ーその3革命前後のイランでのゴルフ
ー乾きを癒やしてくれる命の水一
私は革命前後のイランに駐在した経験が有る。現在も中東は揺れ動いているが、まさに中東が激動し始めた時期に身を置いたのだ。
イランの首都テヘランには、当時のイラン皇帝パーレピが作ったゴルフ場があった。当時事情の知らない友人に話をすると、中東と言えば砂漠を想像するらしく、グリーンは砂で固めて有るのではなどと誤解されたものである。ところがラフに岩場があったりするくらいで、フェア・ウェイもグリーンも青々としている。兎角潤いに乏しい乾燥地帯の生活にとってそれは文字通りオアシスそのものであった。中東と言えば、まず砂漠のイメージが先に立つ。どうしてそんな所にゴルフ場らしいゴルフ場が出来るのか、そこから説明しないと話が分からない。その鍵は水である。砂漠は水さえ与えれば、たいへん肥沃な土地と化す。砂漠といっても、サハラ砂漠のようにさらさらした砂ではない。乾いた土漠である。その土壌は植物によって養分を収奪されていないので、水さえ有れば命が甦る。テへランはアルボルズ山脈の南麓に展開する高原都市である。5千米を越す山々から雪解けの水が豊富に流れて来る。テへランのゴルフ場は無数の散水栓を張り巡らし、人工的に緑を保っているとてもコストの掛かったゴルフ場だった。
テヘランでゴルフをして見て最初にびっくりしたのは、 自分が急にロングヒッターになったような妙な気がした事である。どう見ても、ドライバーが20-30ヤードは良く飛ぶのである。どうやらその理由は高地であることと空気が乾燥している為らしい。(因みにゴルフ場のあるのはテヘランの最北端の海抜1300メートルの地点であった)
夏になると、日なたでは摂氏40数度になる。よくそんな猛暑の中でゴルフが出来るものだと思われるかも知らないが、意外に平気なのだ。まずホースで水を頭からかける。2 - 3ホールもするとすっかり乾いてしまう。そんなことを何回か繰り返すのである。ただ空気が乾燥しているので、直射日光さえ遮ってしまえば、さほど暑さを感じることもない。パラソルをさすか帽子の後ろにハンケチを挟んで首筋を覆っておけばよい。あえて水をかぶることもない位いであった。
水をかぶって涼をとって、アルボルズ山脈をめがけてロング・ドライブを打つ。その爽快感は今でも忘れられない。
背の低い灌木程度しか生えていない山肌は遠目にはごつごつした岩山にしか見えない。テヘランの北を高くて長い灰色の壁が厳然と遮っているので、随所で山容が眼前を塞ぐ。ボールを打つとすぐ届いてしまいそうな錯覚に陥る。眼を転じると山から流れ下ったせせらぎが、コースの中をうねって行く。手を差し延べて見る。びっくりするほど冷たく、そして透明で疾い。
ラフにボールを打ち込むと一寸厄介だ。渇ききった土壌のあちこちに、岩が露出している。ドライフラワーのように固い雑草が群生する。 おまけに、たちまち棘や種子がズボンに纏わり付いて手に負えなくなる。固い穀の中に宿った命の強かさを見る思いだ。
フェア・ウェイやグリーンは念入りに緑を保っているものの、やはり辺りは紛れもなく乾き切っている。イランで生活するようになった当初は、人の心さえ乾いている様に感じられたものである。
クラブ・ハウスの受付が見た目は素敵なベルシャ美人であったが、愛想の無いこと甚だしい。物を平気で投げて寄越す。折角の白い肌や、彫りの深い顔立ちが泣くというものである。
アラビアン・ナイトの本の挿絵から抜け出して来たような男前のキヤディが付いたりするが、見とれて居る訳にはいかない。バッグの中に入れて置いた筈のニュー・ボールが何時の間にか消え失せる。おまけにコースの途中でしつこくチップの要求を蒸し返えしてくる始末だ。
ゴルフの時ばかりでなく日常生活でも、色々な経験を通して新しい習慣が身に付く。現地の人と対する時は何時も油断なく身構えて居なければという心構えを忘れてはならない。これも厳しい自然条件の中で生きて来た砂漠の民の流儀であろうか。
『アラビヤのロレンス』という映画をご覧になられた方は、その感覚が理解できるのではないかと思う。映画の冒頭に他部族の男が井戸水を盗みにに来て、その場で問答無用で撃ち殺される衝撃的なシーンが登場する。
イランの人たちの心が多少なりとも覗けるような気がするまでに、しばらくの時を要するのであった。
それはあたかも乾いた地表の下に、隠れた水流を見るようなものであったが。
夕暮れのコースはたとえようもなく美しい。遠く霞む街に夕日が落ちて行く。反対方向の空には、三日月が見える。するとスプリンクラーが一斉に作動し始めて、コースのあちこちで虹が舞う。
中東では、何故か夕暮れ時が一番美しい。佇立するモスク(回教寺院)の尖塔が夕映えに輝く。人々を祈りへ誘うアザーンの詠唱が長く尾を引いて響く。それは拡声器を通じて物悲しい安らぎの音色で、人の心に沁みてくる。
プレーを終えた後のビールは、まるで命の水を飲む心地であった。汗をかいた後の快楽でもうひとつ忘れることのできないのは、冷やしたハラボゼの味である。抱きかかえる位に大きい瓜の一種である。輪切りにして、なかの種を除き賽の目に切って頬張る。歯触りがサクサクとして、しかも甘さに厭味がない。芳醇な果汁が口の中に溢れてきて、たいへん爽快である。西瓜は現地では『ヘンダワネ』と呼びこれもなかなか美味しい。旬の時期は『へンダワネ』が先で、それから『ハラボゼ』がやって来る。
我々邦人駐在員は、よく『ヘンダワネ、わたしハラホぜになったみたい』などと罪のない冗談の種にしたものである。
乾燥地帯にはそれなりに人の渇きを癒して呉れる神様の贈り物が有るものだ。
赴任後約10か月を過ぎた1978年の夏も深まる頃、イランのイスラム革命が全国各地に拡大した。連日あちらこちらで、悲しい流血事件が勃発する。その頃になると、我々の方もゴルフどころではなくなってしまって残念だった。
それから幾度かの紆余曲折を経てホメイニ革命は成功に向かう。我々は情勢に応じて、イランを出たり入ったりすることになる。
(その間のことは詳しく拙著『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』に書いた。ここでは割愛する。
(文芸社刊;著者ホームページに内容紹介あり。http://www.ikedam.com)
街に一応の治安が戻って来ると、革命委員会の管理の下でゴルフ場も再開されることになった。まだかなりの数の外国人がイランに滞在していたからであろう。我々は再び、おっかなびっくりコルフ場に足を運び始める。
ゴルフ場から数キロしか離れてない場所に、パーレビ時代からの政治犯を収容するエビン刑務所があった。ゴルフ場から遠望できた。
ゴルフの最中にけたたましい銃声が辺りの山々に響いて、我々の度肝を抜いたことがあった。キヤディに聞くと、『革命裁判の銃殺刑が、執行されているのだ』とことも無げに言う。銃声のなかでゴルフをするのはなんとも不気味だったし、いやしくも誰かの命が失われる瞬間にゴルフをしていて良いのだろうかと、われわれは早々にゴルフ場から退散した。
ある日ゴルフ場に群衆が乱入してきて困ったことがあった。彼らはここでピクニックをするのだと言って居座ってしまう。彼らの言い分はこうだ。『我々こそはパーレピ国王の圧政で苦しめられしモスタザフイン(被抑圧者)である。革命が成功した今は、我々があるじだ』と大変な剣幕である。そのうちゴルフ場を管理するイラン人が駆けつけてひと騒動となる。この種の操め事は他所でもよく見る。お互いに顔を近づけ 唾を飛はし合う。今にでも掴み掛からんばかりの勢いであるが、減多に手出しをしないのが彼等のやり方である。このときもひとしきり怒鳴り合ったのちに彼らは退散した、
思えばイラン革命の混乱期も遠くなりにけりである。アメリカ大使館の占拠に端を発して各国の経済封鎖が行われたり、イラクとの戦争があったりといろいろな事件に巻き込まれて得難い経験をした。
あれから33年以上の年月が過ぎてしまったが、あのゴルフ場は現在どうなっているだろうか。
来る日も来る日も決まって晴れ続きであった。イランではこの世に雨が降ることも有るのだということをついつい忘れてしまった。 あのオアシスのようなゴルフ場はどう変化したのだろうか? 公園でにもなっているのだろうか?と思う。
....命の水の味を求めてゴルフをした、あの昔が懐かしい。....(了)