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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

私のイスラム体験とイスラム理解(その1)

2013-08-24 22:28:48 | イスラム体験と理解

 本稿は2008年10月30日半導体関係の技術者の研究会(実装技術研究会)の例会で行ったもので、メンバーは東大・大阪大・防衛大の研究者の他日本電気等大企業の技術部門の担当者だ。最近中東各国との往来や取引が増えてきたのでイスラム圏の人たちとどう付き合えばよいのかという問題意識が出てきたそうだ。
 その時の話の文体を替えて、再録する。

 そもそも技術畑で仕事をしていて、しかも日ごろイスラム文化との接触がない人たちに、約40分の短い時間でイスラムを分かり易く説明するという難しい課題だった。しかも知的レベルの高い人達ばかりなので内容的水準はあまり落とせないのが二重の難題だった。
 私の体験の紹介は私のイラン経験が中心になったが、イスラムの時代的変遷はイスラム全体を睨んだものである。制約条件の厳しいテーマだが、諸賢の批判を仰ぎたいと思う。

1 イスラムと旨く付き合うとは、イスラムを生んだ風土と民族の特質を理解すること; 

 私はかつてイランのホメイニ革命の際にイランに3年半駐在した。イスラム人口のある国々にはこの他9カ国を訪れているが、イラン駐在の3年半が最も濃い体験である。
 主催者からの注文は「イスラムと巧く付き合う方法」を話すようにということだ。それは詰まるところ、イスラムを生んだ風土とそこに住んでいる人々の特質を正しく理解することに尽きると思う。しかしこれはそう簡単なことではない。

 まず私の体験の中で象徴的なシーンを紹介する。以下「体験」の記述には★を付す。

★  私が初めてイランを見たのは飛行機の上からで夜明けの風景だった。広大なイラン高原が眼下に広がる。乾いた山や谷の褶曲が黒々と続いていて、まるで地球の腸が露出して干からびたような眺めだ。それがイランという国の第一印象である。

★  もう一つの場面として、恐らく皆さんもご存知かも知れない。サウディ・アラビアを舞台にした映画『アラビアのローレンス』の冒頭のシーンである。
 周囲は見渡す限り灼熱の砂漠だ。視界を遮るものは何もない。太陽がぎらぎらと照るばかりだ。井戸があり男が水を汲み出そうとしている。地平から黒い点が急速に近づいてくる。それは、ラクダに乗った見張り番だった。問答無用の一発の銃声が響いて、水を盗もうとした男はその場で射殺されてしまったのだ。

 これはアラビアのしかも映画の中のシーンだが、私が駐在していたイランのテヘランでも郊外にいけば、これと同じような砂漠(というよりは乾いた土の原野即ち土漠)の風景が展開していた。つまり乾燥と、荒々しさと、情け容赦のない苛烈さが、あちらの世界の特質だ。
 イスラム教はこの様な乾燥地帯の風土の中で生まれ、拡大していった訳だ。
 人々は男性的で粗野な自然の中で生きている。それに比べると、我々の住む東アジアの環境は女性的で優しい自然である。 

2 最初にイスラム教を理解するためにその本質的な部分についてお話しする。

 端的な特色を強調するなら、イスラムが乾燥地帯に生きる人々の文化だということである。乾燥地帯に住むのは遊牧民だ。この地域の遊牧民の文化とイスラムの文化の特色はほぼ重なり合っている。我々農耕民族のムラ社会的文化とは全く異質のものである。                 

 イスラム教はご存知の通りアラビア半島で7世紀の初めに誕生した。半島の内陸部は殆ど無人の世界で灼熱の砂漠地帯だ。人は沿岸地方のオアシスなどに住んでいた。
 近い血縁の者が群がって生活する部族社会を構成していた。部族は内部的には割合民主的で団結しているが、他の部族とは基本的には常に対立し相争う関係である。しかも信仰の面では、各部族がてんでに固有の神々を信じ(つまり多神教)、しかも偶像を崇拝する世界だった。         

 当時の二大文明圏であったペルシャ帝国とビザンチン帝国が争って、東西交易路が閉ざされてしまう。お蔭で新たに未開のアラビア半島を経由する通商路が通じ、経済的に潤う。ところが利益の争奪戦が始まり部族間の抗争は却って激化する。これがアラビア半島にイスラム教が生まれた時代的背景だった。 

 イスラムの預言者のマホメットはクライシュ族の一員だった。メッカに定着した商人部族の名門だが、マホメットは幼くして父を失い貧乏だったので、無学・文盲だったといわれている。それにも拘らず、彼は真面目で正直者として人望があった。彼は部族間抗争の状況を憂いながらよく洞窟にこもって瞑想をしていた。
 ある日、突然アッラーの神から啓示を受ける。マホメットは以後約20年間に亘りアッラーの啓示を受け続けて、その都度周囲の信者達に口述をする。これがイスラム教の聖典であるコーランの成り立ちである。

 マホメットは所謂教祖ではない。絶対者のアッラーの言葉を忠実に伝えるという使命を帯びた単なる預言者だ(預言とは言葉を預かるという意味である)。マホメットが無学文盲であることは周知の事実だったので、この教えの言葉が彼の頭の中から生まれたのではなくて、本当にアッラーの神がマホメットを通して下した教えであることを、人々が信じる理由となった。
 アッラーがマホメットに下した啓示とは「すべての人間は平等であり、富の分配も公平にして、争いのない共同社会を作るように」ということだった。そして、この共同社会のことをウンマと呼んだ。
 この点にイスラム信仰の根本的な前提がある。つまりマホメット自身も含めて、信者はすべて神の下に平等な存在であり、信者一人一人が神(アッラー)と向き合い、契約を結ぶということである。

 アラビアの砂漠の民は風土の影響から極めて直線指向的であって、このような単純明快な論理しか受け付けない。したがってイスラムには中間の聖職者の存在も不要である。実際には2百年後イスラム法学者が生まれたが、それは時代の変化とともにイスラム法の解釈が複雑化した為だった。
 アラビアの民はまた厳しい現実重視の民である。目に見える現実の利益がない限り、物事を信じない。預言者のマホメットは統領の才覚に長けていたので、その指導によって版図を拡大する。その結果、通商路を確保してイスラム教徒は確実に豊かになっていく。信じることで実際にご利益があるので、イスラム共同体であるウンマは反対勢力を凌いでいき、まずアラビア半島を制覇した。 

 イスラム教徒の要件は、6つのことを信じて5つの行いを為すことに集約される。この要件を「6信5行」という。アッラーを唯一の神と信じるのは最も重要なことである。人は神の奴隷であり、絶対的帰依の関係である。それとこの世には終末があり、最後の審判で神に忠実な者だけが天国に行けること、またすべての事象は神が予定し給うことであって、人智は及び難いものだと信じる。

 教徒の行為の義務はこのような信仰の告白をすること、日に5回メッカの方角を向いて礼拝をすること、貧しい者へ喜捨をすること、年に一度の断食月の日中は一切飲食をしないこと、そして一生に一度は聖地メッカへ巡礼をすることである。
 イスラム教が広汎に伝播したのは、教義が単純明快だったのが第一の要因だったが、アラビア語のコーランの詠唱の美しさも無視できない要因だといわれる。(「コーラン」は声に出して唄うという意味である)。                 

★アラビア語の詠唱は実に荘重である。マレーシアでコーランの詠唱大会のTV中継を見たことがある。もちろん意味は分からないが、その崇高な美しさは印象的だった。

★美しいといえば、アザーンの詠唱も然りである。日に5回の礼拝のうち夜明け前と夕暮れ時にはモスクの塔の拡声器から肉声の詠唱で呼びかけ、信者を祈りへと誘うのがアザーンである。
 トルコでカッパドキア地方に旅をした。早朝5時前に突然耳元で大音響がした。吃驚してベッドから転げ落ちた。ホテルの隣にモスクの塔があって、そのラッパ形の拡声器が私の部屋の窓際に接して向いていて、アザーンが鳴り響いたのだった。                   

3 イランのイスラム社会で生活して予想外の事態に遭遇したが、その具体的体験の話

イ.他人との関係はまず交渉から開始する;(それほど彼らは交渉に命をかける) 

★イランでの最初の晩にタフな経験をした。飛行機が延着し真夜中に到着したが、高層のロイヤルガーデンス・ホテルを予約しておいたのに、渡り廊下を歩かされてお隣の粗末なシーナ・ホテルに入れられた。しかも一階の道路脇の部屋だ。翌朝に、ホテル横の路上でダンプカーが急発進したので、驚いて飛び起きた始末だ。午前中一杯かけて、丁々発止の難交渉をやった末に、やっと予約したロイヤル・ガーデンスに落ち着くことができた。
 予約の有無などは頭から無視して設備の悪い同じ経営の古いホテルから客を入れようとするのだ。こういう時のコツは受付の男に小銭を握らせることだ。正攻法で理屈を言っても時間が掛るだけだ。これは経験によって段々学んだことである。

★後年に、イラン・イラク戦争で飛行場が閉鎖したのでトルコ国境からバスで脱出した。山賊が出没する危険を犯してやっと東部最大の町エルズルムに真夜中に到着する。
 アンカラの三菱商事に依頼してイスタンブールへの切符を予約しておいたので、翌朝に、トルコ航空のオフィスに赴いた。流ちょうな英語を話す係員がいて、一瞬ほっとしたのも束の間、そんな予約は全然ないと言い張る。考えてみれば、こんなことはよくありそうなことだ。慌てずにパスポートに小銭をはさんでもう一度よく探してくれと頼めば、簡単なのかもしれない。しかそれも癪なので何とか打開策をと考えていたら突然電話が鳴る。チャンス到来とばかり、予約簿をひったくって取ってみたら、私の名前が最初にあった。それを突き付けたら、渋々先方も諦めたという次第である。                

★革命後の混乱期に勤務先の三菱銀行の百周年行事があり、取引先に頒布する記念の風呂敷を送ってきた。ところが高級繊維製品の輸入だから高額の関税をかけるという。記念品で販売には適さないことが一見してわかる染め込みがあり、商業価値はないと主張したが、この我々にとって至極当然な常識に、監督官庁の担当者が納得しない。交渉が長引いて、日が暮れる。翌日出直すと、前日には納得させた筈の幾つかの論点はご破算になり、交渉は最初からやり直しになる。何回か足を運んだのだが根負けしてしまった。相手が革命後の役所なので、迂闊に袖の下を出す訳にもいかず、結局は記念品を日本に送り返す破目になった。 

 彼らとの交渉は大変な仕事だ。彼らの昔からの伝統とは、オアシスのバザール(市場)に見ず知らずの人々が集まり、少しでも有利な取引をと丁々発止とやり合って、終わったらまた別れてもう二度と会うこともないという、その場限りの人間関係の特質である。
 このような経験からイラン人はタフネゴシエイターの典型だとつくづく思ったが、中東においてはタフさの順位はレバノン・シリアが先で、その次がペルシャ・ユダヤだという順位が定説だと聞かされた。                   

ロ.交渉事では相手を平気で騙す、取るものを取った後は、成行き任せで「神の御心次第」;

★テヘランで最初の仕事は事務所の設営で、まずそのスペースを探して契約に漕ぎ着けることだった。こういう何でもないことが、あちらでは想像を絶する難事業なのである。
 一応仲介業者はあるがこれが全く当てにはできない。こちらの条件をいくら詳細に伝えても合致しない物件ばかりに案内するので、我々にとってまるで時間の無駄である。
 結局自分の足で候補地域内の空きビルを虱潰しに調査するしかない。当時は革命直前のパーラビ王朝末期だった。オイルショックで石油の収入が4倍に膨れて、大判振る舞いの工業化の最中で、テヘランは建設ラッシュだ。ところが通信手段等のインフラ整備は連動しない。新設の事務所ビルは沢山あっても、電話がつかない空きビルばかりである。
 「リンギング・テレホン(鳴る電話)」という妙な言葉を覚えた。一応電話器が置いてあるので、電話付きオフィスだと早合点するとその電話はお飾りだったりする。ときには臨時に隣のビルから線を引っ張ってあったりするので電話の権利の確認には、十分に念を入れる必要があった。そして契約をするには地元弁護士の立ち合いが必須であった。

★大きな店構えの家具屋で社宅の家具を買った。日本での感覚で配達の日を決めて、代金を支払った。これは大失敗で中東では絶対に荷物の配達を確認してから引き換えに支払うべきだ。開設準備中で社宅は無人なので、配達品を受け取るには事務所から社宅に出向く必要がある。しかし約束の時間に待っていても一向に配達がない。
 電話で催促すると配送車は店を出発したと言う。しかしそれは口から出任せで配送車はまた来ない。怒り狂って翌日また催促すると、また理由にならない言い訳をして、配達をしない。結局配達されるまで数回も無駄足を踏む始末となった訳である。 

★彼らは何か約束事をする際には必ず忘れずに「インシャ・アッラー」なる1句を付け加える。「もしそれが、神の御心にかなうならば」という意味で、すべての出来事は神が予定して、人智は及ばないというイスラムの教えが、予定通りいかない場合の言い訳になる。というよりそもそも予定に従い約束事をきちんと履行するという考えがないのである。

★開設披露パーティの案内状は郵便でなく直接自分で配達すのが最善だと言われた。一遍に数百枚の挨拶状を発送すると、切手を剥がして捨ててしまう危険があるといわれる。
 招待先への個別訪問が難事業だった。入手するアドレスが不完全で、探すのが一仕事だ。ビルの階数などは現場で階段を乗り降りして探すのだ。傍のイラン人に聞くといとも簡単に答えてくれるが全部出鱈目だ。これは、自分が知らなくても何か答えるのが親切と思う為のようだ。結局はまず最上階に行って一階ずつ降りて虱潰しに探すのが早道なのである。

ハ.厳格なイスラム法の国には厳しい刑罰の危険があり、他方権力の行使は融通を極める;

★私が駐在する前にペルシャ湾岸で邦人2名が裁判中に行方不明になったことがあったそうだ。石油タンクの工事中に現地人の工員が死亡して、邦人が管理責任を問われたのだ。被告が逃亡したと警察が発表したそうだが、現地の噂ではその邦人達はヘリコプターで砂漠の奥深くで放逐されたそうだ。但し私が駐在を始めたばかりでこの風評については、いくつかの情報源で裏を取るなど、必ずしも十分確認できた訳ではない。

★思い出すのはBC18世紀の古代バビロニアのハンムラビ法典で「眼には目を、歯に歯を」という苛烈な刑罰が規定されていた、そもそもこの地域ではセム系の遊牧民族の伝統が生きているようだ。(同じこの地域の先住民族のシュメール人の残したウルナンム法典ではハンムラビ法典のような「同害復讐法」ではなく、金銭の賠償を規定していたといわれる)。
 サウディ・アラビアで起きた交通事故でイタリア人が責任を問われた。事故の現場を再現するような状況を作っておいて群衆から押し出され、車に轢き殺させたそうだ。その為にイタリアとサウディの外交が一時断絶となったという有名な話があった。

★イラン駐在当初に弁護士からきつく注意されたのは、イランでは絶対に自分でハンドルを握ってはならないということだ。必ず現地人の運転手に運転をさせる必要があるという。
 その弁護士が担当した事件の話をしてくれた。米軍の軍事顧問団の将校が飲酒運転とスピード違反でイラン人老婆を轢き殺した。パーラビ皇帝が在位中のことで、何とか政治的に働きかけ罪一等を減じて貰おうとした。 ところがその将校が収監中の扱いに苛立ち、反抗的な態度をとったかどで拘禁房入となる。その拘禁房は所謂タコ壺で、人間がやっとしゃがめるスペースしかなく、頭上に小さな明かり取りがあるだけだ。そこに1週間以上も収監された為に、弁護士がやっと面会を許された際にはその将校は完全に精神に異常を来していた。涙と唾液と排泄物などを垂れ流しの、見るも哀れな状態だったという。                   

★ある商社の出張者がイランで約一週間行方不明となり、大騒ぎになったことがある。出迎え者が役所で用足しをしている間に、珍しい電飾のあるその役所の写真を撮ったのを咎められたのである。その出張者はその場で警察に逮捕されて、留置場にぶちこまれた。出迎えの者が用を済ませて外へ出てきたときには、出張者の行方は不明だった。彼は留置場で一週間放置された儘っだった。その商社が大使館を通じて探索した末に、出張者はやっと陽の目を見ることができた。                

ニ.イスラム社会の秩序一般はどうか(良くも悪くもそれは事柄次第という面がある)               

★私の駐在したテヘランは人口6百万の大都会だったが、そこの交通秩序は最悪だった。それを考慮しているのか道路は一方通行の場所が多い。3車線の道路をともすると、5台位が犇めき合って走ることがある。信号無視は珍しくないので注意が肝要である。交差点などで左折車(左ハンドル)と直進車がせめぎ合うのはスリル満点である。気合いの勝負で、ぎりぎりまで危険を冒す方が優先権を獲得する。勢い交通事故が多発する。
 昼間は見通しが利くのでまだしもだ。夜間には青信号を信じると横合から信号無視の車が突進してくるので命を失いかねない。そんな場合のペルシャ語は「ヤバシ、ヤバシ」という。「ゆっくり、ゆっくり」という意味だが、夜の交差点では「ヤバシ、ヤバシ」を連発した。我々としては、むしろ「あぶない、あぶない」という気持ちの悲痛な叫びだった。

★革命の初期に、街頭のデモ行進に対して軍隊が発砲して、大勢の群衆が命を落とした。
最大の事件は1978年(昭和53年)9月8日テヘラン南部の「黒い金曜日」事件である。
 それを契機として戒厳令が敷かれた。偶々福田首相(前首相の父)が訪問中だった。私は北部の安全な高級住宅街に住んでいたが夜間はデモの騒ぎと銃声がよく聞こえたもので、町では物々しい雰囲気が流れていた。そういう社会不安だった時期にも拘わらず、強盗の類の被害は全く聞かれなかった。これはイスラム社会の影響かと考えられる。
 しかしコソ泥の類の被害は別物でとても多かった。近所の知人宅で帰国中に家具や家財が根こそぎ盗まれた事件があった。私の家でも使用人がよく物をくすねるのが悩みの種だった。これはコーランの教えの通り、貧者は富める者から喜捨を受けるのが当然だという常識からかもしれない。彼らは喜捨を受けても相手には御礼を言わない。アッラーに感謝するだけである。

 以上我々の常識とはかけ離れた世界で苦労の連続だったが、それなりに対処方法や用心の仕方を心得えると何とかなる。この文化の違いはイスラムの論理というより、イスラムを生んだ乾燥地帯の遊牧民社会の伝統に根ざした文化との違いというべきであろう。イスラムはこのような風土に生きる人達の分裂と無秩序が生む争いの社会を、克服するべく生まれたともいえると思う。

私のイスラム体験とイスラム理解(その1)(了)


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