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池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

風景(67年前の)

2013-10-08 11:34:26 | 満州からの引揚

 私はNHKの朝のドラマを観るのを日課にしている。10月から『ごちそうさま』という新シリーズが始まった。人間の基本的な欲求の食べることが主題のドラマだ。その冒頭のシーンは終戦直後の大阪である。主人公の女性が瓦礫の原で鍋料理を子供たちに振舞っている場面だった。
 私は大阪駅頭で体験した風景を思い出した。67年前の子供の頃だが、今でもその情景が鮮やかに蘇ってくる。

 大阪駅で越後線の方面に乗り換えるのに長い待ち時間があった。大阪駅頭のホールには多くの人ごみがあった。大人たちの身なりは、大抵は復員服(古い軍服)か、国民服(当時旧満州では協和服とも呼ばれた)に戦闘帽である。
 一人の男が飛び上がってもう一人の男の鼻に食いついていた。二人はじゃれあっているのか、気が触れているのか 真剣に争う風でもない。また周りの人々は特に注意を払うこともないようだ。そう言う意味ではまるで日常的なようで、しかし異様な光景ではあった。

 我が家は昭和21年(1946年)11月下旬に旧満州から引揚げて、博多に上陸した。博多湾には数十隻の引揚船が停泊していて我々の目を惹いた。聞くところによると、伝染病の発生で上陸が許されないで係留されているという。博多湾に展開した船の数は壮観だった。
 我々の船は幸運にも検疫をパスして、すぐに上陸が許された。
 
 我々の列車の車窓に、海苔巻き寿司の売り子のおばさんたちが群がってきた。ところが取締の係官がやってくると、彼女たちは売り物を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げた。後に残された海苔巻きを拾い上げる心無い、あさましい引揚者がいた。
 当時は配給制度がしかれていた。従って、海苔巻き売りは所謂「闇の商売」だったのだ。この捕物劇は我々引揚者がいきなり直面した戦後の故国の現実だった。
 
 我々の列車は広島の街を通過した。夜だった。原爆の街には灯火が殆ど見えなかった。それは死の街のようだった。夜が明けると、我々の列車は大阪についた。

 我々の当座の落ち着き先は新潟の父親の生家だった。越後線の小島谷駅という小駅で降りて田舎道を歩いた。その夜夕食で食べた米の飯の美味しかったことは忘れられない。新潟のご飯はオカズがいらないと当時言われたものだ。それと父親がお土産として買ったキスの味もである。
 
 それともう一つ、目に焼き付いたものがある。父親の生家への途中にあった裏なりの柿の実である。小川の畔の木に1個だけ朱色に輝いていた。その当時は知る由もなかった。柿の木に1個だけ実を残す風習を。それともう一つ身をもって味わったことを。
 誘惑に抗しきれず、夜が更けてから人知れず家を抜け出し、その柿の実を取って食べたのである。それは口が曲がるほど渋い柿だった。
 でもあの朱色の柿の実は私の網膜に焼き付いたまま消えない。
 (了)


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