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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その4)

2013-09-08 18:03:08 | 我が故郷 満州(安東)

本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)の続編である。

8. 満洲の戦後の状況

イ. ソ連占領下で国民党勢力と共産党勢力の抗争が行なわれた

A中ソ友好同盟条約の意味するもの

 昭和20年(1945年)8月の何と終戦前日に、中ソ友好同盟条約が締結された。米国が蒋介石にヤルタ密約の存在を初めて伝えたのはヤルタ会談の4か月後の6月半ばであった。そしてソ連と交渉することを要請した。
 蒋介石は大いに不満だったが、熟慮の末にこの要請に従うことにした。
 その理由はソ連が毛沢東と手を結ぶのを恐れたからだ。しかし中国の主権を侵すヤルタ密約を簡単には承諾できず、交渉は難航した。スターリンが中国代表団に対し、間もなく中国共産党が満洲に入ってくるだろうと警告
したので、渋々妥協した。日本のポツダム宣言受諾直前に条約が締結されたのは、かかる経緯である。
 もともとヤルタ協定の内容はソ連参戦の条件だった筈だが、条約は国民党が満洲でのソ連の権益と外蒙古の独立を認めるのと引き換えに、ソ連が中国共産党を相手にしないことと、旅順・大連を除く全満洲を国民党政府
が接収することを認めるという、取引となった訳である。  

B
さて満洲を巡る蒋介石と毛沢東の戦略はどうだったか;

 
蒋介石も毛沢東も満洲を制するものが中国全体を制するという認識だった。理由は広大な沃野や資源と日本が残した産業設備やインフラの存在である。

蒋介石は;短波放送で連日呼びかけた。
「悪いのは日本の軍閥と財閥であり、一般居留民は誠実に産業設備や資材の接収に協力するならば、迫害せず保護せねばならない」

毛沢東も;終戦に先立ち、4月に以下の基本方針を発表している。
「東北4省(黒竜江、吉林、遼寧、熱河)は極めて重要だ。我々の党と、中国革命の現下と将来の道を考えると、仮に我々が現在の全ての根拠地を失っても東北さえ確保しておけば中国革命に強固な基盤ができるだろう」
 昭和12年(1937年)毛沢東の軍隊は僅か四万人程度だった。その後華北や揚子江流域の日本軍占領区を重点とし、解放区を拡大する戦略を採った。その結果昭和13年18万人、昭和15年50万人、昭和20年91万人と増強された。

C次にソ連軍の占領政策の影響と国共双方の地理的条件等の相違 

①  ソ連軍の政策;
 9月中には全満洲を占領した。その最重点戦略は、蒋政府に大連・旅順を除く満洲各地の行政権を引き渡すまでに、満洲の産業施設、資材、貴金属などの金融資産を戦利品として持ち去ることだった。彼らは当初こそ、中ソ友好同盟条約を尊重し、国府側の政府代表団を受け入れる姿勢を示したが、国府側の接収には非協力的で遅延行為を繰り返した。

②  国府側は;
 
熊式輝将軍を東北行営主任に、蒋経国を東北外交委員に任命し新京に派遣した(東北は満洲地区の呼称)。ソ連軍は東北行営の活動と影響力の行使に種々制限を加えた。軍事関係者の存在は一切許可しなかった。
 国民党の軍隊は重慶方面に押し込められて自前の大量移動手段を持たず、米軍に依存していたが、米軍の飛行機や艦船は満洲に入れない決まりだった。

③  八路軍は;
 
日本の降服後、ただちに幹部級党員や軍隊を満洲に派遣した。正規部隊は山東地方から海を越え、遼東半島方面に押し寄せてきた。北西の延安に本拠を持つ八路軍は上記のごとく華北に勢力を拡大していた。従って、満洲への進出では八路軍は断然優位な地理的条件を占めていた。

 D国府側と八路側の実働勢力と内戦; 

①  重慶政府は;
 
終戦時に旧満洲国政府の幹部と連絡を取り治安維持委員会を組織し地方の省政府もこれに倣わせた。地方の治安維持委員会に警察力や旧満洲国軍の一部を加えて国府側勢力とした。

②  八路軍は;
 
満洲各地で組織化された現地部隊と山東地方や華北地方から進駐してきた正規軍部隊からなる。現地部隊とは満洲国時代に地下に潜り活動していた共産党分子が戦後浮かび上がってきたものが中心である。八路軍は二本足で移動する。スプーンとコップと薄布団を携行するだけの軽装だったので1日40キロは楽に移動できた。当初は日本軍の武装解除の武器を当てにして丸腰だった。しかし地理的条件などで正規軍の満洲進出では、国府軍側は八路軍側に2か月も後れをとった。

③  国府正規軍は;
 
錦洲攻略によって満洲への扉をこじ開けて、一部は空輸によりやっと軍隊を送り込んだ。新京、奉天の大都市を抑えたものの、地方都市や農村地帯は八路軍が勢力を張り巡らせていた。各地の治安維持委員会が組織し
た保安隊は、八路軍現地部隊により武装解除されていた。

④  ソ連軍の方針転換;
 
ソ連軍は八路軍の浸透作戦が見事だったので、米国の反応を恐れて方針が左右される場面もあったが、次第に八路側攻勢を黙認するにいたる。ソ連は当初は延安の実力を過小評価していた嫌いがある。
 ソ連軍は戦利品輸送に手間取ったこともあり、終戦の年の駐留期限11月を再三延長した。翌年昭和21年(1946年)の4月にようやく撤退した。

⑤  満洲の国共内戦の実状;
 
国府軍は緒戦こそ近代的な装備の威力で有利に展開し八路軍を北方の臨江近辺まで追い詰めた。昭和21年(1946年)暮。しかしこの臨江作戦を分岐点として八路軍が優勢に転ずる。

その要因は;
・八路軍の巧妙な戦略(ゲリラ戦;優勢な相手には無理せず退く、敵の補給路を寸断する、相手が引けば押す)
・農村地帯では、土地解放により農民を味方につけた
・敵の投降は寛大に扱う(大部隊が投降すれば英雄扱で自軍に取り込む)
・八路軍の装備は戦闘毎に改善されていった(投降、敗軍の遺棄武器)

ロ. 邦人の遣送(引き揚げ)

 A捕虜のシベリア抑留;

 
武装解除した日本軍兵士はポツダム宣言では日本に帰国させる取り決めであった。ところがソ連軍はこれら捕虜をシベリアに連行し強制労働に従事させた。その総数65万人といわれ、その1割の6万人以上が、劣悪な環境下の労働で死亡したとされる。

 B一般邦人の遣送;

 国府軍統治地域では一般邦人の引揚が昭和21年5月から実施され始めた。米国の働きかけで、国共の停戦に係るハーレー米大使と蒋介石と毛沢東の「三人委員会」が成立した。昭和21年7月末八路軍地域から国府軍地域へ日本人引揚者を受け渡す取り決めができた。

5か所に「転運指揮所」設立。
終戦時、満洲の邦人人口は155万人だった。そのうち105万人がコロ島を経由して引き揚げた(コロ島は遼東湾の港)。転運指揮所を経由して八路軍地域から引き揚げた邦人は24万人弱。この外大連地区の邦人は大連港から他地域より遅れて昭和24年9月までに引き揚げた。23万人弱である。
 更に安東地区の邦人は鴨緑江から朝鮮経由2万弱が引き揚げている。
 満洲で戦後あるいは引揚中に不幸にして命を落とした邦人は、20数万人に上る。歴史に「もし」はないというが、ポツダム宣言が7月下旬に受諾されていたら原子爆弾もソ連参戦もなかっただろうにと、悔やまれる。

 

9. 安東の戦後 

 最後に我々が住んでいた安東の戦後について付言する。

イ.ソ連軍の安東進駐;

 ソ連軍が安東に進駐したのは9月10日だった。先遣隊の入場を市民は小旗を持って出迎えた。彼らの服装は貧相だったが、マンドリンと通称される自動小銃を抱えているのが目を引いた。日本の歩兵装備の主力は、日露戦以来の38式歩兵銃(明治38年製)と99式(昭和14年製)だった。
 日本軍の装備の遅れや、機械化力のお粗末さは昭和14年のノモンハン事件で露呈されていたにも拘わらず、軍のエリートたちは下剋上的な政治権力の争いに熱中したり、軍人勅語の精神主義を振り回したり、目の付け所が全く誤っていた。事変に関わった辻正信や服部卓四郎参謀は一旦左遷されたが、ほとぼりが冷めると栄進した。この事変の真相を秘密裏に葬ったりしたことを含めて、まさに日本陸軍の恥部ともいえる体質だった。
 安東ではソ連軍と関東軍の戦闘はなかった。安東守備隊は武装解除されて間もなく北方へ移送された。噂では、シベリアへ送られたといわれる。
 安東のソ連軍の最大の仕事は、安東軽金属アルミ工場やその他の工場施設の撤去、鴨緑江上流にある水豊ダム発電設備の一部撤去、安奉線(複線)の単線化による線路軌道の撤去などであった。
 他の地域で日本人婦女子が大量に凌辱された事件があったので、日本人会が水商売の女性に因果を含めて慰安施設を作った。心配された囚人兵は入ってこなかった。従って大量の犠牲者が出る事件はなかったものの、散発的なソ連兵による凌辱事件はあった。彼らが日本人家庭に現れて時計や万年筆等文明の利器を召し上げていくのは、進駐の当初は珍しいことではなかった。

ロ.安東の治安維持機関;

 
終戦直後に安東省政府によって治安維持委員会が組織された。省長だった曹承宗が委員長になり、省次長の渡辺蘭治が顧問となった。ソ連軍はこの治安維持委員会と日本人会を現地折衝の窓口としていた。
 国府側は高吉先を安東市長に任命したが、実際は若干名の特務機関員を治安維持委員会と協力させ、国府軍の入城までの準備にあたらせた。
 一方で八路軍の現地部隊が9月中旬に近郊へ進出してきたが、中ソ友好同盟条約の建前をソ連軍が守って、八路軍を市内には入れなかった。
 満洲事変の記念日の9月18日の前夜、日本の支配の象徴だった安東神社が何者かに爆破された。ソ連軍は日本人の撹乱だと疑った。(八路軍の仕業ではないかと見る向きもあった)

ハ.安東に於ける国共の抗争;

 
国府側と八路側の武力による小競り合いは、何件か発生する。最大の事件が三股流事件である。昭和20年10月末、安東郊外の三股流山地で発生した。ソ連軍の産業設備等の搬出がほぼ終了する頃合いであった。

 日本人会の協和会系(旧満洲国の大政翼賛会)の一部人間が国府特務機関と通じて、国府軍上陸が近いという情報に踊らされて、八路軍勢力と戦うために3百人余の戦闘部隊を動員した。旧警察や満洲国軍の残党、それに偶々安東に来ていた海軍の航空整備・通信部隊を糾合し部隊を組成中だった。
 ソ連軍と相通ずる八路側がこの情報を掴んで、西方から進軍してきた千人以上の八路正規軍が機先を制して攻撃を加えて大勝する。この勝利により安東に八路軍政権が樹立された。ソ連軍は表面中立を装って、国共の両勢力に郊外で戦わせる策略だったのである。
 八路軍には約3百人の日本人徐隊兵の志願兵がいたという。同胞が敵味方に分かれて日本人としては、何の大義もない戦闘をしたのである。まさに戦後の日本人社会の混乱と苦難を、象徴する事件であった。

(この事件は、小説『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊に書いた)

ニ.安東に於ける八路軍統治;

 
国府軍が入城するのは1年後だった。八路軍は昭和21年10月末までの約1年間安東で統治を行なう。その間曹元省長や渡辺元省次長を初めとし元官僚、警察関係者などが約3百人が人民裁判に掛けられて処刑された。人民裁判はとても裁判といえない政治ショウで被告人は終戦時の役割だけで裁かれた。余程勇気のある満洲人がいて弁護しない限り、処刑は免れえなかった。
 その後、国共内戦の激化によって、安東の邦人は様々な苦難を経験する。
 
 革命軍たる八路軍の軍紀は厳格で市民から物資を徴発する行為はなかったが、軍事的徴用は技術者の留用と共に、一般人にも厳しく実施された。 

ホ.「民主連盟員」の非人間的な邦人取締;

 
八路軍の手先となって日本人社会を管理し、戦犯の摘発や徴用を行ない、引き揚げ時の最後の瞬間まで邦人の身の回り品を絞ったのが、民主連盟という同胞の日本人の共産主義組織だった。                 (延安からきた日本人共産党員が中核分子だが、多くは俄か共産主義教育を受けた徐隊兵上がりだった)
 一般人徴用の仕事は、前線での塹壕掘り・負傷兵運搬、婦女子の看護婦、農村地帯の労役などである。邦人家庭に生活難や肉親が離れ離れになるなど様々な悲劇を生んだ。

ヘ.安東地区の引き揚げ;

 
国府軍地域で5月から内地遣送が開始された。安東地域の邦人達も焦って自力で脱出を始める。9月以降は転運指揮所経由の遣送列車が安奉線を出発した。
 出発時の荷物検査は民主連盟により苛烈に行われたばかりでなく、連山関付近の鉄道不通箇所が数キロあるのを口実として、約30キロの行程で平坦な県道を通らせなかった。そしてわざと付近の山岳地帯へ誘導した。 引揚者が僅かな身の回り品を放り出すように仕向けて、剥ぎ盗ろうとした。このような数日間の厳しい山岳行で病人や幼児や老人等に、多数の犠牲者を出した。

 国府軍地域では、兵隊の不品行はあったが、邦人の世話人達の優しさにやっと救われる気持ちになった。 10月に入ると国共の休戦は有名無実となる。転運指揮所経由の遣送は中止された。安東地区の邦人は、高い船賃を払い鴨緑江から3回に分け漁船船団を組み朝鮮経由の帰国をする。私自身の家族もこの漁船に乗った。朝鮮の近海で海難事故により多くの引揚者が犠牲になった。

 以上が安東の戦後に於ける日本人社会の状況である。鴨緑江は日清戦争・日露戦争の際に騎虎の勢いで満洲の地に渡る日本人を目撃した。その僅か50余年後に哀れな姿で故郷を目指す日本人達を、再び目撃することになった

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(了)


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