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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ゴルフ紀行9 バンコックでのゴルフ

2012-06-10 16:20:08 | タイ / マレーシア

一その9バンコックでのゴルフ・合掌と祈りの彼方ヘー

タイを初めて訪れたのは1971年だから、もう41年前になる。駐在地の香港から、業務で出張した時のことである。
バンコック郊外のドン・ムァン空港に着いた日の印象はいまだに忘れない。
 ………雨期の盛りであった。湿気をいっぱいに含んだ空気は、一種独特な鄙びた匂いと人々の喧騒を乗せて重く澱んでいた。空港め待合ホールでタイ人の乗客が出迎えの人たちと挨拶を交わしている。若い女性が胸の前で真っ直ぐに掌を合わせ、一寸上体を斜めに傾けるようにしてお辞儀をする。その優雅な姿が実に 魅力的で、思わず立ち止まって茫然と見惚れてしまう。目上の人に対する丁寧な挨拶の仕方だという。
 車でバンコック市街へ向かう道すがらでも、見慣れない風景が次から次へと眼に飛び込んで来る。先ず車の洪水と渋滞に圧倒されてしまう。南国風の椰子に似た街路樹と、タイ文字の看板の波が続き、暑気と車の排気ガスの中で揺らめいている。
 車の列を縫うようにして子供の物売りがやって来た。両手に花飾りを持っている。白や赤や黄の花の房を細かくかがり合わせた美しい首飾りのようなものだ。  (マライという交通安全のお守りにもなるのだそうだ)ジャスミンの香りが強く漂って来た。
 眼を転ずると逢か遠くに緑の濃い木立が続き、その辺りに寺院の屋根が見える。幾重にも層をなす甍は、橙、緑、茶の鮮やかな色彩に光り輝き、喧騒の中に  不思議な静謐の空間を造っていた。そして鋭角の勾配を見せてせりあがる屋根と、その両端から天空に向かって伸びる鶴の嘴状の飾りが、ハッとするような優美な線を描いている。それはまるで、人々の憧れの心を揺り起こし、遥か高みへと誘うかのように見えた。…………

  初対面のタイはかように矢継ぎ早に色々な顔を見せて、私の心を捉えてしまった。
 この時以来、 タイには仕事や観光で10回位は訪れている。でもゴルフをする機会に恵まれたのは、ほんの数年前のことである。

 週末に一日予定が空いた。独りでパートナーが居ない。どこかゴルフをやらせて呉れる所はないかと、ホテルに尋ねて見た。するとガイド付ツアーでなら、なんとかなるというので、旅行社を紹介して貰う。運良く流暢な日本語を話すガイドが付いた。
 目指すゴルフ場はバンコックから北へ約2時間走ったサラブリに有るという。
早朝の街を車で走るうちに、一群の僧侶達に出合う。サフラン色の僧衣を纏っているが、裸足である。整然と一列に並んで托鉢の歩みを続ける姿が朝の光りの中で清々しい。
 車はやがて空港に通ずるハイ・ウェイに出た。このハイ・ウェイを空港から更に北上し、分岐点から暫く西へ行くと古都アユタヤに到り、東へ行くと目指すサラブリである。
 車窓から郊外の風景を眺めて居るうちに、当時より更に10数年遡る昔に、アユタヤヘ向けて車を走らせた日のことを思い出した。
 ………それは実は、当ての外れた寂しい独り旅だった。本当は、タイの友人のLさんとアユタヤ出身の女性が、同行して案内して呉れる筈だったのである。出発の朝になって、 Lさんから断りの電話が入った。
 『彼女が待ち合わせの場所に姿を見せない。自分も都合の悪い事が出来たと』
 200年ほど前にビルマ軍に破壊されたアユタヤ王朝の都は、廃墟のまま悠久の時を刻んでおり、涅槃大仏だけが青空の下で昔と変わらぬ姿で、手枕をして横たわっていた。………

 ゴルフ場はハイ・ウェイから暫く田舎道を辿った丘陵地に有った。緑の山々が周囲を取り囲む。なだらかな地形に手入れの行き届いた各ホールが展開している。余り高い樹木はなく、コースの全体がかなり良く見渡せる。瀟洒な白亜のクラブ・ハウスから緩い坂を下ってイン・コースの10番ホールに向かう。
 ガイドの身内がこのクラブに勤務して居るので特別に便宜をはからって呉れた。クラブの研修生が一緒にラウンドして呉れることになった。おまけにその研修生の女友達も歩いて付いて来ると言い、それにガイドも加わる。結局一寸大袈裟なお供付のプレーになった。
 お供付と言えば、バンコック市内のゴルフ場で数人のお供を従えてゴルフをする一行を車窓から目撃したことがあったが、そのお供たちは主人の為に腰掛けや日除けの傘を恭しく捧げ持って、陽差しの中を歩かされて居たのであつた。
 研修生と一緒のプレーでは、みっともないゴルフは出来ないと、やや緊張してしまう。
出だしはロング・ホール。頭を残す様にして、しっかりとスイングすると、 ボールは真っ直ぐ飛んでフェア・ウェイの真ん中にナイス・ショットだった。先ずは順調な滑り出しとなった訳である。
 研修生は堂々たる体格で如何にも性格の良さそうな青年であるが、 ゴルフはプロの卵としてはややミスが多いようにも見えた。それでもそのゆったりしたスイングのリズムは、良いお手本になった。ただ英語も通じない。お互いにダンマリのプレーなのである。こちらが片言のタイ語で、 タオライ?(距離はどのくらい?)と聞くと、 ロイ・ハー・シップ(150)などと、これまたタイ語でぼそっと返事をする。そういう遣り取りがせいぜいだ。
 コースの間の小道をスクーターに乗った初老の男がやって来た。研修生の女友達が駆け寄って行って、ハンドルに手を掛けて話を始めた。すぐ話を終えて我々の後を追って来るかと思えばさにあらず、ずうっとその場に立ち尽くした儘動かない。二人の姿は逢か遠く離れた所からも望見された。何故か彼女らの姿は楽しい語らいと言うには程遠い。寧ろ物寂しい雰囲気を漂わせていた。
 ガイドがそっと耳打ちしたことに依ると、二人は親子だそうだ。父親は彼女の幼少の頃に母親以外の女性と懇ろになって家を出たのだと言う。たまに、父親が働くこのゴルフ場を訪ねて来た時だけが親子の逢瀬だった訳である。二人の間で一体どんな会話が交わされていたのだろうか。
 何故か人の世の愛憎の悲劇に巻き込まれて翻弄されながらも一生懸命に生きていく人々の姿は、哀しくも健気で、胸を強く打つ美しさがある。


 コースの脇で無心に咲き乱れるブーゲンビリヤの花に眼をとられる。何となく先程の研修生の彼女の事を考えて居ると、また昔のアユタヤ行きの際、待ちぼうけを食った時の事を思い出してしまうのであつた。
………あの時に約束したのに姿を見せなかったアユタヤの女性の名前は、正確には思い出せないが、花を意味する言葉だった。
 『君は、花ならさしずめ、ブーゲンビリヤという感じがぴったりするね』などとたわいない冗談を言ったことが記憶に蘇って来る。
 そもそもは、友人のLさんがある晩夕食に招待して呉れたのが事の始まりである。夜総会というタイ式の料理屋である。個室でタイ人の仲居が、サービスをして呉れる。例えば海老・蟹の類などを食べ易く捌いて客の回に運んで呉れることが売り物だ。
 くだんの女性は廊下で我々と出会った途端にびっくりした様子を見せて、空いた部屋に逃げ込んでしまった。Lさんがその如何にもウブで清楚な姿に御執心となり、早速指名したのだ。ところがあちこち逃げ回ってなかなか席に現れない。
 先輩株の女性の説明では、彼女は一週間程前にアユクヤの田舎からバンコックの都会に出て来たばかりで、毎晩客の前に出るのを恥ずかしがって手を焼いているのだという。
 暫くして彼女はやっと言い含められたのか席に出て来た。答えを渋る彼女からLさんが聞き出したのは、意外に気の毒な身の上話であった。
 彼女は一寸見には可憐な17~8才の歳頃に見えたが、22オの既婚者だった。タクシーの運転手と結婚したのも束の間のことで、 ご主人を交通事故で亡くし、  実家に戻った。実家は極貧の農家で幼い兄弟姉妹も多く、出戻り娘の場所はない。それでバンコックに出稼ぎに来たという。
 Lさんが彼女の里帰りだと囃し立てて週末のアユタヤ行きを強引に提案する運びとなったわけであるが、考えて見れば無神経な話で彼女が来ないのも当然で  あった。何となくLさんのペースに嵌って、 これが当地の流儀なのかといい気になり過ぎて同調してしまったのは軽率だったかも知れない。故郷のアユタヤ行きに誘われて断ることも出来ず、さりとて姿も見せなかった彼女の心情を思うと心が痛んだ。
 その時の彼女の小さな胸の中にはきつと、慣れない都会の人々への不信や今すぐにでも飛んで帰りたい故郷への思い、はたまたきっと歓迎されないであろう早すぎる帰郷の逡巡など、様々の思いが渦巻いて居たに違いない。…………

 池の中の浮島のようなショート・ホールに来る。蓮の葉が折り重なるように水面を覆っている。私の打球は心の重さを映したかのように、最初はトップし、2回目はダフッて次々と白杭を越えては、蓮の葉の中に消えて行つた。
 『凛然と咲くピンク色の花弁を傷つけなくて良かつた。願わくはボールたちよ、誰の眼にも触れず、蓮の根元で千年眠るがよい』
 ハーフ・ラウンドを終わってクラブ・ハウスヘ戻って来た。
 我がガイドが研修生と物陰で何かひそひそと言葉を交わして居る。そして困ったような顔をしてやって来た。
  『コースの支配人が出てきたので研修生が仕事に戻らなくてはいけない』と言う。
 後半のアウト・コースを独りでラウンドし始めた途端であった。折しも突風と共に横殴りの驟雨が襲って来た。吹きつのる風はコースの遠景をバックに横縞模様の雨の幕を織りだし、勢いは強まる一方だ。暫くの間茂みの中で風雨を凌いでいたが、結局諦めてプレーを打ち切ることにした。
 
 クラブ・ハウスの玄関に立ち車に乗り込もうとすると、先程の研修生の彼女がいつの間にか姿を現した。
 しかもガイドが恐る恐る『彼女をバンコックまで同乗させて貰えませんか?』と言うではないか。
 車がハイ・ウェイに出る頃には、雨は嘘のように上がってしまった。沿道の野や林の緑が滴るように瑞々しい。私の座席の横には、彼女が遠慮勝ちに身を固くして座って居た。
 遙か向こうの小高い山の中腹に、 白い巨大な仏の座像が見える。首を巡らせてその仏像を目で追っていると、 またガイドが恐る恐るお伺いを立てて来る。    『この近くにこの女性の甥が修行僧に入っているお寺が有るのです。彼女が一寸立ち寄らせて頂けると有りがたいと言うのですが』。それは山の中の静かな寺院であった。他に訪れる人もなく、森閑として静まりかえっている。
 暫くして彼女の15才の甥が出てきた。丸めて青々とした頭蓋のかたちと白い作務衣が、なんとはなく痛々しさを感じさせる。タイでは男子は一生に一度は得度して仏門で修行をする。その期間は数週間から3か月と言う。
 彼女は甥の少年に何かこんこんと諭すように話掛けている。そして遠慮して後ずさりする少年の手に、無理やり小遣いらしきものを握らせた。そして運れ立って 本堂の僧侶に会いに行く。僧侶の説教にじっと聞き入り、合掌をして深く頭を下げ聖水を振り掛けて賞う。本堂を出て来た彼女の顔は敬虔さと優しさに溢れていた。

 ガイドが言う。『ここの先代の僧侶は高潔な人で有名でした。山の洞窟で瞑想の時を過ごすことが多く、亡くなったのもその洞窟の中でした。信者に発見されたのだそうです』    
 タイの仏教は小乗仏教で僧侶の戒律は厳しい。僧侶は清貧に甘んじ、妻帯もせず、ただひたすら瞑想や仏典の研究に身を捧げるという。僧侶は町や村の生活では大衆の良き助言者や教育者の役割を果たし、大衆は僧侶に奉仕することで功徳を積み、仏の救いに近づくのである。

 『ところで彼女は中国人のお金持ちと結婚して男の子まで成しながら、主人が病死したら嫁ぎ先を追い出され、大変苦労しているそうです』
 『それでも彼女は人一倍信心と功徳を積んで、しかも自分が積んだ功徳を年老いた母と息子へどうか振替えて下さいと、仏に祈っているのだそうです』

 バンコックの街はずれで彼女は車を降りた。車が走り去ろうとした時に、彼女が初めて微笑みを見せ、手を合わせて会釈をするのが見えた。ガイドが彼女からと言って、豆粒大の仏の座像(プラ・クルアン)と小指大の聖紐を手渡して呉れた。先程の僧侶に入魂してもらったものだそうだ。聖紐を鼻に近づけて見ると、仄かにジャスミンの香りがした。

 ………この時のバンコック滞在の以前に一度Lさんと再会したことがあった。その時の話ではアユタヤの彼女の消息はこうである。
 彼女がLさんの勧めで夜総会をやめて縫製工場に勤めることになり、 Lさんはお祝いに化粧品のセットを贈ったそうだ。その後何故か彼女はLさんの前から姿を消してしまう。彼女が寄寓していた先を訪ねてみると、感謝の置き手紙と、何体かのプラ・クルアン(小さな仏像)が残されていたと言う。…………

 今、以前に何気なく聞いたLさんの話を思い出した。小さな仏像に託された素朴であるが深い心の跡を見る思いがして、胸を衝かれたのである。
 心の中に色々な重い想念を湛えて、長い一日のとばりが降りようとしている。車窓の正面に寺院の仏塔が迫って来る。黄金の輪を幾重にも重ね、その輪を段々と狭めながら鋭い塔の先端に至る。その造形が美しい。
 それはまるで、輪廻を解脱して涅槃に到達せんと願っている人々の心象を、そのまま形に表したかのように、夕映えに眩しく輝いていた。(了)


ゴルフ紀行その8 マレーシャでのゴルフ

2012-06-10 08:42:59 | タイ / マレーシア

―その8 マレーシャのゴルフ・豊穣の自然と、その中に垣間見た老いと終わりの姿一

 3月中旬なのにマレーシャはもう真夏である。船上の国際会議のあと、ペナン島で親善のゴルフに参加した。ペナン島はマラッカ海峡に浮かぶ東洋の真珠と呼ばれている。18年前の3月のことである。


 真っ白な母船の横腹を蹴るように、ランチが急発進して島に向かう。振り返ると、母船はどっしりと美しい姿を横たえている。流線型の白い船体が、大きく羽を拡げたような雲を背景にして陸地の緑に映えている。何となく人里離れた感じのする小さな船着き場から上陸する。榔子の梢を仰ぎ見ながら、曲がりくねった山間の道路をゴルフ・コースに向かってバスが行く。
 約38年程前のシンガポール駐在時代に、仕事や休暇でペナン島には何回か行ったことがあった。ペナン島はマレーシャ第一の観光地である。人口も約50万というが、街や保養地や観光のスポットは島の北部にあった筈である。その時に初めて訪れたゴルフ・コースのある辺りは、一体島のどの辺にあたるのであろう。昔見慣れたペナンとはまるで別世界のようである。
 草木の繁茂する有り様は誠に旺盛と言うほかはない。バスは暫くその緑の深いトンネルを走ると、突然ポッカリと明るい台地に出る。目指すブキット・ジヤンブル・カントリー・クラブであった。
 午後の直射日光は目映いばかりで、スタート前から汗が吹き出して来る。辺りの空気が陽炎のように揺らぎ、スタート地点の糸杉の木立が心なしか火炎の形に揺らいで見える。        

 

 同伴の3人は米国・タイ・台湾と国際色豊かな人たちである。最初の内こそ、お互いに社交的にエールを交換しながら賑やかにプレーしていたが、段々山岳コースの登り降りのきつさと暑さに参ってきて、口数も少なくなって来る。
 台湾のLさんが日本語で話し掛けて来る。
  『ペナン島は初めてですか?』
  『いいえ、以前何回も来ているのですがここは初めてです。ここは一体ペナン島のどの辺になるのでしょうかねえ』
  『島の南東です。飛行場は割合近いですよ』
 
 この会話で位置の感覚が戻ると、不思議と急に過去のペナン島の記憶が蘇って来た。シンガポールからペナンやマレーヘ仕事で出張した時のことである。
 ………あの時は思いがけない経験だった。ペナン島からマレー半島のイポーヘ行く夕方の飛行便が欠航になってしまったのである。
 小さなローカル空港で、飛行機の夜間誘導装置が無い。夕暮れ刻に到着便が遅れると簡単にキャンセルになるのだと言う。さあ大変だ。その日の内に目的地のイポーヘ着いて置かないと、翌日以降の訪間先の予定が全部狂ってしまうのである。
 幸運にも日本の商社マンが声を掛けて呉れた。慣れたものでこういう場合にはフェリーで対岸のバタワースに渡り、それからタクシーの乗り継ぎで目的地へ向かうのだと言う。地獄で仏に会うとはまさにこのことである。この時ほど日本の企業戦士が頼母しく見えたことはない。二つ返事で相乗りの提案を受けたのである。

 相客が居るので心丈夫とは言うものの、曲がりくねった灯火がない密林の道を、フル・スピードで飛ばすのはスリル満点であった。
しかも黒地に白の骸骨の看板がヘッド・ライトに突然浮かび上がる。AWAS(注意!) とある。つまりスピード出し過ぎの警告なのであるが、これが時々不意を打つように出現するのだ。
 街道筋にはマレー人の村落らしいものは見掛けることはない。時々小さな町を通過するが、それはチャイナ・タウンという風情で、道路脇の屋台の食物屋に人影が群がつている。アセチレン灯の明かりが不思議な空間を造っており、その刺激的な匂いが遠い幼年時代の記憶を呼び戻して呉れる。
 ……帰りそびれて独りになった夏祭の記憶、不安と憧憬が混ざり合った戦慄。……ゴムの林を走り抜ける。昔太平洋戦争の時に日本の自転車部隊が南へ南へと下ったのは、この道に違いないと思ったりする。
 全行程、 3百キロ近い道のりであったろう。やっとの思いで目的地のイポーのホテルに着いたのは夜の11時過ぎであった。……………

 ふと我に帰ると、コースの中でも一番高い地点に来ていた。遥か遠くに、市街地らしいものが見え隠れする。地平から中空へと広がる雲の背後から白い一本の線がするすると伸びて、 瞬く間に青い空をふたつに切り裂いて行く。飛行機雲だ。燃えるような暑さも、いつしかやわらいでそよ風が夕暮れの到来を予告しているようだ。

 クラブ・ハウスに戻ってシャワーの水を頭からかぶる。何処でゴルフをしていても味わうことの出来る安堵の瞬問ではあるが、此処では又格別の歓びである。暫く目を閉じて頭の芯に冷たい水を注いでいると、身体のほてりが徐々に消えて行く。と同時に自分自身が蘇っていく気分である。
 マレーの人々は日本人のように風呂に入る習慣はない。その代わり日に何度かマンデー(水浴)をするという。そうすることによって、暑さの中で日々生きる悦びを確かめて居るのだろうか。
 バスは再びもとの船着き場へ向かう。入江が近くなった頃、 目の前に異様な景色が飛び込んで来て一瞬息を呑んだ。
小高い丘の一面に枯れ木の林が拡がっている。灰色に尖った幹と枝が緑の下生えの中のあちこちにすつくと吃立して夕日に光っている。あの樹々の枯死の原因は一体何なのだろうと、不思議に思う。豊穣な熱帯の自然の中では、世代交代はごく目立たなく行われているように見えるのに、死後にもその存在を主張しているには余程確固たる理由が有るに違いないと思えて来るのである。
 
 昔クアラルンプールでゴルフをした時のハプニングを思い出す。
 ……………コースに、突然マレー人の老人が迷い込んで来た。上半身は裸で、両足も股までむき出しであったが、明らかにおむつをしていた。じっとこちらを凝視していたが、一言も発しない。結局後を追って来た家族らしい人たちに連れ去られるのだが、何となく毅然としているその姿が今でも険に残っている。
 そしてその時コースのうねりに隠されていたせせらぎと、そのほとりの見上げるような老大木。その頂上近くから、幾重にも垂れ下がった根茎。その茎にいっぱい絡みついた蔦かずら。などがその老人の、 もう遥か遠くしか見なくなっていたあの眼差しと一緒に、蘇って来る。・…………

 船着き場でランチヘの乗船の順番を待つ。
 辺りはいつの間にか雲が立ち込めて来て、夕日の照り返しが空のそこここに淡い彩りを残しているのみである。
 以前の、イポー行きの便が欠航になった時は、夕焼けが結麗だった。ただ如何にもその呆気なかったことを、なんとか到着便が日没前に着陸して欲しいという切ない期待と共に、鮮やかに思い出すのである。
 あの時は夕日が背後の山に隠れる寸前に辺りを茜色に染めたと思うと、瞬くうちに空は紫色に変わり、夜の厚い帳が降りてしまった。
 
 それにひきかえ、ブルネイで見た夕焼けは本当に素晴らしかった。
 それは、マレーシャ半島への出張に引き続いて東マレーシャ(ボルネオ)へ市場調査の旅に出た時の経験である。
 ……ブルネイを訪れたのはシェル石油と或る日本の商社の液化天然ガスのプロジェクトを見る目的であつた。
 首都のバンダール・スリ・ブガワン(とは言つても人口約5万の小都市だ)から車を飛ばして約2時間の距離にある、シェルのコンプレックスに着いた。海岸に立つと、逢か数キロの沖合へ真っ直く突き出したジェッテイ(パイプ・ラインの突堤)とあちこちに林立するオイル・リグが、紺碧色の海と空に白く映えている。
 夕暮れの風に誘われて屋外に出た。空一杯に拡がる羊雲に落日が映えて、桃色に輝いている。息を呑んで見るうちに大空の余白までがすべて桃色に染まって行くではないか。
  『ああ、自分は何故にこんな風にして南海の涯に立って居るのだろうか?』
 このまま息を止めて我身を投げ出せば時が止まり、この瞬問が永遠に続くような錯覚に捕らわれ、茫然とその場に立ち尽くした。………

 ………そうだ、あの時のボルネオヘの出張の最後の目的地はサンダカンであった。かつてラワン材の積出し港として栄えた港町であり、 リトル・ホンコンと呼ばれていた。サンダカンの日本の商社の支店の幾つかを訪間するのが目的であつたのだが、その実は隠された悲願がその時の自分を駆り立てて居たのである。駐在地シンガポールで、文芸春秋に所載された山崎朋子女史の『サングカン八番娼舘』を読んだことがその発端であった。女性史の研究家の山崎朋子さんが、天草の或る老婆と生活を共にしながら、貧困の故に東南アジアに売られて行った『からゆきさん』の悲しい運命を聞き出し綴った記録である。その話を読んだサングカン駐在のある商社員が苦心惨憺の後に、若くして過労や病気で異郷の地で他界した主人公の同僚たちが眠る日本人墓地を探し当てたことを、後日談が伝えていた。長年密林の中に埋もれて忘れられて居たのだ。サンダカンの出張時に是非この日本人墓地を訪ねて見たいと思って居たのである。
 空港で捉まえた中国人の運転手に広東語で話掛けるとすっかり打ち解けて、仕事の後の夕方に、その日本人墓地に案内して呉れた。
広大な中国人の墓地を通り抜け、更に深い林のそのまた向こうにそれは有った。
 20坪位の広さの傾斜地に墓標が5列並ぶ。『からゆきさん』の墓はせいぜい30センチくらいの背丈で、墓標の文字も風雨に侵されている。『享年19才』とか『享年20才』の文字しか読めない。
 墓の周りは地元の日本人会の人たちによって整備されたと聞くが、早くも旺盛な夏草が辺りを覆い隠そうとしていた。……………

 気が付いて見ると、 もう辺りはとつぶりと暮れていた。夜の冷気と草の匂いが沸き上がる想念の雲をかき消して行った。植物の光合成というプロセスのリズムのなせるわざなのであろうか、樹々や草の吐息が辺りを深々と浸し、長い一日の終わりの休息を誘う。
 我々を乗せたランチは夜光虫の輝く海面を滑る様にして、母船に近づいて行く。
母船のハッチ上にあるカンテラの光芒が、海風に揺れながら我々を優しく招いて呉れるのであった。(了)