―その4マニラでのゴルフ・南海の憂愁一
フィリッピンのマニラには、香港に駐在していた当時何回か出張した。今から27年も前のことである。昭和60年の11月だったが、たまたま現地での滞在が週末に掛かった。或る商社の
支店長のすすめでゴルフをする機会を得た。
早朝、マカティ地区のホテルを出発する。朝靄に差し込む光の筋が美しい。
車はほどなく高級住宅地のフォルベス・パークに所在しているマニラ・ゴルフ・アンド・カントリークラブに滑り込んだ。
クラブ・ハウスはバンガロー風で、風通しの良いテラスがコースに向かって開いている。11月といっても常夏の地なので、辺りは豊かな緑に覆われている。何処かで草木を燃やしているらしく独特な鄙びた匂いが鼻孔を浸して来た。インテリアは篠製の衝立やテーブルとチェアーで、いかにも南国の雰囲気である。
スタート前に、コーヒーをゆっくり楽しみながら支店長の話に耳を傾ける。
『マニラの治安もひと頃よりは大分良くなりました。マルコスの号令一下でクリーン・アップ作戦というのをやったのが効を奏したようです』
『もっとも、随分手荒な遣り方をするのです。ジプニー(小型トラックの荷台に幌を付けた大衆バス)でホールド・アップが横行したものですから、私服警官を乗り込ませて片端から
強盗をその場で射殺する作戦をやったのです。ときには、バスの乗客が巻き添えを喰って死傷者がでることもあるのに、政府は平気なのですよ。新聞に批判が出ることは出ますが、結局は運が悪かったということで済んでしまうのでしょうかねぇ』
と朝っぱらから度胆を抜かれるような話である。…………そうだ、十数年まえに木材の取引に絡んだ怨恨で、邦人商社の支店長がゴルフの帰りに射殺されたのはこのマニラだった。……と思い出す。
『でも治安が良くなったといってもねぇ。気を許すと、とんでもないことになりますよ………』
『今年の夏休みに息子が東京からやって来たのですが、空港で何者かに粒致されましてねぇ、大騒ざしましたよ』
『後で判った話ですが、私が一寸用を足して居る隙に息子が空港内の待合ホールに出て来てウロウロして居ると誰かに名前を呼ばれたそうです。それで随いて行ってしまったのですね。大方荷物の名札でも素早く読まれたのでしょう。迎えの車が来ていると言われたのだそうです……』
『さあそれからが大変でした。車の中で何人かの屈強な男達に囲まれ、人気の無い場所まで連れて行かれた末にホールド・アップです。息子の所持金は僅か数千円でした。その賊たちは拍子抜けしたのでしょうか、別段暴行されるでもなくベル・エア地区の自宅の近くまで送って呉れたそうです』
『あちこち連絡した末に私が自宅へ駆けつけました。なんと息子の奴は私の心配をよそに悠々とソフアにふんぞり返って、新聞を読んでいましてねぇ。私はただもう呆れ返って怒鳴りつけて遣りましたよ』
『でも危険や社会的不公正が横行する中で、この国の人たちは結構したたかに生きていますよ。表と裏を適当に使い分けながらねぇ』
さあ、余り暑くならない内にと席を立つ。ロビーの壁にスコア・カードが麗々しく飾って有るのが目に止まる。大きくて闊達な字体の数字に続いて フェルディナンド・マルコスの署名が読める。大統領のスコア・カードだ。殆どパー・プレイに近い成績である。
『これ、誤魔化し無しの数字なのでしょうねぇ』と思わず失礼なことを言ってしまう。
『いや、大統領はゴルフに限らず運動神経は抜祥だそうですよ』支店長は真顔である。
1番ホールはパー4だ。グリーンの手前が抉れていて、直前にクリークが有る。
第一打は一寸緊張したせいか悪い癖が出てスライス。ボールは大きく弧を描いて右の木立ヘと飛んで行く。私に付いたキャディが舌打ちをする。こちらは少々むっとしてその顔を見る。まだ子供だが精悍な顔つきをしている。
『へたくそ』とその顔が言っている。
『ユア ヒップ トウ スロー』
『?…………』
じれったいと思ったのか、やおらアイアンを一本抜き出してひと振りする。子供ながら見事なスイングである。引き続いてこちらのスイングの真似をして見せる。要すれば腰の動きが
緩慢過ぎる、体重の移動が無さ過ぎる、と言いたいらしい。支店長はニヤニヤして見ていたが、何やらタガログ語でキヤディを叱りつけた。
古労の末やっとの思いで林を脱出したが、第三打はトップしてクリークの中へ突入する。私のキャディはますます不機嫌になって仏頂面をしている。
『ここのキャディの運中は自分が付いたマスターを競馬の馬に見立てて賭けをよくやるのですよ。だから自分の旦那がミス・ショットをしないようにと真剣そのものなのです。
運中は今日もきっとやっているに違いない、と思いますよ』と支店長はケラケラ笑う。
『でも時々いいことも有りますよ。確かにラフへ深く打ち込んでしまった筈のボールがフェア・ウェイに出ていたり、バンカーに入ったと思ったボールが打ち易い場所に飛び出ていたりすることがあるのです』
『彼らはお互いに相手のキャディに気付かれないように秘術を尽くしてやるのです。裸足の足の裏にボールを挟んで歩きながら運ぶなんて、信じられないようなことを平気でやります。
2番ホールはやや打ち上げのショート・ホールだ。テイー・グラウンドからは、旗の先が見えるだけである。
『このホールは要注意なのですよ。うっかりすると、打ったボールが皆ホール・イン・ワンになっちゃいますからね』
要すれば、キャディたちの相棒がグリーンの向こう側に潜んでいて、飛んで来たボールを素早くカップの中にねじ込んで客がグリーンに登って来る前に一目散に退散してしまうと言うのである。そうして置いて、何となく肺に落ちない客から体よくチップをせしめる算段なのだそうである。
キャディたちは我々の会話に聞き耳を立てている風であるが、素知らぬ振りをしている。
テイー・グラウンドの近くで、私のキヤディがアイアン・クラブをおもちゃにしている。
クラブ・ヘッドをうんと開いて、ボールを殆ど垂直に打ち上げる芸当を苦もなくやって見せる。
先ず支店長がティー・ショットを打つ。当たりは決して悪くないが、ボールはグリーンの右手に飛んでいった。とすると、『ノット・ホール・イン・ワン』と支店長が辺りに響くような大音声で叫ぶではないか。
………成程と私は感心してしまった。そうやって機先を制し、いわれなきホール・イン・ワンを防止するのかと。……
我々はキャディたちに一矢報いることが出来て、顔を見合わせて大笑いした。
それにしても、何処の世界にショート・ホールでティー・ショットをして自らわざわざホール・イン・ワンでないなど大声で叫ばないといけない場所が有ろうか。考えてみると、これは過剰防衛なのかなと後ろめたくなるところではあった。
空を見上げると入道雲がニョキニョキと発達して盛り上がって居る。その先の地平線に近い空は、黒く淀んでいて雨が架外近いのかと思う。果たせるかな数ホールも行かない内に、辺りは急に暗くなって来て大粒の雨が落ちて来た。我々は亭々と枝張りのいい大きな樹の下へ慌てて駆け込んだ。
息を弾ませながらふと何気なく上を見上げて、私はアッと小さい声を出してしまう。樹の枝という枝に、鈴なりに無数の烏が羽を寄せ合って宿って居る。私の駐在する香港の成る場所で見る光景とそっくりで、つい香港を思い出してしまった。
香港のセントラル地区のほぼ中央に銅像広場がある。何時の頃か日曜日になるとそこがフィリッピンの女性たちで一杯に埋め尽くされるようになった。香港にフィリッピンからメイドとして出稼ぎに来ている女性が数万人にも達し、 日曜日には教会に礼拝に行った後一斉に広場に繰り出して来るのであった。彼女らは三々五々群れをなしてお喋りに興じているのだが、まるで鳥たちが肩を寄せ合って囀る姿に似ていた。
しかも、その広場に通ずる道路の傍らに枝を広げた大樹が有った。そこには実際によく鳥の群れが枝もたわわに止まって囀っていたものである。
彼女らは一見楽しそうに振る舞って居るようだが、それぞれに故郷に貧しさや色々な事情を抱えているのだということを聞いているだけに、一種独特の哀愁が漂って来るのであった。
かく言う私の家でも、 フィリッピン人のメイドを雇っていた。ビジネス上のパーテイでも夫婦同伴のことが多く、夜問子供を置いて外出をするので必要に迫られたのだ。ひと昔前と違って香港も豊かになったせいか、中国人にはメイドの成り手がなくなった。 もっぱらその需要を彼女らが満たしていたのである。
わが家のメイドのオーレリヤ嬢は、18~9才で高校卒ということであったが、雇い始めのころは姉と称する年嵩の女を応援に連れて来て、色々と細かい要求を突きつけて辟易させられた。彼女も暫くはホーム・シックから抜け出せない様子だった。故郷の母親からの手紙を手にして台所の片隅で涙を拭いていて、いかにも頼りなさそうで哀れであった。
通り雨は案外早く上がり、又青空が戻って蒸し暑い陽気となった。
私はその日のゴルフの調子は最悪で、散々の成績であった。もし支店長の言うように、キヤディたちが我々のスコアに乗っかって賭をして居たらどうなったか、私に付いたキャディは恐らくキャディ・フィーのまるごとか半分かを分捕られたに違いなかった。
私のキャディはと見ると、こころなしか沈んでいるようで元気がない。気の毒になって、物陰に呼んでそっとチップを渡した。すると彼はそれまで見せたことのなかった無邪気な少年の笑顔を見せて走り去った。
ホテルに戻って手早く荷物を纏めてドライブに出る。午後一杯かけて郊外を巡った。マニラ湾を右手に見ながら、海岸のロハス大通りを空港に向けてひた走る。
前夜訪れた歓楽街に程近い、マビニ通りでのことがふと脳裏に浮かぶ。日本人・相手のクラブだが、ホステスたちが客のリクエストに応えて色々な歌を競い合う。リクエストの殆どが
日本の演歌なのであるが、彼女達は実に情感豊かに歌うのであった。
小柄で褐色の細身の身体を全身唄にして、手や指先が雪の降りしきる北回の女の悲しみを演じる。フィリッピンの人々は一般的に音楽的才能に恵まれていることは間違いないにしても、素朴で美しくそして何故か哀しさが漂う彼女たちを見ていると、心の深いところに有るものが何なのかを考えさせられてしまうのであった。
夕日が今まさに落ちんとして地平線に近い雲に隠れる。辺りは空気までが茜色に染まり、海と空が一つに溶けてしまった。
辺りには、車木を焼くようなあの鄙びた匂いが漂う。その匂いを胸一杯に吸い込んで、マニラに別れを告げた。(了)