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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)

2013-09-08 14:23:05 | 我が故郷 満州(安東)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その1)

3.ここから日本の満洲支配への道筋を追う

イ. 日本はロシアから南満洲鉄道の経営を引き継いだ;

 
ロシアは清国と条約を(露清密約)結び、鉄道建設に必要な「鉄道附属地」を獲得していた。ロシアはこの条約を拡大解釈し、単なる土地の所有権だけでなく、清朝の行政権が及ばない排他的行政権を認めさせていた。また線路や駅など鉄道用地のみならず、鉄道から数百米も離れた用地をも鉄道附属地とし、鉱山都市などを開発していた。明治39年(1906年)に日本の国策会社南満洲鉄道(満鉄)が設立されると、この鉄道附属地制度も継承した。日本の満洲経営は、清国領土内における日本の治外法権、旅順・大連  (関東州)と南満洲鉄道(満鉄)や付属地からスタートする。 

ロ. 次に張作霖爆殺の陰謀と石原莞爾が起こす満洲事変が続く;

A張作霖の爆殺;

 明治44年(1911年)辛亥革命が成就して清国は滅亡し、各地に地方政権が誕生した。満洲の土地は軍閥・張作霖が支配した。張作霖は当初日本に対し協力的だったが、次第に独自路線を進み北京に進出して中原に覇を唱えようとした。国民党の北伐により北京は陥落し瀋陽に帰還する。その途上で関東軍の河本大佐が彼を爆殺した。昭和3年。昭和天皇は下手人の処罰を厳命したが、その意思に従わなかった田中義一首相は天皇の不興を買い以後謁見を拒否され、内閣は総辞職となる。
 これを反省した昭和天皇が、以後は内閣の決めたことに異論を唱えないことにした(立憲君主の立場)。それが内閣から独立する天皇の統帥権を陸海軍が事実上干犯するという悪習を生んだ。憲法上の矛盾が露呈する(立憲君主制の君主の天皇と、統帥権の長である大元帥陛下が同一人物)。以後の軍部独走の原因となった。

B満洲事変の陰謀; 
 
 張作霖の息子張学良は反日の立場に徹して、満鉄の平行線を建設して満鉄の経営を圧迫する。これに対抗して石原莞爾参謀が画策し学良軍を潰しにかかる。関東軍が自作自演で奉天郊外の柳条湖の満鉄線を爆破しておいて、張学良軍の仕業として北大営を攻撃した。これが満洲事変の発生である。昭和6年(1931年)9月18日。張学良軍が蒋介石の不抵抗方針の指示を受けて日本と事を構えるのを回避しようとした。1万2千の関東軍は朝鮮軍の支援もあって30万といわれた学良軍を相手に5ヶ月で全満洲を占領した。事変そのものも関東軍の独断専行だが朝鮮軍の出動も現地独断で、事後の悪例となった。
 政府は不拡大方針であり、陸軍中央も局地解決方針であったが、関東軍はそれを無視し、自衛のためと称して戦線を拡大した。政府や軍の中央の反対が強く、国際世論の圧力もあった。関東軍は当初の満洲全土を領土化しようとする方針を捨てて、傀儡政権を樹立する方策に方針変更した。そのために清国最後の廃帝だった宣統帝愛新覚羅溥儀を担ぎ出す。

イ.   傀儡政府の樹立;

 
まず東北3省(遼寧・吉林・黒竜江)の各地の有力者で東北行政委員会を組織して、国民党政府からの独立を宣言する。(後に遼寧省は奉天省に改称する)これらの地方政権の自発的統合という体裁をとって新国家を樹立させた。

各地有力者の顔ぶれ;張軍閥麾下の部將が多い。馬占山はすぐ離脱する。

①蔵式毅;陸軍士官学校卒、元国民党軍事官僚、作霖・作良奉天省長
②煕洽;清朝王家の一族、張学良麾下の吉林軍参謀長だった
③張景慶;張作霖の下でハルピン特別区長官、満洲八旗の一名門
④馬占山;馬賊の頭領、張作霖の下で黒竜江省の旅長

ハ.
日蓮主義者の政治行動;

 
この建国会議は勿論関東軍がお膳立したものだが、その会場には満洲国の新国旗となる五色旗もなくて、墨痕淋漓たる「南無妙法蓮華経」の字幕が飾られていたといわれる。立役者石原莞爾の思想的背景を雄弁に物語る。この話はあまり知られていない。石原莞爾は井上日召や北一輝と同じ日連主義者だった。井上は昭和7年一人一殺の血盟団事件を起こして無期懲役となり、北は昭和12年2.26事件の扇動者として処刑された。石原莞爾は、世界最終戦が日本と米国で戦われると予言し、資源に恵まれた満洲を日本の領土に取り込んで備える必要ありと主張していた。彼はドイツに留学中欧州戦史を研究していた。

ニ. 満洲国の実態と成果;

 こうして昭和7年(1932年)3月1日満洲国が成立した。
 溥儀が建国時は執政だったが2年後に皇帝に即位した。首都は長春に置かれて、新京と改称された。   満洲国の建国理念は五族協和の王道楽土の建設であるとされたが日本人主導の政治体制だった。五族は日・鮮・満・蒙・漢の五民族である。王道とは西洋流の覇道に対する君子の統治を意味する。
 関東軍のいわゆる「内面指導」が国の重要方針を決めた。所謂「2キ・3スケ」の要人が満洲政府を動かしていた。
①  東條英機星野直樹鮎川義介岸信介松岡洋右

 満洲国は13年の寿命だったがその間のインフラや各種産業の育成は満鉄時代からの延長でもあった。その成果は見事なものだった。
 その傾斜生産方式の手法や産業育成策などは岸信介らにより、日本に持ち帰られて戦後の経済復興に大いに役立った。

 ホ.国際連盟脱退による国際的に孤立する;

 
国際連盟はリットン調査団を派遣して、満洲事変は自衛措置だったとする日本の主張を調査した。その結果日本の主張は否認され、日本は国際連盟を脱退する。昭和10年(1935年)3月27日正式に発効。

4.満洲という名称(満洲とは土地名ではなく、ここで発祥した民族名である)

 
満洲は清朝の始祖ヌルハチの故地。ツングース系民族の女真族が明の時代に万里の長城外のこの地を平定する。そして「後金国」を樹立し、やがて明も征服し清国となる。満洲族はチベット仏教(ラマ教)を信仰していた。マンジュとは彼らが信仰していた文殊菩薩から来ている。
 清朝成立後、長年父祖の地・満洲には漢民族の移住を許さなかった。清末には漢民族の農民の移住が許されるようになる。移民が増加し満洲国の成立時の昭和7年(1932年)には満洲の人口は約30百万人に達した。多い時期には年に百万人の流入であった。日本人の人口は約60万人になる。
 満鉄と満鉄付属地に役人や商工業従事者、土建屋、運輸業者、その他旅館や料理屋などサービス業が進出した。明治39年(1906年)に満鉄が設立された後の26年間に流入した。
 安東は新たに建設された町でモデル的だった。
 石原莞爾は満洲を無主の土地(no-man’s-land)と位置付けて、日本の征服を正当化しようとしたが、我が国の歴史学者の賛成さえも得られなかった。
 現在満洲族の末裔の人口は約10百万人。東北3省の人口は一億7百万人。圧倒的な漢民族への同化が進み、漢民族の文化に埋没しかかっている。
 ヌルハチの故地は沈陽の東方の135キロ、新賓にある。

 5.日本の満洲への植民政策(開拓民の移住

イ. 農村の余剰人口対策;

 積極的に満蒙へ開拓民を送り込んだ。当時20年間に5百万人の植民を計画した。
 昭和7年(1932年)第一次武装移民団(140名)が佳木斯の東方100キロにある永豊鎮に送られた。開拓団とはいいながら、耕作する土地は地元民から半強制的に只同然の地価で買上げた。第1次開拓団は弥栄村と命名された。次いで第二次武装移民団が七虎力(チフリ)に入植し千振村と命名された。

ロ. 土龍山事件という先住民族の反乱;

 
昭和9年(1934年)3月土龍山事件が発生し、ニューヨークタイムズにも報道され世界の耳目を集めた。地元の自衛団が抗日武装団を結成して千振村を襲撃した。武装移民団の強制的な土地取り上げと、地元民の武器回収や、一部不心得団員の婦女暴行などの非行に、抗議したものである。

 依蘭駐屯の飯塚連隊長が少数の手勢と共に指導者謝文東の説得に出掛けたが、土龍山付近で抗日団に包囲され全滅した。増援の関東軍が飛行機を投入して抗日武装団を蹴散らす。以後5年間も抵抗が続いた。このほか、先住民の反乱は各地で起こった。楊靖宇という反日英雄の名は地名に残っている。

ハ.対ソ防衛を考慮した北満開拓団の配置;  

 北満は治安が悪く匪族が横行。移民団の配置は対ソ防衛上の狙いもあった。

ニ. 派遣者総数;

 昭和7年 (1932年)から黄海の制海権を失う昭和17年(1942年)までに、派遣された人数は27万人とも32万人ともいわれる。地域は主として北満。

6. 支那事変から太平洋戦争へと続く紛争の連鎖

イ. まず支那事変が勃発し長期化する;

 
昭和12年 (1937年)日本の華北駐留軍と蒋介石軍との武力衝突が発生した。日本軍の駐留は義和団事件後の北京議定書による。各国も駐留していた。この盧溝橋事件(支那事変)が発端で、中国側が徹底抗戦(ゲリラ戦)する。太平洋戦争迄は宣戦布告なき戦闘が続く。中立国の援助継続を望む中国側の思惑と、国際的非難を恐れる日本側思惑が一致して、事変と呼んだが立派な戦争であった。何度かの停戦の機会を逸しながら、日本政府や陸軍中央の不拡大方針にも拘らず戦線は拡大してしまう。
 南京陥落後蒋介石が重慶に首都を移し戦争が益々長期化する見通しとなる。

【この間昭和14年(1939年)、欧州ではドイツがポーランドに侵攻した。第2次大戦の勃発である。独ソ戦は必至となる。独は日独同盟を迫ってくる。日本はドイツを半年待たせ、昭和15年(1940年)日独伊3国同盟締結。】

ロ.日本の南進政策に対し米・英・和が経済制裁で対応; 

 日本は事変長期化を嫌い援蒋ルートの遮断を画策、仏のヴィーシー政権と合意の上で仏印(ヴェトナム)へ進駐した。昭和16年(1941年)7月。これが東南アジアを植民地としていた米国、英国、オランダなどを刺激する。
 米国は7月在米日本資産を凍結、8月石油輸出全面禁止の厳しい経済制裁を発令し、英国、オランダもすぐ同調した。(ABCD包囲陣と呼ばれた)
 この制裁は日本にとって致命的なもの。日本は石油や鉄、工作機械等の70%以上を米国から輸入していた。当時国内の石油備蓄は民事・軍事を併せて2年分、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。日本は益々南進政策によって資源の確保に走らざるを得なくなった。

ニ.日米交渉決裂と日米開戦;

 
日米交渉は難航する。最終的に米国が「ハルノート」という屈辱的な条件を突き付けて交渉は物別れとなった。(ハルノートとは中国と仏印から日本の軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の破棄などを要求するもの)
 昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃によって日米開戦となる。
 こうして見ると満洲事変・支那事変・太平洋戦争は因果関係で連鎖する。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)(了)


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