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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

沖縄にて

2014-06-24 22:16:35 | ☆ 国内旅行 
沖縄に約1か月間滞在した。
期間中嘉手納飛行場を訪ねた。嘉手納飛行場は4千メートルの滑走路を2本有し、東洋一の空軍基地と言われている。というので、その広大な飛行場を見物に訪れたのである。
折から爆音を響かせてジェット戦闘機が着陸している。我々は展望席に登り飛行場を見渡していた。展望席の中央はメディアの専用席になっていて、一般席は端の方にあった。
空港の敷地の一部の空き地は農耕が許されていた。広大な滑走路とその片隅の畑は奇妙なコントラストであった。

人生80年を過ぎると何となく昔の記憶が循環するように甦ってくる瞬間を感じることがある。嘉手納基地を訪ねた際、私の10歳当時の記憶が突然甦ってきたのだ。

私の少年時代に、わが家族は旧満州の安東市(現丹東市)に住んでいた。安東市の新市街は日本人が作った町で、終戦までは日本人が住む町だった。我らが住所である安東市の大和区6番通6丁目は、今でいう2階建てのマンションだ。表通から数軒の長屋があって、奥に向かって小路で繋がっていた。奥の何軒目かに嘉手納さん一家が住んでいた。
ある日嘉手納さんが大声をあげ血相を変えて、幼児の息子を抱き表通へ飛びだしていった。そのとき看護の心得がある私の母親が対処の仕方の知恵をつけていたようだ。「ひきつけ」を起こした場合は割箸に脱脂綿を巻き付けて口に咥えさせるのである。

嘉手納さんは警察官で沖縄出身だった。沖縄では明治維新の際に廃藩置県の新制度になり、庶民も姓を持てるようになった。大抵の人たちは自分の出身地を姓にした。少年だった私は、そんなことは露知らない。ただ「嘉手納さん」というやや変わった苗字と、大慌てで幼児を抱いた姿ははっきり記憶に残っている。

これは戦争が終わる前の話だが、終戦後この嘉手納さん一家は早々に姿を消した。警察官の一家としては当然の用心だった。日本人は国家権力を失っていた。安東省の権力は重慶の国府側と通ずる旧安東省政府の満洲人首脳たちと、引き続き山東半島から進出してくる共産勢力(八路軍)が握るが、旧警察は真っ先に戦争犯罪人として粛清の対象になった。

我々の小路の一筋隣に藤原さんというお宅があったが、この藤原さんは逮捕されて銃殺された。隣近所の人々が総出で死体を引き取りに行った。
安東市では大掛かりな暴動は起きなかったが、散発的な強盗事件が発生した。我々の小路とは大通りを隔てた対面に、桜荘というマンションがあった。その桜荘に賊が侵入した。
小路の入り口には、われわれの小路と同様、敵の侵入に備えた木製のゲートがあった。賊はどうして侵入したのだろうか。我々の小路の方にもその騒ぎが聞こえてきていた。

暫らくして屋外の騒ぎも落ち着いたようなので、私は二階の窓から恐る恐る桜荘の方を覗いてみた。一人の大人がよろよろとゲートの門を開けて中に入っていくのが見えた。
                 
数日後桜荘の強盗追跡劇の顛末が明らかになった。桜荘の住人達が警報の金盥を叩く音で、一斉に飛び出して賊を追いかけた。一行は藤原さん宅のある小路を走った。どういう加減か、賊は追跡の人たちに紛れて一緒に走っていた。追跡側の一人が曲がり角で賊が、独りだけ別の方向に走り出すのに気が付いて追おうとした。その時に族に腹を刺されたという。

数日後、桜荘で犠牲者の葬儀が執り行われた。私は近所の人たちと大通りに出て見送った。馬車には故人の奥さんが小さな男の子を小脇にして座っていた。蒼白な顔をあげて、キッと前方を睨んでいた。馬車が走り出すとき、奥さんが故人の遺品の茶碗を投げた。「チャリン」、かけらが乾いた音を立てて私の目の前で最後の動きを止めた。その映像と音はいまだに私の脳裏に焼き付いている。

沖縄の「嘉手納基地」の残像から、70年のときを遡って終戦直後の旧満州・安東市の風景へと脳裏でイメージがシフトする。一見平和だが戦闘への緊張を孕んだ今日的な風景と、終戦当時の不安に満ち、圧縮したような空気の対比が奇妙である。 
本文を書いている今日の日は6月23日。偶々沖縄戦終結の69回目の記念日である。

沖縄には7-8回訪れているが、従来機会を逸していた糸満市の「ひめゆりの塔」を訪れた。この場所は、師範学校や県立高女の生徒からなる看護隊の犠牲者の慰霊施設である。沖縄にはかかる民間人の慰霊施設が多数あり、ひめゆりの塔はその一つである。
沖縄戦での民間人犠牲者数は15万人以上といわれ、当時の県民の五人に一人の割合になる。戦場となった沖縄の人々は筆舌に尽くしがたい苦難を味わったのである。

今日の沖縄は米軍基地の問題の悩みをかかえているものの、約70年前では想像もつかなかったと思われる繁栄ぶりである。普天間基地のある宜野湾市に約1か月間、滞在した。長期の滞在でいろいろな発見があった。
まず地域の人々のつながりを強く感じたことが印象深かったことである。小さな子供が、見知らぬ人に出会っても「こんにちは」という挨拶をすることである。
それと毎日決まった時間に街角の拡声器がアナウンスする。朝の7時、お昼時、夕方五時などである。夕方には子供たちへ帰宅を促すのである。
 沖縄言葉で自分はこうするつもりと意思表示するのに、『何々しましょうねえ』という。
沖縄の人たちの優しさを感じさせる折々である。

私もこの辺で、そろそろ筆を措きましょうねえ。               (了)

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