私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか
『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。
そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
今回はその第一号で『ミャンマーでゴルフをした昔話』と題したものである。
―『ミャンマーでゴルフをした昔の話』―
ミャンマーにもようやく民主化の動きが出てきた。軍事政権の強圧政治が国際世論の非難に晒されていたが、この国にも変化が訪れた。アウン・サン・スーチー女史が議員に選出されて、いよいよ議会に登場する運びとなった。
私がビルマ(現在のミャンマー)でゴルフをしたのは、今から41年前のことだ。当時私は香港に駐在していたが、 ビルマの首都ラングーンに出張した。
そもそも仕事先でゴルフをした経緯とは、以下の事情によるものである。
ときはネ・ウィン将軍の軍政時代である。ビルマは鎖国状態を脱して一般旅行者に門戸を開いたばかりであった。出張の日的はこの国の経済開発がどう進展して行くのかということや、金融機関の実情がどうなっているのかを調査することであった。
ところが現地に着いて見て、 自分がまるで認識不足だったことに気が付いた。ビルマは一応開国したとはいうものの、未だ鎖国時代そのままの政治的緊張を脱しては居なかった。つまり外界に対して極めて神経質な国だったのである。さすがに41年経った今はこの国も大分変化してきているようである。最近のテレビの映像によってもその変化が窺える。
現地の或る日系商社の駐在員の人が真剣に思告して呉れた。
『観光ビザで入国して調査まがいの活動をすると手が後ろに廻わることになる』
ラングーンには幸いゴルフ場があるので『まあゴルフでもやって行って下さい』と言うのである。
『駐在員事務所にはローカルスタッフの目がある。ホテルにも私服の治安刑事がウヨウヨして居ると思った方が良い』と信じられない様な話だった。
『日本語が分かるのが結構居るし、ホテルの部屋にも盗聴器が仕掛けてあるので うっかりした事は言えない』
『現地事情の話なら青空の下でゴルフをしながらレクチャーするのが一番安全だ』と言うのだった。
さあ、えらいところに来てしまった。というのがその時の偽らざる心境だった。
かくして図らずも、開国早々の社会主義国ビルマの首都ラングーンにおいて、ゴルフをする羽目になったという次第なのである。
ゴルフ場は郊外にあつた。着いて見て内心ウーンと唸ってしまった。ラングーンの街の様子を見ていたので、ある程度予想は付いていた。ゴルフ場は極端な表現をすれば「元ゴルフ場」と表現した方がふさわしい状態だった。クラブ・ハウスが古ぼけているのは仕方がないとしても、ほとんど補修らしいことをした形跡が見られない。まさに時の流れに任せ、自然に古ぼけてきているという感じがする。
季節は雨期が終わって乾期に入ったところだ。フェア・ウェイは禿げチョロケの状態だ。ラフは草ぼうぼうである。コース内に点在する池には泥水が満杯になっている。のんびりアヒルが泳いでいる。遠くでは畑を焼いているのか、あちこちに煙がたなびいている。その逢か向こうには、金色に輝くパゴダ(仏塔)が見える。すべてが長閑で、時の歩みがゆっくりしているように感じられる。
暫く待たされた末にやっとキャディが姿を現した。キャディはコースに常駐して居る訳ではない。お客さんの求めがあってから、招集される。従って時間が掛かるのである。私に付いて呉れたのは、17~18オの娘さんである。近くにある国営のタバコエ場の女工さんだという。つまり公務員なのだ。
特に遠来のお客さんの為に『公務』を投げ打って駆けつけて呉れたという訳である。
勿論キヤディ・カートという文明の利器の姿は無い。フルセットの重いゴルフ・バッグをこの娘にずうっと担がせてゴルフをするのだろうかと、いささか気になるところであった。
ところが一番ホールでティ・オフした後にふと見ると、その心配も紀憂であることに気が付いた。彼女の傍に子供たちが詳がって居る。物珍しく見物して居るのかと思えばさにあらず、我がキャディ嬢を総領に頂く、一家の兄弟姉妹であった。総勢7~8名、ゴルフ・バッグは彼らの間でたらい廻しにされて運ばれて行く。兄弟姉妹同志が我先にと力を合わせている姿が微笑ましい。
逢か前方の左右のラフの辺りにも、子供の影がチラホラする。気になってフォアーと声を掛けるが一向にお構いなしである。キャディが打てと催促するので、気にしながらひと振りしたところ、これが大スライス。打球は弧を描いて深々としたラフヘ消えた。ところがその子たちが素早く見つけだして、ボールのある位置に立って居て呉れた。
鼻汁を手の甲でこすった跡が頬に髭の形についている。黒い宝石のような目をキラキラと輝かせてこちらを見上げる。その姿は無邪気な裸足の天使といった風情である。可愛さはこの上もない。
ボールを池に打ち込んでしまっても、お安い御用と飛び込んで拾って来て呉れる。そうこうして数ホールを過ぎる。彼らは『この旦那はスライス打ち専門だ』と見たらしい。抜目なく、専ら右手のラフで待機するようになった。純真そのものの子供と思っていたのに、ちょっと憎い。
コースを回りながら、案内の商社の人から色々と現地での苦労話を聞く。とにかく日常の生活物資が絶対的に不足しているそうだ。3名の邦人駐在員の生活を維持して行く為には、半年に一度日本へ誰かが出張して業務の連絡を兼ねた買い出しをして来るという。一回にトランクで30個分の荷物を持ち帰って来るそうだ。
わが国から自動車や家電製品の合弁工場が進出している。しかしそれは戦時賠償の経済協力の一環であって、外資としては例外的な存在である。従ってこの国の経済開発の道のりはまだまだ遠い。等々……。
『のんびりと平和そのものに見えるでしょうけど………此処では油断出来ないのです』と同行の駐在員の話が続く。
『数年前迄は、日本の十大商社は皆ラングーンに事務所を持っていたのですが。今はご覧の通り我々だけです。他は全部撤退してしまいました。それというのも大事件が起きましてね。それは、語るに落ちる酷い話ですよ』
『大事件ってなんですか?』
『邦人駐在員が全員ブタ箱にブチ込まれたのですよ。駐在員事務所たるものはそもそも商取引をすることは出来ないのに、実質的に脱法行為をやっているというのです。日本の大使館が奔走してくれたのですが、それでも出てくる迄に一週間掛かったそうです』
『その牢屋というのが、この国の事でしょう。まさに想像を絶する場所だったそうです。床は土間なのですが、泥濘の湿地でヒルが居る。暗間の中で足を這い上がってくるヒルを、足で払い落としながら待ったのでした。横たわることもできず、壁に身を凭れかけてただひたすら心の中で時を刻んで耐えるのです。―週間で皆まるで別人の様に痩せこけました。そして惟眸しきって出て来たそうです』
『油断出来ないといえば、総てに於いてなのですよねえ!』と呟きながら相手はキヤディ嬢の方をチラリと見遣る。私もつられて彼女を見る。成程彼女は弾む様な褐色の肌にうっすらと汗を浮かべている。なつめの実のような円らな唇が魅惑的である。おまけに一寸なまめかしい仕草でほつれ毛を直している。
『元々この国の人達は割合開放的なのです。……つまり性的にという意味ですけど。女性も情熱的というか。それでつい情にほだされてしまう。……結婚を迫られて駄目となると、密告される。それで即刻に日本へ強制送還になった人もいたそうですよ』
夢中で聴耳を立てて居ると、突然傍らで『モオォッ』と牛の鳴き声がして仰天する。日が高くなってとても暑い。辺りの風景が陽炎の中で揺らめいて居る。―瞬物音が消えて、時の流れが止まった。…………
ラングーンの街を見て回ったときの、あの奇妙な印象が今でも脳裏にはっきりと残っている。主要な建物は皆イギリスの植民地時代に建てられたものだ。古色蒼然としていて殆ど手入れの跡もなく並んでいる。何故か映画『外人部隊』で見たアルジェの場末の街並を思い出す。建物の天井は空虚な位高い。頭上で大きな扇風機が物憂げに回っているのも、映画の一シーンとそっくりだ。コロニアル・スタイル(植民地風)というのであろうか。街頭の人の数も多く街は雑然としているのに、妙にあっけらかんとしている。
何故かしらと首を傾げている内にやつと気が付いた。要するにごみが見当たらないのである。清潔というのとも一寸違う様な気がする。特に紙屑というものが全然ない。紙はこの国ではたいへんな貴重品なのであった。
ゴルフをして街を見たその夜、ホテルのベッドの上で反転しながら眠れぬ長い時間を過ごした。昼間に見聞きしたことが、次から次へと験に浮かんでは消えて行く。太平洋戦争のときに日本がしたことが、この国の状況にどのように関わって居るのか? 当時はまだ不勉強でよく分からなかったが、心に重かった。
その晩夢の中に托鉢の僧侶が現れた。それは、映画『ビルマの竪琴』で主人公を演じた安井昌二であった。
続いて昼間に会ったキャディ嬢が現れた。娩然と微笑んで『私を日本へ連れて行って』とせがんだ。
その後41年という長い年月が経った。社会主義を標榜する軍事政権の下でミャンマーはすべてが停滞していた。この国にも国際情勢の波が押し寄せてきた。民主化運動が弾圧され、困難な時代が続いてきたがこの国も遅ればせながら民主化の道を歩み始めた。ノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チー女史が民主化運動の旗手を演じている。軍事独裁の社会体制の在り方が物事の停滞を生んだのだが、最近の情報化社会という世界的な潮流が人々の政治的な欲求を刺激したのであろう。
素朴なビルマの子供たちと心を触れ合いながら牧歌的なゴルフを楽しんだ一日だったが、当時はその陰に厳しい現実が隠されて居るとは どうしても信じられない気がした。
それともあの頃あの場所にゴルフ場があってゴルフが楽しめたことの方が、時の振り子のひと揺れからこぼれ落ちた、唇気楼のようなものだったのかも知れない。(了)