私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に、外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した 『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。
そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
―その6バリ島でのゴルフ・神々と精霊の棲み家で一
バリ島には未だ2回しか訪れていない。私の知人にバリの魅力に取り付かれた人がいる。27回も行つたそうだ。それ位バリには人を捉えて離さない何かが確かに有る。バリの魅力を一言で言うならば、夢見心地の熱帯の自然の中で人々が神々と日々対話をしながら暮らして居るということであろうか。
この文章を書いたのは、家族とバリに滞在してから7年後だった。それからもう18年もたってしまった。季節は2月で雨期であった。バリの風物と人情が忘れがたかった。
2回目は家内との二人旅で、現地は乾期であったが暑さはそれ程気にならなかった。
日程の関係で出来合いのソアーに乗ることにしたが、ツアーのオプションにバリ高原のゴルフがあつて,神秘の匂いのするバリの風土でゴルフをしてみたいと気をそそられたのも大切な動機ではあった。
島の南端のヌサ・ドウアのホテルから北部高原のハンダラ・ゴルフ・クラブまで車で約2時間の行程で、それ自体が一寸した楽しいツアーである。
朝日が未だそれ程高くないのに、いきなり葬式の列に出くわす。大勢の人々が櫓を運んで来る。その格は金色や派手な彩色の紙や布や花等で飾り立ててある。ガイドに聞くと火葬にした骨を海に撒きに行くところだと言う。葬列は決して厳粛な感じではなく、スタスタと小走りに行く。
バリで葬儀を見るのは初めてではない。最初のときは、お祭りの山車の行列かと思った位である。死者の霊が天国へ昇る儀式と害Jり切っているのか、人々に悲しみの表情は見えなかった。
……村の誰かの家で人が死ぬ。物見の塔でナンダの木の太鼓を打ち鳴らす。3回連打が、弔いの合図だ。村の集会所はたちまち村人たちで一杯になる。森にこだます大鼓の音……
一般の庶民は葬式の費用を貯めるまで死者を一旦土葬にしておくと言う。こんもりと昼なお暗い林の中で、頭を垂れる弔いの人々の姿を見掛けたことが有った。墨絵のように美しい風景と不思議なやすらぎが漂っているのが心に残った。
見上げるとはるか空高く、一群の鳥が翔ぶ。あんな高さを翔ぶ鳥が有るのかと眼を凝らすとどうやら白鷺の群れらしい。長い首を前に突き出して羽を後方に、みずすましの姿で空を渡る。あれはもしかすると、人と魂が連れ立って天に昇るところなのだろうか。
我々を乗せた車は街や村を駆け抜けて行く。家々の門口には石に簡単な彫刻を施した台のようなものが必ずと言っていい位有る。
バリの人々は、悪霊が悪さをしないようにと毎日お供えをするのである。
門口の魔除や屋敷の中の祠に、花と線香と聖なる水や餅などを供えるのは、大抵は子供の役目だ。澄んだ眼をした女の児が、椰子の葉の皿に餅を置く。聖水を振り掛けて小さな手を合わせる。するとその隙に後を付けている犬がお供え物をパクリとやる。少女は全く頓着せず次のお供えを置く。するとまた犬がパクリとやる。
すべての生きとし生けるものに『神と精霊のお恵みあれ』という風景で心が洗われる思いがする。
バリの宗教はヒンドゥーであるがインドの其れとはかなり違う。元々の土着の宗教とミックスしたもので、その根底にはアニミズムが色濃く有るようだ。バリでは殆ど毎日どこかしらで祭りが有るというが、竹のように細い木の先端に椰子の葉で編んだぼんぼりの飾りを吊るし軒先に立てている。丁度芭蕉の葉のような形であるがそれが山を象徴しているのだそうだ。そして山は精霊が宿る最も尊いところだと言われている。
我々の目指すゴルフ場は1200メートルの高地に有った。
クラブ・ハウスはバリ風のバンガロー・スタイルの建物だ。入り口には悪霊除けの石像が睨んでいる。植え込みのブーゲンビリヤの鮮やかな紅色が目に沁みる。
コースは背後に聳える緑濃い山の懐に抱かれて、なだらかにうねるように展開する。
遥か前方には青い水を湛えた湖が、樹間に顔を覗かせて居る。明るい陽光が燦々と降り注いでいるのに、背後の山から雲が立ちのぼり樹林を覆い始めた。余分な物音は風景の中にみんな吸い取られてでもしまうように辺りは静かである。
一応スタート時間の予約をしてあったが、コースは余り混んでいる様子はない。インコースの方から家内と二人だけでラウンドしたい』と 申し出るとあっさりOKとなった。 万歳!これで煩わされずバリでのゴルフを満喫出来ると言うものである。実はそのゴルフ・ツアーには若い日本人男女のカップルの同行者が居たのだが、同じ組でスタートするのは勘弁して欲しい心境だった。 と言うのはホテルでの集合時間に30分近く遅刻しておきながら、一言の詫びもなく平気なのだ。一方、早朝のホテルのコーヒー・ハウスで4~5人の中年の日本人の男女連れを見掛けた。何となく水商売風の女性が相手の男性に『社長、社長』と連発しながら辺り構わず下品な高笑いを振りまいて居た。行き先が同じでなければと案じていたのに、悪い予感が的中してクラブ・ハウスでまた出会ってしまったのだ。折角憧れのバリ島に来たのだから、 こういう疎ましい同胞から少しでも離れた処でプレイしたいという気持ちだった。
でだしの10番ホールはフェア・ウェイの広々したミドル・ホールである。最初のティー・ショットはナイス・ショット、白球が生き物のようにスルスルと伸びて行く。高地のために球が良く飛ぶせいに違いないが、それにしても不思議な感じである。
周りの樹々のたたずまいが眼を引く。見上げるような大木の頂上に火炎のような紅い花々が咲いている。そうかと見ると同じような大木が今度は白い厚い花弁をいっぱい付けている。可憐な花を付けるだけの小さな花木を見慣れた目には不思議な姿である。風で地に落ちた花を見ると、まるで鳥の亡骸のように痛々しい。
確か14番のショート・ホールはクラブ・ハウスの方向へ打つ、距離の長いホールである。
クラブ・ハウスの背景に、丈の高い立派な糸杉が群生しているのが見える。糸杉はそこばかりでなくコースのあちこちにすうっと立っているのである。西欧では、糸杉は人の昇天を象徴すると聞いたことがある。この木を見ていると、何となく厳粛な思いに囚われるから妙である。
まるで幽霊が長い髪を垂らしたような風情の樹を見た。キャディに名前を聞くと『テュマラー』だと言う。若木のうちは糸杉に似ている木だ。そして面白いことに、糸杉の名は『テユマラー・リリン』と言うのだそうだ。
ふと気が付くと、いつの間にか辺りはどんよりと雲が低く垂れ込めて来た。
ショート・アプローチでグリーン脇の浅いラフにボールを打ち込んだとき一寸不思議なことが起きた。白いボールが草の中に一旦消えてからはっきり九い白い姿が浮き上がりそしてまた消えてしまったのである。傍に近づいて見ると、細かい羊歯のような葉の陰にボールが沈んでいる。拾い上げようとして手を触れるとボールの周りの草がへたへたという感じに身をかがめるのであった。プトリ・マルーと言う草(眠り草とでもいうのか)の罪のない悪戯だった。
山の方から、突然一陣の風が霧の様な驟雨を運んで来た。隣のコースとの境に、トンボの羽を数枚に増やし長い尻尾の先を地面に突き刺したような形の木が幾本か立って突風に揺れている。その先のこんもりとした木立の陰から一人の小女が姿を現し、 きらりと光る眼差しでこちらの方を伺う。それはもう何度も見たバリ・ダンスの一場面からそのまま現れたように、見えたのである。
……ヒンズーの神話の物語。黄釜色の鹿を追って森に入った夫のラーマに取り残された、美しいシータ姫の踊り……
バリの踊りは神々に捧げる宗教的な行事だ。女性の踊り手の所作は繊細な優美さに溢れ、 まるで天上のニンフの動きを見るようである。とくに素早く閃くように変わる眼の動きがとても印象的で、視線が真っ直ぐこちらを向くと心を射止められるような気がする。繊細に震える指の表情としなやかな腕と肩が作る線も、造化の神の贈り物のように美しい。
突風も収まり雨も去った。少女の姿も消えた。一瞬の出来事だったが、 よく思い返して見ると確か少女はカーキ色の服を着ていたような気がする。あれは他の組に付いていたキャディだったのであろうか。それとも一瞬の幻を見たのか。……
イン・コースのハーフのプレイを終えると日本流に昼食を取る。海外ではワン・ラウンドを済ませてから食事というのが一般だがこのクラブは日本の広済堂の経営だそうで、日本式になっているのだろうか。
食堂の正面には、いかにもバリ風のお祭りの祭壇のような飾りつけがなされている。色々な種類の果物、餅或いは花や草の葉などを幾層にも積み上げ、美しく飾り付けている。そして華やかな天蓋が一対、祝祭の雰囲気の上にふんわりと傘を広げているのである。
午後にはまた陽光の中でプレイを続ける。ハンディキャップ1の難しいミドル・ホールには第2打地点の前方を斜めにデイッチ(溝)が走る。折角ドライバー・ショットが良かつたのに、 2打目をトップしてボールはディッチに消えた。
すると誰も居ない筈の溝の中から、幾つかの小さい首がこちらを覗くではないか。
乾期だから溝の中には水はない。それなのにボールを拾ってチップをせがもうというのか。心の中で舌打ちをしながら近づく。溝を覗き込んだが子供たちの姿はない。向こうの森に人影が消えるのがちらりと見えたようだが、気のせいかも知れない。ボールはと見れば、何と溝の中の小高いマウンドに、『 さあどうぞその儘お打ち下さい』とばかりに鎮座していた。そしてその傍らには白い鳥の羽が落ちていた。家内に聞いてみると、家内は最初から子供等の姿など全然見ていないと言う。するとこれは全くの偶然なのか。それとも矢張り何者かのなせる業だったのだろうか。
長い一日のプレイを終えて迎えのバスに乗り込んだ。また突然霧のような驟雨が襲って来た。つい私はバスの窓に顔をすり付けて、深い樹立ちに眼を凝らして何者かの姿を探してしまうのであった。(了)