ゴルフ紀行・12 -韓国でのゴルフ・「釜山港へ帰る!(もうひとつの心の故郷への旅)ー
私の人生にとって、最初の港は釜山だった。
12才の初冬、私は「引き揚げ船」で釜山港から故国日本へ向けて出航した。旧満州の安東を後にして朝鮮半島経由で帰国した時であるが、それは約40日に及ぶ困難な旅の最後の行程だった。
この出港は私を育んでくれた幼・少年期のルーツからの旅立ちだったのである。
朝鮮半島に関する私の体験は、幼・小年期における国境の町安東の生活と、敗戦後1946年に故国に引き揚げた時に通過したこの旅に始まる。
その後長い中断があった。1985年つまり今から約27年前香港に駐在していた際に、業務出張で香港からソウルを訪れる機会があった。そして1995年の夏、国際会議の為、再び10年振りにソウル
を訪れたが、その帰路に鉄道で釜山まで足をのばした。つまり敗戦時以来約50年振りに釜山の港を目の当たりにすることになったのである。
「市街地に近い所」と指定しておいたホテルは、小高い丘の上にあった。部屋に入ると、内窓のすりガラスの格子がいかにも韓国風なのにまずこころを惹かれた。私がその引き戸をさっと開けると
国際航路の貨物埠頭が突然眼下に出現して、思わず息を呑んだ。埠頭には、勾配屋根の倉庫が二列並んで居たのだが、それはまるで約50年の歳月を越えて、昔の記憶そのままの姿で目の前に蘇り、午後の陽を浴びて喧騒のさなかに佇んでいたのだ。
…………50年前に、我々安東からの引揚者の一行数百人は、 時化で到着の遅れた日本からの「引き揚げ船」を待ちながら、約10日間その埠頭の倉庫の中で生活したのであった。 …………
今、目前の埠頭には貨物船が3隻停泊しており、積荷作業が行われている。コンテナーや積荷の木箱が所狭しと置かれている。この国の戦後の発展と、釜山の貿易港としての繁栄振りが窺える
ような気がする。あの50年前の様子とは、様変わりである。
…………あの時の港は、季節が初冬であったこともあるのだろうが、いかにも寒々として、あっけらかんと静かだった。そのとき我々は、ソウルの北の議政府という町を夜行列車で発ち、翌朝
釜山に到着したのである。列車は港湾の引込線に入って転轍機の切替えのたびに大きく揺れ、大きく「ふう」と息を吐き出すようにして止まった。私は車内で何度か足を取られた。我々は有蓋の
貨物車の中から吐き出されるようにして降り立った。そして寝不足の眼をこすり、寒さとひもじさに震えながら、11月初頭の薄日さす港の朝を迎えた。……………
…………我々は敗戦の翌年の昭和21年(1946年)の10月初旬に、旧満州の安東を発ったのである。30数隻の漁船を傭船したのだが、大半はエンジンのない帆船であった。西朝鮮湾と黄海の荒波
に揉まれ散々船酔いに苦しみながら約一週間の船旅をした。昼は狭い甲板に鈴なりになって犇めき合い、夜は漁獲を一時格納する「むろ」の中で折り重なるようにして過ごした。
船団は北朝鮮の漁港に着いた。北朝鮮と南の韓国を隔てる国境線の北緯38度線に程近い場所である。我々は二昼夜をかけていくつかの丘を徒歩で越え38度線を越境した。重いリュックサックの
紐が肩に食い込んで痛い。「いったいいつになったら目的地に着けるのか」というやるせない気持からやっと開放されて、南側のとある寒村の民家に分宿することになった。十日振りぐらいに、
人間らしい食事にありついたのである。その時の白い米の飯とキムチと干し魚の味、そしてオンドルの床の暖かさは一生忘れられない記憶である。戦後食うや食わずの一年余りの生活に加えて、
船中では乾パンをかじるだけの毎日だったので、私は栄養失調で黄疸にかかって脱力感に苦しんでいた。ここでの休養と栄養補給で何とか持ち直したようである。この強行軍では、最初の野営地
の「念仏」というところで老人が一人亡くなった。
我々は、最寄りの海岸で米軍差し回しの上陸用舟艇に乗って仁川港に上陸し、そこから前述の議政府の郊外に設けられたテント村に向かった。そこで検疫のため二週間の滞在をした。…………
ホテルの窓から釜山の街を眺めていると、次から次へと思い出が沸き上がって来て、尽きることがない。
午後からタクシーをつかまえて、観光に出ることにした。街の周辺をと考えていたのに、日本語を話す運転手にうまく言いくるめられて、通度寺(トンドサ)という尼寺に連れていかれた。
近いということだったが、結局は高速道路で小一時間もかかる所だった。しかし今となってはこの運転手には感謝したい。
川幅は狭いのに水量の豊かな渓流に沿って、山間の道を車で蛇行する。深い緑の茂みが空を覆い、都会の喧騒から隔絶した隠遁の場所の雰囲気である。境内の中心にある建物は、回廊のついた
二階屋だった。屋根の甍がしなやかで優美な曲線を描いて左右に反り上がり、掃き清められた庭と手入れ良く刈り込まれた植木の群れに映えている。何軒かが連なった長屋風の平屋の僧坊には、
縦に細かい桟のついた障子戸があり、その桟の黒と地の白のコントラストが美しい。尼さんの姿は見当たらない。「静慮軒」という額の掛かった、白壁の僧坊の前を通り過ぎる。その中から庵の主
の咳払いする声が漏れて来た。………その声はしわがれ、老いている。各々の戸口には昔懐かしい舟型をした靴が一揃えずつキチンと置かれてあった。幼少の旧安東時代に見慣れた靴だ。どの靴
も爪先が部屋の方を向いているのは、世間へ背を向けているということなのか、それとも単なる習慣の相違なのだろうか。
静冽な水面を見る様な雰囲気があたりを浸している。
その底にはきっとそれぞれの人生の葛藤や重い過去を沈めているのだろうが、表面は決して波立つことがないといった風情である。心に染み入る光景であつた。
ふと、旧満州の安東の少年時代に見た、ある葛藤の光景が目に浮かんで来る。
…………近くに、朝鮮の家族の住む家があった。一族郎党が一緒に暮らしている大家族だったが、ある日その家族の凄まじいいさかいを目撃することになる。
細かい砕石を積み上げた石塀の古びた木造の門が荒々しく開いた。そして二人の男がくんづほぐれつ転がり出て来た。老人と若者であったが、白い朝鮮服に飛び散る赤い鼻血が鮮やかだった。
罵り合うその言葉の激しさと大人の暴力の凄まじさに圧倒されて膝が震えた。女たちが数人取りすがって二人をやっと分けた。すると、突然若い男の方が私を指差して何か叫んだ。女たちも一斉
にこちらを向いたが、その眼に非難の色が浮かんでいるように見えた。老人がまず私を見て、それから大声で何かたしなめるように言い返した。そしていさかいの後始末は塀の中に移った。
私はただ呆然と門の外に立ちつくした。私は子供心に、他人の家の内輪もめを無遠慮に見物したことを詰られたのだと思った。しかし彼らの遺り取りの中に何度も『イルボン……』という言葉
が飛び交った。『日本』とか『日本人』とか言っていることは漠然とは分かつても、それが何を意味するかまでは理解出来なかったのである。暫くして、若者は帽子と鞄の簡単な旅装で出て来る。
そして門の中へ深々と頭を下げ、私の方ヘは一瞥もくれず立ち去って行った。………………
今にして想像を巡らすならば、彼らのいさかいのもとは、支配者の日本人に対する身の処し方に関わる深刻な問題であったのだろうか。
……例えば反日活動への参加にはやる若者と一族の安全をおもんばかって軽挙を戒める長老の争いとか……
………敗戦の翌日の8月16日、身の廻りの状況がまさに一変した。いつのまに用意していたのか、大極旗を振りかざして大通りを練り歩く朝鮮の人々を見て我々は呆気に取られて物陰に隠れた。
我々の居る場所が無くなる。我々は一体どうなってしまうのだろう。当時まだ小学生だった私でも、想像を超えたどえらいことが起きつつあるような不安を感じた。例の、いさかいのあった家の
前を通り過ぎようとした時、あの日の老人に再び出会うことになる。あの時と変わらぬ白い朝鮮服と黒い山高帽で、長いキセルを手に悠然と立ってこちらを見ていた。
『子供はなんにも心配することはないんだよ。……』とでも言いたげなその穏やかな眼差しは、門内の庭に広げて干されていた唐辛子の鮮やかな赤い色と共に、心に焼き付けられて消えることは
ない。……………
尼寺の近くは近郷の人達にとって憩いの場所のようで、家族連れや若い男女のカップルがのんびりと散策をしている。
その時の韓国の旅で一寸意外に感じたのは、山々が緑の木々で覆われていたことだ。引揚げの時通過した半島は、季節が冬だったせいもあるのだろうが何処も禿げ山だらけで、殺伐としていた
ような印象がある。その点は釜山に来る前の週末にソウルの郊外でゴルフをした際にも痛感した。かつての勤め先の仲間との久しぶりの手合わせだった。昔の記憶とは異なり、濃い緑に覆われた
豊かな自然がありほっとしたのである。おまけにソウルでは、 7月の上旬だと言うのにやっと梅雨の始まりだった。その日は朝から酷い吹き降りだった。雨に滴る樹々が季節の恵みを満喫して、まるでてんでに狂喜して乱舞しているかのようであった。
ゴルフクラブのフロントでグリーン・フィーを現金で先払いして、やや薄暗いロッカー・ルームに入る。内部は清掃が行き届いているが、全体に質素な感じだ。ロッカーなどもすべて木製だ。
たてつけも完全でなく、押すとがたぴし揺れる。『貴重品入れは?』と尋ねたところ、係員がやって来て、これまた木製の古めかしい薬種棚のようなロッカーへと案内された。そしてその引き出しの
一つを自分の鍵でうやうやしく開けて、その中から番号のついた鍵を取り出して手渡して呉れた。ずいぶん念のいったやりかただった。
雨と風はますます酷く、日本なら当然クローズになっても不思議でない状態だ。しかし減多にない機会だからと、雨合羽に身を固めてスタート地点に向かう。韓国の人々の何組かがスタートの
順番待ちをしながらたむろしていた。彼らは豪雨などものともせず、嬉々として次々とコースに出て行く。
テイー・グラウンドにゴム製の格子が敷かれてあるのは、日本でもたまには見かけるスタイルではあるが、ご丁寧にも大小のゴム製のテイーまで備えつけて有るのは面白い。資源保護の為だと
言うがなるほどと思う。我々は三人のプレイであるが、キムさんとパクさんという若い女性のキャディがついた。記念にとカメラを向けるとくるりと背を向けられてしまった。どうやら恥ずか
しいということらしいが、真意はよく分からない。
一番ホールはやや打ち上げのタフなミドル・ホール。第一打をやっとの思いで打ったが、フェア・ウェイもラフも川のように氾濫している。ボールが水しぶきを上げる。打てども打てども前に
進まない。次のホールのテイー・グラウンドに立つ。
『10年前に出張で来た時に、韓国のゴルフ場は夜になるとフェア・ウェイにピアノ線を張り巡らすと聞いたけど、そんな形跡は全然見当たらないねぇ。北朝鮮のスパイが夜間にグライダーの
低空飛行で潜入するのを防ぐ為だって聞いたんだけど?……』と尋ねるとソウル駐在の友人たちはキョトンとしている。ところが私がまたカメラを取り出してコースを撮ろうとすると、キャディが
一斉に何か叫ぶ。『コース内では撮影禁止と言っていますよ』と友人が通訳する。やはり、国家安全上の配慮なのだろうか。…………
1985年の出張の時に懐かしい議政府を車で訪れたことを思い出す。………ソウルから北へ延びる山間の道路には、数キロ毎にコンクリートの壁が野を横切り、道路の上にはコンクリート の蓋が緊急の場合に道路を塞ぐ形で落ちて来る仕掛けになっていた。朝鮮動乱の時に北から戦車の電撃的な進入を許した、苦い経験によるものだという。この国の日常的な緊張の高さを 思い知らされるようなその当時の経験であった。 ………
……茶屋でひと体みする。よしず張りの日除けが細かい寄せ木の屋根や壁から張り出しており、いかにも土地柄を感じさせる鄙びた風情だ。ショート・ホールでテイー・ショットをしたときだ。
いきなリグリーン・キーパーが出て来て、カップの位置を変える作業をし始める。
『ここは、いつもこんな調子なんですよ』
『お客さんがコンペの途中であろうがなんであろうが、委細構わず自分のペースでどんどんやるんですから』 (笑い)
すると、キャディ達が顔を見合わせて、何かぶつぶつ言っている。
『彼女たちは、 日本語は分からないんですが、悪口を言っているのは分かるらしく、抗議しているんです』
実のところ彼女たちの仕事ぶりは極めて良く訓練されていた。重いバッグを肩にかついでいながら、客のクラブが濡れないように細かく気を遣い、ディボットやグリーン上のボール跡の修復 などもテキパキとこまめにやった。
隣のコースの林を昔懐かしい「カササギ」が飛ぶ。幼少時代丹東(旧安東)でよく見かけた鳥だ。小学唱歌『夕焼け小焼け、空の空のカササギは………』のメロデイがふと浮かぶ。
すぐ近くを進むキャディのキムさんを視野に入れながら傘をしごいて、『カッチ!(カササギ)』と叫んでみた。すると、一瞬キムさんは当惑したようなはにかみの表情を見せながら、私の傘の
中に入って来たのである。(カッチは“一緒に”と言う意味もある)私が再度カササギの方を指でさし直して『カッチ』と言うと、彼女はやっと気付いて私の肩を平手で叩いて逃げ出して行った。
後にはニンニクの匂いと化粧水の香りが仄かに残った。
午後のイン・コースになって雨が上がった。我々はキヤディたちとすっかり打ち解けて、冗談を言いあって和やかにプレイを続けた。さっきのグリーン・キーパーと又出会う。何やらキャディ
たちに命令口調でものを言っているが、その態度はとても高圧的で横柄である。
香港駐在時代の韓国バーでの経験を思い出す。
………客のお相手をする女性たちは高卒か短大卒の学歴者が多かったが、同国人のビジネスマンたちは生のブランデーを灰皿になみなみと注いで彼女らに無理にイッキ飲みをさせたり していた。日本人の駐在員たちは紳士的で優しいからと彼女らに人気があったが、こういう場所で示される男尊女卑的な傾向は韓国の方が強いのだろうか?彼女たちは日韓併合時代に 半島の人に行なっていた日本人の抑圧の数々や、民族の誇りを守る為に抵抗した人たちにまつわる数々の悲劇を繰り返し教えられている筈である。目前の日本人と「昔の日本人」をどの ように比較・判断しているのだろうかと、よく思ったものである。…………
ラウンドが終わった。暮れなずむコースをこんもりとした木立が取り囲み、グリーン廻りの植木の列が道祖神のような形に刈り込まれている。その美しさが風と雨の丘での一日のプレイを 優しく労ってくれたのである。…………
通度寺(トンドサ)の尼寺の山を降りて、麓の村の焼き肉屋に入る。鄙びた平屋のオンドルつきの小部屋で寛いだ。給仕に来たっ中年の女性の立て膝の座り方が懐かしい。
昔、安東から国境の川・鴨緑江を渡って対岸の新義州によく遊びに行ったが、迷い込んだ路地裏でまったく同じような情景を見たことを思い出す。
外へ出る頃には日は落ちて夕闇となり、鄙びた韓国の田舎の匂いがしてきた。そしてその中に身も心もとっぷりと塗り込められるような気がした。
ふと耳を澄ましてみるが、昔聞いたあの懐かしい、『ポクポクポク………』という砧をたたくような音が聞こえて来ないのが残念だ。
…………引揚げの途中、議政府のテント村で毎晩のように開いた音だ。原野の向こうに連なる禿げ山の峰々に日が落ちると、寂しいようで不思議と心の安らぐその音がきまって聞こえて きて旅愁 を誘ったのである。あれは洗い晒した布を木の棒で叩いて、しなやかにする女たちの夜なべの音だったのだろうか。…………
…………静けさに身を浸して居ると、思い出すことがまだまだある。あれは我々の乗った漁船の船団が、北の漁港に着いた時。重いリュックを背に、38度線へ向けて暗い夜道を辿り始め た我々の為に、地元の人たちが一斉に家々の上塀の外に出て、アセチレン灯のカンテラを掲げて呉れたのである。しかし同じ北の他の場所では、『日本人は通さない。通りたければ金目の 物を置いて行け』となけなしの身の回り品を供出させられたこともあった。………
人々の思いは所によりかくも違うのだろうか。それぞれの現実にはそれぞれの歴史や背景があったのであろうが。
帰途の車の中で、運転手がカセット・テープの音楽をかけた。聞こえて来たのはチョー・ヨンピルの歌う韓国民謡の『恨・五百年』の曲であった。李朝時代の圧制下における民衆の嘆きを歌った民謡である。
ホテルに戻ったが、やはりどうしても窓辺に吸い寄せられてしまう。明かりに照らし出された埠頭を窓から眺めながら時のたつのを忘れていた。外では風が強く鳴っていた。
50年前に、引き揚げの旅のさなかにその埠頭で日本人の男が同胞達からリンチを受けたシーンが瞼に浮かんで来る。
………『この男は、八路軍の手先のスパイだった奴だ。罪もない同胞の日本人を密告して、さんざん苦しめた悪党なのだ』と誰かが大声で叫んでいる。殺気立った大人たちは、竹や木の棒で男を減多打ちにして、すんでのところで海中に放り込もうとしたのである。管理事務所の係員が、血だらけで無抵抗の男をやっと救出した。男の奥さんと未だ幼い娘が管理事務所に保護されていたが、恐怖に震えて抱き合っている姿が哀れだった。……
……
……今度の旅行の直前に見た、『風の丘を越えて(原題・西便制』という題名の韓国映画のいくつかのシーンがなぜか鮮やかに蘇えってくる。韓国の伝統演唱芸能の「パンソリ」を世に絶や さず伝えようとする芸人の物語だ。芸一筋の一徹さで太鼓を教え込もうとして養子の息子に去られ、拾った孤児の娘に望みを託す父親が、旅の道すがら娘に厳しい発声の修練を強いる。 そして、こともあろうに、娘に少しずつ毒を盛って盲目にしてしまうのである。「パンソリ」の魂とも言うべき恨(ハン)の心を娘の声に植えつけようとしたのだが、娘はそうと知りつつ、父を憎もうとはしない。
『生きることは恨(ハン)を積むこと、恨(ハン)を積むことは生きることだ。お前は両親を失ったうえ、光を失った。人一倍恨が鬱積している筈だが、それが何故声に出ないのだ?』
『これからのお前は、心のシコリとなった情念(ハン)に溺れず、情念(ハン)を越える声を出して見ろ…………』
この映画の父親の言葉が、窓の側で立ち尽くす私の耳に、戸外で鳴り続ける風音のようにいつまでも響いていた。(了)