本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)の続編である
7.日本の敗戦から戦後へ
イ.ソ連参戦の条件;
昭和20年 (1945年)2月クリミア半島のヤルタで米・英・ソ3巨頭会談が行われた。関係国間で戦後処理条件を討議。対日関連の米ソ間の密約は;
①ソ連がドイツの降伏後90日以内に対日参戦する。
②見返りとして南樺太・千島をソ連へ与える。
③満洲の港湾と鉄道について、日ロ戦争前のソ連の権益を確保する。
以上の合意には交戦国中国の預かり知らない内容を含んでいた。
イ. 原子爆弾の開発成功と投下がソ連参戦を早めた;
昭和20年(1945年)7月17日に、米国は原子爆弾の実験に成功した。この時点で米国はソ連の対日参戦がなくても戦争終結の見込みが立った。
7月26日に日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が発表される。日本は当時中立国だったソ連に対して戦争終結の仲介を依頼していた。これに一縷の望みを架けていたので、ポツダム宣言を黙殺したまま放置した。
(ソ連は着々と兵力の国境への移動を行い対日参戦の準備を進めていたが、日本は気がつかなかった)
米国は8月6日、広島に原子爆弾を投下した。昭和20年5月7日ドイツが無条件降伏した。従ってその3か月後とは8月上旬となる。ドイツ降伏後にソ連は満洲への侵攻を8月中旬に予定していたが、米国による原爆の投下があったので、予定を早めて8月9日未明に決行した。
ハ.日ソ中立条約があったのにソ連が対日開戦をした理由;
先立つ4月にソ連は日ソ中立条約(1946年4月期限)を延長せぬ旨通告していた。ソ連が一方的に中立条約を破ったというのが日本の大方の認識だった。しかし先方側から見ればお互い様で、条約は意義喪失したという認識だった。
中立条約の虚々実々;
昭和16年(1941年)4月松岡外相がスターリンをモスクワに訪ねた際、ソ連側の提案でこの条約を締結した。
直後の6月に独ソ戦が始まる。ソ連は諜報活動でドイツの攻撃が至近なことを把握していた。松岡外相はうまく乗せられた訳だ。ソ連側は日本がこの条約で安心して南進政策を進められる利点があると思って日本大使に囁いた。
松岡外相は6月独ソ戦が始まるや否や掌を返すように「ソ連を攻撃すべし」と大本営政府連絡会議で主張した。その上「関特演」(関東軍特殊大演習)を日本がやった。これは対ソ戦準備作戦(兵員・資材の大幅動員)でありソ連軍の極東部隊を東部に釘付けられる。ソ連は極東部隊を西部戦線に移動せずに、ドイツの攻勢を凌いだ。日本は当てが外れて、関特演は名称のとおり演習で終わった。
外交が如何に虚々実々であるかの如実な例である。日本は暗号が解読されるなど、情報戦で劣後していた。ソ連は日本を分割占領することを強く主張したが、米国の強硬な反対で断念したという経緯がある。
ニ.ソ連軍の満洲侵攻はどうだったか;
Aソ連軍は3方向から満洲に侵入した;
①東部戦線;
ソ連軍主力の第1極東方面軍が 牡丹江と延吉を目指した。関東軍の主力第一方面軍と最も熾烈な戦闘を繰り広げる。ソ連軍内では中国人部隊の「東北抗日連軍」が越境して諜報活動を行い、要塞見取り図を作成していたので、奇襲攻撃は成功した。ソ連軍は戦車を先頭にして虎頭要塞などを素通りして先へ先へと進む。関東軍の陣地は守備よりは攻撃を優先したものだった。
関東軍は火力が劣勢で、制空権も相手が握っており、ソ連軍戦車や自走砲の攻撃に晒され牡丹江付近で3万以上が死傷した。8月15日までは戦況が泥沼状態だったが、ソ連側は150から200キロ前進した。
この地域は開拓団が多い。昭和18年の根こそぎ動員で45歳以下の男子は兵隊にとられ婦女子と老人しか残っていなかったが、戦闘に巻き込まれたり、暴民の虐殺に遭ったり、集団自決の道を選んだりで、多くの犠牲者が生まれた。満洲全土で開拓民の総数は約30万人とされたが、犠牲者数は8万人弱に上ったとされる。これは開拓民総数の4分の1にあたる。
②北部戦線;
第2方面軍は黒竜江の全沿岸で渡河して侵入した。チチハルとハルピンが目標だった。しかし北満の関東軍の牽制が主目的であり8月15日までに50キロしか進めなかった。
③西部戦線;
ザ・バイカル方面軍の機械化部隊が最も迅速な作戦をした。大興安嶺を強行突破して、堅固な阿爾山要塞を素通りして、1日に150から180キロ進み、8月14日には首都新京を目前に望む要地、洮(トウ)南に到達した。
この途中でソ連軍の戦車部隊が婦女子のみの日本人避難民1千数百人を攻撃し、千人以上を殺傷する蛮行を行なった。これが葛根廟事件である。
B戦闘は9月まで継続;
日本政府はポツダム宣言受諾を宣言し、天皇が終戦詔勅を放送した。しかし戦争がただちに終結した訳ではない。関東軍司令部は8月16日夜に降伏受諾方針を決定した。同時に大本営からの停戦命令も届いた。しかし各戦場での戦闘は続き、ソ連軍参謀本部は攻撃続行を指示していた。
日本陸軍とは上部の命令を無視する軍隊だった。局地的な組織的戦闘は9月上旬まで続いた。
主要都市のソ連軍占領は以下の通りである。
赤峰、新京、奉天、チチハル(8月19日から21日まで)、牡丹江、汪清、吉林(8月16日)、大連、旅順(8月22日から24日まで)
日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)(了)