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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

沖縄にて

2014-06-24 22:16:35 | ☆ 国内旅行 
沖縄に約1か月間滞在した。
期間中嘉手納飛行場を訪ねた。嘉手納飛行場は4千メートルの滑走路を2本有し、東洋一の空軍基地と言われている。というので、その広大な飛行場を見物に訪れたのである。
折から爆音を響かせてジェット戦闘機が着陸している。我々は展望席に登り飛行場を見渡していた。展望席の中央はメディアの専用席になっていて、一般席は端の方にあった。
空港の敷地の一部の空き地は農耕が許されていた。広大な滑走路とその片隅の畑は奇妙なコントラストであった。

人生80年を過ぎると何となく昔の記憶が循環するように甦ってくる瞬間を感じることがある。嘉手納基地を訪ねた際、私の10歳当時の記憶が突然甦ってきたのだ。

私の少年時代に、わが家族は旧満州の安東市(現丹東市)に住んでいた。安東市の新市街は日本人が作った町で、終戦までは日本人が住む町だった。我らが住所である安東市の大和区6番通6丁目は、今でいう2階建てのマンションだ。表通から数軒の長屋があって、奥に向かって小路で繋がっていた。奥の何軒目かに嘉手納さん一家が住んでいた。
ある日嘉手納さんが大声をあげ血相を変えて、幼児の息子を抱き表通へ飛びだしていった。そのとき看護の心得がある私の母親が対処の仕方の知恵をつけていたようだ。「ひきつけ」を起こした場合は割箸に脱脂綿を巻き付けて口に咥えさせるのである。

嘉手納さんは警察官で沖縄出身だった。沖縄では明治維新の際に廃藩置県の新制度になり、庶民も姓を持てるようになった。大抵の人たちは自分の出身地を姓にした。少年だった私は、そんなことは露知らない。ただ「嘉手納さん」というやや変わった苗字と、大慌てで幼児を抱いた姿ははっきり記憶に残っている。

これは戦争が終わる前の話だが、終戦後この嘉手納さん一家は早々に姿を消した。警察官の一家としては当然の用心だった。日本人は国家権力を失っていた。安東省の権力は重慶の国府側と通ずる旧安東省政府の満洲人首脳たちと、引き続き山東半島から進出してくる共産勢力(八路軍)が握るが、旧警察は真っ先に戦争犯罪人として粛清の対象になった。

我々の小路の一筋隣に藤原さんというお宅があったが、この藤原さんは逮捕されて銃殺された。隣近所の人々が総出で死体を引き取りに行った。
安東市では大掛かりな暴動は起きなかったが、散発的な強盗事件が発生した。我々の小路とは大通りを隔てた対面に、桜荘というマンションがあった。その桜荘に賊が侵入した。
小路の入り口には、われわれの小路と同様、敵の侵入に備えた木製のゲートがあった。賊はどうして侵入したのだろうか。我々の小路の方にもその騒ぎが聞こえてきていた。

暫らくして屋外の騒ぎも落ち着いたようなので、私は二階の窓から恐る恐る桜荘の方を覗いてみた。一人の大人がよろよろとゲートの門を開けて中に入っていくのが見えた。
                 
数日後桜荘の強盗追跡劇の顛末が明らかになった。桜荘の住人達が警報の金盥を叩く音で、一斉に飛び出して賊を追いかけた。一行は藤原さん宅のある小路を走った。どういう加減か、賊は追跡の人たちに紛れて一緒に走っていた。追跡側の一人が曲がり角で賊が、独りだけ別の方向に走り出すのに気が付いて追おうとした。その時に族に腹を刺されたという。

数日後、桜荘で犠牲者の葬儀が執り行われた。私は近所の人たちと大通りに出て見送った。馬車には故人の奥さんが小さな男の子を小脇にして座っていた。蒼白な顔をあげて、キッと前方を睨んでいた。馬車が走り出すとき、奥さんが故人の遺品の茶碗を投げた。「チャリン」、かけらが乾いた音を立てて私の目の前で最後の動きを止めた。その映像と音はいまだに私の脳裏に焼き付いている。

沖縄の「嘉手納基地」の残像から、70年のときを遡って終戦直後の旧満州・安東市の風景へと脳裏でイメージがシフトする。一見平和だが戦闘への緊張を孕んだ今日的な風景と、終戦当時の不安に満ち、圧縮したような空気の対比が奇妙である。 
本文を書いている今日の日は6月23日。偶々沖縄戦終結の69回目の記念日である。

沖縄には7-8回訪れているが、従来機会を逸していた糸満市の「ひめゆりの塔」を訪れた。この場所は、師範学校や県立高女の生徒からなる看護隊の犠牲者の慰霊施設である。沖縄にはかかる民間人の慰霊施設が多数あり、ひめゆりの塔はその一つである。
沖縄戦での民間人犠牲者数は15万人以上といわれ、当時の県民の五人に一人の割合になる。戦場となった沖縄の人々は筆舌に尽くしがたい苦難を味わったのである。

今日の沖縄は米軍基地の問題の悩みをかかえているものの、約70年前では想像もつかなかったと思われる繁栄ぶりである。普天間基地のある宜野湾市に約1か月間、滞在した。長期の滞在でいろいろな発見があった。
まず地域の人々のつながりを強く感じたことが印象深かったことである。小さな子供が、見知らぬ人に出会っても「こんにちは」という挨拶をすることである。
それと毎日決まった時間に街角の拡声器がアナウンスする。朝の7時、お昼時、夕方五時などである。夕方には子供たちへ帰宅を促すのである。
 沖縄言葉で自分はこうするつもりと意思表示するのに、『何々しましょうねえ』という。
沖縄の人たちの優しさを感じさせる折々である。

私もこの辺で、そろそろ筆を措きましょうねえ。               (了)

能登半島への旅

2012-05-29 18:09:55 | ☆ 国内旅行 

ー能登半島への旅ー

 海外でのゴルフの話が続いたので、この辺でちょっと趣向を変えて国内旅行の話を書くことにした。実はこれはFacebookのノートに書いたものの再録である。
 昨年の9月に、能登半島へ2泊3日のツアー旅行に参加した。能登半島にいつかは行ってみたいと、懸案にしていた場所であるが、準備のための下調べを含めて学ぶことが多かった。さらに、実際に足を運んでみると予想を上回る発見の多さに吃驚した。


(1) 能登と海流、そして日本の古代史


 能登半島は本州のほぼ中央で日本海へ突き出している。左手の掌を自分に向けて親指を折り曲げた指の形である。南からの暖流と北からの寒流がこの半島の突端辺で合流している。

実はこの海流が日本列島の歴史の形成に大きな役割を果たしてきたということはあまり知られていない。日本の古代史自体が十分解明されていないことが原因でもある。

 親指の第一関節の場所に輪島がある。その輪島の海岸の北方約25キロに七つ島という無人島があり、その近くで最近北朝鮮の脱北者9名が乗った漁船が発見されニュースになった。

車上でバスガイドがそう説明してくれたが、島影が遠くかすんでいてその数を数えるのに苦労した。

  TVの報道によると、脱北者のリーダーは事前によく研究していて、北朝鮮の監視船に発見されないように海岸から離れた航路をとったそうである。そのために海流に流されて韓国へ向かうことができなかったという。 日本に向かえば韓国に移送して貰えると信じ、そのまま海流に任せて航行してきたと語っている。
 これは古代においても、北方から朝鮮半島の東側沿岸を南下してきた船が海流の影響で能登半島近辺に到着したことを裏付けている。
  大陸や朝鮮半島からの文化の流入に、能登半島に向かうこの海流が決定的な役割を果たしたのははっきりしている。その歴史の刻印が能登半島には豊富に見出されるのである。

 韓国の言語学者の朴炳植によると、弥生時代に朝鮮半島や隣接する中国大陸から二つの文化が流入してきたという。米を作る稲作文化と火を使う鉄器文化である。
 稲作文化は主として朝鮮半島から九州や出雲地方へと入ってきた。1万2千年前の氷河時代には朝鮮半島と九州は陸続きだった。その頃から朝鮮半島と九州の往来はあったそうだ。
 火を使う鉄器文化は船で伝えられた。船で日本列島に渡来し製鉄技術を運んできたのは北方の高句麗族(オロチョン族)である。能登半島や付近の北陸地方がその門戸となった。 

 日本の古代史は神話や風土記や万葉集等に記録されている。素戔嗚(スサノオノ)尊(ミコト)がオロチに酒を飲ませ叢(ムラ)雲(クモ)の剣を奪った神話は、ヤマタノオロチ退治伝説だが、その争いの主は伽耶族と海を越えて渡来したオロチョン族だった。
 そのオロチ退治の舞台は出雲の国である。出雲の揖斐川の流域でその地に先住していた伽耶族の稲作の収穫を奪おうとしてオロチ族が争った史実は、『上記』(ウエツフミ、日本の学界では偽書ともいわれているが)にも記録されている。
 当時日本列島でオロチョン族が青銅器を凌駕(リョウガ)する鉄製の武器をかざして、稲作民族から米を略奪する争いが行われていたのは事実のようである。古代の日本列島を揺るがした稲作族とオロチ族の争乱は、中国の史書である魏志(倭人伝)に『この時代に倭の国に大きな争乱があった』と記述されている。

  能登半島の南部にある羽咋市の北東の郊外に、邑知潟という場所がある。これはオロチ潟のことで、オロチ族の存在が現在も地名に残されている一例である。
 眉丈山の南麓に、東西27キロ幅3~5キロにわたって、標高約5メートルの地溝帯が存在する。周辺で多くの古墳や弥生文化の遺跡が発見されているので、オロチ族の居住地だったと推定できるという。

 日本の神道には信仰の対象に二つの源流がある。

その一つは日輪信仰であり、天照大神に代表される。もう一つは熊信仰である。熊襲という呼び名には、歴史的な理由で悪者のイメージが付与されてしまった感じがしないでもないが、熊信仰とは稲作上の天候(雨)の必要性を代表するものだ。つまり雨乞いの信仰である。
 一方で朝鮮半島では日本列島より一足先に稲作が重要となって、熊信仰が日輪信仰を凌駕して支配的になる。キムという姓は日本では音韻変化をして、キム―コマ―クマになった。    
 キム(金)姓が朝鮮半島に多いのは熊信仰が支配的になったからである。

 言語学者の朴炳植の説では、朝鮮半島でまず百済で稲作が発達した関係で熊信仰になって、引き続いて洛東江の沿岸で伽耶国の一部から興隆した新羅が熊信仰に転向した。倭国日本では伽耶国の流れを汲んだ初期大和朝廷(日輪信仰)の時代に新羅を敵視していたのはこの辺の事情による。だがそれも第十代の崇神天皇の時代迄のことで、九州から東上した第二次大和朝廷の時代には熊信仰になったというのである。


 黒潮(暖流)と親潮(寒流)が能登半島の突端近くで合流している。そこが珠州岬である。寒暖の合流が多種類のミネラルを含む海水を育み、付近の海域は豊かな漁場となっている。それと本州を縦断する地溝帯と海底の海溝がパワースポットを生んでいる。
 富士山(活火山・断層地帯)、分杭峠(長野県、ゼロ磁場地帯)と並び大気の融合地帯として、日本の3大パワースポットと称されている。

 隣接地の海岸に、よしが浦温泉・「ランプの宿」という古式豊かな宿があった。




 この付近に日輪信仰終焉直前の天皇の遺跡ともいうべき神社がある。 珠州岬に近い場所に鎮座する須須神社である。第十代の崇神天皇の御世に山伏山(鈴ケ嶽)の山上に創建された神社である。アマツヒダカヒコニニギノミコト、ミホスズミノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト等が祭神だが、八世紀に現場所に遷座したという。
 高座宮と金分宮の二社だが高座宮は高倉宮とも呼ばれ高麗からの帰化人・高倉氏の氏族神だったとも言われている。
 
 崇神天皇の子第十一代垂仁天皇まではその存在がはっきりしているが、十五代応神天皇迄は不明確なことが多いというのが日本の学者の説である。 仲哀天皇は第十四代天皇だが熊襲退治に向かう途上で謎の死を遂げた天皇で、その存在を否定する学者さえもいる。 
  これが朴炳植の説では、自らの妃の神功皇后と竹内宿祢(スクナヒコ)との謀議によって暗殺されたのだという。仲哀天皇は最後の太陽信仰の天皇になった。
 神功皇后は熊信仰族の娘だったという。皇后は何回も新羅に攻め入っている。伽耶国が新羅に政権を奪われたのを復讐することに執念を燃やした。そのためには熊襲でも百済とでも手を結んだとしている。   
 古事記や日本書紀の編者たちは、意識的にぼかして書いている。神功皇后が仲哀天皇の皇子たちを討つために差し向けた将軍の名は武振熊(タケフルクマ)で、その名から熊信仰の武将であることが明白だと、その正体を明かしている。

 須須神社の大鳥居は東に向いている。参道からこの鳥居を通して正面を見たときの、夕日の輝きの素晴らしさが社伝に紹介されているが、この神社の創建者(日輪信仰の崇神天皇)を象徴する風景である。

 朴炳植の説ではそもそも日本の現皇室の祖先は朝鮮半島から渡来した熊信仰族だという。その根拠は以下の通りだ。
 日本が韓国併合を行ったのは1910年であるが、その5年後に朝鮮総督府は不思議な布告を発した。その布告というのは『金海を本貫とする金氏の系譜は、治安上の理由によって、その発行を禁ずる』である。
  儒教的な家族制度の伝統が特色である朝鮮半島では、金氏は同じ出身地(本貫)の金氏とは通婚はしない。同姓の未知の男女間ではまず本貫がどこかを気にする理由である。
 金海は洛東江の河口、釜山空港がある金海市である。そこを本貫とする金氏の系譜には日本の皇室の祖先が記録されているので、それが明るみに出るのを避けるためであったと朴炳植は解説している。
 さらに朴炳植によれば『金海に位置した伽耶国の始祖金首露王に、10人の王子と2人の王女がいた。その内の七王子は世の中が衰退するのを嫌い、雲に乗って国を離れた』と系譜に記載されているという。

 一方で我が国の記紀に、天孫ニニギノミコト(神武天皇の祖父)が薩摩半島の西南岸に位置する加世多岬に到着して、韓国(からのくに)がよく見える所に定住したと記されている。その移住が天孫降臨という史実である。因みに鹿児島半島には「七隈の里」という場所がある。  

 さらに延喜式という神社の格式を定めた古文書に、天皇自らが祭主となる神に二柱の韓神(からかみ)がある。「オオムナチ=大国主命」とスクナヒコ神である。『広辞苑』等の国語辞典に「朝鮮から渡来した神」と記してある。

 これに関連するが日本ではそれほど大騒ぎにならなかったが、韓国で大騒ぎになったニュースがあった。それは平成天皇が表明した日本と韓国との関係に関する発言である。
  『私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。  武寧王は日本との関係が深く、この時以来日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております』
 なお桓武天皇は八世紀から九世紀初めに在位した第五十代の天皇である。
 大衆レベルでのこの発言に対する反応は大きかった。韓国では日本の天皇が朝鮮に頭を下げたと受け取り、日本では皇室に一時期若干の朝鮮の血が混ざったくらいで大騒ぎすることはない。という反発である。いずれの側も相手を見下している点は共通している。
 約2千年の間海を隔てて、異なった地理的条件の下に歴史を歩んできた両国は別な国々になってしまった。お互いに相手の嫌な部分だけを見てしまいがちだが、その根っこには共通な部分があることに気づいてはいないようでもある。
 それぞれに歴史的に身に付けてしまった相手のイメージに振り回されているのだ。それにしても他国を真に理解するのは難しいものだ。
 
 朴炳植の主張はこうだ。皇室のみならず大和民族の祖先は、北方から海を渡り渡来した高句麗族(オロチ族)と九州や出雲へと移住してきた熊襲族だとしている。 この辺の事情をもう少し詳しく述べると以下の通りである。 
 朝鮮半島の歴史に大きな転換をもたらしたのは中国大陸から稲作の技術が伝播してきたことである。三韓時代の馬韓の国から百済が起こった。洛東江沿岸に位置していた伽耶国は割合狭い地域であったが、百済から米作が伝播して人口が急速に増加する。これが社会的な不安定要因となり、人々は新天地を求めて日本列島へと大量に移住するようになる。
 中国の歴史書の魏志(倭人伝)で倭国とは当初洛東江沿岸の国を意味していたが、後年になって倭国の人々が日本列島に移住したので、日本列島に存在することになった。
 伽耶族は出雲から北陸へと勢力を伸ばし、伽耶族より先に移住してきていたオロチ族は東北から北陸に分布して伽耶族と衝突するようになった。
 伽耶族は南下して現在の奈良地方へと進出してくる。飛鳥とか斑鳩とはこの地に移住してきた伽耶族が洛東江沿岸の故地に因んでつけた地名だと朴炳植はいう。
 奈良はクニの意味であり、飛鳥は古代朝鮮語で希望の地を意味するアサカ(高い鳥)がアスカとなった。斑鳩はヤマバトで、ハ音が抜けてヤマトになったという。
 古代の能登から一挙に日本の古代史の全貌に迫る話になってしまったが、まだまだ能登には古代史の謎の解明に関係する場所が豊富にある。

 朴炳植の主張はさておき、日本や韓国・中国の古代史学者たちはどう考えているのだろうか?それに関して興味ある記事を見かけた。今から10年前の日経新聞『文化往来』の記事である。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で4日間の国際シンポジウムが開かれたとある。討議の集約は次の4点である。①朝鮮半島南部の小国家・伽耶で作られた鉄が日本列島の倭の国家形成を触発した。②4世紀後半から、5世紀初めにかけて日本列島は騎馬文化など新しい文化を受容した。③日本書紀に登場する『任那日本府』は倭の出先機関とは認められない。④伽耶との交易によって入手する鉄材の流通ルート確保を巡って騒乱が起きた。それが2世紀後半の『倭国大乱』だった。                                                       
 朴炳植の主張は存在が確立している文献に基づくものである。国際シンポジウムに参加した学者たちの議論の根拠はよくわからないが両者を比較してみると、その視野と一貫した説明に大きな格差を感じてしまう。

 古代史の謎の解明に関係する場所とは、まず珠洲岬の須須神社と共通の由緒のあるのが気多大社と羽咋神社である。能登半島西岸の根元にあたる場所に羽咋市がある。両社は羽咋市に鎮座している。

 気多大社は崇神天皇のときに創建されている。延喜式では名神大社に列し、能登国一宮とされた。崇神天皇は前記の通り、日輪信仰の天皇として最後の権力をふるった天皇だ。

 社伝によればオオムナチノ命(大己貴命・大国主命)が出雲から船で能登に入り、国土を開拓した後に鎮まったとされている。
 ここ迄は日輪信仰だった伽耶族の話であるが、出雲で勢力を張った伽耶族は能登などの北陸でも覇権を握っていた。そこに新たに登場するのが熊信仰の熊襲族である。両者は九州や出雲地方に渡来してきた熊信仰族である。そして日輪信仰族と熊信仰族の覇権争いが各地で競合する両族の間で繰り広げられる。
 出雲の伽耶族は「国譲りの神話」に残されているが、九州から東上してきた熊信仰族に覇権を奪われてしまう。

 出雲大社では拝礼の際に、柏手を四つ打つ数少ない神社である。これは出雲族の怨霊を鎮めんとする第二次大和朝廷(熊信仰族)の切なる願いだった。

 羽咋神社は崇神天皇の孫の磐衝別命らを祀っている。崇神の子垂仁天皇(第十一代)の命によりこの地に善政を敷いた功績を記したものだ。
  それにしても能登の地名などには、当時渡来した人々が使っていた言葉がその儘残ったのではないかと思わせるものが多い。ケタとかハクイとかの名称を郷土史の専門家に尋ねても、こじつけとしか思えない説明ばかりである。朴炳植なら氷解する説明がありそうだ。
 
 

 さて次はずっと後の時代の源氏や平家に縁の場所である。

 能登半島西岸の志賀町に能登金剛という景勝地がある。頼朝の厳しい追及を逃れて奥州に向かう途上にあった義経が、48艘の船を隠したとされる入り江がある。それは文治2年(1186年)のことであった。



 壇ノ浦の合戦に敗れて能登に流された平家の武将平時忠の子時国は、鎌倉幕府の厳しい追及をそらすために平家の名を捨てて時国家を名乗りこの地で豪農として繁栄の基礎を築いた。一時は北前(きたまえ)船(ぶね)を七隻も所有し貿易で産をなした。 北海道と能登と関西の間を往来して交易をしたのだ。その屋敷が現存し国の重要文化財の指定を受けている。



(2)能登の自然の恵み


 ツアーの3日間は素晴らしい快晴に恵まれたので、印象を強くしたかもしれない。能登は陽光に溢れ、自然の恵みを満喫している豊かな土地柄であった。

 江戸時代の加賀藩は加賀、能登、越中を領地としていた。その越中富山の高岡に前田家の菩提寺を訪れた。国宝瑞龍寺である。三代目利常公の創建になる壮大な伽藍であった。
 随所に隠れた工夫が凝らされている。高岡に城を築いた二代藩主利長公を人知れず神として祀る意図を持ったものであった。東照宮で神として祀られた家康に遠慮したためだ。
 江戸幕府は能登に根を張った加賀藩を羨むあまり、能登の一部に天領を設けた。

 輪島の朝市は地元の海の幸や山の幸を売る屋台が目抜き通りに長々続いている。市民の生活用品と。観光客のお土産の需要で賑っていた。
 輪島で「塗匠・しおやす」の工場を見学した。埃を一切シャットアウトした気密室で、完成まで幾重もの工程を繰り返す。まさに日本工芸の粋を見た気がした。



また蒔絵の上塗りは著名な芸術家が担当し、わが国が世界に誇れる美術品となる。

 また能登には世界農業遺産に指定された里山や里海が各所にある。輪島市の郊外にある「白米(しらよね)の千枚田」は、肌理の細かい土地利用が巧まずして美しい眺望を作ったものだ。また珠洲市の揚げ浜塩田は、昔ながらの製塩法の実演で観光客を楽しませていた。汲み上げた海水を揚げ浜という砂床に撒き、さらに窯で煮詰め、塩へと純度を高めていく。能登半島の塩はミネラルが多く、「にがり」にも効用が多いという。瓶詰にして販売していた。


 自然の恵みへの感謝はお祭りで表現される。今回は見る機会はなかったが、ユネスコの無形文化遺産として認定された「あえのこと」という田の神へ感謝をする行事がある。またキリコ祭りという奉燈祭が能登各地で行われている。


(3)外界に向いて開かれた能登


 能登には江戸時代に北前船の貿易で繁栄した村が多い。前述の時国家も北前船を何艘も所有して交易をおこなった。

 国内ばかりでなく、外国との交流もあった。奈良時代から平安時代の728年から922年迄の間に、34回渤海国の使節が日本を訪れた。(北陸地方が主体だった。そのうち能登へは3回)能登では、羽咋市志賀町の福浦港が受け入れ港だった。福浦港は切り立った入り江を持ち、風を避けることができる天然の良港だった。ここには使節が宿泊する客院もあった。



 なお福浦港に近い場所に北前船の記念館があった。その外壁は実物大の北前船になっており、当時の英姿を偲ばせた。

 当時渤海国は唐や新羅と対立しており、日本と外交関係を緊密にすることで唐や新羅を牽制する狙いがあった。日本からも728年から811年までの間に13回使節を派遣している。  
 渤海は高句麗が滅亡した後に、その遺民によって建国された(698年)。二百年存続したが西の契丹(のちに遼となる)により滅ぼされる(926年)。
 6年前にこの渤海国遺跡を訪れたことがある。黒龍江省の東北方面の中心都市は牡丹江だが、そのやや南方に寧安市がある。寧安市の郊外に「渤海上京遺祉」があって、渤海の首都の遺構をそのまま保存してある。 
 渤海人は満州族の祖先であるが、その博物館にある展示品は唐の文化の影響を強く感じさせるものだった。砕石を高く積み上げた高さ数メートルの城壁の内部には、広大な緑野の敷地が展開していた。

 遺構の敷地の手前に石塔が立っている。そこに「渤海国上京龍泉府遺祉」と彫られている。 その台地に登る何段かの石段があって、その手前に石造の献花台がある。それがどう見ても日本式なのだ。ガイドを呼んで調べて貰ったところその経緯が判明した。
 旧満洲国建国の初期は地方の治安が不安定であった。日本からの調査団が訪れて来て、渤海遺跡の調査をしていた最中に反日ゲリラに襲撃されて数名の学者が殺害されたという。
 その石塔は満洲国時代に建立されたその遭難者を慰霊する記念碑だった訳である。現中国が石塔の碑文だけを掘りなおして、渤海遺祉の塔に再利用したものだった。
 クヌギ林に囲まれた石塔の台地やこの遺跡の周辺には、人影もほとんどない。爽やかな風が、七十年昔の惨劇を忘れたようにさらさらと葉擦れの音を立てて通り過ぎていた。


 渤海国の遺跡を見た経験があるだけに、福浦港の歴史がとても身近に感じられた。

福浦港遠景


 能登半島にはもっと遠い時空につながる場所がある。

 気多大社の本殿の左側に「入らずの森」と言う原生林が広がっている。広さ約1万坪の国指定天然記念物である。誰も入ることは許されず、年に一度だけ大晦日に大社の宮司が「奥宮例祭」を行なう場所である。



 この界隈では昨今のみならず過去百年以上にわたり空飛ぶ円盤が飛来したという記録が残されている。それも関係するのであろう。羽咋には「コスモアイル羽咋」という宇宙博物館がある。このツアーでは立ち寄れはしなかったが、アポロ宇宙船の実物などや 様々な宇宙開発機材が展示されているそうだ。UFOや地球外知的生物に関するコーナーもあるという。


 羽咋に残る古文書には『西山(現眉丈山・オロチ潟の北)の中腹を東より西に移りゆく怪火を……』とある。また気多大社には『成山飛行虚空神力自在而』と期された文献集が残っている。 これらは専門家の注目を集め、UFO飛来の記録ではないかと言われている。

 能登半島には古い由緒を持つ神社や仏閣が多い。所謂霊性の高い「気」に満ちている。

 精神的に進化した「動物」である人間の「魂」というものがいったい何であろうかということとか、さらにそれが時空の枠を超えて宇宙に向かって開かれていることを暗示していて興味深い。(了)