘拐されそうになったことがある。機転を利かせ上手く逃げおおせたが、相手はしつこくどこまでも追ってきた。日本人の子供は当時高く売れたようだ。もし脱出に失敗していたら一体どうなっていたのかと、後年日本で残留孤児の親探し番組をテレビで見ながら、よくそう思った。 

 当時は親の生活の苦労は子供のゆえにもうひとつピンと感じていなかったと思う。だが物価の値上がりが酷く食料は終戦時の3―40倍に達し、親達はさぞかし大変だったと思う。安東の終戦後は物流の点で閉鎖的な環境にあったうえに、他地域からの避難民の流入で人口が一挙に倍増していた。経済はハイパーインフレーションの状態だった。

安東の物価状況;(満蒙同胞援護会編;満蒙終戦史より) 
終戦により統制から自由販売となったので一時物価は下落傾向となった。しかし八路軍の進駐以来内戦のため交通杜絶し孤立経済となる。逐次物価が上昇した。21年3月中共軍は軍票1円を、旧満州国2円の比率で発行し、5月に満州国幣の使用を禁止した。然し軍票(東北流通券)が対満州国幣比0.8と下落して、その為物価も上昇し米穀の大量購入には通用しなくなった。その後軍票の増刷、旧満州国幣の使用禁止、国共内戦の激化によって物価は高騰の一途を辿った。一般の生活は困難の度を深めるばかりだった。工場・鉱山の生産部門は殆ど復活せず、邦人の生活は逼塞の状態となった。 

安東における物価推移

 

 

 

 

 

終戦当時

昭和20年

11月

昭和21年

3月

昭和21年

6月

昭和21年

8月

白米1斤

1

5

12

25

40

高粱 ”

0.5

1.5

5

13

20

粟  ”

0.8

3

10

17

30

包米 ”

0.5

2

7

15

25

味噌 ”

1.5

3

5

10

20

醤油 1升

5

10

20

40

60

塩  1斤

1

3

10

15

30

牛肉 ”

10

30

40

60

80

馬鈴薯

0.3

1.5

4.5

10

5

甘藷 

3

5

7

10

7

大根

0.2

0.5

0.4

2

1

木炭

1

1.5

1

3.5

7

マッチ小箱

3

5

10

13

20

ローソク1本

1

2

5

10

20

当時日本人一人の一月の生活費は1千円見当といわれた。                 

当時の家財の売値;(満蒙終戦史より)         
背広服   一着   1,000-3,000円
布 団    一重    1,000-2,000円
セル着物  一枚   1,000-2,000円
ワイシャツ  一枚  100-200円    

 さて国府軍が進駐した地域では、昭和21年春頃から日本人の引揚げ所謂「遣送」が開始された。
中共地区の引揚げについては7月になってもはっきりした見通しはなく、日本人は国府地区の遣送開始の噂を聞いて焦躁に駆られた。各地で6月頃から自力で次々と瀋陽に流入しつつあった。

 安東でも安奉線の経路を徒歩などで奉天方面に脱出する動きが出てきた。
 しかし米国の働きかけで国共の停戦に係る所謂三人委員会が成立したことが発端となり、中共地区からの邦人引揚が、愈々実現されることになった。それが決ったのは8月下旬だった。
 安東地区からの自主的な陸路脱出は余りにも希望者が殺到し、6月末に一旦は禁止されていた。正式遣送は9月になってようやく実現した。
 悪名高い民主連盟員は国府軍の邦人受入機関である転運指揮所近くまで、ぴったり同行した。八路軍の最前線に近い安奉線の下馬塘から先約6キロは鉄道が破壊されていた。徒歩で行かざるを得ないが、民主連盟はわざと一般道路を通行させなかった。摩天嶺などの難所の山岳地帯を数日かけて、喘ぎ喘ぎ登攀させ、堪りかねてなけなしの荷物を放り出すように仕向けた。文字通り同胞から絞れるだけ搾り取ったのだ。こういう非人間的態度はまさに民主連盟員なるものの人間性の欠如と弾劾せざるを得ないのだが、その背景には「日本人をすべて同一水準のどん底生活に陥れ、それで新民主主義思想なるものを注ぎ込んで新しい意識に目覚めさせる。」といった彼等一流の教条的な理屈があったようだ。

 こうして9月中に10数回にわたって安東から遣送列車が瀋陽に向かった。しかし国共内戦が激化して9月末にはこの陸路も不可能となり、その後は、漁船船団により鴨緑江を下り、朝鮮経由で帰国する ルートに切り換えられた。

『私の終戦体験(その3)』(了)


私の終戦体験(その2)

2013-08-17 10:20:47 |  私の終戦体験

本稿は前編『私の終戦体験(その1)2013-08-15 投稿分の続編である。

国共の争闘の巻き添えとなった邦人社会の受難; 
かくて安東には一時的に、二つの公安司令部が存在することになった。一方は治安維持会側つまり国府系で、もう一方は八路側の司令部である。治安維持会は、市の中心の日本人街と満人街の境界地点に陣取っていた。他方で八路軍は満人街の外れの警察学校で表面は鳴りを潜めていたが、着々と勢力を強化中だった。その頂点にソ連軍がいた訳だが、彼等の最大の関心事は工場施設等の運び出しだった。

 10月に入ってこの国府と共産両陣営の対立は徐々に発火点を迎えつつあった。そしてそこに否応なく邦人社会が巻き込まれていく。一方中央の首都の新京では10月初めに蒋介石が派遣した東北行営の代表団がソ連軍の総司令部と困難な折衝に入っていた。ソ連軍は12月初めには満州から撤退する約束だったのに、いろいろな口実を設けて何度も撤兵期限を引き延ばした。満州の産業を共同で経営しようなどという「東北経済合作」なる難題を持ち出したりして、のらりくらりと時間稼ぎをしていた。

 国府の中央軍が東北に進駐するときの上陸地点をどこにするかという争点があったが、ソ連軍は中ソ友好条約で代替地として大連を自由港とする条項を入れたことを楯にとり、大連への受け入れを拒否した。そして代替地として営口や葫芦島を承諾したが、いろいろ妨害工作を弄して、なかなか国府軍の進駐を実現させなかった。もうひとつのソ連側の代替指定地は安東だったが、他の地点でいざ上陸となると妨害があったことや地勢上戦略的に不利である点などが加わって、(戦闘となると北上するより南下して攻めたほうが良い)その実行に踏み切れなかったようだ。               

 治安維持会側は10月にかけて、旧警察の勢力を近隣の地区から結集しようとしていた。それに旧日本兵や学生なども勧誘して参加させ「愛国先鋒団」という部隊を組織し、市内の日本人街の中心にある協和会館に駐屯させていた。                                               

 ソ連側は工場施設の撤去をほぼ完了しつつあったが、治安維持会が八路軍への対抗上、ソ連軍の保護要請を行ったのに対し実情把握のため下士官を派遣してきた。偶々その時期に旧満州国軍の王光部隊が参加してきた。この王光部隊は隊長が王光という人物で、水豊ダムの高射砲陣地にいた満州国軍の部隊だったが、終戦の日に叛乱を起こして逃亡した。人数は約100名で、警察や除隊兵等の寄せ集めなどと違って正規の訓練を受け、一応武器弾薬を装備した実戦部隊だ。これが治安維持会の「愛国先鋒団」に合流した訳である。

 カーキ色の軍服の一団が協和会館の方に進軍していくのを私は目撃したことがある。10月のある霧の深い朝だったが、帽子に青天白日旗のマークをつけているので、国府軍の正規軍が来たのかと思った。これは「愛国先鋒団」に合流する王光部隊だった。

 この頃既に日本人会は内部対立によって行き詰まり、改組されていた。当初は旧官僚の大物や民間の長老を中心に組織されていたのが一新された。そして働き盛りの若手の官僚や第二世代の民間人たちにバトンタッチがなされていた。この第二次日本人会は名称を変えて日本人補導事務所となった。その立場はソ連・中共・国府の各勢力から等距離を保ち中立を守るというものだった。ところが第一次日本人会の渉外担当であったY氏や補導事務所の旧協和会の関係者たちが突出し、国府側の機関と活発に連絡を取り合っていた。その人たちは日本人社会を守ろうとする情熱や行動力には富んでいる反面政治的に旗幟鮮明で、しかも国府軍の安東進駐に過度の期待を抱く情勢判断をしていた。そして除隊兵を愛国先鋒団に送り込み、国府側と協力して八路軍への攻撃を画策していた。その立場の表明と行動は補導事務所の公式的方針から逸脱し、また組織の内外の境界線が曖昧だった。それが、後日の悲劇を生む原因になった。

 治安維持会は旧満州国軍が合流してきたことを喜ぶ一方で、この王光部隊の身許が割れてソ連軍の武装解除を受けることを恐れていた。治安維持会はこの虎の子の戦力の温存を図るため、一刻の猶予も許せない切羽詰った選択をした。まず王光部隊を安東の西南20キロ郊外の三股流へ移動させることにした。愛国先鋒団は後から追っかけて合流することになった。そこで八路軍迎撃の陣地を構築する意図だった。除隊兵らのいくつかのグループにも従前から声が掛っていた。いろいろなルートを通じ東北行営の責任者熊式輝のお墨付きを示す布帛のペナントが手交されていた。海軍の河崎部隊もY氏らの働きかけによりこの集結に参加した。この河崎部隊は香港から長躯陸路を移動中だった。目的地は朝鮮の鎮海基地だった。その途上で終戦を迎え安東に辿り着いていた。 

 この頃日本の旧軍隊の兵達はいろいろな行動をとった。大本営の関東軍司令官への訓令や天皇の玉音放送もあったが、おとなしくソ連軍の武装解除を受けてシベリアに送られた兵達ばかりではなかったのである。部隊によっては山に籠り抗戦を続けたり、国共内戦の一方の陣営に積極的に身を投じたりして、自己の存在証明を何かに託そうとした人たちも少なからず居た。一度は死を覚悟して戦線に向っていた若者達は敗戦によって心の寄る辺を失っていた。いわば大地に虚無の裂け目が広がり、真空の時間が襲ってきたのだ。後世になってどうしてそんなことをしたのかと振り返るのは簡単だが、情報が錯綜する中での彼等の行動を冷たく切って捨ててしまうのは、心情において難しいことである。                 

 ところでこうした治安維持会側の動きは、まだ組織化以前の混沌状態にあった訳だが、かなり早い段階で八路側やソ連側に筒抜けになっていたようだ。スパイ活動は彼等のお手の物だった。八路軍東満司令部は国府側の勢力がビルドアップされる前にこれを壊滅するべく、二個師の師団を組織して岫巌、大孤山の2方面から安東の西方に向わせつつあった。

 ソ連側は実に老獪だった。河崎部隊は協和会館に集結し2台のトラックに分乗して現場に向ったが、その時そのトラックを運転していたのはなんとロスケだった。河崎隊長等ごく少数が気付き不審を抱いたのだが、下車する際のドサクサに紛れてしまった。そもそもこの部隊が参加した経緯には、日本人会の一部の人達の巧妙な作戦に乗せられて日本人社会の総意による切なる頼みだと信じてしまうような状況があった。

 翌10月25日早朝の深い霧の中で、三股流に集結しつつあった反共勢力に対して八路軍が先制攻撃を仕掛けてきた。治安維持会側はまだ戦闘体勢が整わないまま分断され、兵員数が劣勢のうえ戦闘準備も十分でなかった為に、短時間の戦闘で大敗を喫してしまう。そして四散霧消して捕虜になったり、安東市内に逃げ帰ったりしたのである。戦闘には治安維持会側が三百名ぐらい、八路軍側は千数百名余が参加したといわれる。中共側発表では、治安維持会側死傷者数は30名(と意外に少ない)、捕虜は200名だ。河崎部隊は総勢60名弱の内15名が帰ってこなかった。八路軍部隊には旧日本軍兵士が多数いたといわれ、(約300名という)期せずして同胞が相戦う悲劇となったわけである。そうすると一体全体、彼等は何の為に戦ったのであろうか?

 当時私はこの事件の詳細は知る由もなかった。河崎隊長から事件の経緯はもとより、彼の帰国までの一部始終をヒアリングして再現したものだ。ただ当時としては、後日小学校の体育担当の河内という先生が、郊外の八路軍との戦闘に参加して戦死したらしいとの噂を聞いた。河内先生は海軍出身で無口な軍人タイプの人だった。相撲で生徒が後退すると竹刀を持って尻を容赦なく叩くというような敢闘精神で固まった怖い先生だった。戦闘の際は八路軍に真正面から突込んで蜂の巣のように銃弾を浴びて戦死したと伝えられていた。もしその銃弾が八路軍の旧日本兵が放ったものだったとしたら、この河内先生の死は何に殉じたものだったのだろう。

 当時のこの武装蜂起計画は邦人社会にはかなり漏れていたらしく、安東中学の生徒の志願が多くそれを断るのに苦労した河崎氏は語っていた。河内先生は海軍出身だったよしみで、河崎部隊と行動を共にすることが許されたそうだ。

 この戦闘は三股流という場所で行われたので、「三股流事件」と呼ばれている。私は小説としてこの事件のことを書いた。戦闘場面と川崎部隊長に関する部分は実録である。  

    満州・安東戦後物語 『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊

  この戦闘を契機にして11月2日に安東に八路軍政府が成立することになった。この頃からソ連軍に代わり、八路軍兵士の菜っ葉色の軍服が町に溢れるようになった。ソ連軍司令部は一応翌22年2月まで形ばかり存続するが、その後朝鮮に引揚げて完全に姿を消すことになる。

八路軍政府の成立; 
11月2日:東満自治軍第3支隊はソ連軍の協力の下に“愛国先峰団”、旧憲兵団、旧警察局などの武装解除を行い、治安維持会は解体される。警察局と东坎子監獄を接収管理し、旧政権を接収する。 「安東省民主政府」は正式に成立を宣言、高崇民(鳳城県出身)が主席に就任し、劉瀾波(岫厳県出身)が副主席に就任する。同時に安東省公安局が成立し呂其恩(荘河県出身)が局長、孫已泰が副局長に就任する。                        
11月5日:「安東市民主政府」が成立する。呂其恩が市長、張雪軒(寛甸県出身)が副市長に就任する。市政府は秘書、民政、財政、実業、教育の5部所を設立する。                

八路軍施政下の状況; 
八路軍が政権についてからも地下に潜った国府側機関と一部邦人筋が呼応し連携して、八路の政権を転覆しようとする暗闘が続いた。国府側に協力する邦人筋の思惑は、やがて中央軍が入城してくることを期待して中央軍を迎える際に邦人社会に有利な状況を作りたいということにあった。また一方には、政権に就いた八路軍が入城当初とは態度を一変させ日本人社会に厳しい仕打ちをし始めた事情があった為とも言える。

 八路軍公安局は11月の半ばから旧時代の官民の要人を逮捕して、単なる政治ショウともいえる人民裁判にかけ次々と処刑した。また精算運動と称する財産の没収活動を行った。担(たん)白(ぱい)運動という彼等独特な「旧悪摘発」のプレッシャーをかけたりした。こういう一連の動きが益々日本人の反発を呼ぶことになった。  

 私自身の体験としては、日本人戦犯の引き回しを市内の目抜き通りで目撃したことがある。厳寒のなかを、馬車に引かせた大車(たあちょ)の車上で、白いシャツ姿がまるで死装束そのもので、後ろ手に縛られて居た。白いプラカードに墨で黒々と罪状などが大書してあった。近所に居た警察官が銃殺され、その亡骸を隣組で引き取りに行ったこともあった

 特に12月10日、旧安東省長の曹承宗氏と、次長の渡辺蘭治氏が市内を引き回された末、鴨緑江岸の処刑場で惨殺された。現場には邦人の目撃者もいてその立派な死に向かう態度と殺戮方法の惨たらしさが伝えられ、邦人社会に大きな衝撃を与えた。                            

八路軍による処刑; 
12月17日:小松省総務科長、下西警防科長、後藤市長、牛丸地方法院長、吉村監察官、小林教学官、千葉特高科長,越知鉄路特高科長、警察官多数が銃殺された。                                                                                       21年にも:村上税関長、東黄署長、税捐局長、浜崎巌元電業支店長、伊藤牡丹江木材社長らが、民衆裁判に掛けられて銃殺された。戦犯容疑者として収監された者は、約2,500名、処刑者は約300名といわれている。                

 その一方で八路軍によって医療関係や産業関係の技術者の徴用が行われた。私の父は省公署に勤務していたが、下級官吏だったので逮捕は免れた。その代わりに建築の設計技師として八路軍に徴用されることになった。その関係で兄が軍営のタバコ工場に、私が軍営の靴下工場に下働きとして通うことになった。父親の給料が家計を賄うには足りないのでそれを補填する意味か、案外子供も人質として預かるということだったのかも知れない。父親の勤務先は地元編成の自治軍ではなく山東から来た正規軍で、安東高女の校舎に駐屯していた。

 邦人社会が最も恐れていた公安関係は地元編成の自治軍の担当だった。大和小学校、安東警察署、郊外にあった東坎子刑務所、その後の民主連盟の屯所などがその拠点だった。

 日本人補導事務所は八路軍の指導で、日本民衆解放同盟と称する俄共産主義者の組織と合体させられた。この俄共産主義者は「赤かぶ」あるいは「赤大根」といわれ、赤いのは上辺だけで正体は国民党の内通者だった。この組織は12月13日に一網打尽に逮捕される破目になる。結局この八路軍の指導は、国民党内通者の炙り出し策だった。

 その後に登場したのが民主連盟だ。マルクス・レーニン解放学校という、延安からきた野坂参三氏が岡野進という偽名を使い指導していたといわれる。そこで教育された旧日本兵がメンバーだった。彼等は何故か黒い軍服を着用していたので「黒服」と呼ばれていた。この連中は教条的な俄共産主義者で、八路軍と邦人社会の接点を担った。彼らは邦人に対し情け容赦のない仕打ちを行い、邦人の恨みを買っていた。

 21年の1月に、安東市民に深刻な打撃を与える事件が起きた。「五番通事件」だ。国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が、1月17日に市場通で八路軍の劉日僑工作班長を殺害した。犯人はお隣の五番通に逃げ込んだのが悲劇の発端だ。五番通4丁目の割烹旅館「みのり」前の路上に死体が転がっていたそうで、「みのり」の経営者や従業員も協和会館に引き立てられた。偶々当善隣協会の古海建一氏が新京から安東に避難していてみのりに滞在中だった。避難民は引き立てられないで済んだそうだ。犯人達がすぐには見つからなかったので呂司令官が憤激して、報復として五番通に居住する日本人家族約500世帯、約2千名の即時立ち退きを命じ、厳しい取調べを行った。この人達はまず協和会館に収容され、更に犯人が逃げ込んだ場所近くの居住者が競馬場に移されて4日間監禁された。厳寒の最中ゆえ幼児や老人などに25名の死者を出したといわれる。そのうえ五番通住民は自分の住居へ戻ることも許されず、住居や家財を全部失った。

 実はこの事件は当時安東の日本人が認識していたよりもっと広がりのある事件だった。年末から年初にかけて、北方に約2百キロ離れた通化においても、旧日本軍除隊兵と国府側機関による八路軍襲撃計画が胎動していた。通化では最初の叛乱予定日が元日だったようだが、準備不足で延期された。次に予定されたのが安東の事件の日と同じ1月17日だ。それも、国府側の都合か軍資金の都合かで  再度延期されて、結局旧正月の2月3日に事件が勃発した。この有名な通化事件はこの種の事件では最大のものだった。

 通化では確証がない被疑者を含む千数百人が処刑或いは虐殺されたといわれるが、このときも八路側には事前に情報が筒抜けになっていたようだ。 この事件は八路正規軍側が、当時のさばっていた朝鮮系自治軍の一派を潰そうとしてその失政を咎めるために起こした勢力争いで、同時に国府側をも炙り出す作戦だったとする見方がある。これと安東の事件には繋がりがあったようだ。安東でもこれに呼応して、同じ時期の年末近くに国民党の機関と、旧日本兵による八路軍攻撃計画が進行中だった。それを察知した八路側の急襲によって多数の関係者が逮捕されたのだ。その一連の追跡が、五番通事件を生んだのだ。これらの事件には常に二重スパイが暗躍した。当協会の飯田忠雄氏は、林飛行部隊を八路軍に仲介した功績で八路軍から一旦は免罪符を得て鳳凰城にいたが、通化事件の関連容疑で 逮捕されて暫く収監されたという。

安東における年末年初の国府側による八路軍襲撃計画; 
12月28日:国民党中央先遣軍の第3師副長李文奇、政治部主任王匯川、参謀長関学慶等が300余名を動員し、安東保安司令部と公安局に潜む特務厖林と宋旭東等と内外呼応して暴動を起こし八路政権を転覆することを企図する。安東公安局が出撃し、関学慶など43名を捕獲する。(八路側記録では逮捕は1月15日に行われたとある)
4月5日から7日まで、3小隊が関学慶などの20名の犯人を処刑する。                                                     
1月17日: 国民党遼寧省党部は安東の軍事指導員程玉琨、汪志博等を派遣し、武装解除された日本軍人300余名を組織して東北野戦安東先遣軍が成立したが、安東省の公安局により検挙されて、 程玉琨、汪志博が逮捕される。
1月下旬になると奉天では八路軍が国府軍の攻勢により撤退を余儀なくされる。もともと八路軍の満洲戦略は遼西・遼東回廊の確保だった。初期の段階では米軍装備を持つ国府軍が圧倒的に優位で、 八路軍はこれと正面から対決するのを避けていた。                                 
2月には本渓湖・宮の原・橋頭方面の戦闘が開始され、毎日安東に負傷兵が送られてきた。

 安東ではこの頃から国府軍の増大する圧力が変化を起こしており、軍営の工場も北方に移転し始めた。私が通っていた靴下工場も年末にかけて北方に移転することになり、私は放免されるものと思ったが、供給処(こんけいすう)と呼ばれる兵站部に転属となった。今度は立派な住込みの身分で、子供とはいえ一応八路軍の人間となった訳である。前述の五番通事件については、八路軍の中で生活していたので知りえなかった。

 ここでちょっと八路軍での生活をご紹介しておこう。入隊した最初の頃は兵卒達と相部屋で寝泊りしていた。彼等は寝る時は丸裸で綿布団に包まる。私が自宅から持参した寝巻きを着ると、風邪を引く因だと寄って集って丸裸にする。将校連中は私が「お稚児さん」にされる危険ありと心配して呉れたのか、玄関脇の個室を与えてくれた。これは私にとって万々歳だった。実は消灯時に或る兵士に付き纏われて閉口していたからだ。日本の天孫降臨の神話の主が本当は中国からはるばる旅をして行ったのだというような、子供にとって俄には信じ難い話を延々と寝物語で語るのだ。内容はともかく、そのねっとり絡み付いてくるような態度が堪らなく嫌だった

 ところで話は変わって、八路軍の居候としての我が任務は部屋の掃除や使い走りだった。被服工場との間を往来して軍服の生地や製品の搬送をした。被服工場といっても、日本人家庭にミシンを沢山並べて日本人の奥様達が働いているのだ。将校のお供をして彼の情婦の家に生地を運んだことがある。愛の小部屋に入れるという又とない機会を得た。そこはむせ返るように濃密な脂粉の香りが漂って、紅い緞子で飾られていた。お目当ての娘が芝居に出てくるような厚化粧で「しな」を作ったり、お目付け役の母親が精一杯のお追従笑いをしたりするのを覚めた目で観察し、人生勉強の初歩を始めたものだ。 

 八路軍の居心地は概して快適で、言葉が通じないと漢字を書いて結構複雑な自己主張をしては彼等に一目も二目も置かせていた。数人の満人の小核(しょうはい)達が部隊に居候しており、よく倉庫荒らしをして外で売捌くという犯罪で、営倉入りになっていた。私は専ら営倉入りの彼等に、食事の差入れをする役回りだった。

 兵站部といっても当時の八路軍は装備が貧弱で、その主体はソ連軍が日本軍から取上げた武器などだった。在庫の管理もなく三八式や九九式の小銃だとか、たまにはどこから伝来してきたのかチェコ銃等が倉庫に雑然と置いてあった。将校の拳銃は紅い房が付いて木製のサックに入ったモーゼル拳銃が主流だった。偶々軽機関銃でも入ろうものなら大騒ぎで、兵站部は街なかにあるにも拘らず、庭で大音響をさせて試射に興じる始末だった。

 部隊での主食は玉蜀黍の粉を練って蒸かした饅頭だ。米の飯を食べたのは5ヶ月余のうち1回か2回で、何かの記念日に部隊で豚を処分して大宴会になった。豚は自分等の排泄物の活用策の一環として、飼っていたものだ。彼等の軍紀はあまり厳しさが感じられず階級章もない世界だったが、さすがに正規軍らしく、一般の市民に対してはいわゆる三大規律・八項注意が徹底しているようで、買い物や民間のサービスにも料金をきちんと払っていた。                 

 3月末から4月末にかけて、安奉線の本渓湖や連京線の奉天の南の遼陽などが、国府軍の手に落ちて、その影響で安東の情勢も厳しさを増してきた。その最たるものは、八路軍の従軍看護婦や男子労役への強制徴用だ。これは邦人社会に数々の悲劇を齎した。その数は男子1万名女子5千名に達し、前線で戦死したり病死したり或いは取り残された家族が生活困難になるなど数々の苦しみを生んだのだ。徴用後安東に帰還したのは約半数に過ぎず、行き先で逃げ出した人も多かったようだ。

 私が居た兵站部は山の手に近い満鉄病院の正門に通ずる戎橋通にあった。一人の若い看護婦徴用者が逃げ出してきて、目の前で追手の兵士に捕まって引き摺られていくのを目撃した。トラックに満載され前線に向う若い日本女性達の一人だ。彼女たちは大和撫子らしく涙を流しながらも、整斉と合唱をして旅立っていった。 「真白き富士の気高さを-----」という一節であったが、今も忘れられない歌である。またこの道を血だらけで呻く傷病兵を載せて、連日担架の列が延々と通る。これも悲惨な光景だった。担架の運び役も概ね日本人徴用者だった。 

 そうこうするうちに、私の所属する兵站部が北方へ移動する日がやってきた。ある若い兵隊が、平素私に辛く当たる男だったのだが、涙を流して別れを告げて去って行った。この兵士は私に向って空砲をぶっ放した男だ。風邪を理由に八路軍の日課である朝の駆け足をサボろうとしたとき、無理やりに引っ張り出そうとしたあげくに威嚇のつもりで撃ったのだ。空砲とはいえ桃色の硬紙を固めた模擬の弾丸で、寝ていた布団に穴が開いて肝を冷やした。ヒヤッとしたのはこの時ばかりでなく、このときの外に2度もあった。将校が拳銃の掃除の最中に暴発し、弾丸が至近距離を通過して目の前が熱くなったのだ。               

 八路軍兵站部をお役ご免になってやっと家族の元に帰れると思ったら、そうは問屋が卸さなかった。日本労農学校というところへぶち込まれてしまった。余程その筋には見込まれていたのかも知れない。この学校は延安の日本人共産党細胞が北満の青年開拓団をいわば引浚って、共産教育を施しながら安東迄南下してきていた。6番通6丁目の割烹旅館『すみれ』を接収し寄宿舎兼学校として使用していた。従って生徒は皆17~8歳の開拓団の若者なので、小学生の私はまたもや態のいい居候であり、教務部付ボーイとして置いて貰った訳だ。この学校は今になって察するに、黒服の民主連盟員を養成するマルクス・レーニン解放学校とは別系統で、相互の連絡も関係もないように思えた。

 7月になると全般的に戦況が更に悪化してきたようで、この日本労農学校の生徒達も徐々に蜜命を帯びて姿を消していく気配が窺われた。この全員が北満からきた筈だと思っていた生徒の中に、Tという顔見知りの地元安東中学の生徒がいた。ある日物陰に呼ばれ彼の素性を口止めされた。彼はスパイとして潜入していたのかもしれない。当時の情勢の油断のできない複雑怪奇な一面を見たような気がしたものだ。

 折しも小学校が「民主小学校」なる呼称で再開されるという情報が流れたので、これ幸いとそれを理由にこの学校から放免して貰った。先様も八路軍からの依頼なので断りきれず受け入れたものの、実際のところ持て余していたに相違ないと思う。そのとき既に兄も解放軍の靴下工場から「解放」されて戻っていて、久し振りに家族7人が揃った。

『私の終戦体験(その2)』(了)


私の終戦体験(その1)

2013-08-15 21:37:46 |  私の終戦体験

本稿は9年前に国際善隣協会フォーラムで行った講演に手を加え、再録したものである。字数が多いので分割し(その1)とした。                        

  何しろ小学校5年から6年生にかけての子供の経験である。やはり視野に限界はある。                                          旧満州には約20年前の対外解放直後に2回、ここ3年で5回足を運んだ。それからいろいろ文献や資料を読み、当時の自分を取り巻く状況を調査した。つまり子供として生きたあの時代を、大人になって追体験したものということになろうか。従って、自分の目で見たことや体験したことが主軸になっているが、読んだり聞いたりしたことで補完し、私が住んでいた旧安東という場所で、終戦から帰国迄に何が起きたかを語ることになる。

 私の一家は終戦の1年2ヵ月後昭和21年10月5日に朝鮮との国境を流れる鴨緑江で漁船に乗り込んだ。3~40隻の船団を組んで荒海を渡り北朝鮮に上陸した。北緯38度線を歩いて越境した。昭和15年末に渡満したときは小学校に上がる直前のことでその際は僅か一昼夜の行程だった。しかし帰国の旅は、船や徒歩、あるいは鉄道などで約40日間にも及んだ。

終戦後の1年有余の期間には、他の地域で邦人が直面したのと共通する状況もあった。ただ安東という場所には、歴史的な経緯からくる特別な事情が あり、地理的要因も加わったので、対ソ連の戦闘地域となった北満と比べると、状況の酷さは遙かにましなものだったように思われる。

安東の歴史的事情とは;

イ)第一に安東は昔から現地人が住んでいた街ではなく、そもそも最初から日本人が作った街だったということである。

ロ)それと工業地帯が市の外れにあったことだ。進駐したソ連兵の主力はそちらに向った。

郊外の2~30キロ離れた大東港の建設で山東苦力が一時は数万人もいた。終戦間際に「物動計画」が破綻して資材の供給が途絶えたために解雇されて、山東に帰郷していたことも幸運だった。つまり  暴徒になる予備軍が居なかったということだ。これらの要因が相俟って、満州の他地域で見られたような大規模な暴民の略奪や虐殺などがなかったものと考えられる。               

終戦当日の状況;

 8月15日は夏休中だった。私は学校に行き校庭の砂場で空中転回の練習をしていた。正午にラジオで重大発表があるというので急いで帰宅する。近所の大人たちが群がっていた。私の母親が顔を上気させて、目を泣き腫らしていたのを目撃する。 

 翌8月16日全校生徒が集められて、校長の訓辞を聞くことになる。広い校庭があるのに、わざわざ校舎の脇の菜園に整列させられた。苦労して作った菜園を踏んでもいいというので、何か大変なことが起きつつあると感じた。

 大人たちはうすうす戦争の雲行きが怪しいと感じてはいたように思うが、敗戦という事実は大方の日本人にとってまさに青天の霹靂だった。ところが、 満人や朝鮮人(ここでははすべて当時の呼び方にならう)の間ではとっくに情報が行き渡っていたようだ。翌日8月16日になると、いつの間に用意して  いたのか満人街には数多く青天白日旗が立てられ、朝鮮人の一団がトラックに太極旗を押し立てて、気勢を上げながら町中を走り回った。我々は突然の事態の急変に対してただ狼狽するだけだった。本当に迂闊な国民だった。我々が特別ぼんやりしていたというより、日本国の体制そのものが満人や朝鮮人から滑稽にみえるような迂闊さを生んでいたという意味である。

私の父は安東省の省公署に勤めていたのだが、昼間から泥酔して帰宅した。朝鮮人をぶった切ると怒鳴って日本刀を持ち出そうとした。家族全員で取り縋って必死に止めた。本当は酒を飲んで悲憤慷慨しておられる状況ではなかったのだ。しかし、突然信仰の対象の大伽藍が音を立てて崩れるのに直面したようなものなので、平均的日本人としては無理もないことだった。この日朝鮮人たちは川向こうの新義州の集会に参加する途中に示威行進をしていたのだ。一応事前に官憲に了解を求めてきたそうである。この期に及んで態々了解を取るというのが、いかにも安東という土地柄を示す話である。      遙か北方の東辺道では朝鮮人が邦人虐殺に走ったという。

 終戦の何ヶ月も前から、満州国崩壊を予期した事件が安東近辺でも起きていたらしい。ただ日本人だけが知らないか、或いは官憲は知っていても報道されなかったのだろう。             

終戦直前の胎動;                   
20年5月:市の郊外各地で安東抗日青年救国会が組織された。
20年6月:安東県大狐山の製油工場でストライキ発生。 
この頃、医療日本人技術者を地方に招いて将来の留用を準備するための首実検の動きあり。                                                                          

 安東にはソ連軍進入と同時に避難民が安奉線の列車で大量に流入してきた。その結果安東の日本人人口はたちまち約2倍の7万人に膨れ上がった。その対応のためまず疎開本部が設けられた。新京から派遣されてきた金沢辰夫氏らが中心になった。国際善隣協会の事務局長の金沢毅氏の父君だ。新京では税務司長をしていた。間もなく終戦になり、安東省の満人首脳を中心として治安維持会が発足した。新京での東北治安維持委員会の設立に伴い、各省や各県でもこれにならった。

 首都の新京では武部総務長官が協和会の三宅中央本部長とともに治安維持会に請われて日本人を代表して委員になった。引続き安東で日本人会が発足し疎開本部は日本人会に吸収されたが、その主目的は流入した避難民の救済事業だった。

終戦前後の動き;                                                                                       
8月12日:長春その他各地から難民の流入が始まる。以降安東を素通りして朝鮮へ向う難民もいたが約3万5千人が滞留して安東の人口は約2倍の7万名に膨れ上がった。満人街(当時の言い方)の規模は30万。難民は一時的に学校・寺院・工場などに仮収容された後に、一般家庭に分宿させる方針だった(これから寒い冬に向うという配慮)。                                                                       8月15日:疎開本部の設立。渡辺省次長、金沢辰夫氏(新京より派遣、元税務司長)。 
8月17日:日本人会発足。
8月18日:安東にて治安維持委員会発足。(委員長:曹承宗前安東省長、顧問:渡辺蘭治前省次長。
8月19日:新京にて東北地方治安維持委員会発足。委員長張慶恵元総理、副委員長蔵式毅参議。従来の満州国政府の政務一切を引き継ぐ。(日本人委員;武部総務長官、三宅協和会中央本部長)。  地方も省、県別に治安維持会を設立することになった。
 
 私の父は50歳で戦時下でも根こそぎ動員を免れたので、我家は一家7人の大家族だった。 市内の治安は当初比較的良く大規模な暴動の発生はなかったが、散発的に強盗事件が発生したので、隣組の協力で近隣ブロックの入り口に、 木製の大扉を設置した。近所で、何か怪しい動きがあると金盥を叩いて撃退する作戦だった。               

ソ連軍の進駐;                                                                                         敗戦のショックに続いて、「ロスケ」(当時のソ連兵の呼び方)がやって来るらしいという噂が街中を駆け巡った。奉天では、ソ連兵が片端から略奪をしたり婦女子に乱暴したりしているという恐ろしい話が聞こえてきた。ソ連軍の先遣部隊は予想より早く8月下旬にはやってきた。入城の日には我々市民も赤旗を持って安東駅前で歓迎行列をした。ソ連兵の隊列は意外に薄汚れていて日本人は吃驚した。若い少年兵も混じっていた。マンドリンと呼ばれていた  自動小銃が物珍しく、軍帽をチョコンと斜めにかぶるのや、白い産毛の目立つ肌だとか、高い鼻などを恐る恐る見物したものだった。満人たちはソ連兵のことを大鼻子(ターピーズ)と呼んで軽蔑していた。

ソ連軍の進駐と関東軍の武装解除; 
8月19日:先遣隊が瀋陽から進駐。
8月21日:第39軍団(バルスコフ中将麾下)の第44旅団、1個大隊入城。(27日?)駐屯司令官カルニューヒン少佐、将校70名・兵130名。安東ホテルを司令部とし、安東高女・安東中学を兵舎にあてた。ソ連軍は山の手に駐屯していた日本軍の守備隊を武装解除し、軍事管制を実施した。この地域の関東軍は岡部通少将指揮下の独立混成第79旅団(約8千名?)が、安東から草河口に展開していた。  三頭浪道の安東飛行場には若干の航空部隊がおり、水豊ダムがある拉古硝に満州国軍の高射砲部隊が駐屯していた。9月中旬に先遣部隊に続いて、本隊である工場施設の撤去部隊約1千名が進駐してきた。安東市内外の各種工場施設や水豊ダムなどの調査を行った。日本人や満人を使役して施設を撤去し貨車に積んで本国に運び始めた。主要施設は満洲軽金属と水豊ダムの発電機等である。  それから複線であった安奉線の安東と鳳凰城間を単線化して、線路を取り外して持ち帰えるということもやった。                  

鎮江山の安東神社が爆破される事件が発生;
9月17日。明らかに9月18日の満州事変の記念日を狙ったものと思われる。しかしこともあろうに日本人が疑われ多数の逮捕者が出た。ソ連兵は街にも頻繁に現れ始め、いろいろな被害が続発した。   ラジオは没収され、時計やカメラなど文明の利器は徴発された。婦女子の暴行などの事件も起きた。邦人女性は坊主頭にして、胸にさらしを巻いて堅くし、顔に鍋墨をつけて変装し身を守った。

 我が家にも突然ソ連兵士が現れて、時計や万年筆などを持っていった。私はソ連兵たちが日本女性を拉致する現場を目撃したことがある。悲鳴を上げジープの中でもがいている女性をロスケが押さえつけていた。夕暮れ時だった。ただ悪名が高かった囚人部隊は安東には来なかったようで、それがまだしも幸運だった。婦女子防衛の為に安東幼稚園にソ連兵用の慰安所が設けられた。建物正面にネオン・サインがつけられた。日本人会の苦肉の策であった。我家の便所の窓からこのネオンが夜な夜な見えていた。生まれて初めて見る悩ましい光景だった。この頃、市の歓楽街に近い三番通にソ連兵相手のキャバレー『安寧飯店』が開業した。  

国府側の動向; 
治安維持会はその政治的立場を迅速かつ明確に表明した。「満州国は中国の領土に編入されて蒋介石政権の支配下となる。ソ連軍の占領は一時的であり、やがて重慶から派遣される国民党の接収委員によって継承される。国府側中央軍の到着迄、ソ連軍と折衝を行ってできるだけ治安を維持する」ということだった。「その名は体を表す」である。                                                             旧満州国の満人首脳たちは、当然情勢をある程度見通して対応策を考えていたようだ。また一部の人は重慶との間に前広に連絡を取っていたようだ。 

当時この治安維持会の立場と存在は別として、国府軍の存在は一般邦人にとって「そのうちやって来る」と言われながらも、最も見え難い部分であった。邦人社会はソ連軍にラヂオなどの通信手段を没収され、正に霧の中を手探りしていた。

 蒋介石はいち早くラヂオ放送を通じて満州の一般日本人の保護を宣言した。これが口伝えに邦人の間に流されて、国府軍待望の機運が醸成されていった。蒋介石の戦略は満州国の遺産を日本の民間人の協力を得て何とか無傷のまま取り込みたいということだったと思われるのだが、これが不安に喘ぐ日本人社会の心を捉えていた。

安東における国民党機関;
9月1日:蒋介石は熊(ユウ)式輝を東北方面管轄主任に任命し、旧東三省を遼寧、遼北、安東、吉林、松江、合江、黒龍江、嫩江、興安九省とハルビン、大連両直轄市に区分し、九省主席と両市市長を任命して公表する。これにより “東北主権”の大儀名分を明らかにした。
9月4日:高惜氷を安東省主席に任命する。(実際には安東には姿を現さない。)
9月10日:国民党遼寧省党部主任委員李光忱は、張鴻逹を安東に派遣し、国民党部--安東県執行委員会を組織し成立させ、張鴻逹は書記長となる。(当時李鳳鳴とか趙少佐とかいう人物が登場するが彼等の偽名であろう。)

共産側・八路軍の動向; 
 ソ連兵の主力は市内から離れた工業地帯のほうに専念し、また主要工場施設や鉄道線路の撤去が進行するにつれて、市内でソ連兵の姿は徐々に少なくなっていった。一方東北人民自治軍は八路軍と呼ばれていたが、実際には9月下旬に安東に進駐してきていた。丁度その日は丁度安東神社の爆破の日と一致する。ソ連軍は終戦直前に締結された国府側との中ソ友好条約を楯に、八路軍の市内侵入を許さなかった。表向き中ソ条約による国府側への配慮を示し、施設撤去の舞台裏を中国側の目に晒したくなかったことや、更には国共の衝突が起きて撤去作業が遅れるのを嫌った為と思われる。

 八路軍には二つの系統があった。地元の潜伏分子が中心となって組織された現地部隊と、華北から進入してきた正規の八路軍だ。これは東北各地において共通した状況だった。乱世の常というか、地元編成の自治軍の中には偽八路軍と呼ばれて中共中央が公認しないような連中も居たし、地域によっては相互間の戦闘すら起こった。安東では地元編成の部隊がまず進出してきました。呂其恩とか孫已泰という人物を中心とする部隊だ。呂其恩は荘河という大連と安東の中間地点にある街の出身で、孫已泰は古くから共産党地下組織で活躍した人物だ。続いて正規の八路軍部隊が山東半島から続々と海を渡って安東に到着した。公安関係は事情に通じた地元出身者が表面に立ち、山東出身者は背後で実権を握る体制を取っていたようだ。

安東における中共軍の体制;
9月下旬:中共側の安東市保安司令部が成立。呂其恩が司令となり、鄒(しゅ)大鵬が政治委員、張奎が参謀長となる。
10月3日:山東東部軍管区渤海軍分区の参謀長王奎先が独立大隊を引率して安東に進駐する。ほどなく安東保安司令部と合体し東満人民自治軍直属の第3支隊となる。王奎先が司令、呂其恩が政治委員となる。 
10月5日:冀熱遼軍管区の第16軍分区・21旅団、第61団、第62団が、鳳城に進駐する。鳳城は中共地区となる。
10月初め:肖華の統一指揮下で山東軍管区の舞台が進駐して体制を整備する。以下略。

『私の終戦体験(その1)』(了)